唐津焼 椎の峯窯~波多持

この記事は約36分で読めます。

【原文】[Original text]

唐津焼 椎の峯窯

 神代に天日槍の歸化ありて、其時從へる者近江の鏡谷製陶せし由傳へらるゝも、太古の事蹟は茫漠として定むるに由なく、故に我邦に於ける韓系の製陶として最古の歴史を有するものは、肥前國上松浦の唐津焼を以て始祖とすべきである。

神功皇后の出兵
 時は人皇十四代仲哀天皇の九年十月 神功皇后三韓に出兵せられるや、此松浦の港を御根據地させられ給ひしよりの發祥である。

御出兵前
 皇后は此處の玉島川の巖上より、裳の糸を抜いで釣を垂れさせ給ひて出兵の吉凶をトせられしに、大なる香魚かゝりしかば之は珍らしのたまひより、此地方を梅豆羅の里と呼び後訛りて末羅の縣と稱せしを、後代此地の勝景に因みて松浦の縣に改めしてふ傳説がある。(松浦の里とは今の鏡村さいはれてゐる)
 斯くて 皇后は、三ヶ月餘にして三韓に出兵せられしが、此時百済王の如きは護身と破敵二た柄の名剣を献貢されたのである。そして極月御凱旋の折従へ給ひし三韓の人質が、此末羅の里に開窯して、一種菟質の如き無釉物を焼きしものにて、之が唐津焼の濫觴といはれてゐる。

三官者の帰化
 口碑に依れば、此人質は武内宿禰が連行せる彼の王子三人にて、何れも佐志郷の地に居住せしめ、歸化名を太郎官者、藤平官者、小次郎官者と改称するに至つた。今共居住地名を太良村、藤の平村、小十官者村と呼ばれてゐる。蓋し三韓の王子なれば此遊境に置く可くもなく、必ず都へ連行きしならんも、此地に歸化せしめしことを考ふれば或は貴族程度の地位にあらざりしか。又官者を冠者と記されしもの多きを以て、源平時代の渡来説をなす者あるも、何れ我邦にてあて字にて譯名せしものが後代に於いて斯く訛りしものか詳でない。
 此内小次郎官者は製陶に巧みなりしより、住地に於いて製作に従事し、其後代々継承する者あり永年に製陶せしが如く、今に切木村梨川内の隣に古窯の趾があり。又此處の竈の神社は小次郎官者を祀りしものにて、毎年十二月二十二日が其祭日である。

唐津高麗の始
 次に人皇三十七代斉明天皇の御宇に渡せる韓人が此地に於いて高麗風なる大形の茶碗を製せしより之が我邦に於いて高麗焼の名称を用ひし施釉陶の始にて、此處を陶村と稱せらるゝの口碑あるも、今其何れの地名に相當するや詳でない。(陶器は元須恵母乃と稱せしより往時の陶村は間々須恵村と記せるがある。愚接するに此地に須惠の字を用ひるは北波多村に德須惠なる地名あるも、以前は徳居と書かれし由なれば之とても研究地としては確でない)
 之は想ふに女帝新羅に出兵の爲め筑紫へ行幸の時なるべく、其際我出兵軍に從ひ來りし陶工が、此地に於て開窯せしものであらう。斯くて戦役の度ごとに此松浦が根據地となり、そして我邦製陶の進歩を助長せしむべく彼等が渡せし觀がある。

崔及等來る
 降つて清和天皇の貞観十六年七月十八日、大唐の商人崔及等三十六人を乗せし唐船が、此上松浦地切(今の満島)の浦に来航せし以來、此地中国、朝鮮、印度方面の通商港となり、之より此地方を改めて唐津稱するに至り、そして此異國の文物交換の門戸は茲に筑前博多と竝びて九州北面の要となるに至つたのである。

唐津物
 此輸入品中には、多種なる陶器のありしこと、そして幾多の陶工が屢渡來せしことも察するに難くない。従つて此地製陶習熟の起原甚古く、恰も關東にて焼物の汎稱を瀬戸物と解する如く、關西に於いては唐津物といふに至り。或は又地方に依っては陶器を唐津物と稱へ、磁器を伊萬里物と稱するところもある。

高麗と唐津
 又我が邦産の高麗なるものは、穴勝ち唐津のみの製品にあらずして、佐賀、武雄、平戸、大村諸領地に於て、各韓人の製作せしもの否とに拘はらず、舊朝鮮式陶器の稱と見る可きである。當時韓人の開窯せし山々には到るころに其墳墓があり、そして共邊の窯趾や物原(焼損じの破片や焼の窯具を打捨てし所ボロ棄場もいふ)を発掘して得たる物が掘出し唐津一名掘出し高麗であり。又韓人が韓土の土を取寄せて製作せしもの、我邦にては焚火のみ用ひして火斗稱する朝鮮唐津の名物がある。

唐津物と本場物
 元朝鮮渡来の高麗燒と比較して、胎土の關係上多少の相違ありとしても、何れも同じ韓人の手に依って造られしものなれば、其何れが渡來品にて又何れが唐津物なるかは的確に鑑定できぬ物が少くない。若し此觀賞が粗雅な趣味を別として單に技術上の進歩より見れば、寧ろ歸化韓人の二三代頃の作品中には、暦手象嵌や刷毛目の如き却つて母國品を凌駕する逸品に乏しくない。中にも我邦の茶道趣味を諒解せる作品ども見る可きは全く此時代にありとさへいはれてゐるのである。

秦 久茂
 人皇三十八代天智天皇の朝に於いて秦久茂都より下りて外寇に對する警備の任に就きしより、子孫代々上松浦を領有すること四百餘年であった。而して此處の鬼子嶽(今の北波多村岸岳)山麓に舘を設けて支配せしより、此地方をさ稱せしが、後世に至つて波多の字に改められたのである。
 一條天皇の正暦元年(990年)、清和源氏の嫡流源頼光は、肥前の國司に任せられて上松浦に下向した。今此地加部島の田島神社(國幣中社にて田心姫尊、湍津姫尊、 市杵島姫尊を祀る)
奉獻の石鳥居は、當時頼光の寄進と稱せらる。其時從ひりし四天王の一人渡邊源五別當綱こそ肥前松浦源氏の開祖である。

源頼光と綱
 彼は嵯峨源氏河原左大臣融の孫箕田源次別當充の男にて、母は多田満仲の女なれば綱は頼光の甥である。松浦源氏の本系左の如し。
(松浦源氏本系圖参照)

久 久寛を討つ
 斯くて秦氏の後代久寛に至つ勢威大いに振ふと共に、遂には朝に反するこ屢々なるより、當時京師にありし綱の男渡邊源別當久は、長元四年(1032年)敕命を奉じ上松浦千々賀に着陣し、攻めて久寛を破り追つて松浦川邊に於いて之を討取たのである。(此地方を鬼塚村稱するは、當時鬼の如く恐れられし久寛の墳墓ありしにあらざるか)

眉山を討平ぐ
 然るに長久二年(1041年)秦の残業は、又眉山(松浦、大川、若木三村の境)の隙に據りて周圍の村民を脅すこと頻りなるより、久は三男竈江三郎糺と共に攻めて之を鎮定した。(今千々賀の甘木谷にある御久さんの石といへるは此久なるべし)

授と泰
 久の舎弟奈古屋兵衛尉授は、奈古屋の館に居住して奈古屋公と稱せしが、其子泰に至つて瀧口太夫とせるは、一旦京師に上って御所警衛の任にありしと覺しく、後西下して筒井(今の波多津村)の上戸城に居住(筒井源太夫さ稱せしにあらざるか)せしが、後三條天皇の延久元年十二月二十九日(1069年)彼は下松浦の今福に上陸して此地を本據と定めたのである。(今福上陸は其子久の説あるも、久は此時僅に六歳であつた)

梶谷城を築く
 堀河天皇の永長元年(1096年)泰の長子源太夫判官久(此時三十三才也)は今に梶谷の城を築き上下松浦の莊二千二百三十町を併有し、爰に松浦源氏の基礎を固めしものにて、子孫四十餘黨に繁昌せしさ稱せらる。(蓋し松浦黨とは共氏族のみにあらざる可し)斯くて彼は久安四年九月十五日(1148年)八十五才を以て卒し、此地の宛陵寺に葬られてゐる。

波多持
 之より松浦氏を宗家の姓と定めて御厨公直之を継ぎ、三男源次郎持が上松浦の波多に封せられたのである。今より七百五十年前持は鬼子嶽に築城して之に居りしが、此城一名古志峯城と稱し、此地方の要害として威力四隣をするに至り。而して持は地名波多を氏となし波多源次太夫と改めたのである。


【現代語訳】[Modern Japanese translation]

唐津焼 椎の峯窯について。神代に天日槍が帰化し、その従者が近江の鏡谷で製陶したという伝えがあるが、太古の事跡は確かめようがない。したがって、日本における韓系の製陶で最も古い歴史をもつものは、肥前国上松浦の唐津焼を始祖とすべきである。

神功皇后の出兵に関連する伝承として、仲哀天皇九年十月、神功皇后が三韓へ出兵された際、この松浦の港を根拠地とされたことが端緒とされる。出兵前、皇后は玉島川の岩上から裳の糸を抜き、釣り糸として垂らして吉凶を占われたところ、大きな香魚(あゆ)がかかった。これを瑞兆とされ、この地方を梅豆羅の里と呼び、のちに訛って末羅の県と称したが、後世には景勝にちなみ松浦の県(松浦)と改めたという(松浦の里は今の鏡村といわれる)。皇后は三か月余で三韓に出兵され、このとき百済王は護身と破敵、二口の名剣を献上した。極月に凱旋の折、従って来た三韓の人質がこの末羅の里で窯を開き、素朴で粗い質の無釉の焼物を焼いた。これが唐津焼の起こりと伝えられる。

三官者の帰化についての口伝では、人質は武内宿禰が連れてきた三人の王子で、佐志郷に住まわせ、帰化名を太郎官者・藤平官者・小次郎官者と改めた。彼らの居住地は今も太良村・藤の平村・小十官者村と呼ばれている。三韓の王子であれば本来は都へ連れて行くべきであるが、この地で帰化させたことを思えば、王族といっても貴族程度の地位ではなかったのかもしれない。また「官者」を「冠者」と記した例が多いことから、源平時代の渡来とする説もあるが、いずれも日本で当て字の訳名を用いたものが後に訛ったのか、その詳しいところはわからない。このうち小次郎官者は製陶に巧みで、当地で制作に従事し、のちに代々これを継ぐ者があって長年製陶したという。今も切木村梨川内の隣に古窯跡があり、この地の竈の神社は小次郎官者を祀るもので、毎年十二月二十二日が祭日である。

唐津高麗の始まりについて。斉明天皇の御代に渡来した韓人が、この地で高麗風の大形の茶碗を作ったことから、日本で「高麗焼」という名称を用いる施釉陶が始まったとされる。この場所を「陶村」と称したという口碑もあるが、いまどの地名に当たるかは詳らかでない(陶器はもと「須恵母乃」と称されたため、往時の陶村を「須恵村」と記した例がある。北波多村に徳須恵という地名があるが、以前は徳居と書かれたという話もあり、研究地として確定的ではない)。おそらく女帝が新羅出兵のため筑紫へ行幸された際、我が軍に従って来た陶工がこの地で窯を開いたのであろう。以後、戦役のたびに松浦が根拠地となり、製陶の進歩を促すべく彼らが渡来したと見られる。

貞観十六年七月十八日、清和天皇の時代に、大唐の商人崔及ら三十六人を乗せた唐船が上松浦地切(今の満島)の浦に来航して以来、この地は中国・朝鮮・印度方面との通商港となった。これ以後、この地方は改めて唐津と称され、異国の文物の交換の門戸として、筑前博多と並ぶ北部九州の要衝となった。

輸入品のなかには多種の陶器があり、陶工がしばしば渡来したことも察せられる。ゆえにこの地の製陶の習熟はきわめて古く、関東で焼物の総称を「瀬戸物」と呼ぶように、関西では「唐津物」と呼ぶに至った。地方によっては陶器を唐津物、磁器を伊万里物と称するところもある。

我が国産の「高麗」と呼ばれるものは、必ずしも唐津だけの製品ではなく、佐賀・武雄・平戸・大村など各領で、韓人の制作であったか否かにかかわらず、旧朝鮮式陶器の称と見るべきである。当時、韓人が窯を開いた山々には至るところに墳墓があり、その周辺の窯跡や物原(焼損品や窯道具を捨てた場所、いわゆるボロ棄場)を発掘して得られたものが「掘出し唐津」、別名「掘出し高麗」である。また、韓人が韓土の土を取り寄せて作り、日本では焚き火だけで焼いたと伝わる「朝鮮唐津」の名物もある。

唐津物と舶来本場物を比べると、胎土の違いから多少の相違はあるものの、いずれも韓人の手によるため、どちらが渡来品か、どちらが唐津物かを確定しがたいものも少なくない。粗犷・雅致という鑑賞の趣味を離れ、技術の進歩だけから見れば、むしろ帰化韓人の二、三代の作品の中には、暦手の象嵌や刷毛目など、本国品をしのぐ逸品も少なくない。とりわけ日本の茶道の趣味をよく理解した作品が見られるのは、まさにこの時代であるともいわれる。

秦久茂について。天智天皇の朝に秦久茂が都から下り、外寇に備える警備の任に就いて以来、子孫が代々上松浦を領有すること四百余年に及んだ。鬼子嶽(今の北波多村岸岳)の山麓に館を設けて支配したことから、この地方はそう称されたが、後世に「波多」の字に改められた。一条天皇の正暦元年(990)、清和源氏の嫡流・源頼光が肥前国司に任ぜられて上松浦に下向した。加部島の田島神社(国幣中社、田心姫尊・湍津姫尊・市杵島姫尊を祀る)にある石鳥居は、当時頼光の寄進と伝える。その時に従った四天王の一人、渡邊源五別當綱こそ肥前松浦源氏の開祖である。

源頼光と綱について。綱は嵯峨源氏・河原左大臣融の孫、箕田源次別當充の子で、母は多田満仲の娘ゆえ、頼光の甥に当たる。松浦源氏の本系は別図のとおりである(松浦源氏本系図参照)。

その後、秦氏の後裔・久寛が勢威を振るい、しばしば朝に背いたため、京にあった綱の子・渡邊源別當久は長元四年(1032)に勅命を奉じて上松浦・千々賀に着陣し、久寛を攻め破り、追撃して松浦川辺でこれを討ち取った(この地を鬼塚村と称するのは、当時鬼のごとく恐れられた久寛の墳墓があったためか)。さらに長久二年(1041)、秦の残党が眉山(松浦・大川・若木三村の境)の隘路に拠って周囲の村民を脅かしたので、久は三男・竈江三郎糺とともに攻めて鎮定した(千々賀の甘木谷にある「御久さんの石」はこの久に関わるものだろう)。

久の弟・奈古屋兵衛尉授は奈古屋の館に住み奈古屋公と称したが、その子・泰は瀧口太夫となり、一度京に上って御所警衛の任にあったらしい。のちに西下して筒井(今の波多津村)の上戸城に居住(筒井源太夫と称したのではあるまいか)したが、後三条天皇の延久元年十二月二十九日(1069)に下松浦の今福に上陸し、ここを本拠と定めた(今福上陸を子の久とする説もあるが、久は当時わずか六歳であった)。

堀河天皇の永長元年(1096)、泰の長子・源太夫判官久(三十三歳)は梶谷城を築き、上下松浦の荘二千二百三十町を併有して松浦源氏の基礎を固め、子孫四十余党に繁昌したと伝える(松浦党は同氏族のみを指すとは限るまい)。久は久安四年九月十五日(1148)、八十五歳で没し、当地の宛陵寺に葬られた。

その後、宗家の姓を松浦氏と定めて御厨公直之を継ぎ、三男・源次郎持が上松浦の波多に封ぜられた。およそ七百五十年前、持は鬼子嶽に築城して居し、この城は古志峯城とも称され、当地の要害として四隣に威を振るった。持は地名「波多」を氏とし、波多源次太夫と改めたのである。


【英語訳】[English translation]

Karatsu Ware — Shii-no-mine Kiln. There is a tradition that in the age of the gods, when Ame-no-hiboko immigrated, his followers produced pottery in Kagami-dani of Ōmi. Yet the facts of such antiquity are indeterminate. Therefore, the earliest lineage of Korean-style pottery in Japan should be regarded as originating with Karatsu ware in Kami-Matsura, Hizen.

Regarding Empress Jingū’s expedition: in the tenth month of the 9th year under Emperor Chūai, when Empress Jingū set out to the Three Han polities (三韓), it is said she used the port of Matsuura as her base. Before the campaign, she stood upon a rock over the Tamashima River, pulled a thread from the hem of her skirt, cast it as a fishing line to divine the outcome, and caught a large ayu (sweetfish). Taking this as an auspicious sign, the area was called Ume-dora no sato, later corrupted to Matsura no agata, and in later times renamed Matsura (松浦) after its scenic beauty (the “Matsuura no sato” is said to be present-day Kagami-mura). After three months or so, the Empress marched upon the Three Han. The King of Baekje presented two famed swords—one for protection and one for victory. Upon her triumphant return in the twelfth month, hostages from the Three Han who accompanied her opened kilns in this Matsura district and fired unglazed, rustic wares. This is held to be the inception of Karatsu ware.

As for the “three kanja” (三官者): oral tradition holds these hostages were three princes escorted by Takeuchi no Sukune. They were settled in Sashi-gō and naturalized under the names Tarō Kanja, Tōhei Kanja, and Kojirō Kanja. Their places of residence are still called Tara-mura, Fuji-no-taira-mura, and Kojukkanja-mura. If they were truly princes of the Three Han, one would expect them to be taken to the capital; that they were naturalized here suggests they may have been of a rank akin to the nobility rather than sovereign heirs. Because “kanja (官者)” is often written “kanja (冠者),” some argue for a Genpei-period arrival; however, this likely reflects later corruptions of Japanese ateji renderings. Among them, Kojirō Kanja excelled at pottery, worked locally, and his craft was continued for generations. An old kiln site remains beside Nashikawachi, near Kirigi-mura. The local Kamado (hearth) shrine enshrines Kojirō Kanja; its annual festival falls on December 22.

The beginning of “Karatsu Kōrai”: during the reign of Empress Saimei, Korean immigrants produced large tea bowls in a Goryeo style here. From this, the use in Japan of the name “Kōrai-yaki” for glazed ware began. There is an oral tradition that the place was called “Tō-son” (陶村), though which locality this corresponds to is unclear (since pottery was originally termed “Sue-mono,” some records write “Sue-mura”; the toponym “Tokusue” in Kita-Hata-mura was once written “Toku-i,” so none of this is definitive). Most likely, when the Empress journeyed to Tsukushi for the expedition against Silla, potters who accompanied our forces opened kilns here. Thus, with each campaign Matsuura served as a base, and their arrivals fostered the development of pottery in our land.

On July 18, Jōgan 16, in Emperor Seiwa’s time, a Tang ship carrying the merchant Sai Kyū (崔及) and thirty-six others arrived at the inlet of Kami-Matsura Chikiri (now Manjima). Thereafter this coast became a trading port with China, Korea, and India. From then the region came to be called Karatsu, and—together with Hakata in Chikuzen—became a key gateway for the exchange of foreign goods and culture along Kyushu’s northern face.

Among the imports were many kinds of pottery, and it is easy to infer that numerous potters came repeatedly. Accordingly, the cultivation of pottery here is very ancient. Just as in Kantō “Seto-mono” became the generic for ceramics, in Kansai they came to say “Karatsu-mono.” In some districts, “Karatsu-mono” denotes pottery (陶器) and “Imari-mono” denotes porcelain (磁器).

As for “Kōrai” made in Japan, it is not solely the product of Karatsu. In the domains of Saga, Takeo, Hirado, and Ōmura, regardless of whether Koreans produced them, such works should be viewed as old Korean-style pottery. In the mountains where Koreans once opened kilns, graves are found, and from excavations of nearby kiln sites and dumps (“mono-hara,” where misfires and kiln furniture were discarded) come “Horidashi Karatsu,” also called “Horidashi Kōrai.” There were also pieces for which Korean clay was procured and, in Japan, fired only with open flames—famed as “Chōsen Karatsu.”

Comparing Karatsu ware with imported originals from Korea, differences arise from the clay body; yet since both were made by Korean hands, it is often difficult to judge which are imports and which are Karatsu. Leaving aside taste for ruggedness or elegance and viewing purely from technical progress, works by the second and third generations of naturalized Korean potters—such as inlaid “zōgan” and “hakeme” (brush-mark) styles—include masterpieces that surpass those of the homeland. Especially notable are works that grasp the aesthetics of our tea culture; these belong precisely to that era.

Regarding Hata Hisakumo (秦久茂): in Emperor Tenji’s reign he came down from the capital to guard against foreign incursions, and his descendants held Kami-Matsura for over four hundred years. Establishing a manor at the foot of Onikozake (now Kishidake in Kita-Hata-mura), they ruled the district, which later came to be written “Hata” (波多). In Shōryaku 1 (990) under Emperor Ichijō, Minamoto no Yorimitsu of the Seiwa Genji was appointed Governor of Hizen and went down to Kami-Matsura. The stone torii at Tashima Shrine on Kabejima (a state-supported shrine enshrining Tagorihime no Mikoto, Takitsuhime no Mikoto, and Ichikishimahime no Mikoto) is said to be his donation. Among the Four Heavenly Kings who accompanied him, Watanabe no Tsuna (渡邊源五別當綱) is the founder of the Hizen Matsuura Genji.

On Yorimitsu and Tsuna: Tsuna, son of Minamoto no Atsuru (別當充) of the Saga Genji and grandson of Kawara no Sadaijin Yutaka (融), had for mother a daughter of Tada no Manchika (多田満仲), making him Yorimitsu’s nephew. (See the “Matsuura Genji Lineage.”)

Later, the Hata scion Hisahiro (久寛) grew powerful and repeatedly rebelled. Watanabe no Hisashi (渡邊源別當久), Tsuna’s son then in the capital, received an imperial order and in Chōgen 4 (1032) encamped at Chijika in Kami-Matsura, defeated Hisahiro, and, pursuing him, slew him on the bank of the Matsuura River (the area called Onizuka-mura may reflect the grave of this feared “ogre-like” Hisahiro). In Chōkyū 2 (1041) the Hata remnants seized the pass at Miyama (at the borders of Matsuura, Ōkawa, and Wakagi) and terrorized nearby villagers; Hisashi, with his third son Kamae Saburō Tadashi, attacked and pacified them (the “O-Hisa-san no Ishi” stone in Amagidani, Chijika, likely refers to this Hisashi).

Hisashi’s younger brother, Nago-ya Hyōe no jō Sazukaru (授), dwelt at the Nago-ya manor and was called Lord Nago-ya. His son Tai (泰) became Takiguchi no Daibu, apparently serving in palace guard duties in Kyoto; later he returned west and resided at Ueto Castle in Tsutsui (now Hatatsu-mura), perhaps known as Tsutsui Gendayū. On December 29 of Enkyū 1 (1069) under Emperor Go-Sanjō, he landed at Imafuku in Shimo-Matsura and made it his base (some say his son Hisashi landed, but he would have been only six then).

In Eichō 1 (1096) under Emperor Horikawa, Tai’s eldest son, Gendayū Hangwan Hisashi (aged thirty-three), built Kajitani Castle and held both the Upper and Lower Matsuura manors, totaling 2,230 chō, thereby laying the foundation of the Matsuura Genji, whose descendants prospered into more than forty parties (the “Matsuura-tō” likely extended beyond a single kin group). He died on the 15th day of the 9th month, Kyūan 4 (1148), aged eighty-five, and is buried at Enryō-ji there.

Thereafter, the head family adopted “Matsuura” as its surname and succeeded to Mikuriya Kō Naoyuki. The third son, Genjirō Mochi, was enfeoffed in Hata of Upper Matsuura. About 750 years ago he built a castle on Onikozake and dwelt there; the fort, also called Koshimine Castle, became a strategic stronghold commanding the surrounding districts. Mochi took the place-name Hata as his surname and styled himself Hata Genji Dayū.


【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]

关于唐津烧与椎之峯窑:相传神代天日槍归化时,其随从在近江镜谷制陶,但太古事迹难以确证。因此,日本韩系制陶最古的渊源,应以肥前国上松浦的唐津烧为始祖。

据传,仲哀天皇九年十月,神功皇后出兵三韩时,以松浦港为根据地。出兵前,皇后在玉岛川岸上,从衣裳抽线作钓线卜吉凶,钓得大香鱼(鮎),以为瑞兆,遂称此地为梅豆罗之里,后讹为末罗之县,后世又因胜景改称松浦(松浦之里即今之镜村)。皇后三月余征三韩,百济王献上护身与破敌两口名剑。及十二月凯旋,随行之三韩人质在末罗之里开窑,烧制质朴粗糙的无釉烧物,这被视为唐津烧之滥觞。

关于“三官者”之归化:口传谓人质为武内宿禰所护送之三王子,安置于佐志郷,改归化名为太郎官者、藤平官者、小次郎官者。其居住地今仍称太良村、藤之平村、小十官者村。若真为三韩王子,理应送往京都,但既在此地归化,则或为贵族程度之身份。又因“官者”多写作“冠者”,遂有人主张为源平时代渡来,然大概是当时以当字译名,后世讹变所致,详不可知。其中小次郎官者善陶,于当地制作,后裔世代相承,长年制陶。今在切木村梨川内邻近处尚存古窑址;当地的竈神社奉祀小次郎官者,每年十二月二十二日为祭日。

“唐津高丽”之始:斉明天皇时渡来的韩人,在此制成高丽风大茶碗,由此日本开始以“高丽烧”称呼施釉陶。相传其地名为“陶村”,然今不详所指(陶器旧称“须惠物”,故昔有记为“须惠村”者。北波多村有“徳须惠”之地名,昔写作“徳居”,故此等线索亦未可定)。推测当为女帝为征新罗行幸筑紫之际,从军陶工在此开窑。此后每逢战役,松浦为根据地,渡来之工匠亦助长日本制陶之进步。

至清和天皇贞观十六年七月十八日,载有大唐商人崔及等三十六人的唐船抵上松浦地切(今满岛)之浦。自此,此地成为与中国、朝鲜、印度通商之港,并改称“唐津”,与筑前博多并列为九州北面之要冲与文物交流门户。

输入之品多有陶器,陶工亦屡屡渡来,可见此地制陶之熟练渊源极古。正如关东以“濑户物”为烧物通称,关西则称“唐津物”。亦有地方以陶器称“唐津物”,以瓷器称“伊万里物”。

日本所称“高丽”,并非唯唐津所产。佐贺、武雄、平户、大村诸领地,不论是否由韩人制作,均可视为旧朝鲜式陶器之称。当时韩人所开诸山之窑,多见其墓葬,发掘其旁之窑址与“物原”(弃置烧损品与窑具之处,俗称“破烂弃场”)所得者,即“掘出唐津”,亦称“掘出高丽”。又有取用韩土之土,于日本仅以焚火烧成者,称为“朝鲜唐津”之名物。

唐津物与舶来本场物相比,因胎土不同稍有差异,但皆出自韩人之手,故往往难以确断何者为舶来何者为唐津。撇开粗犷与雅致之审美,仅就技术进步而论,归化韩人二、三代之作,如象嵌、刷毛目等,不乏凌驾母国之逸品。尤能体会日本茶道趣味之作品,多出于此时代。

关于秦久茂:天智天皇时自京都下向,任防外寇之警备,其子孙据上松浦四百余年。于鬼子嶽(今北波多村岸岳)山麓建馆而治,地名后改为“波多”。一条天皇正暦元年(990),清和源氏嫡流源赖光任肥前国司,下向上松浦。加部岛田岛神社(国幣中社,祭田心姫尊、湍津姫尊、市杵岛姫尊)之石鸟居,相传为其所献。随行“四天王”之一渡邊源五別當綱,即肥前松浦源氏开祖。

赖光与纲:纲为嵯峨源氏河原左大臣融之孙、箕田源次別當充之子,母为多田满仲之女,故为赖光之甥。(松浦源氏本系图参照)

其后秦氏后裔久寛势盛,屡叛于朝。时在京都之纲子渡邊源別當久奉敕,于长元四年(1032)着阵上松浦千々贺,击破久寛,复追至松浦川边斩之(鬼塚村之名或因其墓)。长久二年(1041)秦之残党据眉山(松浦・大川・若木三村之界)隘路扰民,久与三男竈江三郎糺攻之而平(千々贺甘木谷所谓“御久先生之石”当指此人)。

久之弟奈古屋兵卫尉授居奈古屋之馆,称奈古屋公。其子泰任瀧口太夫,似曾上京任御所警卫,后西下居于筒井(今波多津村)上户城(或称筒井源太夫)。后三条天皇延久元年十二月二十九日(1069),自下松浦今福登陆,定为本据(亦有谓其子久登陆,然久时仅六岁)。

堀河天皇永长元年(1096),泰之长子源太夫判官久(年三十三)筑梶谷城,并有上下松浦庄二千二百三十町,奠定松浦源氏之基,子孙繁衍四十余党(所谓松浦党未必仅指同族)。久于久安四年九月十五日(1148)卒,享年八十五,葬于宛陵寺。

其后定宗家姓为松浦,继御厨公直之,三男源次郎持封于上松浦之波多。约七百五十年前,持于鬼子嶽筑城而居,城亦称古志峯城,为一方要害而震邻。持以地名“波多”为氏,改称波多源次太夫。


【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditionalfrom Japanese]

關於唐津燒與椎之峯窯:相傳神代天日槍歸化時,其隨從在近江鏡谷製陶,但太古事蹟難以確證。因此,日本韓系製陶最古之淵源,應以肥前國上松浦的唐津燒為始祖。

據傳,仲哀天皇九年十月,神功皇后出兵三韓時,以松浦港為根據地。出兵前,皇后於玉島川岩上,自衣裳抽線作釣線占吉凶,釣得大香魚(鯰),以為瑞兆,遂稱此地為梅豆羅之里,後訛為末羅之縣,後世又因勝景改稱松浦(松浦之里即今之鏡村)。皇后三月餘征三韓,百濟王獻上護身與破敵二口名劍。至臘月凱旋,隨行之三韓人質於末羅之里開窯,燒製質樸粗糙之無釉燒物,據稱此為唐津燒之濫觴。

關於「三官者」之歸化:口傳謂人質為武內宿禰所護送之三王子,置於佐志鄉,改歸化名為太郎官者、藤平官者、小次郎官者。其居處今仍稱太良村、藤之平村、小十官者村。若真為三韓王子,理應送往京都,然既於此地歸化,則或為貴族程度之身分。又因「官者」多寫為「冠者」,乃有主張為源平時代渡來之說,然大概是當時以當字譯名,後世訛變所致,詳不可知。其中小次郎官者善陶,於當地製作,後裔世代相承,長年製陶。今於切木村梨川內鄰近處尚存古窯址;當地竈神社奉祀小次郎官者,每年十二月二十二日為祭日。

「唐津高麗」之始:齊明天皇時渡來之韓人在此製成高麗風大茶碗,由是日本開始以「高麗燒」稱施釉陶。相傳其地名為「陶村」,然今不詳所指(陶器舊稱「須惠物」,故昔有記為「須惠村」者。北波多村有「德須惠」地名,昔寫作「德居」,故此等線索亦未可定)。推測當為女帝為征新羅行幸筑紫之際,從軍陶工於此開窯。其後每逢戰役,松浦為根據地,渡來工匠亦助長日本製陶之進步。

至清和天皇貞觀十六年七月十八日,載有大唐商人崔及等三十六人之唐船抵上松浦地切(今滿島)之浦。自此,此地成為與中國、朝鮮、印度通商之港,並改稱「唐津」,與筑前博多並列為九州北面之要衝與文物交流門戶。

輸入之品多有陶器,陶工亦屢屢渡來,可見此地製陶之熟練淵源極古。正如關東以「瀨戶物」為燒物通稱,關西則稱「唐津物」。亦有地方以陶器稱「唐津物」,以瓷器稱「伊萬里物」。

日本所稱「高麗」,並非唯唐津所產。佐賀、武雄、平戶、大村諸領地,不論是否由韓人製作,均可視為舊朝鮮式陶器之稱。當時韓人所開諸山之窯,多見其墓葬,發掘其旁之窯址與「物原」(棄置燒損品與窯具之處,俗稱「破爛棄場」)所得者,即「掘出唐津」,亦稱「掘出高麗」。又有取用韓土之土,於日本僅以焚火燒成者,稱為「朝鮮唐津」之名物。

唐津物與舶來本場物相比,因胎土不同稍有差異,然皆出自韓人之手,故往往難以確判何者為舶來何者為唐津。撇開粗獷與雅致之審美,僅就技術進步而論,歸化韓人二、三代之作,如象嵌、刷毛目等,不乏凌駕母國之逸品。尤能體會日本茶道趣味之作品,多見於此時代。

關於秦久茂:天智天皇時自京都下向,任防外寇之警備,其子孫據上松浦四百餘年。於鬼子嶽(今北波多村岸岳)山麓建館而治,地名後改為「波多」。一條天皇正曆元年(990),清和源氏嫡流源賴光任肥前國司,下向上松浦。加部島田島神社(國幣中社,祭田心姬尊、湍津姬尊、市杵島姬尊)之石鳥居,相傳為其所獻。隨行「四天王」之一渡邊源五別當綱,即肥前松浦源氏開祖。

賴光與綱:綱為嵯峨源氏河原左大臣融之孫、箕田源次別當充之子,母為多田滿仲之女,故為賴光之甥。(松浦源氏本系圖參照)

其後秦氏後裔久寬勢盛,屢叛於朝。時在京都之綱子渡邊源別當久奉敕,於長元四年(1032)著陣上松浦千々賀,擊破久寬,復追至松浦川邊斬之(鬼塚村之名或因其墓)。長久二年(1041)秦之殘黨據眉山(松浦・大川・若木三村之界)隘路擾民,久與三男竈江三郎糺攻之而平(千々賀甘木谷所謂「御久先生之石」當指此人)。

久之弟奈古屋兵衛尉授居奈古屋之館,稱奈古屋公。其子泰任瀧口太夫,似曾上京任御所警衛,後西下居於筒井(今波多津村)上戶城(或稱筒井源太夫)。後三條天皇延久元年十二月二十九日(1069),自下松浦今福登陸,定為本據(亦有謂其子久登陸,然久時僅六歲)。

堀河天皇永長元年(1096),泰之長子源太夫判官久(年三十三)築梶谷城,並有上下松浦莊二千二百三十町,奠定松浦源氏之基,子孫繁衍四十餘黨(所謂松浦黨未必僅指同族)。久於久安四年九月十五日(1148)卒,享年八十五,葬於宛陵寺。

其後定宗家姓為松浦,繼御廚公直之,三男源次郎持封於上松浦之波多。約七百五十年前,持於鬼子嶽築城而居,城亦稱古志峯城,為一方要害而震鄰。持以地名「波多」為氏,改稱波多源次太夫。


【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]

唐津烧——椎之峯窑。传说神代天日槍归化时,其随从在近江镜谷制陶,但此等太古事实难以确定。因此,日本韩系陶业之源当以肥前上松浦的唐津烧为始。

神功皇后征三韩时(仲哀天皇九年十月),据说以松浦港为基地。出兵前,她在玉岛川岩上以衣裳抽线作钓线占兆,钓得大香鱼,视为吉祥,故称当地为梅豆罗之里,后讹为末罗之县,后又以胜景改称松浦(今镜村)。三月余后出兵,百济王献护身与破敌二剑。十二月凯旋,随行之三韩人质在末罗之里开窑,烧制质朴无釉之器,被视为唐津烧之始。

所谓“三官者”:口传称为武内宿禰护送之三王子,安置于佐志郷,分别改名太郎官者、藤平官者、小次郎官者。其居地今称太良村、藤之平村、小十官者村。若果为王子,本应入京;然在此归化,或仅属贵族层级。因“官者”常写作“冠者”,遂有主张其渡来于源平期之说,然或为当字讹变。其间小次郎官者善陶,世代相承,今尚存古窑址,竈神社奉祀之,每年十二月二十二日为祭日。

“唐津高丽”之始:斉明天皇时,韩人于此制大形高丽风茶碗,由此“高丽烧”成为日本施釉陶之名称。所谓“陶村”所指未详(“须惠物”“须惠村”之记载未可定)。大概为女帝征新罗时,随军陶工在此开窑,历次战事松浦为据点,助长日本陶艺发展。

贞观十六年七月十八日,唐商崔及等三十六人乘唐船至上松浦地切(今满岛),此地遂为与中国、朝鲜、印度通商之港,改称“唐津”,与筑前博多并为北九州门户。

输入品中多有陶器,陶工屡来,故此地制陶渊源甚古。关东称“濑户物”,关西称“唐津物”;有处以陶器为“唐津物”,以瓷器为“伊万里物”。

日本所谓“高丽”非仅唐津。佐贺、武雄、平户、大村等地,不论是否韩人所作,皆可称旧朝鲜式陶器。韩人所开窑之山多有墓葬,邻近窑址与堆埋场(物原)之发掘品称“掘出唐津”,亦称“掘出高丽”。亦有取韩土之土,于日本仅以焚火烧成之“朝鲜唐津”名物。

唐津物与舶来本场物比较,因胎土不同略有差异,但皆出自韩人之手,常难断其源。撇开审美,仅论技术,归化韩人二三代之作,如象嵌与刷毛目,往往超越本国。尤能把握日本茶道趣味者,多出彼时。

秦久茂:天智天皇时自京下向,任防御之职,子孙据上松浦四百余年。于鬼子嶽(今北波多村岸岳)建馆治之,地名后作“波多”。正历元年(990),源赖光任肥前国司,下向上松浦;加部岛田岛神社石鸟居据称为其所献。随行“四天王”之一渡邊源五別當綱为肥前松浦源氏开祖。

赖光与纲:纲为河原左大臣融之孙、箕田源次別當充之子,母为多田满仲之女,故为赖光之甥。(参见系图)

其后秦氏后裔久寛强盛屡叛。渡邊源別當久奉敕,长元四年(1032)着阵千々贺,破久寛,追至松浦川斩之(鬼塚村名或由其墓)。长久二年(1041),残党据眉山扰民,久与三男竈江三郎糺讨平(千々贺甘木谷“御久先生之石”或指此人)。

久之弟授居奈古屋,称奈古屋公;其子泰为瀧口太夫,曾在京任卫,后居筒井(今波多津村)上户城。延久元年十二月二十九日(1069),自今福登陆,定为本据(亦有谓其子久登陆者)。

永长元年(1096),泰长子源太夫判官久(33岁)筑梶谷城,兼有上下松浦庄二千二百三十町,奠松浦源氏之基,四十余党繁衍。久安四年(1148)卒,葬宛陵寺。

后定宗家姓为松浦,继御厨公直之;三男源次郎持封上松浦之波多。约七百五十年前,持筑城于鬼子嶽,亦称古志峯城,雄据一方。持以“波多”为氏,号波多源次太夫。


【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]

唐津燒——椎之峯窯。相傳神代天日槍歸化時,其隨從於近江鏡谷製陶,但此等太古事實難以確定。因此,日本韓系陶業之源頭,應視為肥前上松浦之唐津燒。

神功皇后征三韓時(仲哀天皇九年十月),據稱以松浦港為基地。出兵前,她於玉島川岩上以衣裳抽線為釣線卜兆,釣得大香魚,視為吉兆,故名其地為梅豆羅之里,後訛為末羅之縣,又因勝景改稱松浦(今鏡村)。三月餘後出兵,百濟王獻上護身與破敵二劍。臘月凱旋時,隨行之三韓人質於末羅之里開窯,燒製質樸無釉之器,被視為唐津燒之始。

「三官者」:口傳謂為武內宿禰護送之三王子,置於佐志鄉,改名太郎官者、藤平官者、小次郎官者。其居地今稱太良村、藤之平村、小十官者村。若為王子,本應入京;然既於此歸化,或僅屬貴族之位。因「官者」常寫作「冠者」,遂有源平期渡來之說,然或為當字訛變。其中小次郎官者善陶,世代相承,今尚存古窯址;竈神社奉祀之,每年十二月二十二日為祭日。

「唐津高麗」之始:齊明天皇時,韓人在此製作高麗風大茶碗,自此「高麗燒」為日本施釉陶之稱。所謂「陶村」所指未明(「須惠物」「須惠村」之記載未可定)。大概女帝征新羅時,隨軍陶工於此開窯;歷次戰事,松浦為據點,促進日本陶藝發展。

貞觀十六年七月十八日,唐商崔及等三十六人乘唐船至上松浦地切(今滿島),此地遂為與中國、朝鮮、印度通商之港,改稱「唐津」,與筑前博多同為北九州門戶。

輸入品多陶器,陶工屢至,故此地製陶源流甚古。關東稱「瀨戶物」,關西稱「唐津物」;或以陶器為「唐津物」,以瓷器為「伊萬里物」。

日本之「高麗」非唯唐津。佐賀、武雄、平戶、大村等地,不論是否韓人所作,皆可稱舊朝鮮式陶器。韓人開窯之山多有墓葬,鄰近窯址與堆棄場(物原)之出土品稱「掘出唐津」,亦稱「掘出高麗」。亦有取韓土之土、在日本僅以焚火燒成之「朝鮮唐津」名物。

唐津物與舶來本場物之比較,因胎土不同略有差異,然皆出自韓人之手,常難辨源。撇開審美而論技術,歸化韓人二三代之作,如象嵌與刷毛目,往往超越本國。尤能把握日本茶道美學者,多屬彼時之作。

秦久茂:天智天皇時自京下向,任防禦之職,子孫據上松浦四百餘年。於鬼子嶽(今北波多村岸岳)建館而治,地名後作「波多」。正曆元年(990),源賴光任肥前國司,下向上松浦;加部島田島神社石鳥居傳為其所獻。隨行「四天王」之一渡邊源五別當綱為肥前松浦源氏開祖。

賴光與綱:綱為河原左大臣融之孫、箕田源次別當充之子,母為多田滿仲之女,故為賴光之甥。(參見系圖)

其後秦氏後裔久寬強盛屢叛。渡邊源別當久奉敕,長元四年(1032)著陣千々賀,破久寬,追至松浦川斬之(鬼塚村名或由其墓)。長久二年(1041),殘黨據眉山擾民,久與三男竈江三郎糺討平(千々賀甘木谷「御久先生之石」或指此人)。

久之弟授居奈古屋,稱奈古屋公;其子泰為瀧口太夫,曾在京任衛,後居筒井(今波多津村)上戶城。延久元年十二月二十九日(1069),自今福登陸,定為本據(亦有謂其子久登陸者)。

永長元年(1096),泰長子源太夫判官久(33歲)築梶谷城,兼有上下松浦莊二千二百三十町,定松浦源氏之基,四十餘黨繁衍。久安四年(1148)卒,葬宛陵寺。

後定宗家姓為松浦,繼御廚公直之;三男源次郎持封上松浦之波多。約七百五十年前,持築城於鬼子嶽,亦稱古志峯城,雄鎮一方。持以「波多」為氏,號波多源次太夫。