【原文】[Original text]
支那赤繪の起原
抑陶器の上繪附法は、古く唐宋時代より創始されしも、當時彩色の種類としては、赤と黒となりしが如く、元代の景徳鎮に於いて、始めて戧金五彩花の文字があり。而してそれが完成せられしは明代にて、永樂の五彩、宣徳の青花させられた。我邦に於いては、聖武天皇の天平六年奈良の宮廷に於いて、唐三彩の繪附をなせしも、法秘して傳はらなかったのである。
東島徳右衛門
共頃伊萬里の有力なる陶商東島徳右衛門が、白銀十枚の傅授料にて、長崎居留の明人間辰官より、赤繪附の法を習得せしことを聽きし喜三右エ門は、切に之が傳授を懇望せしかば徳右工門もさらば協同して完成すべしと承諾した。之より喜三右工門は、實地試験に取掛かりしに、其中の重要なる赤の発色が、なかなかの困難であつた。蓋し此傳授とても、いづれ四五章の調合書を抽象的に記されしことゝ想像するに難くない。
赤繪附の完成
其後喜三右工門は寝食を忘れて研究に没頭し、苦心惨憺の結果、途に見事なる赤色の彩釉を完成して、我邦に於ける最初の赤繪法を創始しことは、固定教科書(尋常五年生用讀本の巻十)にまで掲載されしエピソードとて、今こゝにするまでもない。これ寛永二十年(1643年)喜三右工門四十八才の時にての出来事であつた。
最初の五彩調合
而して喜三右工門が、當時如何なる材料に依って、赤釉を作りしかは確かならねど、矢張緑礬(硫酸鐵)を輕ろく焼き(焼き過ぐれば黒味を帯ぶ)之を湯晒らしせしものであらう。次に青は銅を焼き、黒は酸化満俺や呉洲を多量に調合(少量なれば紫となる)せしものか、黄は前記の赤釉を淡く調合せしものと察せらる。(後年は酸化錫、酸化鉛、硫化アンチモニー等を用ふ)
舶来の薄墨
後代に於いて一遍黒(黒漆釉)茶萌黄(青即ち萌黄と黄と調合せる緑色釉)群青(空色釉)其他數十種の彩色が造り出されしが、薄墨の上種は本窯用と共に、八代深川榮左工門佛國より詰め歸り、當時此良彩を用ひしは、香蘭社の外、泉山の深海墨之助(宗傳嫡家)岩谷川内の角純一(廣島高等師範學校教授角介の父)等が、何れも茶器に使用せしものであつた。
彩金焼付法
喜三右工門は、赤の納付に成功せしも、未だ残されたものに、金銀彩焼附法があつた。彼は自ら長崎に出で、直接問辰官を訪れて、件の伝授を得べく目論見しも、辰は容易く之をゆ可き様子がない。適々彼が圍碁を好めるを幸ひ、喜三右工門は数日對手となり、漸く馴れ親しむに及んで、遂に共秘法を習得したのである。
呉洲権兵衛
斯くて喜三右工門は、歸山の上之を実験しさころ、数回繰返へせしも好結果を得なかつた。愛に高原五郎七の門弟宇田權兵術といふものがあつた。彼は嘗て呉洲縮の良否を鑑定することに長せしかば、人皆彼を呼んで吳洲權兵衛と渾名した。彼は之より喜三右工門に協力して実験を綴る中、斯法の要点を案出し、途に之を完成せしめたのである。
金彩調合
斯法は純金の粉末に、附着剤として唐の土(炭酸鉛)又は水銀蒼鉛(ビスミット)等を混入し、尚經濟的に銀粉を調合するのである。或は甘汞(カロメル)又は硫化水銀(マーカリツクサルフハイド)等種々の水銀を混入して、光澤を發揮することあるも、早く到落する缺点がある。
美麗なるは水金に舶来の金粉を練合せしものなるが、古伊萬里縮附の彩金としては、銀粉化合が矢張落着きのある光彩である。
金箔使用
又長崎貿易時代の有田の細附には、間々金箔を用ひしと見へ、田代屋本家の古文書中には左の如きものがある。蓋し近代のメタリコンなごより勝ること萬々であらう。
金箔六匁代拾七圓九拾錢
右遣ひ様は晒しニカワ見合せ少し入れ皿にてか硝子にてか指にて解き丼の様なる物へ水を入れニカワで解きし箔を其れに入れて箔は下に沈むゆへ水を残らず棄てニカワの氣少し残りし様に致し置き夫を直に陶器に用ふべし云々
柿右衛門と改名
正保元年(1645年)喜三右工門は、柿の蓋物を製作し、先に完成せる赤を以て彩色を施し、之を藩主鍋島勝茂に進献せしところ、精巧雅致兵に名作なりと賞せられ、大いに面目を施したのである。之より喜三右工門は、自ら柿右工門と改名し、代々之を襲名すること成ったのである。
柿右衛門附の畫風
柿右工門は又、濁し手白磁に調和すべき一種の畫附風を創始した、而して彼が狙ったのは支那明末の馮港ならんといふ説がある。それは當時の萬曆赤繪や、呉洲赤繪とも異なて、地釉に光澤なく而も不透明にて、それに線猫の細かな彩が、淡雅に施されゐる物である。
柿右工門の上繪なるものは、其濁し手の白地に狩野風とも土佐繪ともつかず、又古代模様でもなく、櫻眞垣などへ鳳凰や唐草文様があしらはれて、彼の古伊萬里の如く、器物の全部を模様にて描き埋むる如き様式はない。然も細き線にて、一種の畫風を工夫せしものにて、其繊細なる構圖と周到なる意匠は、柿右工門式といふ一種のコンポジションを形成し、之が當時世界的に讃美されたのである。
加賀藩主の賞讃
此赤繪成功の第一期製品を、加賀藩の御用聞塙市郎兵衛が購うて、藩主前田肥前守利常に献上し、大いに其賞を博したのである。此時の赤繪讃美が、後年後藤才次郎をして、磁器製作と共に、此彩法探究の爲め、肥前に潜入せしめし因を孕みしとの説をなす者さへある。
柿右衛門焼の輸出
正保三年六月(1647年)長崎興善町の明人八官に依って、始て海外に輸出されし此の柿右工製品が、有田焼貿易の嚆矢であるといはれてゐる。蓋し八官は慶長十九年(1614年)より、交趾貿易の朱印を受けおりし者である。而して寛永十八年(1641年)には長崎出島に於いて、既に和蘭人が貿易を開始しつゝありしを見れば、柿右エ門の製品も、正保以前より歐州諸国へ輸出され居しと見るべきであらう。
藤本長右衛門
柿右工門の製品は、寛文初年(1661年)より有田中野原の陶商藤本長右工門の手に依って賣出された。(其以前は多く東島德右工門)而して此赤附の秘法は、まづ近き足元に洩れ、有田工人の知るところとなりて、頻りに研究され、寛文初年には赤繪町か出来たといはれてゐる。尤も有田にては、天草なる上田家の傳授に因りて工夫せし者あるも、それは何代のことに属する。而して之に要する顔料材料の如きは、當時長崎居留の支那人に交渉して仕入れしものといはれてゐる。
唐石と唐土
顔料熔和劑なる白玉は、支那より渡せるより、一に唐石と稱し。又鉛丹を精製せし炭酸鉛も、唐の土(當時の白粉)と稱せられた。唐石は明和頃に至り筑後國若津の倉橋某が、長崎の支那人より製法を習得し、同國堺目に産出する硝子粉を以て製造し、之を有田地方に販賣することゝ成った。之は珪石、硝石、鉛より成る軟質の硝子粉である。
日の岡
此唐石七十%と、唐土三十%を調合して赤彩料のフラックスに使用する。又或種の彩料には、なほ之に日の岡を五%位加入することあるが、それは焼成の節に彩釉の氷裂止の爲である。此日の岡石は、京都東山邊より産出する純粋の珪酸であつた。此時代の各材料は殊に優品にて、就中唐石の如きは、極度の良質なりしを以て、従つて立派なる赤釉が製出されしといはれてゐる。
有田の赤繪屋
之より有田には金繢業者(上繪附業則ち赤繪屋又錦附業ともいふ)輩出して、銘々其彩料の製法と調合に研究を重ねる外、一面には又古伊萬里附なる物が發展し、後には家元を凌駕すべき赤釉業者が續出するに至つたのである。蓋し材料は他に需めしとしても、赤釉窯の構造や其焼成法に就いては、勿論柿右工門の技法に則したることは申すまでもない。
【現代語訳】[Modern Japanese translation]
中国赤絵の起源
陶器の上絵付は唐宋期に始まり、当初の彩色は主に赤と黒だった。元代の景徳鎮で「戧金」「五彩花」という語が現れ、完成したのは明代で、永楽の五彩、宣徳の青花が名高い。日本では天平六年、奈良の宮廷で唐三彩の絵付が試みられたが、技法は秘され継承されなかった。
東島徳右衛門
伊萬里の有力陶商・東島徳右衛門が、長崎の明人・間辰官から白銀十枚で赤絵付の法を学んだと聞き、喜三右工門は強く伝授を願い出た。徳右衛門も協力を約し、喜三右工門は実地試験に着手するが、肝心の赤の発色は難題だった。伝授は抽象的な配合書数章に過ぎなかったと考えられる。
赤絵付の完成
喜三右工門は寝食を忘れて研究し、ついに鮮やかな赤彩釉を完成、日本初の赤絵法を確立した。これは寛永二十年(1643年)、四十八歳のときで、小学読本にも載る有名な逸話である。
初期の五彩調合
当時の原料は確定しないが、赤は緑礬(硫酸鉄)を軽く焼き湯晒し、青は銅焼成、黒は酸化マンガンや呉洲を多めに配合(少ないと紫化)、黄は赤釉を淡く調合したと推測される(のちに酸化錫・酸化鉛・硫化アンチモンなどを使用)。
渡来の薄墨
後には黒漆釉、一遍黒、茶萌黄、群青など多彩が生まれた。上質の薄墨は八代深川榮左工門が仏国から携え、本窯や香蘭社、泉山の深海墨之助、岩谷川内の角純一らが主に茶器に用いた。
金彩焼付法
赤に成功した後、残る課題は金銀彩の焼付であった。喜三右工門は長崎で間辰官に直談判し、囲碁を通じて親しくなり秘法を得た。帰山後に試すも成果が出ず、高原五郎七の門弟・宇田権兵術(通称・呉洲権兵衛)が協働し要点を見出して完成に導いた。
金彩の調合
純金粉に炭酸鉛(唐の土)や水銀蒼鉛(ビスマス)を結着剤として混ぜ、経済性から銀粉も併用する。甘汞や硫化水銀などで光沢を高める手もあるが剥落が早い。最も美麗なのは水金に舶来金粉を練る方法だが、古伊万里の縮付には銀粉併用の落ち着いた輝きが好まれた。
金箔の使用
長崎貿易期の細付には金箔も用いられ、田代屋本家文書に用途・溶解手順(膠で溶き、沈殿を残して施用)が残る。
改名「柿右衛門」
正保元年(1645年)、喜三右工門は柿文の蓋物に赤絵を施して鍋島勝茂に献上し、高く賞された。以後「柿右工門」と改名し、家名として襲名する。
画風
柿右工門は濁し手白磁に合う上絵様式を創り、明末の馮港を念頭に置いたとされる。万暦赤絵や呉洲赤絵と異なり、艶のない不透明な地釉に繊細な線彩を淡雅に施す。狩野風とも土佐風とも断じ難いが、器面全体を埋め尽くさず、細線で鳳凰や唐草、桜真垣などを巧みに配する独自のコンポジションが世界的に称賛された。
評価と輸出
初期の成功作は加賀藩の塙市郎兵衛が買い上げ、前田利常に献上して賞を得た。これが後藤才次郎の探究にも影響したとの説がある。正保三年(1647年)、長崎興善町の明人・八官により海外輸出が始まり、有田焼交易の嚆矢となった。寛永十八年(1641年)には出島で和蘭人貿易が始まっており、正保以前から欧州へも渡っていた可能性が高い。
普及と材料
寛文初年からは藤本長右工門が販路を担い(それ以前は東島徳右工門)、秘法は有田の工人にも広まり研究が進み、赤絵町が生まれた。顔料や助剤は長崎の支那人から入手。白玉(唐石)や炭酸鉛(唐土)は重用され、明和期には倉橋が製法を学び、若津産の硝子粉(珪石・硝石・鉛)で唐石を製造し有田に供給。唐石70%+唐土30%をフラックスに、必要に応じ日の岡(京都東山産の珪酸)を約5%加えて貫入止めとした。これら上質材料により、優れた赤釉が実現した。以後、有田では上絵師(赤絵屋・錦付業)が輩出し、家元を凌ぐ業者も現れたが、窯構造や焼成は柿右工門の技法に則った。
【英語訳】[English translation]
Origins of Chinese overglaze red (aka-e)
Overglaze painting on pottery began in the Tang–Song era, using chiefly red and black. In Yuan-dynasty Jingdezhen, terms like “gold-inlay” and “wucai” appear; the style matured in Ming with Yongle wucai and Xuande blue-and-white. In Japan, court artisans in Tenpyō 6 decorated Tang sancai, but the method was kept secret and did not pass down.
Tokujirō Azumajima
Hearing that the Imari dealer Azumajima Tokuemon had learned the aka-e method from the Ming resident Kan Shinkan in Nagasaki for ten silver ingots, Kizaemon urgently sought instruction. Azumajima agreed to collaborate. Field trials began, but achieving a stable red proved hardest—likely because the “recipe” was only a few abstract pages.
Breakthrough in aka-e
After relentless study, Kizaemon perfected a brilliant red overglaze in Kan’ei 20 (1643), age forty-eight—the first aka-e technique in Japan, later noted even in primary readers.
Early wucai palette
Though uncertain, red was probably made by lightly calcining green vitriol (FeSO₄) and leaching; blue by fired copper; black by generous manganese oxide or gosu (too little turns purple); yellow by diluting the red—later augmented by SnO₂, PbO, Sb₂S₃, etc.
Imported ink-wash
Later, many colors appeared—black-lacquer glaze, tea-green (green from blue+yellow), sky-blue, and more. A superior pale ink was carried back from France by Fukagawa Eizaemon of Hachiyo; it was used by the main kiln, Kōransha, Shinkai Sumenosuke of Izumiyama, and Sumiichi Kado of Iwaya-gawachi, chiefly for tea ware.
Firing gilded decoration
Gold and silver overglaze remained. Kizaemon visited Nagasaki, befriended Kan Shinkan over days of go, and obtained the secret. Tests still failed until Uda Gombeijutsu—nicknamed “Gosu Gombe”—a pupil of Takahara Goroshichi, joined him. Distilling the key, they completed the method.
Gold composition
Mix gold powder with a binder—lead carbonate (karatsuchi) or bismuth oxide—and often silver powder for economy. Mercury compounds (calomel, mercury sulfide) can add luster but flake early. Water-gold with imported powder is most beautiful; for old-Imari shrink-decor, gold–silver blends give a calm sheen.
Gold leaf
Arita fine-painting sometimes used gold leaf. A Tashiroya document records dissolving leaf with gelatin on glass, decanting to leave a trace of glue, then applying directly to ware—outshining modern metallized coatings.
Taking the name “Kakiemon”
In Shōhō 1 (1645), Kizaemon decorated a lidded persimmon piece in red and presented it to Nabeshima Katsushige, who praised it highly. Kizaemon then adopted the name “Kakiemon,” to be inherited by his line.
Kakiemon style
He devised an overglaze manner that suits nigoshide white: unlike Wanli or gosu reds, the ground is matte and opaque with delicate linear color, often placing phoenixes or arabesques among Sakura-magaki fences, never crowding the whole surface as in some old Imari. The fine linework and careful layouts formed a distinct “Kakiemon composition,” admired worldwide.
Patronage and export
Early successes were bought by Kaga broker Hanawa Ichirōbee and offered to Lord Maeda Toshitsune, winning acclaim—later said to inspire Gotō Saijirō’s research. In Shōhō 3 (1647), the Ming merchant Hachikan in Nagasaki shipped Kakiemon overseas—the dawn of Arita export. With Dutch trade at Dejima since 1641, Kakiemon likely reached Europe even earlier.
Diffusion and materials
From early Kanbun, Fujimoto Chōemon handled sales (earlier mostly Azumajima). Secrets spread locally, spawning Akamachi (“aka-e town”). Pigments and fluxes were procured via Chinese brokers in Nagasaki. “Shiratama” (karaseki) glassy flux and lead carbonate (karatsuchi) were vital; by the Meiwa era Kurahashi of Wakatsu learned to make karaseki from local glass sand (silica, saltpeter, lead) and supplied Arita. A standard flux mixed 70% karaseki with 30% karatsuchi; ~5% “Hi-no-oka” (pure silica from Kyoto Higashiyama) was sometimes added to check crazing. With such fine materials, superb reds were achieved. Arita’s overglaze painters (aka-e/kinrui-shi) multiplied, some surpassing the house style, though kiln design and firing followed Kakiemon technique.
【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]
中国赤绘的起源与发展
陶器上绘始于唐宋,元代景德镇出现“戧金、五彩”之名,明代永乐五彩、宣德青花臻于成熟。日本天平六年奈良宫廷曾试作唐三彩,但技法未传。伊万里陶商东岛德右卫门自长崎明人间辰官得赤绘法,喜三右卫门恳求协作后着手试烧,最大难关是“红”的稳定发色。
喜三右卫门苦研不辍,寛永二十年(1643)终成鲜红彩釉,开日本赤绘之先。初期五彩或以绿矾轻烧后浸洗为红,铜为青,锰/呉洲多配为黑(少则紫),淡化红为黄;后用氧化锡、氧化铅、硫化锑等。其后黑漆釉、茶萌黄、群青等色相继出现。优质“薄墨”由八代深川荣左卫门自法国带回,香兰社、深海墨之助、角纯一等多用于茶器。
金银彩尚未攻克。喜三右卫门赴长崎与间辰官对弈结交,得其秘法;返山试验仍不稳,乃与高原五郎七弟子宇田权兵术(呉洲权兵卫)合研,抓住要点而成。金彩以金粉加“唐土”(碳酸铅)或水银苍铅为粘结,并掺银粉以节用;甘汞、辰砂增辉但易脱。细付亦见金箔之用,田代屋文书载其胶溶、沉降、上器之法。
正保元年(1645)喜三右卫门以赤绘柿文蓋物献鍋島勝茂,蒙赏,改名“柿右卫门”。其画风为濁手白地上之细线淡彩,雅而不满,凤凰、唐草、桜真垣等点染其间,构图精密,被称为“柿右卫门式”,享誉世界。
初期名品为加贺藩塙市郎兵卫购入献前田利常。正保三年(1647)长崎兴善町明人八官始运海外,成有田外销之端。寛永十八年(1641)出岛已有和兰贸易,故或更早入欧。寛文初年后藤本长右卫门主销(此前多东岛德右卫门),秘法在有田扩散,“赤绘町”兴起。白玉(唐石)、碳酸铅(唐土)自长崎华商购入;明和期若津倉橋习得唐石法,以本地硅砂、硝石、铅制软质玻璃粉供有田。常用配比为唐石70%+唐土30%为助熔,另按需加“日の岡”(京都东山纯二氧化硅)约5%抑止龟裂。由此优良红釉得以实现,上绘师(赤绘屋、锦付)辈出,虽风格多样,窑構与烧成仍遵柿右卫门法。
【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditional from Japanese]
中國赤繪的起源與發展
上繪起於唐宋,元代景德鎮見「戧金、五彩」,明代永樂五彩、宣德青花臻成熟。日本天平六年奈良宮廷曾試唐三彩,然未傳。伊萬里商東島德右衛門自長崎明人間辰官得赤繪法,喜三右衛門請其合作試燒,最難在「紅」之穩定發色。
喜三右衛門苦研至寬永二十年(1643)成鮮紅彩釉,為日本赤繪濫觴。初期五彩或以綠礬輕燒浸洗為紅、銅為青、錳/呉洲多配為黑(少則紫)、淡化紅為黃;後用氧化錫、氧化鉛、硫化銻等。繼而黑漆釉、茶萌黃、群青等色相續。上品「薄墨」由八代深川榮左衛門自法國攜回,香蘭社、深海墨之助、角純一等主用于茶器。
金銀彩尚待克服。喜三右衛門赴長崎與間辰官弈棋結契得秘術;返山試驗未穩,復與高原五郎七弟子宇田權兵術(呉洲權兵衛)合研,析得要點而成。金彩以金粉配「唐土」(碳酸鉛)或水銀蒼鉛為黏結,並摻銀粉節用;甘汞、辰砂雖增輝而易脫。細付間亦用金箔,田代屋文書載其用膠溶解、沉降、施器之法。
正保元年(1645)以赤繪柿文蓋物獻鍋島勝茂,蒙賞,遂改名「柿右衛門」。其畫風為濁手白地之細線淡彩,不滿鋪,鳳凰、唐草、櫻真垣點染其間,構圖嚴整,稱「柿右衛門式」,名動四海。
初期名品為加賀藩塙市郎兵衛購進獻前田利常。正保三年(1647)長崎興善町明人八官始輸海外,為有田外銷之始。寬永十八年(1641)出島既有和蘭貿易,或更早入歐。寬文初年後藤本長右衛門主銷(此前多東島德右衛門),秘法在有田流布,「赤繪町」興起。白玉(唐石)、碳酸鉛(唐土)由長崎華商供應;明和期若津倉橋學得唐石製法,以當地矽砂、硝石、鉛製軟質玻璃粉供有田。常用為唐石70%+唐土30%為助熔,另酌加「日の岡」(京都東山純二氧化矽)約5%止裂,遂得優良紅釉。上繪師(赤繪屋、錦付)紛起,雖風格各異,窯構與燒成仍遵柿右衛門法。
【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]
赤绘概述(英译本直译)
上绘源自唐宋,元景德镇出现戧金与五彩,明永乐与宣德定型。日本天平六年曾作唐三彩而未传。东岛德右卫门以银十锭从长崎明人间辰官学赤绘,喜三右卫门遂联手试验,红色最难。1643年他首创日本赤绘。早期调色:红(轻烧绿矾)、青(铜)、黑(锰/呉洲多配)、黄(淡化红),后增SnO₂、PbO、Sb₂S₃。
优质薄墨由八代深川荣左卫门自法带回。金银彩经长崎求法,与宇田权兵术合研而成:金粉+碳酸铅/水银蒼铅为粘结,常掺银;水银系增辉但易脱。金箔亦见应用。1645年献柿文蓋物受赏,改名“柿右卫门”。其风格在濁手白地上以细线淡彩点景,不铺满,构图严谨,名扬海外。
加贺藩曾献前田利常。1647年明人八官首输海外;出岛对荷贸易自1641年已行,或更早入欧。寛文初年藤本长右卫门主销,秘法扩散成“赤绘町”。原料经长崎采办:唐石(玻璃粉)、唐土(碳酸铅),配70:30为助熔;另以京都“日の岡”纯二氧化硅约5%抑裂。材佳故红釉精良;赤绘师辈出,窑与烧成仍循柿右卫门法。
【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]
赤繪概述(英譯直譯)
上繪起於唐宋,元景德鎮見戧金與五彩,明永樂、宣德定型。日本天平六年試作唐三彩未傳。東島德右衛門自長崎明人間辰官得赤繪,喜三右衛門遂合試,紅最難。1643年首創日本赤繪。早期調色:紅(輕燒綠礬)、青(銅)、黑(錳/呉洲多配)、黃(淡化紅),後增SnO₂、PbO、Sb₂S₃。
上品薄墨由八代深川榮左衛門自法攜回。金銀彩經長崎問法,與宇田權兵術合研而成:金粉+碳酸鉛/水銀蒼鉛為黏結,常摻銀;水銀系增輝而易脫。金箔亦有應用。1645年以柿文蓋物受賞,改名「柿右衛門」。其風格在濁手白地以細線淡彩點景,不滿繪,構圖嚴整,名動海外。
加賀藩曾獻前田利常。1647年明人八官首輸海外;出島荷蘭貿易自1641年已行,或更早入歐。寬文初年藤本長右衛門主銷,秘法流布成「赤繪町」。原料自長崎采辦:唐石(玻璃粉)、唐土(碳酸鉛),配比70:30為助熔;另加京都「日の岡」純二氧化矽約5%止裂。材優故紅釉精良;赤繪師輩出,窯與燒成仍循柿右衛門法。

