「美濃焼」から「南蠻物」

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【原文】
美濃焼
 後土御門天皇の文明七年(1475年)、武藏國久良岐郡の人加藤景信美濃國惠那郡大川村に来りて陶器を製作した。之が美濃焼の始祖と稱せられてゐる。

志野風
 同文明年間(1469-1487年)義政の侍臣志野宗信(三郎左門と稱し香道の祖大永二年八月十二日卒八十二才)當時瀬戸に製作し宋の哥窯なる百坂碎の如き釉手を愛せしより、爾来此種の釉陶を志野焼と稱するに至つた。中に長石のみを以て厚く施釉せる乳白手に小罅を現はし、其釉際に赤き染み出しがあり、それに鐵釉にて繪ともつかぬ稚拙極まる文様をなぐり書きせしものにて、之が後世珍重さるゝところの古志野である。蓋し此種のものは、是より以前既に製せられるしを、後人が志野の名に依りて、價値をつけし作爲であらう。

正信春慶
 同文明年間、山名宗全の家臣山名彈正正信製陶を好み、加藤春慶(六七代目の春慶なるべし)に就いて技法を學びしが、其製作せるも正信春慶と稱せらる。

室町戰國時代=阿米耶
 後柏原天皇の永正年間(1504-1521年)韓土の陶工阿米耶(又飴爺)なる者京都に渡來し、西洞院東入北側なる佐々木菜の女婿となりて歸化し、彌吉又宗吉と稱せしが後年宗慶(天正二年(1574年)卒す八十二才)と改めた。彼は拉車(陶車)を用ひず指頭を以つて風雅なる土器を造りしも、自ら巧ならずとして多く製作せず、其子長次郎をして渡韓修業せしめしより其技巧妙を極はめ、之より楽焼なるもの大いに流行するに至った。

紹鷗信樂
 又此頃泉州堺の茶人武野紹鴎(因幡守仲村弘治元年(1555年)閏十月二十九日卒五十三才)によつて紹鵰信樂が創始されたのである。

志戸呂焼
 後奈良天皇の大永年間(1521-1528年)、遠江國横岡村(榛原郡)に於いて志戸呂焼が創始されしが、それは専ら葉茶壺及び花瓶等であつた。

平戸開港
 同朝の天文十九年(1550年)葡萄牙人の需に應じて、松浦隆信肥前國平戸を開港した。これが我邦通商上の一新紀元を劃すると同時に、彼等が齎らせる珍奇なる陶器の輸入となり、我が陶工界に新たなる刺戟を奥へたのである。

追覆手の茶入
 同天文年間尾張國山田郡飽津村(今瀬戸市の一部)に於いて、赤津三郎左工門なる今川義元の好みに困り、追覆手(釉薬に濃き涙疲幾筋もあり、疊著「底の内」釉薬かゝりて土の見ゆる故に追覆りといふ)の茶入を製作した。之が後年思川と稱する名物である。

八田焼
 天文年間(1532-1555年)和泉國八田村に於いて、牛田焼が創業されしが之が後の八田焼である。(天正年間(1573-1593年)に及び、玄齋なる者地名を姓とせしより八田焼と稱するに至り、點茶用の焙烙「方六又炮碌或は炒鍋と書く」を作る。其質輕く雪白にして絶品と稱せられ、秀吉より天下一の號を授かりしていはれてゐる)
 正親町天皇の永祿元年(1558年)當時馬刺加にありし英人ラルフフリッチの言に依れば葡萄牙人の支那や媽港より日本に至るや、彼等は白絹、金及び麝香又は陶器を送り、そして銀の外一物を輸することなしと稱してゐる。

南蠻物
 其際葡人が齎せし陶器は、彼等が航路の寄港地なる支那、安南、呂宋、交趾邊にて製造されし品なりしことを想像するに難くない。媽港又澳門と書き或は阿媽港、亞媽港、天川と稱し、一に香山灣ともいはれてゐる。同港は支那廣東省珠江の三角洲にありて、古くより葡萄牙の属地であつた。此地陶器は産せざるも、前記南支地方の製品を貿易せしものであらう。此珍奇なる焼物に接せし我邦人が、如何にもして之を模作せんとの希望に満ちしことが察せらる。其頃我邦にて此種の陶器を南蠻物と唱へ、朝鮮焼を高麗物と呼び、支那焼を南京物と稱してゐた。


【現代語訳】
美濃焼は、後土御門天皇の文明七年(1475年)に、武蔵国久良岐郡出身の加藤景信が美濃国恵那郡大川村に来て陶器を作ったことに始まるとされている。

文明年間(1469-1487年)には、足利義政の家臣で香道の祖ともいわれる志野宗信(三郎左門)が瀬戸で宋の哥窯の釉薬技法を好み、その影響を受けた陶器を「志野焼」と呼ぶようになった。中でも長石だけを用いて厚く釉薬をかけた乳白色の器に細かいひび割れが入り、釉薬の端に赤いにじみが出るものがあり、そこに鉄釉で絵ともいえない拙い文様を描いたものが「古志野」と呼ばれ、後世に珍重されている。もっとも、これらは実際にはそれ以前から作られていたものであり、後の人々が「志野」という名を与えて価値づけをしたに過ぎないと考えられる。

同じ文明年間には、山名宗全の家臣である山名弾正正信が陶芸を好み、加藤春慶(おそらく六、七代目の春慶)から技法を学んだ。その作品は「正信春慶」と呼ばれるようになった。

永正年間(1504-1521年)には、朝鮮の陶工で阿米耶(飴爺ともいう)という人物が京都に来て帰化し、佐々木家の婿となった。名を弥吉、宗吉と称し、のちに宗慶と改めた(天正二年〈1574〉に八十二歳で没)。彼は轆轤を使わず指先で風雅な器を作ったが、自ら巧みではないとし、多くは作らなかった。しかし息子の長次郎を韓国に修行に行かせたことで技法が大いに進み、「楽焼」が流行するようになった。

またこの頃、堺の茶人武野紹鴎(1555年没)によって「紹鷗信楽」が創始された。

大永年間(1521-1528年)には、遠江国榛原郡横岡村で「志戸呂焼」が始められ、茶壺や花瓶が主に作られた。

天文十九年(1550年)、ポルトガル人の要請に応じて松浦隆信が肥前国平戸を開港し、これが日本の通商における大きな転換点となった。同時に、彼らが持ち込んだ珍しい陶器が我が国の陶芸界に新しい刺激を与えた。

同じ天文年間、尾張国山田郡飽津村(現在の瀬戸市の一部)では、赤津三郎左工門が今川義元の好みに応じて「追覆手」と呼ばれる茶入を作った。釉薬が厚くかかり筋のように涙状の流れが出て、底の内側にまで釉薬が流れて土が見えることからこの名がある。これが後に「思川」と呼ばれる名物となった。

また天文年間には、和泉国八田村で「牛田焼」が始まり、後に「八田焼」と呼ばれるようになった。天正年間には玄斎という人物が地名を姓として名乗り、点茶用の焙烙(方六や炮碌、炒鍋とも書かれる)を作った。その質は軽く雪のように白く、絶品とされ、秀吉から「天下一」の称号を与えられたと伝えられる。

正親町天皇の永禄元年(1558年)、当時馬刺加に滞在していたイギリス人ラルフ・フリッチによれば、ポルトガル人は中国や媽港(マカオ)から日本に来る際、白絹・金・麝香・陶器を運び、銀以外には何も輸出しなかったと記している。

このときポルトガル人が持ち込んだ陶器は、航路の寄港地である中国南部や安南、ルソン、交趾(ベトナム北部)で作られた品であったと考えられる。媽港(マカオ)は広東省珠江の三角州にあり、古くからポルトガルの拠点で、そこで陶器が作られることはなかったが、南支地方の陶器を集めて貿易していたのであろう。日本人はこの珍しい焼物に触れてぜひ模倣したいと願い、この頃、ポルトガル経由の陶器を「南蛮物」、朝鮮焼を「高麗物」、中国焼を「南京物」と呼んでいた。


【英語訳】
Mino ware is said to have originated in 1475 (Bunmei 7), when Kato Kagenobu from Kuraki District in Musashi Province came to Okawa Village in Ena District, Mino Province, and began producing pottery.

During the Bunmei era (1469–1487), Shino Munenobu, a retainer of Ashikaga Yoshimasa and known as the founder of incense ceremony, worked in Seto. Admiring the glaze of the Song dynasty’s Ge ware, he created pottery that came to be called “Shino ware.” Among these, pieces thickly glazed with feldspar, showing fine cracks, reddish seeping at the glaze edges, and crude designs brushed in iron glaze, became known as “Old Shino” and were highly prized in later generations. However, such wares had already been made earlier, and it is believed that later generations simply gave them the name “Shino” to increase their value.

Also in the Bunmei era, Yamana Masanobu, a retainer of Yamana Sōzen, loved pottery and studied techniques under Kato Shunkei (probably the 6th or 7th generation Shunkei). His works came to be known as “Masanobu Shunkei.”

In the Eishō era (1504–1521), a Korean potter named Ameya (also called Ameya-jii) came to Kyoto, became the son-in-law of the Sasaki family, and naturalized. He was known as Yakichi or Sōkichi, later changing his name to Sōkei (d. 1574 at age 82). He produced elegant wares using only his fingers without a potter’s wheel, though he considered himself unskilled and did not produce much. His son Chōjirō, however, was sent to Korea for training, and his refined skills led to the great popularity of Raku ware.

Around the same time, the tea master Takeno Jōō of Sakai (d. 1555) founded what came to be called “Jōō Shigaraki.”

In the Daiei era (1521–1528), Shidoro ware was founded in Yoko’oka Village (Haibara District), Tōtōmi Province, specializing mainly in tea jars and flower vases.

In 1550 (Tenmon 19), responding to Portuguese demand, Matsura Takanobu opened the port of Hirado in Hizen Province. This marked a new era in Japanese foreign trade and also introduced exotic ceramics, stimulating the Japanese pottery world.

During the same Tenmon era, in Akitsu Village, Yamada District, Owari Province (now part of Seto City), Akatsu Saburōzaemon, at the request of Imagawa Yoshimoto, created tea containers called “Oikuburi-de.” The glaze had thick streaks of dripping, with bare clay visible at the bottom interior, giving it its name. This later became the famous “Omogawa.”

Also in the Tenmon era, Ushida ware was established in Hatta Village, Izumi Province, later becoming known as Hatta ware. In the Tenshō era (1573–1593), a man named Gensai adopted “Hatta” as his surname and produced tea-roasting braziers (variously written as 方六, 炮碌, or 炒鍋). These were light, snow-white, and regarded as masterpieces, said to have been granted the title of “Best in the Realm” by Toyotomi Hideyoshi.

In 1558 (Eiroku 1), according to the Englishman Ralph Fitch, who was in Massaka at the time, the Portuguese brought white silk, gold, musk, and ceramics from China and Macau to Japan, and exported nothing but silver in return.

The ceramics introduced by the Portuguese were likely made in their port stops in southern China, Annam, Luzon, and Cochin-China. Macau, also called Amakō or Xiangshan Bay, located in the Pearl River Delta of Guangdong Province, was long a Portuguese possession. While ceramics were not produced there, products from southern China were traded. Japanese who encountered these exotic wares longed to imitate them. At that time, such imported ceramics were called “Nanban-mono,” Korean wares were called “Kōraimono,” and Chinese wares were called “Nankin-mono.”


【中国語訳(現代語訳から簡体字)】
美浓烧的起源,据说是在文明七年(1475年),武藏国久良岐郡人加藤景信来到美浓国惠那郡大川村开始制作陶器。

在文明年间(1469-1487年),足利义政的家臣、被称为香道之祖的志野宗信(三郎左门)在濑户制作陶器,因喜爱宋代哥窑的釉法,这类陶器后来被称为“志野烧”。其中,用长石厚施釉药的乳白色器物,上有细裂纹,釉边渗出红色,并用铁釉随意描绘拙劣的纹样,被称为“古志野”,在后世极为珍贵。然而,这类陶器在此之前已被制作,只是后人冠以“志野”之名以提升价值。

同一时期,山名宗全的家臣山名弹正正信喜爱陶艺,向加藤春庆(可能为第六、七代春庆)学习技法,他的作品被称为“正信春庆”。

永正年间(1504-1521年),朝鲜陶工阿米耶(又称飴爷)来到京都,入籍并成为佐佐木家的女婿,先后称弥吉、宗吉,后改名宗庆(1574年卒,享年82岁)。他不用轆轤,而用手指制作雅致器物,但自认为技艺不精,作品不多。然而,他的儿子长次郎赴朝鲜修学,使技艺大进,“乐烧”因此盛行。

此时,堺的茶人武野绍鸥(1555年卒)创立了“绍鸥信乐”。

大永年间(1521-1528年),远江国榛原郡横冈村创烧“志户吕烧

”,主要制作茶壶与花瓶。

天文十九年(1550年),应葡萄牙人要求,松浦隆信在肥前国平户开港。这不仅标志着日本对外通商的新纪元,也使葡萄牙人带来的奇特陶器进入日本,对陶艺界产生了新刺激。

同天文年间,尾张国山田郡飽津村(今濑户市一部),赤津三郎左工门迎合今川义元的喜好,制作了“追覆手”茶入。其釉药厚重,有泪状流痕,内底釉药覆盖露土,因此得名,后来被称为名物“思川”。

同天文年间,和泉国八田村创烧“牛田烧”,后称“八田烧”。天正年间,玄斋以地名为姓,制作点茶用焙烙(亦写作方六、炮碌或炒锅)。其质轻白如雪,被誉为绝品,传说秀吉赐予“天下第一”之号。

永禄元年(1558年),当时在马刺加的英国人拉尔夫·弗里奇记载,葡萄牙人自中国及妈港来日,带来白绢、黄金、麝香及陶器,出口则仅有白银。

葡萄牙人带来的陶器,应产自航路经停的中国南部、安南、吕宋、交趾等地。妈港(澳门,亦称阿妈港、亚妈港、香山湾)位于广东珠江三角洲,自古为葡萄牙属地,虽不产陶器,但贸易南支产品。日本人见到这些奇异陶器,渴望仿制。当时,日本称此类陶器为“南蛮物”,称朝鲜烧为“高丽物”,称中国烧为“南京物”。


【中国語訳(現代語訳から繁體字)】
美濃燒的起源,據說是在文明七年(1475年),武藏國久良岐郡人加藤景信來到美濃國惠那郡大川村開始製作陶器。

在文明年間(1469-1487年),足利義政的家臣、被稱為香道之祖的志野宗信(三郎左門)在瀨戶製作陶器,因喜愛宋代哥窯的釉法,這類陶器後來被稱為「志野燒」。其中,用長石厚施釉藥的乳白色器物,上有細裂紋,釉邊滲出紅色,並用鐵釉隨意描繪拙劣的紋樣,被稱為「古志野」,在後世極為珍貴。然而,這類陶器在此之前已被製作,只是後人冠以「志野」之名以提升價值。

同一時期,山名宗全的家臣山名彈正正信喜愛陶藝,向加藤春慶(可能為第六、七代春慶)學習技法,他的作品被稱為「正信春慶」。

永正年間(1504-1521年),朝鮮陶工阿米耶(又稱飴爺)來到京都,入籍並成為佐佐木家的女婿,先後稱彌吉、宗吉,後改名宗慶(1574年卒,享年82歲)。他不用轆轤,而用手指製作雅緻器物,但自認為技藝不精,作品不多。然而,他的兒子長次郎赴朝鮮修學,使技藝大進,「樂燒」因此盛行。

此時,堺的茶人武野紹鷗(1555年卒)創立了「紹鷗信樂」。

大永年間(1521-1528年),遠江國榛原郡橫岡村創燒「志戶呂燒」,主要製作茶壺與花瓶。

天文十九年(1550年),應葡萄牙人要求,松浦隆信在肥前國平戶開港。這不僅標誌著日本對外通商的新紀元,也使葡萄牙人帶來的奇特陶器進入日本,對陶藝界產生了新刺激。

同天文年間,尾張國山田郡飽津村(今瀨戶市一部),赤津三郎左工門迎合今川義元的喜好,製作了「追覆手」茶入。其釉藥厚重,有淚狀流痕,內底釉藥覆蓋露土,因此得名,後來被稱為名物「思川」。

同天文年間,和泉國八田村創燒「牛田燒」,後稱「八田燒」。天正年間,玄齋以地名為姓,製作點茶用焙烙(亦寫作方六、炮碌或炒鍋)。其質輕白如雪,被譽為絕品,傳說秀吉賜予「天下第一」之號。

永祿元年(1558年),當時在馬刺加的英國人拉爾夫·弗里奇記載,葡萄牙人自中國及媽港來日,帶來白絹、黃金、麝香及陶器,出口則僅有白銀。

葡萄牙人帶來的陶器,應產自航路經停的中國南部、安南、呂宋、交趾等地。媽港(澳門,亦稱阿媽港、亞媽港、香山灣)位於廣東珠江三角洲,自古為葡萄牙屬地,雖不產陶器,但貿易南支產品。日本人見到這些奇異陶器,渴望仿製。當時,日本稱此類陶器為「南蠻物」,稱朝鮮燒為「高麗物」,稱中國燒為「南京物」。


【中国語訳(英語から簡体字)】
美浓烧被认为起源于1475年(文明七年),当时武藏国久良岐郡的加藤景信来到美浓国惠那郡大川村制作陶器。

在文明年间(1469–1487年),足利义政的家臣志野宗信因喜爱宋代哥窑的釉法,在濑户制作陶器,这类作品被称为“志野烧”。其中,厚施长石釉的乳白色器物上有裂纹和红色渗出,并以铁釉随意描绘拙劣图案,被称为“古志野”,后世珍贵。但实际上这些早已存在,只是后人冠名以增值。

同时期,山名宗全的家臣山名弹正正信向加藤春庆学习陶艺,他的作品被称为“正信春庆”。

永正年间(1504–1521年),朝鲜陶工阿米耶来到京都并归化,改名宗庆。他用手指制作器物,但不多产。他的儿子长次郎赴朝鲜学艺,技艺精进,促成了“乐烧”的兴盛。

堺茶人武野绍鸥(1555年卒)创立了“绍鸥信乐”。

大永年间(1521–1528年),远江国横冈村创立了“志户吕烧”。

1550年,松浦隆信应葡萄牙人请求,在平户开港,标志着日本贸易新时代,也引入了异国陶器。

同一时期,尾张国赤津三郎左工门制作“追覆手”茶入,后称“思川”。

和泉国八田村创立“牛田烧”,后称“八田烧”。其茶器被秀吉称为“天下第一”。

1558年,英国人拉尔夫·弗里奇记载葡萄牙人自澳门来日,带来丝绸、黄金、麝香与陶器,仅以白银交换。

这些陶器多产自中国南部、安南、吕宋、交趾等地。澳门虽不产陶器,但为转运地。日本人见到这些异国陶器,称为“南蛮物”,朝鲜烧为“高丽物”,中国烧为“南京物”。


【中国語訳(英語から繁體字)】
美濃燒被認為起源於1475年(文明七年),當時武藏國久良岐郡的加藤景信來到美濃國惠那郡大川村製作陶器。

在文明年間(1469–1487年),足利義政的家臣志野宗信因喜愛宋代哥窯的釉法,在瀨戶製作陶器,這類作品被稱為「志野燒」。其中,厚施長石釉的乳白色器物上有裂紋和紅色滲出,並以鐵釉隨意描繪拙劣圖案,被稱為「古志野」,後世珍貴。但實際上這些早已存在,只是後人冠名以增值。

同時期,山名宗全的家臣山名彈正正信向加藤春慶學習陶藝,他的作品被稱為「正信春慶」。

永正年間(1504–1521年),朝鮮陶工阿米耶來到京都並歸化,改名宗慶。他用手指製作器物,但不多產。他的兒子長次郎赴朝鮮學藝,技藝精進,促成了「樂燒」的興盛。

堺茶人武野紹鷗(1555年卒)創立了「紹鷗信樂」。

大永年間(1521–1528年),遠江國橫岡村創立了「志戶呂燒」。

1550年,松浦隆信應葡萄牙人請求,在平戶開港,標誌著日本貿易新時代,也引入了異國陶器。

同一時期,尾張國赤津三郎左工門製作「追覆手」茶入,後稱「思川」。

和泉國八田村創立「牛田燒」,後稱「八田燒」。其茶器被秀吉稱為「天下第一」。

1558年,英國人拉爾夫·弗里奇記載葡萄牙人自澳門來日,帶來絲綢、黃金、麝香與陶器,僅以白銀交換。

這些陶器多產自中國南部、安南、呂宋、交趾等地。澳門雖不產陶器,但為轉運地。日本人見到這些異國陶器,稱為「南蠻物」,朝鮮燒為「高麗物」,中國燒為「南京物」。