【原文】
永樂焼
同天正年間(1573-1593年)に於いて大和國奈良春日神社の器を作る陶工西村宗印(永祿元年(1688年)三月二十一日卒す)の男宗禪寧樂焼を創製した。彼は後年和泉の堺に轉せしが、孫善五郎宗全に至つて又京都に移窯したのである。(文化年間(1804-1818年)善五郎了全の男善五郎保全、代々土風爐を製する傍始めて磁器を製し、又赤繪を塗り上に金粉を以て古代の彩紋を描きしものがある。紀州徳川齊順甚だ之を愛し河濱支流の金印と永樂の銀印とを賞興した。之より代々永樂を姓となし、其子善五郎和全に至り加賀の九谷窯に聘せられて彩畫の技を教へしが、後年又三河國岡崎に移住した)
大佛瓦
後陽成天皇の天正十四年(1586年)五月二十五日より、秀吉は京都方廣寺の大佛殿を造営するにあたり、山中山城守長俊を奉行として之に葺く可き屋根瓦を焼かしめしもの即ち大佛瓦の始めである。
勝負窯
同天正十五年(1587年)頃加藤次郎左工門景乗(景春の末子勘六郎景の男)は、美濃國久尻に於いて勝負窯を開設した。
樂の金字銘
同天正十五年(1587年)九月十三日、秀吉が聚樂邸完成し、此邱内に於て田中長祐の舎弟吉左工門常慶に命し、利休好みの茶器を焼かしめしが其聚樂に因みて樂の金字を銘せしめた。之より樂焼と稱し、諸侯の邸内に於いて斯法の施行を來たすに至った。
樂焼をするところの原土は、白亜の上に黄土を塗りそれが赤である。又加茂川の礫石を探り碾磨して釉料に混和し焼きしもの其色黒くし滋潤てあり之を黒樂と稱せられた。常慶二代を継ぎ其子吉兵衛道入ノンコウと稱して又名工であつた。
光悦樂焼
此外光悦樂焼なる物がある。本阿彌光悦(始片岡次郎三郎と稱す、寛永十四年(1637年)二月三日本行年八十一才)は元來刀剣類の鑑定家なるも茶を古田重勝に習ひ、長祐の式に則り洛外鷹ヶ峰に於いて崇高なる赤樂の名器を製作した。其他瀬戶光悦、膳所光悦、加賀光悦等の稱あるは、皆其所在の坏土に依って製せられし名稱である。(孫の空中齋光甫が信楽の坏土を以て製せし物を空中信楽と稱せらる)
北野大茶會
同天正十六年(1588年)十月一日、秀吉は北野(京都市上京區の西北の地)に於て大茶會を開催すべく八月二日より大津、奈良、伏見、大阪、堺等の諸所へ高札を建て數寄の茶人を招くや、當日に到りて遠近の貴賤道俗群集して會場立錐の餘地なき中に夥しき名什珍器が飾られたのである。
蓋し之を以て、秀吉が單なる道楽とのみ観るは早計であらう。彼は天下を鎮定して二つの平和政策を實行した。其一は永き戰亂の爲に荒廢せる佛寺の復舊と、其二は茶道の奨励であつた。それは茶の湯が和敬清寂を基準とせし平靜行爲なると共に、双デモクラチックである、此二つの施政は何れも製陶の發展を助成せしめし動機であつた。
茶道の熱心
當時秀吉を始め、同好の諸が茶道に熱心なことは驚くほどであつた。或時彼は部下の某士を恩賞するに、汝へ數郡を興ふ可きか、はた名茶器を興ふ可きかを訊ねたるに、某は言下に土地よりも名茶器をきたしと答へしていふ挿話がある。
高原五郎七
此頃又聚楽邸の御用陶師として、高原五郎七が召抱へられた。彼の父は難波の人高原道庵(與兵衛)と云ひ、五郎七或は織部と稱せし説あるも其素姓に就いては詳でない、而して彼の陶技に於ける手腕は非凡の持主であり、そして後年此五郎七が肥前の各山に出没する重要な人物である。
赤膚焼
同天正年間(1573-1593年)秀吉の弟大納言秀長(天正十九年正月二十二日卒)は、常滑の陶工輿九郎を召し、領地大和國五條村(添上郡にて今の生駒郡都跡村)に於いて小氷裂を生する赤膚焼を創始せしめた。(正保年間(1645-1648年)野々村仁清に依って再興され。享保年間(1716-1736年)領主柳澤堯山「郡山城主甲斐守吉里」の獎勵にて盛業となり。天保年間(1831-1845年)には木白粕屋武兵衛なる名工があつた。そして多く灰白色釉に黒斑の施釉がある)
名物信樂
千利休また好みの信樂焼を製作した之が世にいる利休信楽である。(寛永年間(1624-1645年)其孫宗旦「宗淳の子今日庵咄斎」の用ふるものを宗旦信楽稱せられた。小堀宗甫又信楽の陶工をして更に坏土を撰み、努めて渣滓を過せしに困り其造る所の物稍薄くして潤である。之を遠州信楽と稱した。其他仁清信樂、新兵衛信樂等製作者に困って稱呼を異にせられてゐる。
越中瀬戸
同朝の文祿二年(1594年)四月、越中國上瀬戸村(新川郡)に於て、尾張瀬戸の陶工彥右工門なる者、領主前田利長に聘せられて、茶器を製作した之が越中瀬戸の創始である。
【現代語訳】
永樂焼
天正年間(1573-1593年)、大和国奈良の春日神社の器を作っていた陶工・西村宗印(元亀元年生、天正十六年〔1588年〕三月二十一日没)の子・宗禅が寧楽焼を創始した。その後、宗禅は和泉の堺へ移ったが、孫の善五郎宗全の代に再び京都へ窯を移した。文化年間(1804-1818年)、善五郎了全の子・善五郎保全は代々土風炉を作るかたわら、初めて磁器を製作し、さらに赤絵に金粉で古代風の文様を描いた作品も残した。紀州徳川家の徳川斉順はこれを非常に愛好し、河濱支流の金印と永樂の銀印を賞玩した。以後、代々「永樂」を姓とするようになり、その子・善五郎和全は加賀の九谷窯に招かれて彩画の技術を教えたが、後年には三河国岡崎に移住した。
大仏瓦
後陽成天皇の天正十四年(1586年)五月二十五日から、豊臣秀吉は京都方広寺の大仏殿を造営し、その屋根瓦を焼かせた。奉行は山中山城守長俊であり、これが「大仏瓦」の始まりである。
勝負窯
天正十五年(1587年)頃、加藤次郎左工門景乗(景春の末子・勘六郎景の子)は、美濃国久尻に「勝負窯」を開いた。
樂の金字銘
天正十五年(1587年)九月十三日、秀吉が聚楽邸を完成させた際、その邸内で田中長祐の弟・吉左工門常慶に命じ、千利休好みの茶器を焼かせた。その場所名「聚楽」に因み、焼物に「樂」の金字銘を刻ませたのが始まりである。これより「樂焼」と称され、大名屋敷の中でもこの手法が広まった。
樂焼に用いる土は、白亜の上に黄土を塗った赤土であり、さらに加茂川の礫を砕き、釉薬に混ぜて焼いたものは黒く潤いを帯び、「黒樂」と呼ばれた。常慶の子・吉兵衛道入(号:ノンコウ)も名工として知られた。
光悦樂焼
また「光悦樂焼」というものもある。本阿弥光悦(はじめ片岡次郎三郎と称す、寛永十四年〔1637年〕二月三日没、八十一歳)は、もとは刀剣鑑定家であったが、古田重勝に茶を学び、長祐の方式を取り入れ、洛外鷹ヶ峰で気品高い赤樂の名品を作った。その他、瀬戸光悦・膳所光悦・加賀光悦などの呼称は、いずれもその地の陶土を用いたための名称である。孫の空中斎光甫が信楽の土で作ったものは「空中信楽」と呼ばれた。
北野大茶会
天正十六年(1588年)十月一日、秀吉は京都北野(上京区の西北)で大茶会を開催した。八月二日から大津・奈良・伏見・大阪・堺などに高札を立て、茶人たちを招いた。当日には遠近から身分を問わず人々が集まり、会場は立錐の余地もなく、数多くの名品・珍品が飾られた。
これを単なる道楽と見るのは早計である。秀吉は天下を治め、二つの平和政策を推進した。第一は戦乱で荒廃した寺院の復興、第二は茶道の奨励であった。茶の湯は「和敬清寂」を基本とする静かな行為であり、同時に民主的要素もあった。この二つの政策はいずれも製陶の発展を促す契機となった。
茶道の熱心
当時、秀吉をはじめ、多くの人々が茶道に熱心であった。あるとき、秀吉が家臣に恩賞を与える際、「数郡の領地と名茶器のどちらが欲しいか」と問うたところ、家臣は即座に「土地よりも茶器」と答えたという逸話が伝わる。
高原五郎七
この頃、聚楽邸の御用陶工として高原五郎七が召し抱えられた。彼の父は難波の人・高原道庵(与兵衛)といい、五郎七は織部と称されたとも伝わるが、その素性は詳らかでない。ただし陶技において非凡な才能をもち、後年肥前各地に姿を現す重要人物となる。
赤膚焼
天正年間、秀吉の弟・大納言秀長(天正十九年〔1591年〕正月二十二日没)は、常滑の陶工・輿九郎を招き、大和国五条村(現・奈良県生駒郡都跡村)で「赤膚焼」を創始させた。特徴は小さな氷裂文様を生じることである。正保年間(1645-1648年)には野々村仁清により再興され、享保年間(1716-1736年)には郡山城主・柳沢堯山の奨励で盛んになった。天保年間(1831-1845年)には名工・木白粕屋武兵衛が活躍し、多くの灰白色釉に黒斑のある作品を残した。
名物信楽
千利休も信楽焼を愛用し、これを「利休信楽」と呼ぶ。寛永年間(1624-1645年)、その孫・宗旦(宗淳の子、号:今日庵咄斎)が用いたものは「宗旦信楽」と呼ばれた。小堀宗甫も陶工に信楽の土を選ばせ、渣滓を取り除かせたため、やや薄造りで潤いのある器となり「遠州信楽」と称された。ほかに「仁清信楽」「新兵衛信楽」など、作者に応じた呼称が用いられた。
越中瀬戸
文禄二年(1594年)四月、越中国新川郡上瀬戸村において、尾張瀬戸の陶工・彦右工門が領主・前田利長に招かれ、茶器を製作した。これが「越中瀬戸」の始まりである。
【英語訳】
Eiraku Ware
During the Tenshō era (1573-1593), Nishimura Sōin, a potter who crafted vessels for Kasuga Shrine in Nara, Yamato Province, had a son named Sōzen who founded Neraku ware. Later, Sōzen moved to Sakai in Izumi, and his grandson, Zengorō Sōzen, moved the kiln again to Kyoto. During the Bunka era (1804-1818), Zengorō Ryōzen’s son, Zengorō Hozen, produced not only the family’s traditional clay braziers but also porcelain for the first time. He also painted red enamel with gold powder to create ancient-style designs. Tokugawa Yoshinobu of Kii Province greatly admired these works, treasuring them alongside gold and silver seals. Thereafter, the family adopted “Eiraku” as its surname. Hozen’s son, Zengorō Wazen, was later invited to the Kutani kilns of Kaga to teach decorative painting, before relocating to Okazaki in Mikawa.
Daibutsu Roof Tiles
On May 25, 1586 (Tenshō 14), Emperor Go-Yōzei ordered Toyotomi Hideyoshi to build the Daibutsuden at Hōkō-ji in Kyoto. Under the supervision of Yamanaka Yamashiro-no-kami Nagatoshi, roof tiles were fired for this hall, marking the beginning of the so-called “Daibutsu tiles.”
Shōbu Kiln
Around 1587 (Tenshō 15), Katō Jirōzaemon Kagenori (son of Kanroku Kage, youngest son of Kageharu) established the Shōbu kiln at Kujiri in Mino Province.
The “Raku” Inscription
On September 13, 1587, when Hideyoshi completed his Jurakudai palace, he ordered Yoshizaemon Jōkei, younger brother of Tanaka Nagayasu, to make tea utensils favored by Sen no Rikyū. From the name “Juraku,” the ware was inscribed with the character “Raku” in gold, thus establishing “Raku ware.” It soon spread to the residences of daimyō.
The clay for Raku ware was red soil, prepared by applying yellow earth over chalk. Pebbles from the Kamo River were ground and
mixed into the glaze, producing a black, lustrous finish known as “Kuro-Raku.” Jōkei’s son, Kichibē Dōnyū (Nonkō), inherited the craft and also became a renowned master.
Kōetsu Raku Ware
Another style was “Kōetsu Raku ware,” made by Hon’ami Kōetsu (originally named Kataoka Jirōzaburō, 1558-1637). Though originally a sword appraiser, he studied tea with Furuta Shigekatsu and, following Nagayasu’s methods, produced refined red Raku pieces at Takagamine, north of Kyoto. Names such as Seto Kōetsu, Zeze Kōetsu, and Kaga Kōetsu refer to works created using the local clay of those regions. His grandson, Kūchūsai Kōho, made pieces with Shigaraki clay, called “Kūchū Shigaraki.”
The Great Kitano Tea Gathering
On October 1, 1588 (Tenshō 16), Hideyoshi held the Great Tea Gathering at Kitano in northwest Kyoto. Notices were posted from August 2 in places such as Ōtsu, Nara, Fushimi, Osaka, and Sakai to summon tea connoisseurs. On the day, people of all classes gathered in such numbers that the venue was packed, and countless rare and valuable utensils were displayed.
This should not be dismissed as mere extravagance. Having pacified the realm, Hideyoshi promoted two peace policies: the restoration of temples ruined by war, and the encouragement of the tea ceremony. Tea practice, based on the ideals of harmony, respect, purity, and tranquility, was also inherently democratic. These two policies provided strong incentives for the development of pottery.
Enthusiasm for the Tea Ceremony
At the time, enthusiasm for tea among Hideyoshi and his peers was remarkable. In one anecdote, Hideyoshi offered a reward to a retainer, asking whether he preferred several districts of land or a famous tea utensil. The retainer immediately chose the tea utensil over land.
Takahara Goroshichi
Around this time, Takahara Goroshichi was appointed as an official potter at the Jurakudai. His father was Takahara Dōan (Yohei) of Namba. Some say Goroshichi was also known as Oribe, but his lineage is unclear. What is certain is that his talent was exceptional, and later he became an important figure active across the pottery villages of Hizen.
Akahada Ware
During the Tenshō era, Hideyoshi’s younger brother, Dainagon Hidenaga (d. 1591), invited Tokoname potter Yoshirokurō to his domain at Gojo Village in Yamato Province (now Tono-machi, Ikoma District, Nara). There he initiated Akahada ware, distinguished by small crackle glaze patterns. It was later revived by Nonomura Ninsei during the Shōhō era (1645-1648), and flourished under the patronage of Yanagisawa Gyōzan, lord of Koriyama Castle, in the Kyōhō era (1716-1736). In the Tenpō era (1831-1845), master craftsman Kibaku Kasuya Buhei became prominent, producing many pieces with grayish-white glazes accented by black spots.
Notable Shigaraki Ware
Sen no Rikyū also commissioned Shigaraki ware, known as “Rikyū Shigaraki.” In the Kan’ei era (1624-1645), his grandson Sōtan (son of Sōjun, known as Konnichian Totsusai) used wares later called “Sōtan Shigaraki.” Kobori Enshū had potters refine the clay of Shigaraki, removing impurities, which resulted in thinner and glossier wares known as “Enshū Shigaraki.” Other styles include “Ninsei Shigaraki” and “Shinbē Shigaraki,” each named after its maker.
Etchū Seto
In April 1594 (Bunroku 2), in Kamiseto Village, Etchū Province (Niikawa District), Hikoemon, a potter from Owari Seto, was invited by the local lord Maeda Toshinaga to produce tea utensils. This was the beginning of “Etchū Seto.”
【中国語訳(現代語訳から簡体字)】
永乐烧
天正年间(1573-1593年),大和国奈良春日神社制器的陶工西村宗印(元龟元年生,天正十六年〔1588年〕三月二十一日卒)的儿子宗禅创制宁乐烧。后来宗禅迁至和泉堺,其孙善五郎宗全又将窑迁回京都。文化年间(1804-1818年),善五郎了全之子善五郎保全除制作家传土风炉外,首次烧制瓷器,并以金粉在赤绘上描绘古风彩纹。纪州德川齐顺甚为喜爱,珍赏之与河滨金印、永乐银印并列。此后家族遂以“永乐”为姓。其子善五郎和全被聘往加贺九谷窑教授彩绘,后迁居三河国冈崎。
大佛瓦
天正十四年(1586年)五月二十五日起,后阳成天皇命丰臣秀吉营造京都方广寺大佛殿,由山中山城守长俊主持,特烧屋顶瓦,即“大佛瓦”之始。
胜负窑
天正十五年(1587年),加藤次郎左卫门景乘(景春幼子勘六郎景之子)于美浓国久尻开设“胜负窑”。
“乐”之金字铭
天正十五年(1587年)九月十三日,秀吉完成聚乐邸,命田中长祐之弟吉左卫门常庆烧制利休所好茶器。因地名“聚乐”,赐以“乐”字金铭,始称“乐烧”,并传播至诸侯邸内。
乐烧土为白垩覆以黄土之赤土,取加茂川砾磨入釉,烧成色黑而润,称“黑乐”。常庆子吉兵卫道入(号:ノンコウ)继承其艺,亦为名匠。
光悦乐烧
另有“光悦乐烧”。本阿弥光悦(初名片冈次郎三郎,寛永十四年〔1637年〕卒,享年八十一),本为刀剑鉴定家,学茶于古田重胜,依长祐之法,于洛外鹰峰制雅致赤乐名器。其名如“濑户光悦”“膳所光悦”“加贺光悦”,皆因所用土不同而称。孙空中斋光甫以信乐土制器,称“空中信乐”。
北野大茶会
天正十六年(1588年)十月一日,秀吉于京都北野(上京区西北)举办大茶会。自八月二日起于大津、奈良、伏见、大阪、堺立告示,邀茶人参集。至会日,四方贵贱云集,场所挤满,陈列珍器无数。
此举非仅为逸乐。秀吉平定天下后,推行两项和平政策:一为重建战乱荒废佛寺,二为提倡茶道。茶汤以“和敬清寂”为准,亦具民主精神。此二策均促进陶业发展。
茶道热心
当时秀吉及诸爱茶者极为热心。相传有一次赏赐部下,问“欲数郡之地,抑或名茶器?”部下即答“宁取茶器,不要土地”。
高原五郎七
其时聚乐邸御用陶师高原五郎七被召用。其父为难波人高原道庵(与兵卫)。五郎七或称“织部”,然出身不详。其陶艺才华出众,后历游肥前各窑,成重要人物。
赤肤烧
天正年间,秀吉之弟大纳言秀长(1591年卒)召常滑陶工舆九郎,于大和国五条村创制赤肤烧,特征为小冰裂纹。正保年间由野々村仁清复兴,享保年间因郡山城主柳泽堯山扶持而盛。天保年间名工木白粕屋武兵卫活跃,多制灰白釉带黑斑之器。
名物信乐
千利休亦喜制信乐烧,称“利休信乐”。寛永年间,孙宗旦(宗淳子,号今日庵咄斋)所用称“宗旦信乐”。小堀宗甫命陶工择土,尽去杂质,所制稍薄润泽,称“远州信乐”。另有“仁清信乐”“新兵卫信乐”等因作者而异。
越中濑户
文禄二年(1594年)四月,越中国新川郡上濑户村,尾张瀬戸陶工彦右卫门受领主前田利长聘制茶器,始称“越中濑户”。
【中国語訳(現代語訳から繁體字)】
永樂燒
天正年間(1573-1593年),大和國奈良春日神社製器的陶工西村宗印(元龜元年生,天正十六年〔1588年〕三月二十一日卒)的子宗禪創製寧樂燒。後宗禪遷至和泉堺,其孫善五郎宗全又將窯遷回京都。文化年間(1804-1818年),善五郎了全之子善五郎保全除製作家傳土風爐外,首次燒製瓷器,並以金粉於赤繪上描繪古風彩紋。紀州德川齊順甚為喜愛,珍賞之與河濱金印、永樂銀印並列。此後家族遂以「永樂」為姓。其子善五郎和全被聘往加賀九谷窯教授彩繪,後遷居三河國岡崎。
大佛瓦
天正十四年(1586年)五月二十五日起,後陽成天皇命豐臣秀吉營造京都方廣寺大佛殿,由山中山城守長俊主持,特燒屋頂瓦,即「大佛瓦」之始。
勝負窯
天正十五年(1587年),加藤次郎左衛門景乘(景春幼子勘六郎景之子)於美濃國久尻開設「勝負窯」。
「樂」之金字銘
天正十五年(1587年)九月十三日,秀吉完成聚樂邸,命田中長祐之弟吉左衛門常慶燒製利休所好茶器。因地名「聚樂」,賜以「樂」字金銘,始稱「樂燒」,並傳播至諸侯邸內。
樂燒土為白垩覆以黃土之赤土,取加茂川礫磨入釉,燒成色黑而潤,稱「黑樂」。常慶子吉兵衛道入(號:ノンコウ)繼承其藝,亦為名匠。
光悅樂燒
另有「光悅樂燒」。本阿彌光悅(初名片岡次郎三郎,寛永十四年〔1637年〕卒,享年八十一),本為刀劍鑑定家,學茶於古田重勝,依長祐之法,於洛外鷹峰製雅致赤樂名器。其名如「瀨戶光悅」「膳所光悅」「加賀光悅」,皆因所用土不同而稱。孫空中齋光甫以信樂土製器,稱「空中信樂」。
北野大茶會
天正十六年(1588年)十月一日,秀吉於京都北野(上京區西北)舉辦大茶會。自八月二日起於大津、奈良、伏見、大阪、堺立告示,邀茶人參集。至會日,四方貴賤雲集,場所擠滿,陳列珍器無數。
此舉非僅為逸樂。秀吉平定天下後,推行兩項和平政策:一為重建戰亂荒廢佛寺,二為提倡茶道。茶湯以「和敬清寂」為準,亦具民主精神。此二策均促進陶業發展。
茶道熱心
當時秀吉及諸愛茶者極為熱心。相傳有一次賞賜部下,問「欲數郡之地,抑或名茶器?」部下即答「寧取茶器,不要土地」。
高原五郎七
其時聚樂邸御用陶師高原五郎七被召用。其父為難波人高原道庵(與兵衛)。五郎七或稱「織部」,然出身不詳。其陶藝才華出眾,後歷遊肥前各窯,成重要人物。
赤膚燒
天正年間,秀吉之弟大納言秀長(1591年卒)召常滑陶工輿九郎,於大和國五條村創製赤膚燒,特徵為小冰裂紋。正保年間由野々村仁清復興,享保年間因郡山城主柳澤堯山扶持而盛。天保年間名工木白粕屋武兵衛活躍,多製灰白釉帶黑斑之器。
名物信樂
千利休亦喜製信樂燒,稱「利休信樂」。寛永年間,孫宗旦(宗淳子,號今日庵咄齋)所用稱「宗旦信樂」。小堀宗甫命陶工擇土,盡去雜質,所製稍薄潤澤,稱「遠州信樂」。另有「仁清信樂」「新兵衛信樂」等因作者而異。
越中瀨戶
文祿二年(1594年)四月,越中國新川郡上瀨戶村,尾張瀨戶陶工彥右衛門受領主前田利長聘製茶器,始稱「越中瀨戶」。
【中国語訳(英語から簡体字)】
永乐烧
天正年间(1573-1593年),奈良春日神社陶工西村宗印之子宗禅创制宁乐烧。后迁堺,其孙宗全再迁京都。文化年间,了全之子保全始制瓷器,并施赤绘加金粉纹。德川齐顺酷爱,永乐家遂以姓传。其子和全受聘九谷,后移居冈崎。
大佛瓦
1586年秀吉建京都方广寺大佛殿,长俊督造瓦,始称大佛瓦。
胜负窑
1587年,加藤景乘于美浓久尻开胜负窑。
“乐”之金字铭
1587年聚乐邸成,常庆奉命制茶器,以“聚乐”赐“乐”字金铭,始称乐烧。用赤土与加茂川砾入釉,成黑润色,称黑乐。其子道入亦名工。
光悦乐烧
本阿弥光悦学茶于古田重胜,于鹰峰制赤乐名品,称光悦乐烧。濑户光悦、膳所光悦等因土异名。孙光甫以信乐土制器,称空中信乐。
北野大茶会
1588年,秀吉北野设大茶会,远近聚集,珍器琳琅。其旨在修复佛寺与倡茶道,推动陶业发展。
茶道热心
秀吉曾问部下“要土地或茶器?”答曰“宁茶器”。
高原五郎七
聚乐邸御用陶师,才华卓绝,后游肥前诸窑。
赤肤烧
秀长招舆九郎创赤肤烧。仁清再兴,柳泽扶持,后有武兵卫盛名。
信乐名物
利休所好信乐烧称利休信乐。宗旦、远州信乐等因人称异。
越中濑户
1594年彦右卫门受前田利长聘制茶器,始称越中濑户。
【中国語訳(英語から繁體字)】
永樂燒
天正年間(1573-1593年),奈良春日神社陶工西村宗印之子宗禪創製寧樂燒。後遷堺,其孫宗全再遷京都。
文化年間,了全之子保全始製瓷器,並施赤繪加金粉紋。德川齊順酷愛,永樂家遂以姓傳。其子和全受聘九谷,後移居岡崎。
大佛瓦
1586年秀吉建京都方廣寺大佛殿,長俊督造瓦,始稱大佛瓦。
勝負窯
1587年,加藤景乘於美濃久尻開勝負窯。
「樂」之金字銘
1587年聚樂邸成,常慶奉命製茶器,以「聚樂」賜「樂」字金銘,始稱樂燒。用赤土與加茂川礫入釉,成黑潤色,稱黑樂。其子道入亦名工。
光悅樂燒
本阿彌光悅學茶於古田重勝,於鷹峰製赤樂名品,稱光悅樂燒。瀨戶光悅、膳所光悅等因土異名。孫光甫以信樂土製器,稱空中信樂。
北野大茶會
1588年,秀吉北野設大茶會,遠近聚集,珍器琳瑯。其旨在修復佛寺與倡茶道,推動陶業發展。
茶道熱心
秀吉曾問部下「要土地或茶器?」答曰「寧茶器」。
高原五郎七
聚樂邸御用陶師,才華卓絕,後遊肥前諸窯。
赤膚燒
秀長招輿九郎創赤膚燒。仁清再興,柳澤扶持,後有武兵衛盛名。
信樂名物
利休所好信樂燒稱利休信樂。宗旦、遠州信樂等因人稱異。
越中瀨戶
1594年彥右衛門受前田利長聘製茶器,始稱越中瀨戶。

