楽解説(5) 了入(りょうにゅう)・旦入(たんにゅう)

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楽解説(5) 了入(りょうにゅう)・旦入(たんにゅう)

了入(りょうにゅう)は得入(とくにゅう)の弟として宝暦六年(1756)に生まれ、幼名は惣次郎(そうじろう)、諱(いみな)は喜全(きぜん)でした。明和七年(1770)に父・長入(ちょうにゅう)が没し、兄・得入も隠居して家を譲ったため、十五歳で楽吉左衛門(らく きちざえもん)を襲名します。安永三年(1774)十九歳のとき、兄・得入が二十九歳で没し、若年で家督と制作の重責を担うことになりました。

天明八年(1788)の京都大火「団栗焼け(どんぐりやけ)」では楽家も類焼し、長次郎(ちょうじろう)以来の保存土まで焼失したと伝わります。翌・寛政元年(1789)には長次郎二百年忌を営み、不審庵(ふしんあん)の啄斎(たくさい)〔注:千家宗匠の号〕の指示で赤楽茶碗二百を制作、さらに宗入(そうにゅう)以来の「二百」〔注:記念制作の一括群〕にならって赤黒の二百碗も作り、啄斎が箱書(はこがき)を付しました。災後の再建期に、家伝の儀礼制作を通じて格式の回復を図ったといえます。

寛政三年(1791)、了入は啄斎と協議し『聚楽焼的伝(じゅらくやき てきでん)』〔注:楽家代々の系譜記録〕を口述し、啄斎が筆記しました。のち世に広まった楽家系譜の基礎資料となりましたが、後年『宗入文書(そうにゅう もんじょ)』〔注:宗入自筆の覚書〕が公開されると、記述の真実性に乏しい点が多く、史料としては再検討を要するものと位置づけられています。家伝と実証史料の齟齬が、今日の作行き・箱書判定の難度を物語ります。

享和四年(1804)長男・惣吉が十八歳で夭折し、文化八年(1811)五十六歳で剃髪して次男・惣治郎(後の旦入)に家督を譲り、了々斎(りょうりょうさい)から一字を受け「了入」と号しました。文政元年(1818)六十三歳には、了々斎の手造り茶碗にちなむ赤黒各五十を焼し、さらに十数碗を千家に贈ったと伝え、額「土軒(どけん)」の揮毫も受けています。文政二年(1819)には不審庵・了々斎とともに次男(旦入)を伴って紀州徳川家十代・治宝(はるとみ)侯に伺候し、香合・水指・建水などを焼成、その後もたびたび紀州に赴いて御庭焼(おにわやき)〔注:大名庭内築窯での焼成〕に従事しました。

文政年間の秋、七十歳で近江(滋賀県)石山に隠棲し、古稀を記念して赤黒七十碗を制作します。了入は天保五年(1834)九月十七日、七十九歳で没(法名:歓喜院了入日法居士)。雅号に秀人(しゅうじん)・雪長(せっちょう)などが伝わります。長期にわたる作陶は推移が大きく、初期は父・長入や兄・得入に近いが、次第に道入(どうにゅう)風を積極的に倣い、篦(へら)使いなど作為を強調した巧緻(こうち)な作が増えます。晩年には宗匠の手捏ねに通じる稚拙味〔注:意図的な素朴さ〕を前面化し、技巧から気息へと重心を移しました。

制作史料と印(いん)の使い分けは了入で画期を迎えます。寛政元年の「啄二百(つくにひゃく)」は三十四歳頃の前期作で、作振りはおとなしく、無印も多い。印は「火前印(かぜんいん)」〔注:大火以前に用いた作印=三十三歳まで〕、「中印」〔注:大火後〜隠居まで〕、隠居後の草書体「草楽印(そうらくいん)」大小二種を使い分けます。さらに長次郎二百年忌作のみの大振り草書体印(俗称・寛政判/茶の子判)、文政以降は陽刻「土老人(どろうじん)」印を草楽印に併用、ほか「梅園(ばいえん)」「蕭(しょう)」の印も捺しました。干支(えと)小印を高台や箱桟(はこさん)側面に“隠し印”風に施す配慮も行い、偽作対策として機能します。

実際、了入の作は歴代でもっとも偽作が多いとされ、師事者・神楽文山(かぐら ぶんざん)および二代文山の手がとくに巧妙でした。のちの千家宗匠が書付(かきつけ)を施した作例もあり、土味以外では判別困難です。円山応挙(まるやま おうきょ)や松村景文(まつむら けいぶん)の絵を配したと伝える茶碗も残りますが、家内に確証資料を欠くため、真偽の吟味を要します。十八世紀後半〜十九世紀前半は全国で窯業が拡大し、楽茶碗も専門・愛好家双方に広がった結果、模作・偽作が急増したという時代背景も見逃せません。

旦入(たんにゅう)は了入の次男で、寛政七年(1795)生。幼名は市三郎のち惣治郎、諱は喜愷(きがい)。文化八年(1811)に十七歳で吉左衛門を襲名しました。了入期に深まった紀州徳川家との縁は、旦入でいっそう密となり、文政二年(1819)に初めて紀州へ随行して御庭焼に奉仕。以後、文政九年・十年・十三年、天保三年(1832)と四度にわたり従事し、文政九年には治宝侯の揮毫「楽」字を拝領、「拝領御文字 吉左衛門 丙戌年晩冬初造」と箱書する作が見られます。天保三年には御付人・安藤惣右衛門や御小姓頭・山田外記へ釉法(ゆうほう)を伝授しました。

さらに天保五年(1834)四十歳のとき、紀州徳川十一代・斉順(なりゆき)侯が湊御殿に清寧軒窯(せいねいけんがま)を築くに際して奉仕し、楽焼のほか志野・織部・唐津・萩・南蛮〔注:各地の茶陶様式の倣作〕も手がけ、「清寧」の二字印を捺しています。天保十三年には長男・惣吉(のちの[※原文欠字]入)と紀州に赴き、翌十四年にも再訪して藩士・藤田万右衛門、萩野専右衛門らに釉法を伝授。弘化元年(1844)の最後の紀州行では清寧軒窯で黒茶碗百五十を制作しました。

天保九年十月には初代長次郎二百五十年忌の法要を営み、不審庵・吸江斎(きゅうこうさい)の行書「楽」字印を捺した黒茶碗二百五十を制作。弘化二年(1845)十二月二日に剃髪隠居し、吸江斎から宗旦の「旦」の一字を受けて旦入と号しました。嘉永七年(1854)十一月二十四日没、六十四歳(法名:実相院旦入日得居士)。雅号は秀人。藩邸御庭焼の体系化と、他様式の倣作・伝授まで視野を広げた点に、この期の「職人—御用—宗匠」ネットワークの成熟が見て取れます。


要約(300〜500字)
了入は十五歳で家督を継ぎ、天明の大火後に長次郎二百年忌「啄二百」を含む記念制作で家格を再建、印章体系(火前印・中印・草楽印・寛政判・土老人印・干支小印ほか)を整えて真贋対策を講じた。長い作陶のなかで、長入・得入に近い初期から道入風の巧緻、晩年の稚拙味へと振幅し、同時代の窯業拡大に伴う模作・偽作の氾濫という時代相を背負う。系譜記録『聚楽焼的伝』は編纂されたが、『宗入文書』の公開により史料的再検討が必須とされた。旦入は紀州徳川家の御庭焼に繰り返し奉仕し、領内に釉法を伝授、「清寧」印や吸江斎の行書印を用いた記念作を残すなど、大名・宗匠・御茶碗師の連関を制度化。楽家は記念制作と御用仕事を通じ、十八〜十九世紀の広域的茶陶ネットワークを担った。

【関連用語】

  • 団栗焼け:天明八年(1788)の京都大火。楽家も類焼。
  • 啄斎(たくさい):不審庵の千家宗匠の号。『聚楽焼的伝』筆記や「啄二百」に関与。
  • 『聚楽焼的伝』:1791年、了入が口述した家伝記録。後に史料的再検討対象となる。
  • 『宗入文書』:宗入の系譜覚書。近代に公開され、作者比定の基礎資料となる。
  • 二百:記念制作の茶碗群。宗入・左入・了入・旦入らが制作。
  • 火前印/中印/草楽印:了入が時期別に使い分けた作印。真贋判別の鍵。
  • 寛政判(茶の子判):長次郎二百年忌作のみに用いた大振り草書体「楽」印。
  • 土老人印・梅園・蕭:了入期に併用された印章。
  • 御庭焼:大名邸内の築窯での焼成。旦入は紀州で従事。
  • 清寧軒窯・清寧印:紀州・湊御殿の御庭焼窯と、その二字印。
  • 志野・織部・唐津・萩・南蛮:各地の茶陶様式。旦入が倣作を制作。
  • 吸江斎(きゅうこうさい):不審庵の宗匠。旦入の号賜与や行書印の拝領に関与。
  • 神楽文山(二代文山):了入の門流。巧妙な模作で知られ、判別に注意が必要。
  • 円山応挙/松村景文:絵付伝承のある画家。真偽検討が必要とされる作例が伝わる。