楽解説(4) 宗入(そうにゅう)
宗入(そうにゅう)は養子とはいえ二歳で楽家に入ったため、茶碗作りの現場に幼少期から日常的に触れて育ち、成形・焼成・釉調整の一連を早くから体得しました。さらに養父である一入(いちにゅう)が示した長次郎(ちょうじろう)期の作風――すなわち利休形〔注:千利休好みの端正・簡素を旨とする基本形〕の尊重――を受け継ぎ、宗入自身もその理念を基礎に据えたうえで、自家の手際と感覚でまとめ上げていったと考えられます。
宗入の作品はやや厚手で量感があり、技を露わに誇示することを避け、むしろ内向的な重厚さに美を見いだす姿勢が際立ちます。黒茶碗では、いわゆる「宗入のかせ釉(ゆう)」〔注:半艶で乾いた趣を生むマット調の釉景〕が知られ、長次郎の一部作に見られるかせ釉の趣を思わせつつも、宗入の釉は性質が異なるため褐色化は起こらず、黒一色に焼き上がってややざらつく肌合いが生じます。覚入(かくにゅう)の言では、宗入のかせ釉は左入(さにゅう)のそれに比べ火度がやや低く、そのぶん粒子感が細かいのが特徴とされます。
形作りの面では、宗入と左入に共通して高台〔こうだい:碗底の環状の台座〕を低く取り、幅広で平らに仕立てる点が顕著で、口造りに五岳(ごがく)〔注:口縁を五つの起伏で見せる意匠〕を意識的に備えるのはまだ後代の話です。見込(みこみ)〔注:碗内の見える面〕には必ず茶溜り〔ちゃだまり:湯・茶を受ける浅い窪み〕を明瞭につけ、利休形の定法を踏まえた静かな印象をつくります。こうした総合の作行きが、宗入の“厚みのある端正”という評価に結びついています。
正徳三年(1713)五十歳の半白を祝し、宗入は黒茶碗を二百碗焼き、覚々斎(かくかくさい)原叟(げんそう)の書付と銘を得て配したと伝えられます。同年は干支で癸巳(みずのとみ)に当たり、これらは通称「宗入二百」もしくは「癸巳茶碗」と呼ばれ、宗入を代表する制作群として後世に特別の評価を受けました。制作意図・年紀・箱書の揃った一団は、宗入の標準様式を知る基準作としても重要です。
左入(さにゅう)は宗入ののちを継いだ養子で、京都・油小路二条東入ルの大和屋嘉兵衛の次男として貞享二年(1685)に生まれました。初名は惣吉(そうきち)で、宝永五年(1708)二月、二十四歳で宗入から代を譲られて吉左衛門(きちざえもん)を襲名し、享保十三年(1728)秋、四十四歳で剃髪して、覚々斎原叟宗左の「左」の一字を拝して左入と号したと伝えられます。諱は嘉顕(よしあきら)、元文四年(1739)九月二十五日、五十五歳で示寂し、法名は知覚院左入日信居士とされます。
左入は養子ながら手際の優れた技巧家で、道入(どうにゅう)のような強烈な作為は抑えつつも、一入・宗入とは異なる柔軟さを見せ、長次郎写し〔注:長次郎の器形・趣向を模す〕はもとより光悦(こうえつ)写しにも巧みでした。さらに「左入二百」と総称される制作群の中には、独特の作為を押し出した意欲作も含まれ、総じて技巧面の厚みが際立ちます。黒茶碗はよく溶けた艶肌のものと、宗入に近いかせ肌のものが併存し、かせの粒がやや荒い作があるのは、宗入より焼成温度が上がっているためと見られます。
赤茶碗では濃淡二系統がつくられ、淡彩の作には淡く発色する黄土を用い、その上に掛ける白釉は下地と同質の釉を選んで色調の調和を図りました。享保十五年(1730)四十六歳には原叟の手作り茶碗五十碗を焼いたと伝わり、享保十八年(1733)四十九歳には如心斎(じょしんさい)の銘による著名な「左入二百」を制作、箱蓋表には必ず「二百之内 左入 印」と書き付け、蓋裏に如心斎が銘と花押(かおう)を記しています。さらに元文三年(1738)には長次郎の百五十年忌を営み、赤茶碗百五十碗を焼いて配したと伝承されます。
長入(ちょうにゅう)は左入の長男で、正徳四年(1714)生、幼名は惣吉(宗吉とも記す)、諱は栄清(ひできよ)。享保十三年(1728)十五歳で家督を継ぎ吉左衛門を襲名、宝暦十二年(1762)四十九歳で剃髪し、長入と号しました(「長」の字は長次郎にあやかったと伝える)。明和七年(1770)九月五日、五十七歳で歿し、号は槌斎、法名は此我土院長入日覚居士。宗入・左入と養子継承が続いたのちに生まれた嫡子継承で、楽家は御茶碗師としての安定をさらに固めます。
千家側でも不審庵の如心斎、今日庵の又玄斎といった傑物が相次ぎ、如心斎は紀州徳川家や大坂の豪商・鴻池家とも深く交わるなど家門の繁栄に意を注ぎ、そうした patronage の拡大は楽家の制作・受注にも好影響を及ぼしました。この時期、利休形の長次郎茶碗の評価が定まり、「木守」「大黒」「鉢開」「東陽坊」「早船」「検校」「臨済」の七碗が利休好みの代表作として尊崇され、写しも盛んに制作されます。長入も七種一揃の写しを幾組も遺しました。
もっとも長入の黒・赤の無地茶碗は、左入ほどの技巧冴えを示さず、代々のなかでは平凡作が多いと評されます。一方で如心斎好みの「玉絵(たまえ)」〔注:彫文様に金泥などを挿す装飾技法〕を彫り込んだり、大振りで重ねの島台(しまだい)茶碗を創始したりと、装飾的・技巧的な方向では活発でした。さらに数印(かずいん)〔注:複数の作印を押す意匠〕の導入、織部写し・彫三島写しなど意匠の多様化が進み、享保から明和にかけての爛熟した時代相をよく反映します。口造りに五岳を形式的に備える慣行も、長入期から本格化したと推測されます。
得入(とくにゅう)は長入の長男で、延享二年(1745)、父三十二歳のときの子。幼名は惣吉、諱は喜制(きせい)。宝暦十二年(1762)二月、十八歳で吉左衛門を襲名しましたが、体質は蒲柳で妻を娶らず、明和七年(1770)父長入が五十七歳で歿した際も二十六歳に過ぎませんでした。のち弟の惣次郎(了入/りょうにゅう)に家を譲って隠居し、佐兵衛と改名、安永三年(1774)十一月十日に三十歳で歿します。初め「長好」との法名でしたが、寛政十年(1798)の二十五回忌に「賢義院得入日普居士」を追贈され、したがって共箱に「得入」と自署されたものは残りません。
得入が吉左衛門として活動したのは十八歳から二十六歳までの短期間で、現存作は非常に少なく、その稀少性ゆえに珍重されます。ただし了入の作と酷似する器も見られ、弟の助力が大きかった可能性があります。光悦写しや、了入の影響を受けた玉絵などの装飾作もあり、総じて厚手で、赤・黒とも総釉〔そうゆう:全面施釉〕が大半を占め、技巧の冴えは控えめです。短命ゆえの未完成さと、家業継続の過渡期の相貌がそのまま刻まれています。
要約(300〜500字)
宗入は利休形の基礎を踏まえつつ厚手で重厚な作を多くし、黒茶碗では半艶で乾いた趣の「かせ釉」を特色とした。高台は低く幅広で平ら、見込に明確な茶溜りを置き、端正な定法を守る。正徳三年の半白に際し「宗入二百(癸巳茶碗)」を制作し、代表群となった。後を継ぐ左入は技巧に優れ、長次郎・光悦写しに巧みで、「左入二百」や長次郎一五〇年忌の赤茶碗一五〇碗など、年紀・来歴の確かな作群を遺す。長入は無地の黒赤では平凡作が多い一方、玉絵・島台・数印・織部写し・彫三島写しなど装飾性に活路を開き、五岳口造りの形式化もこの期に進む。得入は短命で遺品少なく、了入との類似も多いが、過渡期の様相を伝える。千家の繁栄と大名・豪商の庇護は、宗入から長入期の楽家安定を下支えした。
【関連用語】
- 利休形:千利休の美意識に基づく端正・簡素な茶碗の基本形。
- かせ釉:半艶で乾いた表情を生むマット調の釉景。宗入・左入に顕著。
- 見込:茶碗内の見える面。宗入はここに茶溜りを必ず設けた。
- 茶溜り:見込の浅い窪み。湯・茶を受け、造形の重心を落ち着かせる。
- 高台:碗底の環状台座。宗入・左入は低く幅広で平らに作る。
- 五岳:口縁に五つの起伏を設ける口造り意匠。長入期から形式化。
- 宗入二百/癸巳茶碗:正徳三年制作の黒茶碗二百碗の総称。代表群。
- 左入二百:享保十八年の制作群。蓋表「二百之内 左入 印」、蓋裏は如心斎銘。
- 光悦写し:本阿弥光悦の作風を模した写し。左入・得入に見られる。
- 玉絵:彫文様に金泥などをさす装飾技法。長入・得入が手がけた。
- 島台茶碗:大振りで重ねの意匠をもつ茶碗。長入に始まる。
- 数印:複数の作印を押す意匠。長入期から導入。
- 織部写し:古田織部好みの意匠を写した作。長入期に制作。
- 彫三島写し:三島手の文様を彫りで表した写し。長入期に見られる。
- 共箱・箱書:作者署名・捺印の元箱/蓋裏の由緒・銘。真贋・年紀判定の要。

