古九谷解説(1)

この記事は約6分で読めます。

古九谷概説

古九谷(こくたに)の窯は、長く実態が不明確で、有田(ありた)磁器との関係も含めて専門家や愛好家の間で論争の的でした。こうした状況を受け、石川県は昭和四十五年(1970)から同五十二年(1977)にかけて石川県古窯跡発掘調査委員会の調査団により四次の発掘を実施し、加賀・大聖寺(だいしょうじ)藩の藩窯としての九谷窯の存在を実証し、物原(ものはら)〔注:窯跡周辺の廃棄場〕から二万点を超える破片が採集され、当時の生産の輪郭がほぼ把握できる段階に至りました。

この発掘は、伝世品として評価されてきた色絵(いろえ)〔注:釉上に施す絵付の総称〕古九谷をめぐる諸問題にどのような解を与えるのか注目を集め、日本の色絵磁器に関心をもつ研究者・愛好者の多くがその成果に目を向けました。名古屋大学に一時保管された出土片を実見すると、多量の破片の大半は白磁(はくじ)〔注:白色の磁器素地〕で、三十〜五十センチ超の大ぶりな平鉢(ひらばち)片が接合できる例もあり、これらは白磁器として完結した製品ではなく、上絵付(うわえつけ)〔注:釉上に低火度で焼き付ける彩色技法〕を施す前提の白素地(しろそじ)〔注:上絵付用に仕立てた器胎〕と判断されました。

さらに、「明暦弐歳 九谷 八月六」と染付(そめつけ)〔注:コバルトで下絵を描く技法〕で三行に記した色見(いろみ)〔注:発色確認用の試験片〕の破片が確認され、大聖寺藩の九谷窯が明暦年間(1655〜1657)に開窯したとする伝承が、史料『重修加越能大路水径』や『麦憩紀聞』に記録されている記述と整合して、出土資料によって裏づけられました。併せて、縁を捻花状に成形し口縁に鉄釉をめぐらせた、いわゆる「縁紅(ふちべに)中皿」の小片、染付で鳳凰文を描いた台鉢、芙蓉手写(ふようでうつし)の染付皿片なども見出され、いずれも創業期の一号窯に由来することが確かめられました。

加えて、一号窯および第二の窯と推定される二号窯からは、白磁片に加え、御本手(ごほんで)風で縁紅(ふちべに)を施した茶碗の陶片も出土し、九谷窯が磁器生産のなかで多様な仕立てを試みていた可能性が示唆されました。これらの発見は、創業当初から白素地・染付素地を幅広く焼成し、その一部を明確に上絵付用として準備していた実態を物語るものです。

ところが、伝世古九谷の器形・作風と出土破片を照合してゆくと、九谷古窯で焼成された白素地や染付素地が、伝世古九谷の全体像を必ずしも覆っていないことが明らかになりました。とりわけ直径三十センチ以上の平鉢に限って見ても、九谷古窯出土の素地と同質と推定できる伝世作は意外に少なく、九谷で焼かれた平鉢白素地の多くに高台(こうだい)〔注:器底の環状の足〕内の目跡(めあと)〔注:支釘が当たった痕〕が認められないのに対し、伝世品では目跡をもつ例が多いという相違点が注目されます。

また、伝世古九谷の主要群には、平鉢裏面に牡丹唐草などを染付でめぐらす作や、祥瑞(しょんずい)風の文様を染付で表した作が含まれますが、この種の破片は遺跡から一片も確認できませんでした。さらに、三十センチ超の平鉢の一群には、青手(あおで)古九谷と呼ばれる作例を含め、口縁に縁紅を施したものが少なからずありますが、それに対応する白素地片も出土していません。

細部をみると、直径三十五センチ以上の平鉢陶片には、高台周りや口内外に染付の区画線(くかくせん)〔注:文様領域を区切る線〕をめぐらす作が一片も見当たらず、三十三センチ級までは区画線を施した例があり得るものの、大平鉢の範疇では確認できませんでした。以上を総合すると、出土資料が示す客観的範囲では、伝世品の相当部分は九谷では焼かれておらず、いわゆる伝世古九谷の素地の多くは有田製である可能性が高い、という結論に至らざるを得ません。

もっとも、九谷古窯は史料の伝えるとおり、後藤才次郎(ごとう さいじろう)・田村権左衛門(たむら ごんざえもん)らが指導的役割を担い、有田の窯業技術を導入して明暦元年頃に開窯し、上絵付を目的とした製品も相当量生産していたことは確実です。実際、九谷素地に青手古九谷の色絵を施したとみられる破片が一点ながら採集され、上絵付工程の少なくとも一部が九谷で行われた可能性を示しますが、その具体的体制や分業の実態はなお不明と言わざるを得ません。

九谷古窯の開設は、元和・寛永(1615〜1643)期以来、日本最大の磁器生産地として染付・色絵ともに活況を呈していた有田の技術を積極的に摂取した結果でありましたが、当時の規模差は顕著でした。九谷は本格窯ではあるものの基本的に一基ずつ前後して設置されたのに対し、有田では内山・外山を合わせて数十基が稼働していたと推定されます。

この関係は、慶長・元和期に肥前一円で唐津(からつ)焼の窯が百基以上に及んだのに、黒田藩の藩窯である高取焼(たかとりやき)が永満寺(えいまんじ)窯と内ヶ磯(うちがいそ)窯を各一基ずつ備えるにとどまった状況とも相似的です。すなわち、佐賀・鍋島(なべしま)藩領の有田磁業は、日本内外に広がる産業的基盤のもとで経営されていたのに比べ、九谷の窯は領内需要に応じる一藩窯的性格を色濃く帯びていたといえるでしょう。

江戸前期にあって佐賀藩領の窯業のみが全国的、さらには国際的な展開を示し得たのは、産業の自律的活力に加えて、藩と幕府との間の特別な了解の存在を想定すべき事情があったのではないかと考えられ、他藩の窯業が大規模化しにくかった背景には、対幕府関係上の一定の制約が働いた可能性も否定できません。こうした条件差は、生産量の格差として現れたと見られます。

ところが、明治・大正期以来「古九谷」と総称される伝世の色絵磁器には優作が相当量見受けられるのに対し、同時期すなわち十七世紀後半に有田で焼かれた古伊万里(こいまり)色絵—柿右衛門(かきえもん)様式を含む—の国内伝世品は、古九谷に比べむしろ少なく映るという逆説的な現象が生じます。この点は、日本初期の色絵磁器史を考えるうえで、検討を要する重要な課題といえるでしょう。

要約(300〜500字)
1970〜1977年の発掘により、大聖寺藩の九谷窯の実在が確認され、二万点超の破片から白磁中心の生産と上絵付前提の白素地の存在が明らかになりました。「明暦弐歳 九谷 八月六」の色見片は、明暦期の開窯伝承を具体的に裏づけます。一方、伝世古九谷の大平鉢に見られる目跡や裏面染付文様、縁紅の施し、区画線などに対応する出土片が乏しく、三十五センチ級では区画線が確認できないことから、伝世古九谷の相当部分は有田製素地に依拠した可能性が高いと推定されます。九谷では有田技術を導入し上絵付も一部行われた形跡があるものの、その実体は不明な点が残ります。産業規模では有田が圧倒的で、九谷は藩窯的性格にとどまったため、生産量に大差が生じました。それにもかかわらず、伝世の古九谷優作が多く、同時期の古伊万里色絵の国内伝世が相対的に少ないという逆説は、初期色絵磁器史の重要課題として位置づけられます。

【関連用語】

  • 古九谷:加賀の色絵磁器。鮮やかな上絵付を特徴とする。
  • 古伊万里:肥前有田を中心とする磁器の初期様式の総称。
  • 柿右衛門:有田における色絵磁器の代表的様式。余白を生かした意匠が特徴。
  • 鍋島:肥前藩窯の精緻で格式の高い磁器。藩の献上・贈答用として発達。
  • 唐津:佐賀県唐津の陶器。桃山期以降、素朴な土味の茶陶として人気。

(人名・技法の注は本文初出に付記しました)