唐津焼とは (其の五 都会の需要)

この記事は約3分で読めます。

唐津焼(からつやき)は、美濃(みの)と異なり、基調としては雑器(ざっき)〔注:日常の飲食や貯蔵に用いる実用器の総称〕が多く焼かれたと推測されますが、その内実には茶道具(ちゃどうぐ)〔注:茶の湯に用いる器物の総称〕と重なる領域が広く、壺・皿・鉢などの実用器であっても、当時の趣味性が加われば茶陶(ちゃとう)〔注:茶の湯で用いられる陶器の総称〕として受容されうる余地がありました。都市の需要が拡大した文禄・慶長期以後には、素朴な朝鮮的作風の上に都会的な洒脱が重ねられ、量産と多様化が同時に進行したと見られます。

窯場全体の作風は、時代の中心的需要に応えた上質作によって牽引されます。とりわけ茶の湯が牽引車であれば、周辺で焼かれる粗陶にもその嗜好が波及し、意匠や形、絵付に共通の傾向が表れます。藩による保護と都会の安定した需要なくして窯業の繁栄は望めず、また嗜好の反映なしに需要は生まれません。朝鮮から渡来した多くの陶工が、李朝(りちょう)〔注:朝鮮王朝の日本での呼称〕の技を基礎にしつつ、和陶(わとう)〔注:日本的様式へ展開した陶器〕としての唐津焼を確立した事実は、この力学をよく示しています。

慶長前期には美濃の陶工・加藤景延(かとう かげのぶ)が唐津に来訪し、美濃風の作調が広く流行して定着したと伝えられます。景延は慶長二年に筑後守(ちくごのかみ)の称を受け、古田織部(ふるた おりべ)や寺沢志摩守(てらざわ しまのかみ)らとの関係から唐津に下向して指導に当たったと推測され、甕屋の谷窯(読み未詳)・多久高麗谷(たく こうらいだに・仮読)・内田皿屋(うちだ さらや)に残る作例は志野(しの)・織部(おりべ)との近似を明瞭に示します。さらに景延は美濃へ帰国後、久尻(くじり・仮読)の元屋敷(もとやしき)に唐津風の連房式登窯(れんぼうしき のぼりがま)〔注:房を連ねた階段状の窯〕を築き、量産適性を自地域へ移植しました。こうした往還的実践は、桃山という流動的時代だからこそ可能であったといえます。

要約(其の五|300〜500字)
唐津焼は実用器を基調としつつも、都市の需要と茶の湯の嗜好が重なって、雑器と茶陶の境界が流動化した。上質作が窯場の指標となり、意匠や筆致は粗陶にも波及、藩の保護と都会の市場が量産を下支えした。朝鮮渡来陶工は李朝技法を土台に和陶としての唐津を築き、文禄・慶長期以降に需要が一段と拡大する。慶長前期には加藤景延が唐津で美濃風を指導したとみられ、甕屋の谷窯・多久高麗谷・内田皿屋の作品に志野・織部の強い近似が確認できる。景延は帰国後に唐津型の連房式登窯を美濃へ導入し、様式のみならず生産技術の交流をも促した。

【関連用語】

  • 雑器:日常用途の実用器。壺・皿・鉢などを含む
  • 茶陶:茶の湯で用いる器物の総称
  • 和陶:日本的様式として展開した陶器群
  • 連房式登窯:小房を連ねた階段状の登窯で量産に適する
  • 志野:美濃の長石釉・鉄絵の茶陶様式
  • 織部:古田織部好みの大胆な意匠を特色とする様式
  • 加藤景延:美濃の陶工。慶長前期に唐津へ関与したと伝わる
  • 甕屋の谷窯/多久高麗谷/内田皿屋:美濃風作例が多い唐津の窯場
  • 寺沢志摩守:唐津藩主。茶陶振興に関与
  • 都会の需要:堺・京都など都市市場の器物需要