織部とは(其の弐 生い立ち)

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桃山末から江戸初にかけて、「織部好み」の茶陶は美濃のみならず伊賀(いが)・信楽(しがらき)・備前(びぜん)・唐津(からつ)など各地で焼かれたが、最終的に「織部」と総称されるのは美濃系の作であり、これは当時から古田織部と美濃窯場との結びつきがことさら密接であったという共有認識が背景にあったためと考えられる。

古田織部が茶の舞台に確然と登場するのは天正十年(一五八二)頃で、従五位下織部助に任ぜられ、山城国西岡(やましろのくに にしおか)の城主となった天正十三年頃から会主としての活動が顕著になる。『津田宗及茶之湯日記』に拠れば同年二月十三日に初めて会主として現れ、「セト茶碗・セト水指」を用いたと記されるが、ここでいう「瀬戸」は実際には美濃産を指示し、この頃から千利休らとともに美濃窯との関係を強めたとみられる(いずれも同記に記録されている)。

さらに桃山期の茶会記を通覧すると、天正十四年頃から「セト」の器物使用が急増し、茶の湯の需要拡大が窯場の生産を刺激した事情がうかがえる。こうした流れの先頭に千利休や古田織部があり、やがて慶長期(一五九六〜一六一五)に入ると織部の影響力は一層強まり、後世「織部焼」と総称される作品の多くがこの時期に集中し、象徴的な沓形(くつがた)茶碗もこの期に流行するに至った。

慶長四年(二月二十八日)、古田織部が自会に用いた茶碗について、招かれた神谷宗湛(かみや そうたん)は『宗湛日記』に「セト茶碗ヒツミ候ヘウケモノ也」と記し、歪みを帯びた「ひょうげもの」の趣向を明確に伝えるが、これは後年元屋敷(もとやしき)などの窯で量産される沓茶碗の先駆を想起させる重要な記述である(同日記に記録されている)。

元和元年(一六一五)成立の『草人木』には「茶碗は年々瀬戸より上がる今焼の歪みたるもの」との言及が見え、当時の流行を端的に物語るが、この情況は古窯跡の出土陶片の群証によっても確かめられる。もっとも、古田織部が好みをいかなる手順で制作へ反映させたかという具体像は、なお不明のままである。

要約(其の弐)
各地で織部好みの茶陶は焼かれたが、「織部」と総称されるのは美濃系で、織部と美濃窯の密接な関係が背景にある。天正十三年頃から織部は会主として台頭し、茶会では「セト」(実は美濃)器の使用が急増、慶長期に沓形茶碗が流行する。『宗湛日記』『草人木』の記録と出土資料が流行を裏づける一方、制作介入の実態は未詳である。

【関連用語】

  • 志野:美濃焼の一種。白い長石釉と鉄絵文様が特徴。
  • 織部:古田織部に由来する美濃焼の様式。緑釉と大胆な形が特徴。
  • 黄瀬戸:黄褐色の釉をかけた美濃焼。
  • 美濃:岐阜県東濃の産地。志野・織部・黄瀬戸を生んだ。
  • 瀬戸:中世以来の産地で「せともの」の語源。
  • 伊賀・信楽・備前・唐津:桃山〜江戸初に茶陶で知られる各地の窯。