志野焼とは(其の弐 志野の名称)

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桃山期に美濃で焼かれた長石釉の器物を、今日では一般に「志野」と総称するが、同時代にその呼称が定着していたわけではない。記録上、「志野」の名が確実に現れるのは江戸中期・享保~元文期で、近衛予楽院(このえ よらくいん)の『槐記(かいき)』や、乾山(けんざん)筆の陶法伝書『陶工必用(とうこうひつよう)』に「志野」「篠」と記される(いずれも当該記録に記録されている)。『槐記』では志野の猪口や小鉢を織部とも呼ぶ例が見える。

これに対し、桃山当時の茶会記では、該当の器を「瀬戸茶碗」「セト茶碗」「白茶碗瀬戸」とする表記が一般的で、白釉志野を指すとみられる記述もあるが、同時に瀬戸黒・織部黒・黒織部・黄瀬戸など多彩な瀬戸(広義)の茶碗が併存したため、具体的な様式比定は困難である。では、後に何ゆえ「志野」と呼ばれるに至ったのか。

江戸初期の中間で空白はあるが、室町末・天文二十二年(1553)から天正十四年(1586)までの『津田宗及茶湯日記』や『今井宗久茶湯書抜』には、「志野茶碗」と称された名物茶碗が記録され、武野紹鴎・津田宗及(つだ そうぎゅう)・今井宗久(いまい そうきゅう)の堺三名人が所持したとある(各茶会記に記録されている)。ところが天正十四年以降、この名器は記録から姿を消し行方不明となる。もしそれが志野の源流たる長石釉白茶碗(たとえば白天目・自天目系)であれば名称の由来は明快だが、千利休の箱書に「紹鴎せと白天目」とあるように「白天目」は当時すでに別称をもっており、「志野茶碗」と同一視はできない。

一説には、「志野茶碗」は香道の祖・志野宗信(しの そうしん)の所持にちなんで名付けられた可能性がある。出自が和物か唐物か判然としないが、様子書から白釉の茶碗であったらしく、この共通点が江戸期以降、桃山美濃の白茶碗を「志野」と総称する素地になったかもしれない。嘉永七年(1854)の『陶器改』には「志野宗催物ズキニテ…尾州ニテ写シタルヲ志野焼ト云」と記され(同書に記録)、呂宋白薬・尾州写しなど誤解を含むが、後世の名称形成を物語る記事として興味深い。

また、桃山の茶会記筆者は美濃産をしばしば一括して「瀬戸焼」と記した。鎌倉期以来著名な尾張瀬戸の名が一般名詞化していたためで、本来「美濃茶碗」と記すべきを総称で済ませた結果、近代まで志野・瀬戸黒・織部・黄瀬戸が瀬戸産と誤信された。さらに「伊勢天目」と呼ばれる天目の中に白釉のものがあり、『津田宗及茶湯日記』永禄九年(1566)正月十一日条に「伊勢天目白色」、『神谷宗湛日記』天正十五年条に「白イセ天目」と見える(各日記に記録)。これを美濃産とみなせば、志野と同質の白長石釉天目が当時「伊勢天目」と称されたとも解される。

総じて、白長石釉の天目(のちの志野天目)は十六世紀前半に遡り、黒褐釉の瀬戸天目と併行しつつ、江戸初期まで細々と継続した。同時に、桃山では腰の張った半筒・筒形の新様式が生まれ、釉下鉄絵による絵文が施される。これは雑器の大量生産ではなく、佗(わび)の深化に応じた茶人の選好が陶工へ外的に作用し、造形と意匠の大転換を促した結果であった。

要約(300〜500字)
「志野」という名は桃山同時代の確立語ではなく、江戸中期(享保~元文)に『槐記』や『陶工必用』へ現れるのが確実な初出で、当時の茶会記では多く「瀬戸茶碗」「白茶碗瀬戸」と記された。室町末~天正期の茶会記には「志野茶碗」と称する名物があり、堺三名人が所持したが、1586年以後は消息不明で、「白天目」とは別名義として扱われた。志野宗信所持説や『陶器改』(1854)の逸話など、後世の名称形成を示す伝承はあるが混乱も多い。美濃産品を慣用で「瀬戸」と総称した記述が誤解を助長し、近代まで産地認識が曖昧化した。白長石釉の天目(志野天目)は十六世紀前半から続き、桃山で半筒・筒形と釉下鉄絵の新潮流が台頭。これは佗茶の深化に応じた茶人の嗜好変化がもたらした外部刺激により、様式の更新が促された結果である。

【関連用語】

  • 志野:美濃で成立した白長石釉の茶陶様式。釉下鉄絵と火色が特徴。
  • 『槐記』:近衛予楽院の記録。江戸中期に志野の語が見える。
  • 『陶工必用』:乾山筆の陶法伝書。志野の名が記録される。
  • 茶会記:茶人の会記録。産地・器名の同時代情報源。
  • 志野宗信:香道の祖。所持茶碗名により志野名の由来説がある。
  • 伊勢天目:茶会記に見える天目の一種。白釉例が記録される。
  • 志野天目:白長石釉で焼いた天目。志野系の先駆~並行系譜。
  • 瀬戸天目:黒褐釉の和製天目の総称。志野天目と併行。
  • 佗茶:簡素・枯淡を尊ぶ茶風。桃山期に深化し陶風を刷新。
  • 織部:桃山美濃の様式。大胆な造形・緑釉で知られ、志野と並行発展。