唐津焼とは (其の弐 岸岳の諸窯)

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昭和四十六年(1971年)に島根大学・浅海(あさみ)教授が実施した熱残留磁気測定〔注:焼成後に磁性体に残る磁化から焼成年代を推定する物理測定法〕の結果、岸岳の飯洞甕「下窯」は十六世紀末に操業を終えた可能性が高いと示されました。これは岸岳城主・波多氏が文禄二年(1593)に豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)によって所領を没収され滅亡した時期とほぼ一致し、窯の火が同時に絶えたとみるのが自然でしょう。同窯からは「彫唐津(ほりからつ)茶碗」に類似する陶片も出土し、その意匠が美濃の志野(しの)に通じることから、文禄の役に際して名護屋(なごや)城在陣の後備衆であった古田織部(ふるた おりべ)重然(しげなり)の指導下で制作された可能性が指摘されます。もしそうであれば、これは飯洞甕下窯の最末期作の一つと位置づけられます。

中里太郎右衛門氏の見解では、岸岳諸窯は一部を除き「作為的な茶陶」をほとんど焼いていませんが、だからといって茶の湯に用いられなかったとは言い切れません。推測の域を出ないものの、天正年間後期には唐津製の茶碗が高麗茶碗の一系として取り合わせに用いられていた可能性は大きく、天正十九年(1591)に没した千利休(せん の りきゅう)が筒茶碗「ねのこ餅」を所持した事実は、その時期に岸岳系以外の窯も稼働しており、奥高麗(おくこうらい)系の茶碗と近縁の作が唐津で焼成されていたことを示唆します。

なお、唐津の窯跡は広範に発掘されているものの、初期の発掘には学術的配慮が十分でなかった面もあり、出土資料の全体像と時間的変化の精密な把握には再検討の余地が残ります。今後、測定学・様式学・文献学を横断する調査・整理が進むことで、岸岳諸窯の生産実態と茶の湯受容の位相は、より的確に描き出されていくでしょう。

要約(其の弐)
物理測定の成果から、飯洞甕下窯は十六世紀末に終焉し、波多氏滅亡と時期が合致する。窯跡からは志野様式に通じる「彫唐津」類の破片が出土し、名護屋城在陣中の古田織部関与説も十分に成り立つ。岸岳諸窯は意図的な茶陶中心ではなかったが、天正末期には唐津製茶碗が高麗茶碗系として用いられ、利休所持の筒茶碗「ねのこ餅」もその文脈に位置づけられる可能性がある。今後の再発掘・再測定により、様式変化と年代観の精緻化が期待される。

【関連用語】

  • 唐津:佐賀県唐津市の陶器。桃山期から茶陶として人気。
  • 志野(しの):美濃焼の一種。白い長石釉と鉄絵文様が特徴。
  • 織部(おりべ):古田織部に由来する美濃焼の様式。緑釉や大胆な形が特徴。
  • 美濃(みの):岐阜県東濃地方。志野・織部・黄瀬戸を生んだ。
  • 高麗茶碗(こうらいちゃわん):朝鮮半島産の茶碗を日本で総称した呼び名。井戸・粉引・三島などの類型がある。