唐津の諸窯から出土する陶片を総観すると、岸岳の飯洞甕や帆柱(ほばしら)窯、ないしその系譜に属する作が最古層を占め、器形・装飾ともに素朴で荒磯の魅力を帯びますが、文禄・慶長役を契機に朝鮮から多数の陶工が渡来して在来の陶工と合流し、各地に築窯して一挙に生産地帯が拡大します。
伝世の唐津焼の大半は、この戦役以後に開かれた窯で焼かれたもので、仮に創始が十六世紀中葉以前に遡りうるとしても、「唐津焼」という様式的まとまりは文禄・慶長期に事実上出立したと位置づけられ、最盛は慶長から元和・寛永(1596–1644)頃に及んだと考えられます。
古窯跡の分布と陶技の比較から、唐津焼は大きく岸岳系およびその系統、松浦(まつら)系・武雄(たけお)系・多久(たく)系・平戸(ひらど)系などに区分され、基本技術は共通しつつも、陶土の土味(つちみ)・器形の取り回し・鉄絵の筆行きなどに窯場固有の差異が観察されますが、提示された特色のみで明快に窯分けできない無署名作も少なくありません。
これら諸系の作風整理については、水町和三郎(みずまち わさぶろう)・永竹威(ながたけ たけし)・十三代中里太郎右衛門らによる長年の踏査・報告が先行しており、ここでも中里氏の教示に基づき陶技分類を参照しながら、唐津焼の性格と地域差の輪郭を捉えることが適切でしょう。
要約(其の参|300〜500字)
出土資料からは、岸岳・飯洞甕および帆柱窯系が唐津の最古層をなすが、決定的転機は文禄・慶長役で、渡来陶工の参加により築窯が各地に進み、生産が急拡大した。伝世の多数は戦役後の窯に由来し、唐津焼の様式的成立はこの期に本格化、ピークは慶長~元和・寛永に置ける。技術基盤は共通しつつも、土味・形・筆致に窯場差があり、必ずしも明確に窯分けできない無銘作も多い。水町・永竹・中里らの踏査成果を踏まえ、陶技分類を手掛かりに地域差と様式構造を再検討する意義が確認される。
【関連用語】
- 岸岳系:岸岳山麓の古窯群とその系譜
- 飯洞甕窯・帆柱窯:岸岳最古層に属する代表的窯
- 文禄・慶長役:渡来陶工の本格参加を促した戦役
- 松浦系・武雄系・多久系・平戸系:唐津焼の地域系統区分
- 土味:陶土の質感・発色の総称
- 筆行き:鉄絵などの線描の運筆の癖
- 窯分け:作風・土・胎土などで窯場を比定する作業
- 中里太郎右衛門:唐津の名跡。研究・踏査でも指導的役割

