大村系 波佐見窯~純忠の洗禮

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【原文】[Original text]

大村系 波佐見窯

朝鮮の役、島原の有馬晴信は二千人を率ゐ、大村の大村嘉前は一千人を率ゐて、松浦鎮信、五島盛季(五島福江城主)等と共に行長の第一軍に属し、奮闘苦戦を経て歸陣したのである。元來有馬氏と大村氏とは同族より分系せしものにて、藤津郷の如きは両者交も領有せしこと前編に於いて既逃せし如くである。而して有馬氏は元來大村氏よ出てしものなるが、嫡系にして別に有馬を姓とした。その系圖左の如くである。

波佐見窯の混系
 東彼杵郡波佐見村の、上下兩部に産する波佐見焼は、當時朝鮮役より歸陣せし領主大村新八郎嘉前に從ひりし韓人が、此處の

永田山にて創始せりと傅ふるも、波佐見窯の陶系は他山と比較して、一層複雑に混同せしもの如く、其一部は南川原系が木原方面より移動せしものと、同系が戸杓の善門谷方面より村木へ侵入せし者とあり。又武雄系の韓人が、神六山を越え永尾山へ來り。或は藤津系の韓人が、不動山よ木塲山方面へ轉住せし者があり。其他庭木地方より往來せしこさも地形上首肯するに足るものであらう。

大村直澄と文永の元寇
 此沿革を説くにあたり先づ例に依つて領主の略歴を記述せんに、一條天皇の正曆五年十月八日(994年)藤原純友の次男遠江權介直澄は、肥前の内彼杵、高來、藤津の三荘を領有し、自ら彼杵莊大村なる久原城に居り、姓を大村と稱するに至つた。 文永十一年十月(1274年)元の必烈の軍船大擧して、我が壹岐、對馬を侵し、進んで筑前の沿岸に迫るや、太宰小貳景資の下に八代大村民部親澄は佐嘉の地頭職龍造寺左工門尉季益等と共に大に之防戦した。

弘安の外寇
 弘安四年五月二十一日(1281年)前記の兇賊再び来り襲ふや、九代大村伊勢守澄宗は、平戸の松浦肥前守苔、武雄の後藤三郎氏明、佐嘉の龍造寺肥前守季時、白石の白石六郎道恭等と共に、奮戦撃退したのである。

南朝方
 降つて南北朝時代に至り、十代大村新太郎澄遠父子を始め、平戸の松浦肥前守定 相知の相知小太郎(入道蓮賀、贈従四位)武雄の後藤又太郎光明 佐嘉の龍造寺又太郎家親、大島の大島次郎通秀等と共に南朝に属し、勤王奉公に力を盡せこと少なくなかった。十五代民部大輔純治の時、福重村に好武城を築いて之に居りしが、共子信濃守純伊今留に築城して始めて大村に居を定めたのである。

大村有馬間の爭闘
 文明六年(1474年)大村家の宗家争ひより端を発し、其年の十二月二十九日、高來の十代有馬尚鑒は、兵二千を率ゐて俄に大村を襲うた。 純伊衆寡敵せず、敗れて松原より速來に渡り、廣田城に潜みしが、同八年さらに佐々より唐津の加々良島に隠れ、具さに忍辱すること七ヶ年であつた。同十二年八月十五日彼は南風崎に上陸して、大いに有馬軍と戦ひしが、途に和睦して尚鑒が妹を室とするに至った。

仙岩小城を攻む
 永祿二年正月(1559年)尚鑒の子有馬仙岩は、小城の千葉胤連(忠常ー常將ー胤貞ー胤高ー胤勝ー胤連)を攻めて此地を併有せんし、長子鎮純を將として大村純忠、西郷純久、平井純治、深堀純賢、後藤純明、伊萬里直等をみて進撃するや、龍造寺隆信胤連を助けて之を邀へ、鍋島信生(直茂)を先鋒として、盛んに大町に戰ひしが、有馬、大村の諸軍途に大いに敗れて退却した。同年三月十八代大村丹後守純忠は、領内長崎村內町の六町を構へて、蠻船入津の處と定めたのである。

葡人殺戮さる
 同四年に至り、響きに開港せし平戸に於いて、或日停泊せる葡萄牙商船と言語の不通より双方に誤解起り、賣買上衝突を來して、遂に大爭闘を生じ、長老伴天連及び船長フェルナンデ・ソーサ以下數十名殺戮されたのである。

横瀬開港
 純忠は曾て松浦隆信が平戸を開港して、文明の珍貨を始め殊に優秀なる武器を輸入せることを羨望せしが、此機を以て同五年自領横瀬浦(佐世保の對岸にて西彼杵郡水の浦の隣地)を開きしかば、先きに平戸に含める葡萄牙の商船は翌年より雷ヶ瀬戸(平戸海峡)を通り抜けて、皆横瀬に來つて貿易すること成った。

大村武雄と和議
 永祿六年武雄の後藤純明は、大村に侵入して純忠を襲はんとするや、大村軍は機先を制して純明の陣営を急撃せしより、武雄軍敗れて塚崎に退陣した。此時黒髪山大智院五世の法印阿尊と後藤越後守尚明は、大村伊豫守純重と共に調停して、和識を結ぶに至つた。

長崎開港
 先きに開港し横瀬港は、波浪稔かならざるを以て、屢々葡萄牙船長の具申に依り、永祿十一年(1568年)福田港(西彼杵郡)に移せしが、翌々年に至り純忠は、深江浦(西彼杵郡福富浦又瓊の浦と稱す)を最適地として、貿易港定むるに至つた。是れ元龜二年三月(1571年)のことにて之が即ち後の長崎である。

隆信に降る
 天正三年五月六日(1575年)平戸の松浦鎮信は、龍造寺隆信に款を通じ、更に大曲對馬守を遣はし、神文を誓つて聘禮するに至り、同五年鎮信自ら龍造寺軍と共に、大村に進軍せしかば、純忠力戦盡きて途に降服するに及び、隆信漸く肥前を一統したのである。

秀吉の耶蘇放逐令
 天正十五年(1587年)夏純忠の男大村嘉前は、長崎の内町を公地としたのである。而し同年六月十九日豊臣秀吉は、耶蘇切支丹宣教師の追放令を發布した。文祿元年(1593年)嘉前は朝鮮役に従軍し、慶長元年(1596年)六月一旦歸朝せしも、和議破れて同二年正月再役の途に上り、同三年十月和議調ひ十一月博多に歸陣したのである。

慶長十年九月十一日(1605年)嘉前は更に長崎の外町及屬邑を公地として外人との貿易自由ならしめ、浦上を以て其代理とするに至つた。此長崎開港に盡力せし此地の邑主長崎甚左工門純景は嘉前の妹婿にて其略系左の如くである。

長崎純景
 平資盛の孫盛綱始めて長崎を姓となし、其子小太郎重綱より深江浦に住して、代々大村氏の配下となり、貞應年間(1222-1224年)此地唐渡山に築城し鶴の城と稀した。それよ十三代純方の長子純景は、長崎村九百七十石を有し、春德寺山城主たりしが、後年時津にて七百石を領有して切支丹の信徒として其の布教に力めしこと少からず、然るに舎弟織部允爲英は、弘治年間(1555-1558年)京都より、今の諏訪神社(國幣中社)を奉迎して、神國主義を鼓吹せものである。

長崎氏系別説
 長崎氏系譜には又別説ありて、平重盛の孫重鄉、伊豆の國長崎村に封ぜられてより、長崎を姓となし、重郷の後裔三郎左工門入道思元は鎌倉北條氏に仕へ、元弘三年(1333年)五月新田義貞戰ひ死するや、其子勘解由左工門爲基戦場を切抜けて肥前に下り、深江浦に来りて此地の邑主となる。十代左馬助子なく、有馬貴純の三男康純養子となす、康純の子か甚左エ門爲雄なり云々とある。正しくは研究すべきであらう。

純忠の洗禮
 大村嘉前の父純忠、甞て龍造寺と戦ふに當り、平戸の如く石火矢、鐵砲の武器なきを遺憾とし、遂に意を決して耶蘇宗門に歸依し、其名もDON,BARNOIOMEOと授かりて洗禮した。そして前記の新武器を入手せしは過ぐる永祿五年(1562年)であつた。其時純忠は此宗門に銀百貫目を借用せしが、後年長崎の隣地山里村、浦上村、淵村(今何れも長崎市内)等の年貢を以て、年々之を返濟したのである。


【現代語訳】[Modern Japanese translation]

朝鮮の役では、島原の有馬晴信は二千人を率い、大村の大村嘉前は一千人を率いて、松浦鎮信・五島盛季(五島福江城主)らとともに行長の第一軍に属し、激戦の末に帰陣した。そもそも有馬氏と大村氏は同族から分かれた家で、藤津郷などは両家が交互に領したことは前編で述べたとおりである。有馬氏はもと大村氏から出た嫡流で、のちに有馬を姓とした。系図は左掲のとおりである。

東彼杵郡波佐見村の上下の地域で産する波佐見焼は、朝鮮の役から帰陣した領主・大村新八郎嘉前に従って来た韓人(朝鮮出身者)が永田山で始めたと伝える。しかし波佐見窯の系統は他所よりさらに複雑に混じり合い、一部は南川原系が木原方面から移動したもの、同系が戸杓の善門谷から村木へ入り込んだものがある。加えて武雄系の韓人が神六山を越えて永尾山に至り、藤津系の韓人が不動山や木塲山へ移住した例もある。庭木方面との往来も、地形上から十分うなずける。

沿革を述べるに先立ち領主の略歴に触れると、一條天皇の正曆五年十月八日(994年)、藤原純友の次男である遠江權介直澄が肥前の内彼杵・高來・藤津の三荘を領し、彼杵荘大村の久原城に居して「大村」を姓とした。文永十一年十月(1274年)、元の必烈の艦隊が壹岐・對馬を侵し筑前沿岸に迫ると、太宰小貳景資のもとで八代大村民部親澄は、佐嘉の地頭職龍造寺左工門尉季益らとともによくこれを防いだ。

弘安四年五月二十一日(1281年)に再来した外寇に対しては、九代大村伊勢守澄宗が、平戸の松浦肥前守苔、武雄の後藤三郎氏明、佐嘉の龍造寺肥前守季時、白石の白石六郎道恭らとともに奮戦し、撃退した。南北朝期には、十代大村新太郎澄遠父子をはじめ、平戸の松浦肥前守定、相知の相知小太郎(入道蓮賀、贈従四位)、武雄の後藤又太郎光明、佐嘉の龍造寺又太郎家親、大島の大島次郎通秀らが南朝に属し、勤王に尽くした。十五代民部大輔純治の時に福重村に好武城を築いて居し、子の信濃守純伊が今留に築城して、はじめて大村に本拠を定めた。

文明六年(1474年)、大村家の宗家争いを端緒として、同年十二月二十九日に高來の十代有馬尚鑒が兵二千で急襲した。純伊は兵少なく敗れて松原から速來に渡り廣田城に潜んだが、同八年には佐々から唐津の加々良島に隠れ、七年もの辛忍を強いられた。やがて同十二年八月十五日に南風崎へ上陸して有馬軍と戦い、途中で和睦して尚鑒の妹を妻に迎えた。

永祿二年正月(1559年)、尚鑒の子有馬仙岩は小城の千葉胤連を攻めて併有しようとし、長子鎮純を将とし大村純忠・西郷純久・平井純治・深堀純賢・後藤純明・伊萬里直らを従えて進撃した。これに対し龍造寺隆信が胤連を助け、鍋島信生(直茂)を先鋒として大町で激戦となり、有馬・大村勢は大敗して退いた。同年三月、十八代大村丹後守純忠は領内の長崎村内町六町を整え、南蛮船の寄港地と定めた。

永祿四年、開港した平戸で、停泊中の葡萄牙商船と現地側との言葉の不通から誤解が生じ、売買の争いが拡大して大乱となり、長老の伴天連や船長フェルナンデ・ソーサら数十名が殺害された。純忠は、松浦隆信が平戸を開港して文物やとりわけ優良な武器を輸入したことを羨み、これを機に同五年に自領の横瀬浦(佐世保の対岸、西彼杵郡水の浦の隣)を開いた。以後、平戸に来ていた葡萄牙船は翌年から雷ヶ瀬戸(平戸海峡)を通り抜け、横瀬で交易するようになった。

永祿六年、武雄の後藤純明が大村に侵攻して純忠を襲おうとすると、大村軍は機先を制して陣営を急撃し、武雄軍は敗れて塚崎に退いた。この時、黒髪山大智院五世の法印阿尊と後藤越後守尚明が、大村伊豫守純重とともに調停して和議が成立した。

先に開いた横瀬港は波が高く不便だったため、葡萄牙船長の度重なる要望で永祿十一年(1568年)に福田港(西彼杵郡)へ移し、さらに翌々年、純忠は深江浦(西彼杵郡福富浦、または瓊の浦)を最適地として貿易港に定めた。これは元龜二年三月(1571年)のことで、これがのちの長崎である。

天正三年五月六日(1575年)、平戸の松浦鎮信は龍造寺隆信と通じ、さらに大曲對馬守を遣わして神文をもって誓約した。天正五年には鎮信自ら龍造寺軍とともに大村へ進軍し、純忠は力尽きて降伏し、隆信はついに肥前を統一した。

天正十五年(1587年)夏、純忠の子・大村嘉前は長崎の内町を公地とした。同年六月十九日、豊臣秀吉はキリシタン(カトリック)宣教師の追放令を公布した。文祿元年(1593年)に嘉前は朝鮮役に従軍し、慶長元年(1596年)六月にいったん帰朝したが、和議が破れて同二年正月に再出兵し、同三年十月に和議が整い十一月に博多へ帰陣した。

慶長十年九月十一日(1605年)、嘉前はさらに長崎の外町および属邑を公地として外国人との貿易を自由にし、その代官を浦上に任せた。長崎開港に尽力した当地の邑主・長崎甚左工門純景は嘉前の妹婿で、その略系は左記のとおりである。

平資盛の孫・盛綱が初めて「長崎」を姓とし、その子小太郎重綱が深江浦に住み、代々大村氏の配下となった。貞應年間(1222–1224年)には唐渡山に城を築き「鶴の城」と称した。十三代純方の長子・純景は長崎村九百七十石を有し春德寺山の城主となり、のちに時津で七百石を領した。彼は切支丹の信徒として布教に力を注いだが、弟の織部允爲英は弘治年間(1555–1558年)に京都から今の諏訪神社(國幣中社)を勧請して神国主義を鼓吹した。

長崎氏の系譜には別説もある。すなわち、平重盛の孫・重鄉が伊豆国長崎村に封ぜられて以来「長崎」を姓とし、その後裔の三郎左工門入道思元は鎌倉北條氏に仕え、元弘三年(1333年)五月に新田義貞が戦死した際、子の勘解由左工門爲基が戦場を脱して肥前に下り、深江浦の邑主となったという。十代左馬助に子がなく、有馬貴純の三男康純を養子とし、その子が甚左エ門爲雄と伝える。正確なところは今後の研究を要する。

純忠はかつて龍造寺との戦で、平戸のように石火矢や鉄砲がないことを遺憾として、思い切ってキリシタンに改宗し、洗礼名 DON, BARNOIOMEO を授けられた。新式の武器を入手したのは永祿五年(1562年)のことで、その際に純忠は教会から銀百貫目を借り受け、のちに長崎近郊の山里村・浦上村・淵村(いずれも現・長崎市内)の年貢をもって年々返済した。


【英語訳】[English translation]

During the Imjin War, Arima Harunobu of Shimabara led 2,000 men and Ōmura Yoshizumi (Yoshizane) led 1,000, serving in Konishi Yukinaga’s First Army together with Matsuura Shigenobu and Goto Morisue (lord of Goto Fukue Castle). After hard fighting they returned. The Arima and Ōmura houses had branched from the same lineage, and, as noted earlier, districts such as Fujitsu-gō were alternately held by both. Arima originally derived from Ōmura as the legitimate line and later took “Arima” as a family name; the genealogy is shown to the left.

The Hasami ware produced in the upper and lower quarters of Hasami Village (Higashisonogi District) is said to have been initiated on Nagata-yama by Korean potters who returned with Lord Ōmura Shinpachirō Yoshizumi after the Korean campaigns. Yet the kiln lineages at Hasami were even more intricately mixed than elsewhere: one stream of the Minamikawara line moved in from the Kihara side, while another entered Muraki from Zemmongadani in Toshaku. Korean potters of the Takeo line crossed Jinroku-yama to Nagaoyama, and those of the Fujitsu line relocated toward Fudō-yama and Kobayama. Traffic to and from the Niwaki area is also plausible given the terrain.

Before the historical outline, a note on the lords: on October 8, Shōryaku 5 (994), Fujiwara Sumitomo’s second son, Naosumi, Assistant Governor of Tōtōmi, received three estates—Uchisonogi, Takaku, and Fujitsu—in Hizen. He resided at Kuhara Castle in Ōmura of the Sonogi estate and there adopted the surname Ōmura. In October, Bun’ei 11 (1274), when Kublai Khan’s fleets attacked Iki and Tsushima and pressed the Chikuzen coast, Ōmura Chikazane (Minbu Chikazumi), the eighth lord, fought stoutly under Dazai Shōni Kagesuke alongside Ryūzōji Sane’masu, the jitō of Saga.

In Kōan 4 (May 21, 1281), when the invaders returned, Ōmura Sumimune (Ise-no-kami), the ninth lord, fought with Matsuura (Hizen-no-kami) of Hirado, Gotō Ujiaki of Takeo, Ryūzōji Tokitoki of Saga, and Shiraishi no Michiyasu of Shiraishi, and drove them off. In the Nanbokuchō era, Ōmura Sumitō (Shintarō) and his son, together with Matsuura Sad— of Hirado, Aochi Kotarō (the monk Renga; posthumously Junior Fourth Rank) of Aochi, Gotō Mata Tarō Mitsuaki of Takeo, Ryūzōji Mata Tarō Ieyori of Saga, and Ōshima Jirō Michihide of Ōshima, sided with the Southern Court and diligently served the imperial cause. Under the fifteenth lord, Minbu no Taifu Sumiharu, Kōbu Castle was built at Fukushige; his son Shinano-no-kami Sumi’i built a castle at Imadome and established the seat at Ōmura.

In Bunmei 6 (1474), a succession dispute within the Ōmura house sparked conflict. On December 29 that year, Arima Shōkan of Takaku, the tenth lord, suddenly attacked Ōmura with 2,000 men. Sumi’i, outnumbered, fled from Matsubara to Hayaki, hid in Hirota Castle, and in 1476 took refuge on Kagara Island off Karatsu, enduring seven years of hardship. On August 15, 1480, he landed at Nabanosaki, fought the Arima, and then made peace by marrying Shōkan’s sister.

In Eiroku 2 (January 1559), Arima Sengan, son of Shōkan, attacked Chiba Tanren of Ogi to annex the area, sending his eldest son Chinzumi to lead Ōmura Sumitada, Saigō Sumihisa, Hirai Sumiji, Fukabori Sumikata, Gotō Sumiaki, and Imari Tadashi. Ryūzōji Takanobu aided Tanren; with Nabeshima Nobuo (Naoshige) as vanguard they fought fiercely at Ōmachi, and the Arima–Ōmura forces were heavily defeated. In March the 18th lord, Ōmura Sumitada (Tango-no-kami), laid out six blocks in Nagasaki’s Uchimachi as a port of call for “Southern Barbarian” ships.

In Eiroku 4, at newly opened Hirado, a misunderstanding due to the language barrier between a Portuguese merchantman and locals during a transaction escalated into a riot, and the senior padre and Captain Fernande Sousa, among others, were killed. Envious of Matsuura Takanobu’s import of exotic goods and superior arms via Hirado, Sumitada seized the moment and in Eiroku 5 (1562) opened Yokoseura (opposite Sasebo, next to Mizunoura in Nishisonogi). Thereafter the Portuguese ships that had gone to Hirado passed through the Hirado Strait and traded at Yokose.

In Eiroku 6, Gotō Sumiaki of Takeo invaded Ōmura to strike Sumitada, but Ōmura pre-empted and routed his camp, forcing the Takeo army back to Tsukazaki. The monk Ajison (Hōin) of Daichi-in on Mt. Kurokami and Gotō Echigo-no-kami Naoaki mediated with Ōmura Iyo-no-kami Sumishige, and peace was concluded.

Because Yokose was exposed to rough seas, at the repeated request of Portuguese captains it was moved to Fukuda (Nishisonogi) in Eiroku 11 (1568). Two years later, Sumitada selected Fukae (Fukutomi/Uchinōura) as the optimal trade port—this, in Genki 2 (March 1571), became Nagasaki.

On May 6, Tenshō 3 (1575), Matsuura Shigenobu of Hirado made terms with Ryūzōji Takanobu, sent Ōmagari Tsushima-no-kami with a written oath, and in Tenshō 5 advanced with the Ryūzōji host into Ōmura. Sumitada, exhausted, surrendered, and Takanobu brought Hizen under unified control.

In Tenshō 15 (1587) summer, Sumitada’s son Ōmura Yoshizumi made Nagasaki’s Uchimachi public land. On June 19 that year, Toyotomi Hideyoshi issued his edict expelling Jesuit (Kirishitan) missionaries. In Bunroku 1 (1593) Yoshizumi served in Korea; in Keichō 1 (1596) June he returned, but when peace collapsed he set out again in Keichō 2 (1597) January, and, after peace in October 1598, re-entered Hakata in November.

On September 11, Keichō 10 (1605), Yoshizumi further made Nagasaki’s Sotomachi and dependent villages public land, opened free trade with foreigners, and appointed Urakami as his代理. The local lord who strove for Nagasaki’s opening, Nagasaki Jinzayemon Sumikage—Yoshizumi’s brother-in-law—has the following rough lineage.

It is said that Taira no Sukemori’s grandson Moritsuna first took “Nagasaki” as a surname; his son Kotarō Shigetsuna settled at Fukae and served the Ōmura for generations. In Jōō (1222–1224), a castle was built on Karawatari-yama, called “Tsuru no Shiro.” Sumikage, eldest son of the 13th Sumikata, held 970 koku in Nagasaki Village and ruled the castle on Shuntokuji-yama; later he held 700 koku at Tokitsu. He was a Kirishitan and worked actively in propagation, while his younger brother Oribe-no-jō Tamehide brought today’s Suwa Shrine (a kokuhē chūsha) from Kyoto during Kōji (1555–1558) and promoted a Shinto national spirit.

An alternative genealogy claims that Taira no Shigemori’s grandson Shigegō was enfeoffed at Nagasaki in Izu, adopted “Nagasaki” as a surname, and that his descendant, Saburōzaemon the monk Shigen, served the Hōjō of Kamakura. When Nitta Yoshisada fell in May, Genkō 3 (1333), his son KageMoto escaped, went down to Hizen, and became the local lord at Fukae. When the 10th Sama-no-suke died without heir, Arima Takasumi’s third son Yasuzumi was adopted; his son was Jinzayemon Tameo—so it is told. The matter warrants further study.

Sumitada, finding himself disadvantaged against Ryūzōji for lack of matchlocks and artillery like Hirado, resolved to convert to Christianity and received baptism with the name DON, BARNOIOMEO. He obtained new weapons in Eiroku 5 (1562). At that time he borrowed 100 kan of silver from the Church and later repaid it annually with the land tax from Yamazato, Urakami, and Fuchi—villages adjacent to Nagasaki (all now within Nagasaki City).


【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]

在朝鲜之役中,岛原的有馬晴信率二千人, 大村的大村嘉前率一千人与松浦鎮信、五島盛季(五島福江城主)等同属行長的第一军,历经苦战后归国。 有馬氏与大村氏本为同族分出,藤津郷等地曾由两家轮流领有。 有馬氏本出自大村氏的嫡系,后改姓“有馬”。

东彼杵郡波佐见村上下两地出产的波佐见烧,相传为随大村新八郎嘉前自朝鲜之役归来的韩人(朝鲜出身者)在永田山创烧。然而,波佐见窑系较他处更为杂合:一支南川原系自木原一带迁来,或自户杓善门谷进入村木;武雄系韩人越神六山至永尾山,藤津系韩人转住不动山、木塲山。此外与庭木一带的往来,从地形看亦合情合理。

溯其缘起:正历五年十月八日(994年),藤原純友之次子、远江权介直澄领有肥前内彼杵・高來・藤津三庄,居彼杵庄大村之久原城,因而称“大村”。 文永十一年十月(1274年),元军大举侵壹岐・對馬,逼筑前沿岸时,八代大村民部親澄在太宰小貳景資麾下,与佐嘉地头职龍造寺左工門尉季益等合力防御。

弘安四年五月二十一日(1281年)外寇再来,九代大村伊勢守澄宗与平户松浦肥前守苔、武雄後藤三郎氏明、佐嘉龍造寺肥前守季時、白石六郎道恭等并肩奋战而击退。 南北朝期,十代大村新太郎澄遠父子等从南朝,勤王不怠。 十五代民部大輔純治筑好武城居之,其子信濃守純伊构筑今留之城,始定居大村。

文明六年(1474年)因宗家之争起兵。 十二月二十九日,高來十代有馬尚鑒率二千突袭大村。 純伊兵少败走,自松原渡速來潜于廣田城,八年又自佐々隐于唐津加々良島,忍辱七年。 同十二年八月十五日登陆南风崎,与有馬军战而中途和解,并娶尚鑒之妹。

永禄二年正月(1559年),有馬仙岩攻小城千葉胤連,遣长子鎮純统大村純忠等兵进击;龍造寺隆信援胤連,以鍋島信生(直茂)为先锋,大战于大町,有馬・大村诸军大败退去。 三月,十八代大村丹後守純忠整备长崎村内町六町为南蛮船入津之所。

永禄四年,平户开港后,因与葡萄牙商船语言不通致交易冲突,酿成大乱,长老伴天连及船长费尔南德·索萨等数十人被杀。 純忠仰慕松浦隆信以平户输入文明珍物与精良武器,遂于永禄五年开自领横瀬浦,自此葡船越雷ヶ瀬戸至横瀬贸易。

永禄六年,武雄後藤純明侵大村,然大村军先发制人,击退其营,武雄军退至塚崎。 时由黑髪山大智院法印阿尊、後藤越後守尚明与大村伊豫守純重调停而和议。

因横瀬港多风浪,依葡船长再三所请,永禄十一年(1568年)移至福田港,翌二年又定深江浦(福富浦・瓊之浦)为贸易港,即元龟二年三月(1571年)之长崎。

天正三年五月六日(1575年),平户松浦鎮信与龍造寺隆信结好,天正五年合军进大村,純忠力尽而降,隆信遂统一肥前。

天正十五年(1587年)夏,大村嘉前将长崎内町定为公地。 同年六月十九日,豐臣秀吉颁布驱逐耶稣会(切支丹)宣教師之令。 文禄元年(1593年)嘉前从军赴朝,慶長元年(1596年)六月暂归,和议破裂后于同二年正月再出兵,同三年十月议和,十一月还博多。

慶長十年九月十一日(1605年),嘉前又将长崎外町与属邑为公地,准与外人自由贸易,以浦上为其代理。 推动开港之邑主长崎甚左工门純景为嘉前妹婿,其系略如左。 其先据传自平資盛之孙盛綱始姓“長崎”,世居深江浦,貞应年间筑城于唐渡山称“鹤之城”。 純景有長崎村九百七十石,后领時津七百石,为切支丹信徒而致力布教;其弟織部允爲英则于弘治年间自京都奉迎今之諏訪神社,鼓吹神國主義。

另有系谱之别说:平重盛之孙重鄉受封伊豆国長崎村而姓長崎,其裔三郎左工門入道思元仕鎌倉北條氏。 元弘三年(1333年)五月新田義貞战死时,其子勘解由左工門爲基突围南下肥前,至深江浦为邑主。 十代左馬助无子,纳有馬貴純三男康純为嗣,其子为甚左エ門爲雄云云。 此事尚俟研究。

純忠与龍造寺交战时,恨无石火矢与铁炮,遂决意改宗为切支丹,受洗名 DON, BARNOIOMEO。 永禄五年(1562年)得新式武器,并向教会借银百贯,后以山里村・浦上村・淵村(今皆属长崎市)年贡逐年偿还。


【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditional from Japanese]

在朝鮮之役中,島原的有馬晴信率二千人, 大村的大村嘉前率一千人,與松浦鎮信、五島盛季(五島福江城主)同隸行長第一軍,歷經苦戰後歸國。 有馬氏與大村氏本為同族分出,藤津郷等地曾由兩家輪流領有。 有馬氏原出大村氏嫡系,後改姓「有馬」。

東彼杵郡波佐見村上下兩地所產之波佐見燒,相傳為隨大村新八郎嘉前自朝鮮之役歸來的韓人(朝鮮出身者)於永田山所創。然而,波佐見窯系較他處更為混雜:一支南川原系自木原一帶遷入,或自戶杓善門谷入村木;武雄系韓人越神六山至永尾山,藤津系韓人轉住不動山與木塲山。此外與庭木一帶往來,從地形觀之亦屬情理。

追述沿革:正曆五年十月八日(994年),藤原純友之次子、遠江權介直澄領肥前內彼杵・高來・藤津三莊,居彼杵莊大村之久原城,因而姓「大村」。 文永十一年十月(1274年),元軍大擧侵壹岐・對馬,迫近筑前海岸時,八代大村民部親澄在太宰小貳景資麾下,與佐嘉地頭職龍造寺左工門尉季益等共禦之。

弘安四年五月二十一日(1281年)外寇再來,九代大村伊勢守澄宗與平戶松浦肥前守苔、武雄後藤三郎氏明、佐嘉龍造寺肥前守季時、白石六郎道恭等奮戰而卻之。 南北朝期,十代大村新太郎澄遠父子等從南朝,勤王不懈。 十五代民部大輔純治築好武城居之,其子信濃守純伊築今留之城,始定居大村。

文明六年(1474年)宗家爭端起兵。 十二月二十九日,高來十代有馬尚鑒率二千突襲大村。 純伊兵寡不敵,自松原渡速來潛於廣田城;八年又自佐々匿於唐津加々良島,忍辱七年。 同十二年八月十五日登陸南風崎,與有馬軍交戰,中途言和,納尚鑒之妹為室。

永祿二年正月(1559年),有馬仙岩攻小城千葉胤連,遣長子鎮純率大村純忠等進擊;龍造寺隆信援胤連,以鍋島信生(直茂)為先鋒,大戰於大町,有馬・大村諸軍大敗。 三月,十八代大村丹後守純忠整備長崎村內町六町為南蠻船入津之地。

永祿四年,平戶開港後,因與葡萄牙商船語言不通致交易衝突,終釀大亂,長老伴天連及船長費爾南德・索薩等數十人被殺。 純忠慕松浦隆信以平戶輸入文明珍物與精良武器,遂於永祿五年開自領橫瀨浦,自此葡船越雷ヶ瀬戸至橫瀨通商。

永祿六年,武雄後藤純明侵大村,然大村軍先發制人,擊潰其營,武雄軍退至塚崎。 時由黑髮山大智院法印阿尊、後藤越後守尚明與大村伊豫守純重調停而締和。

因橫瀨港多風浪,依葡船長屢請,永祿十一年(1568年)移至福田港;又於翌二年定深江浦(福富浦・瓊之浦)為貿易港,即元龜二年三月(1571年)之長崎。

天正三年五月六日(1575年),平戶松浦鎮信與龍造寺隆信交通,天正五年合軍入大村,純忠力竭而降,隆信遂統一肥前。

天正十五年(1587年)夏,大村嘉前定長崎內町為公地。 同年六月十九日,豐臣秀吉頒布驅逐耶穌會(切支丹)宣教師之令。 文祿元年(1593年)嘉前出兵朝鮮,慶長元年(1596年)六月暫歸,和議破裂後於同二年正月再出兵,同三年十月議和,十一月還博多。

慶長十年九月十一日(1605年),嘉前又以長崎外町及屬邑為公地,許與外人自由通商,以浦上為代理。 力促開港之邑主長崎甚左工門純景為嘉前妹婿,系譜略如左。 其先傳自平資盛孫盛綱始姓「長崎」,世居深江浦,貞應年間築城於唐渡山稱「鶴之城」。 純景有長崎村九百七十石,後領時津七百石,為切支丹信徒而力行布教;其弟織部允爲英則於弘治年間自京都奉迎今之諏訪神社,鼓吹神國主義。

系譜另有異說:平重盛孫重鄉封於伊豆國長崎村而姓長崎,其裔三郎左工門入道思元仕鎌倉北條氏。 元弘三年(1333年)五月新田義貞戰死時,其子勘解由左工門爲基突圍南下肥前,至深江浦為邑主。 十代左馬助無子,納有馬貴純三男康純為嗣,其子為甚左エ門爲雄云云。 此說尚待研究。

純忠與龍造寺交戰時,恨無石火矢與鐵砲,遂決意改宗為切支丹,受洗名 DON, BARNOIOMEO。 永祿五年(1562年)得新式武器,並向教會借銀百貫,以長崎近郊山里村・浦上村・淵村(今皆長崎市)年貢逐年償還。


【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]

在壬辰倭乱期间,岛原的有馬晴信率领2000人,大村的Ōmura Yoshizumi率1000人与松浦鎮信、後藤盛季等同属小西行長第一军,苦战后撤回。 有馬氏与大村氏同出一宗,藤津郷等地曾由两家轮替掌握;有馬氏本为大村嫡流,后改姓“有馬”。

波佐见烧据称由随大村新八郎嘉前归来的朝鲜陶工在永田山创烧;其窑系极为混杂:南川原系自木原或自户杓善门谷入村木;武雄系越神六山至永尾山;藤津系转往不动山与木塲山;与庭木方向往来也合乎地形。

正历五年(994年),远江权介直澄据肥前三庄,居久原城而姓“大村”。 文永十一年(1274年)元军南侵,八代大村民部親澄在太宰小貳景資麾下,联手龍造寺季益等御敌。 弘安四年(1281年)再寇来袭,九代大村澄宗与诸将合力击退。 南北朝时,大村氏诸人从南朝,十五代純治筑好武城,子純伊筑今留城,始定居大村。

文明六年(1474年)宗家纷争,有馬尚鑒以2000人袭大村;純伊败走,隐于廣田城,后避唐津加々良島七年;1480年南风崎上岸战而和,娶尚鑒之妹。

永禄二年(1559年)有馬仙岩攻小城千葉胤連,龍造寺隆信援之,鍋島直茂先锋,大町之战有馬・大村败退。 三月大村純忠整六町为南蛮船港。 永禄四年平户因交易误解致骚乱,葡萄牙神父与船长费尔南德·索萨等遇害。 永禄五年純忠开横瀬浦,自此葡船转往横瀬贸易。

永禄六年後藤純明侵大村而败,被调停后缔和。 因横瀬多风浪,永禄十一年移至福田,元龟二年(1571年)又定深江浦为贸易港,即后来的长崎。

天正三—五年(1575–1577年),松浦鎮信与龍造寺隆信合军入大村,純忠降,隆信统一肥前。 天正十五年(1587年) Ōmura Yoshizumi将长崎内町设为公地;6月19日豐臣秀吉颁布驱逐传教士令。 文禄元年(1593年)他出征朝鲜;慶長元年(1596年)返国,次年再征;1598年十月议和,十一月归博多。

慶長十年(1605年)九月十一日,他又将外町与属邑为公地,允许对外自由贸易,并以浦上为代理。 助力开港的长崎甚左工门純景为其妹婿。 长崎氏相传自平資盛孙盛綱始姓,世居深江浦,貞应年间筑“鹤之城”;純景为春德寺山城主,后领時津七百石,笃信切支丹;其弟於弘治年间自京都迎现今諏訪神社,鼓吹神国主义。

另说谓长崎氏出自平重盛后裔,元弘三年(1333年)思元之子爲基脱围至肥前、为深江浦邑主;十代左馬助无嗣,纳有馬貴純三子康純为嗣,其子为甚左エ門爲雄。

大村純忠为求火器而受洗为 DON, BARNOIOMEO,永禄五年(1562年)得新武器;向教会借银百贯,以山里、浦上、淵等村年贡逐年偿还。


【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]

於壬辰倭亂之時,島原有馬晴信率二千人,大村Ōmura Yoshizumi率一千人,與松浦鎮信、後藤盛季等同屬小西行長第一軍,苦戰後撤返。 有馬氏與大村氏同源,藤津郷曾為兩家所更迭;有馬氏原為大村嫡系,後改姓「有馬」。

波佐見燒相傳為隨大村新八郎嘉前歸來之朝鮮陶工於永田山所創;其窯系多端:南川原系由木原或自戶杓善門谷入村木;武雄系越神六山至永尾山;藤津系轉至不動山與木塲山;與庭木方向往來亦合乎地形。

正曆五年(994年)遠江權介直澄據肥前三莊,居久原城而姓「大村」。 文永十一年(1274年)元軍南侵,八代大村民部親澄於太宰小貳景資麾下,聯同龍造寺季益等禦敵。 弘安四年(1281年)復寇,九代大村澄宗合諸將擊退。 南北朝時,大村氏屬南朝;十五代純治築好武城,子純伊築今留城,始定居大村。

文明六年(1474年)宗家內訌,有馬尚鑒率二千襲大村;純伊敗走,匿廣田城,後避唐津加々良島七年;1480年登陸南風崎作戰而和,娶尚鑒之妹。

永祿二年(1559年)有馬仙岩攻小城千葉胤連;龍造寺隆信援之,鍋島直茂先鋒,大町之戰有馬・大村敗退。 三月大村純忠整六町為南蠻船港。 永祿四年平戶因交易誤會致亂,葡萄牙神父與船長費爾南德・索薩等遇害。 永祿五年純忠開橫瀨浦,自此葡船轉赴橫瀨通商。

永祿六年後藤純明侵大村而敗,經調停締和。 因橫瀨多風浪,永祿十一年移至福田;元龜二年(1571年)又定深江浦為貿易港,即後來之長崎。

天正三—五年(1575–1577年)松浦鎮信與龍造寺隆信合軍入大村,純忠降,隆信統一肥前。 天正十五年(1587年) Ōmura Yoshizumi定長崎內町為公地;六月十九日豐臣秀吉頒驅逐傳教士令。 文祿元年(1593年)出征朝鮮;慶長元年(1596年)返國,翌年再征;1598年十月議和,十一月還博多。

慶長十年(1605年)九月十一日,又以外町與屬邑為公地,許對外自由貿易,任浦上為代理。 助開港者長崎甚左工門純景為其妹婿。 長崎氏傳自平資盛孫盛綱始姓,世居深江浦,貞應年間築「鶴之城」;純景為春德寺山城主,後領時津七百石,篤信切支丹;其弟於弘治年間自京都迎今之諏訪神社,倡導神國主義。

又有異說:長崎氏出平重盛後,元弘三年(1333年)思元子爲基突圍至肥前,為深江浦邑主;十代左馬助無嗣,納有馬貴純三子康純為嗣,其子為甚左エ門爲雄。

大村純忠為求火器而受洗名 DON, BARNOIOMEO;永祿五年(1562年)得新武器,向教會借銀百貫,以山里・浦上・淵等村年貢逐年償還。