木原茶出し~三山中第一の生産額

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【原文】[Original text]

木原茶出し
 而して磁器に轉換されし木原窯も火口アンコ丈は永年陶器を焼きものゝ如く、それは多く青藥を掛けし土瓶であり、之が俗にいふ木原茶出しである。明治十年頃より型打染附の模樣法行はれ、茶漬茶碗や小ぶく茶碗、及菊の煎茶々碗等、重に下手物が製作されたのである。

大川内流れ
 明治十七八年頃、大川内なる鍋島藩窯にありし、元御用工人等流れつてより、此地の製品大いに面目を改めしといはれてゐる。 就中當時來往せし名工加々良傳八(大川内藩窯の名工萬平の男)に就いて、轆轤の技法を鍛練せし者が今の横石臥牛である。

横石家の本系考
 前記の横藤とは、彼の天草石の使用を見せし橫石藤七兵衛の後代にて、彼は又俳諧を善くし、特に松浦藩主の知遇をうけ、木原山の擔當者であつた。今地臓平の墓地にある石碑には享和二年六月十二日卒法であるが、之は孫の藤七兵衛であらう。其子藤次兵衛は文化十五年正月二十日に卒去し、そこに墓碑がある。其子嘉助といふのが、二本松淨漸寺の過去帳にある、元治元年(1864年)七月五日卒去の者であるらしい。
 嘉助の長子が久九郎子が鹿吉である、久九郎の子が常太郎、邦三(湯口邦山)の兄弟にて、常太郎の子丑之助が乃ち今の臥牛である。而して嘉助は如何なる都合ありしか次男鹿吉をして宗家を継がしめてゐる、故に此内が御本陣として松浦藩主は屢此處に來泊されてゐる。そして鹿吉の子が今の門吉である。

御本陣來泊
 藩主松浦凞は、或年唐津獅子ヶ城(厳木村)なる、祖先峯氏の墓参の歸途、正月の十四日橫石嘉助宅へ一泊し、翌十五日は三河内の今村槌太郎宅へ一泊せし記録がある。次には明治十四年十一月舊藩主松浦厚は、舎弟靖を同道して横石鹿吉宅へ一泊せられてゐる。其當時藩士より鹿吉へ送りし書面に左の如きものがある。

前略 若殿様御事靖様御同道にて一月六日より天氣次第地方筋御舊領御巡覧被遊候其時分木原三河内山も御立寄被遊舊御堺目御覧被成候其筋は共許宅にて 殿様御代より御立寄被成候場所に御休相成候と存候殊に寄り御一泊被遊候儀も可有之拙者も御供致申候何も指支無之は御本陣に相成候様頼入候皆々御供も有之十四五人の事に相成可申下宿も入可申御家來の仲間其他中泊無不都合致被置度候云々
明治十四年十一月二十日
安藤藤二 花押
横石鹿吉殿
尚外に一通の注意書が添へてある。

一御膳具は平常用ひ不申品焼物にてよろしく御二方樣用意可致事
召上り物とても唯御茶漬位にてよろしき事
一御夜具は木綿にて宜敷成精淨にいたして可被置事
外に御茶菓子にも有合位御酒迚も少々御肴など有之候へばよろしく候事
右心遣申入候也

大神宮施主の窯焼人名
 下窯の隣地なる大神宮碑には、施主として元祿時代に於ける木原窯焼の人名が彫刻されてある、其人々は池田伊左エ門、丸田孫太夫、湯口又右工門、同又左工門、石丸彌一兵衛、同彌兵衛、同十左工門、石田彌五六、岩永傳右工門、九田平右工門、山口新兵衛、横石佐次右工門、樋口九工門等にて、元祿九年子四月十一日(1696年)と記されてある。近代の代表的窯焼としては左の二人であらう。

石丸 六郎 明治四十四年六月二十日卒五十五才
横石 鹿吉 大正十四年九月六日卒八十六才

木原の名工
 往年木原山の名工として、石田伊之助があつた、彼は出雲や伊像等の陶山へ遊歴し技術を錬磨し、常に優秀なる作品を製出した。
又山田宗次郎と稱する名畫工ありしが、天保年間伊豫の砥部山に於いて卒去し、其他筑前須惠陶山の者にて松永吉藏とする轆轤の名手があつた。

横石臥牛
 現代に於いては横石臥牛であらう、彼は古陶のイミテートに巧妙なる技術を有し、或は其眞偽を迷はしむるまでに摸作の名手である。
 要するに木原の磁器は、未だ往年に於ける刷毛目當時の異彩を發揮せざるが如きも將來日用品の製造に依って、意匠圖案の研究に精進し、特に光輝ある製品をすべく努力すべきであらう。現代窯焼としては尾崎久之亟、本石仙一等にて今や戸數六十戸三河内驛より一里半程の山地である。

江永山
 江永山は、木原山より山一つ越せし隣地にて、創業は寛永十年(1633年)木原より分窯せしといはれてゐる。

江永の古窯と西窯
 此處の古窯には古窯と西窯とがあり何れも多くの古陶片が出現する。それは概して木原と大同小異にて、乃ち例の灰色釉や飴色釉等に、白の渦刷毛目や縞刷毛目を施せしものや、又巧みに櫛目を文飾せしものがある。
 磁器時代となりし初期の古窯品には、染附草畫の薄鼠色の深茶碗や、同じく粗拙な岩に松竹梅を描きしもの、或は芋山水繪の丸茶碗があり、又青磯小氷裂出の中皿を、蛇の目積にせものや、同磯手にて喇叭形五寸の花立等がある。

折尾瀬の燃料缺乏
 延寶時代となり此地方一帶の陶業盛況を来すと共に、各山の窯焼は薪材の購入に窮することゝなつた。殊に當時は此界隈の道路甚悪く、他村よりの燃料運搬は頗る困難であつた。木原の如きは其價格の騰貴に苦しみ、天和年間橫石長右工門、江永山に移住して工場を開始せしも、元祿の始めには、有田の小島某又移り來りて製陶を始むるに及び、此地も亦彌々燃料の缺乏を告ぐるに至った。

三山の山林拂下出願
 依つて元祿五年(1692年)藩主松浦信へ、製造地附近の山林下附を出願し、三河内は臨時藩用薪木山林として、荒平、笹の谷、炭釜の谷三ヶ所十町餘歩を、そして江永山木原山は、十町步宛を下附されたのである。同十一年(1698年)には再び三河内山五十町步木原、江永、兩山にて五十町歩の地渡山林の許可を出願した。
 此時三河内山の出願者は、皿山代官井手甚五兵衞、皿山頭梁今村如猿、御繪師田中與兵衛、御山方志方佐五右エ門、三河内山庄屋口石長右工門、五人頭金氏太左工門、同古川甚右工門、書記高橋善兵衛等であつた。
江永、木原も前述の如く、五年の時十町歩宛を無償にて下附されしも、尚將來の拂底に備ふるため、木原の庄屋石丸彌一兵衛は、江永の庄屋横石長右工門へ相談せしところ、長石工門次男利右工門は、幸ひ時の御山奉行立石伊左工門譜代の配下なる縁故を以て、更に江永觸なる全部の山林讓與を合せて再願したのである。
 然るに伊左工門は、既に前年許可せし理由を以て三山の再出願に應じなかったのである。其後伊左工門は、偶々此地方の山林踏査に来りしかば、利右工門は機措く可からずとなし、山目附役人等と立會の時刻を見計らひ、江永山上にて酒宴を催ほして大いに一行を歡待した。

おみな酒盛
 そして宴酣なる頃、此村の小町といはれしおみなが、柴刈に來合はせしを提へて、宴席に侍らしめ、途に伊左工門の許可を得るに至り、僅少の租金を納付して、三山共に其目的を達し、江永、木原をして明治十五年頃まで、全く燃料缺乏の憂なからしめたので、今にも此山上をおみな酒盛塲とて、肥沃の林地に此エピソードが残されてゐる。

三山中第一の生産額
 江永の磁器は、三河内と異り日用品を主眼として製造され、好況時には戸數百餘戶、窯燒十五六戸ありしも、現在の戸数は八十許りである。而して産額に就いては、現今の不況と雖も何十五六萬圓を繋げてゐるところ、三山中第一の生産地として活氣を呈してゐる。種類は木原と同じく重に食器類にて窯焼には山口清三郎、小栗卯平、立石丑太郎、立石君義、山口光僑、森勝次等がある。


【現代語訳】[Modern Japanese translation]

木原窯は磁器へ転換した後も、火口(アンコ)まわりだけは長く陶器を焼き続けた。主に青釉を掛けた土瓶で、俗に「木原茶出し」と呼ばれる。明治10年頃からは、型打ちによる染付模様が流行し、茶漬茶碗・小ぶく茶碗・菊文の煎茶碗など、いわゆる下手物の量産が進んだ。

明治17〜18年頃には、大川内の鍋島藩窯から旧御用工が流入し、当地の製品は大きく水準が上がった。とりわけ加々良傳八(名工萬平の子)に学び、轆轤技法を鍛えたのが、現代の横石臥牛である。

「横藤」とは、天草石の使用で知られる横石藤七兵衛の後裔で、俳諧にも長じ、松浦藩主の信任厚い木原山担当者であった。地蔵平の墓碑には享和2年6月12日没とあるが、これは孫の藤七兵衛とみられる。子の藤次兵衛は文化15年1月20日没、さらにその子の嘉助は二本松淨漸寺過去帳に元治元年(1864)7月5日没と記される。嘉助の長子は久九郎、その子が鹿吉で、久九郎の子に常太郎・邦三(湯口邦山)がいる。常太郎の子・丑之助が、今の横石臥牛である。嘉助は事情あって次男の鹿吉に宗家を継がせ、この家が御本陣となり、松浦藩主もしばしば来泊した。鹿吉の子が現在の門吉である。

記録によれば、松浦凞はある年、唐津獅子ヶ城(厳木村)にある祖先・峯氏の墓参の帰途、1月14日に横石嘉助宅、15日に三河内の今村槌太郎宅に泊まった。明治14年11月には旧藩主松浦厚が弟・靖とともに横石鹿吉宅に一泊している。藩士から鹿吉へ送られた案内状は要旨こうである――「若殿様は靖様同道で1月6日から天候次第で旧領巡覧。木原・三河内山にもお立ち寄りの見込み。従前の本陣として貴邸でご休泊いただきたい。供回りは14〜15人、下宿も入る。家来の中泊など不都合なきよう」。併せて注意書きには、食器は普段使わぬ焼物を、食事は茶漬程度、夜具は清潔な木綿、茶菓子・少量の酒肴の用意、と細かく指示がある。

下窯隣の大神宮碑には、元禄期の木原窯焼の施主名が刻まれる。池田伊左エ門、丸田孫太夫、湯口又右工門・又左工門、石丸彌一兵衛・彌兵衛・十左工門、石田彌五六、岩永傳右工門、九田平右工門、山口新兵衛、横石佐次右工門、樋口九工門等。銘文は元禄9年子4月11日(1696)。近代の代表的窯焼は石丸六郎(明治44年6月20日没、55歳)と横石鹿吉(大正14年9月6日没、86歳)。

木原山の名工として石田伊之助がいる。出雲や伊像など各陶山を遊歴して腕を磨き、秀作を多く残した。名絵工・山田宗次郎は天保期に伊豫砥部山で没。筑前須惠の松永吉藏は轆轤の名手として知られた。

現代では横石臥牛が抜きん出る。古陶の模作に巧みで、真贋を惑わすほどの腕前である。総じて木原の磁器は、往時の刷毛目の異彩をまだ十分に示していないが、今後は日用品を軸に意匠研究を深め、輝きある製品づくりに努めるべきだ。現在の窯焼は尾崎久之亟、本石仙一ら。戸数は約60、三河内驛から一里半ほどの山地にある。

江永山は木原山の隣で、創業は寛永10年(1633)。木原からの分窯と伝わる。当地には「古窯」と「西窯」があり、出土片は木原と大差なく、灰色釉・飴色釉に白の渦・縞刷毛目、櫛目文様などが見られる。磁器化初期には、薄鼠の深茶碗に草文の染付、粗い岩に松竹梅を描いたもの、芋山水の丸茶碗、青磯の小氷裂が出る中皿の蛇の目積、同手の喇叭形五寸花立などがある。

延宝期、地域一帯が繁忙となると薪の購入に窮した。道路事情も悪く、他村からの運搬は困難で、木原では薪価高騰に苦しむ。天和期に横石長右工門が江永へ移住して工場を起こし、元禄初めには有田の小島某も来住して製陶を始めたため、ここも燃料不足に悩むようになった。

そこで元禄5年(1692)、藩主松浦信に製造地周辺の山林下付を出願。三河内には荒平・笹の谷・炭釜の谷の計十町余を臨時藩用の薪木山林として、江永・木原には各十町歩が下付された。さらに元禄11年(1698)には、三河内50町歩、木原・江永合せて50町歩の地渡山林を再申請。三河内の出願者は井手甚五兵衞(皿山代官)、今村如猿(皿山棟梁)、田中與兵衛(御絵師)、志方佐五右エ門(御山方)、口石長右工門(庄屋)、金氏太左工門・古川甚右工門(五人頭)、高橋善兵衛(書記)らであった。

江永・木原は先の10町歩を無償下付されていたが、将来の逼迫に備え、木原庄屋・石丸彌一兵衛が江永庄屋・横石長右工門に相談。長右工門の次男・利右工門が、御山奉行・立石伊左工門の譜代配下という縁を頼み、江永觸一帯の山林譲与を合わせて再願した。だが伊左工門は前年許可を理由に応じず。その後、彼が巡視に来た折、利右工門は山目付らの立会い時刻を見計らい、江永山上で酒宴を催して厚くもてなした。

宴もたけなわの頃、村一番の小町・おみなが柴刈りの途次に居合わせたとして席に侍らせ、ついに許可を得た。以後は僅かな租金で三山とも目的を達し、江永・木原は明治15年頃まで燃料不足の憂いがなかった。今もその山上は「おみな酒盛塲」と呼ばれ、豊かな林地とともに逸話が伝わる。

江永の磁器は三河内と異なり日用品中心で、好況期に戸数百余、窯焼15〜16戸、今はおよそ80戸。不況下でも年産15〜16万円を維持し、三山随一の規模で活気がある。品種は木原同様に食器が主で、窯焼は山口清三郎、小栗卯平、立石丑太郎、立石君義、山口光僑、森勝次らである。


【英語訳】[English translation]

After Kihara kilns shifted to porcelain, the firemouth area (anko) kept producing earthenware for many years—mostly blue-glazed teapots popularly called “Kihara cha-dashi.” From around 1877, press-molded stencil blue-and-white designs became fashionable, and large runs of everyday wares—rice-tea bowls, small teacups, and chrysanthemum-pattern sencha cups—were made as low-grade goods.

Around 1884–85, former official craftsmen from Nabeshima’s Ōkawachi domain kiln drifted to the area, markedly raising product quality. Notably, Yokoishi Gagyū trained his wheelwork under the visiting master Kagaro Denpachi (son of the famed Manpei).

“YokofujI” refers to a later descendant of Yokoishi Tōshichibee, known for adopting Amakusa stone. A poet favored by the Matsuura lords, he managed Kihara mountain works. A stele at Jizō-daira records a death on June 12, 1802—likely the grandson Tōshichibee. His son Tōjibee died January 20, 1818; Tōjibee’s son Kasuke appears in the Ninonmatsu Jōzen-ji register as dying July 5, 1864. Kasuke’s line runs: Kyukurō → (second son) Kagakichi (who inherited the main house) → Kagakichi’s son Mongichi; from Kyukurō’s line came Jōtarō and Kunzō (Yuguchi Hōzan). Jōtarō’s son Ushinosuke is today’s Gagyū. The main house served as a honjin (official lodging), and the Matsuura lords often stayed there.

Records note that Matsuura Hiromu, returning from visiting the ancestral Mine graves at Karatsu Shishiga-jō (Kiwatake-mura), lodged at Yokoishi Kasuke’s on January 14 and at Imamura Tsuchitarō’s in Mikawachi on the 15th. In November 1881, former lord Matsuura Atsu, with his brother Yasushi, also stayed at Yokoishi Kagakichi’s. An accompanying letter to Kagakichi requested the house as the honjin, estimating a party of 14–15, with simple provisions: unused ceramic tableware, a light meal (rice-tea), clean cotton bedding, some tea sweets, and a little sake with side dishes.

A shrine stele beside the Shimogama kiln lists donors—Kihara kiln men of the Genroku era—such as Ikeda Izaemon, Maruta Magodayū, Yuguchi Mattaemon/Matta-zaemon, Ishimaru Yaichibee/Yabe/Jūsazaemon, Ishida Yagoroku, Iwanaga Den’emon, Kuta Heizaemon, Yamaguchi Shinbē, Yokoishi Saji-emon, Higuchi Kyū-emon, dated April 11, 1696. More recent exemplars: Ishimaru Rokurō (d. June 20, 1911, 55) and Yokoishi Kagakichi (d. Sept 6, 1925, 86).

Master artisans of Kihara included Ishida Inosuke—who toured kilns in Izumo and Izo, honing his craft and producing fine works—painter Yamada Sōjirō (d. in Tobe, Iyo, during Tenpō), and the wheel virtuoso Matsunaga Kichizō of Chikuzen Sue. Today, Yokoishi Gagyū stands out, famed for masterful reproductions that can even confound connoisseurs. Overall, Kihara porcelain has yet to recapture the striking brush-pattern brilliance of old; the path forward is to focus on daily-use wares, refine design, and aim for radiantly finished products. Current kilns include Ozaki Hisanojo and Honseki Sen’ichi; about 60 households operate in hill country roughly 1.5 ri from Mikawachi Station.

Eienaga-yama, over the ridge from Kihara, is said to have begun in 1633 as a Kihara branch kiln. Two sites—“Kogama” and “Nishigama”—yield abundant shards much like Kihara’s: gray and amber glazes with white swirl or stripe brush-work and neat comb patterns. Early porcelain pieces include pale-gray deep bowls with grass-sketch underglaze, rough pine-bamboo-plum on rocky grounds, “imo-landscape” round bowls, small plates with “ao-iso” micro-crackle finished as “snake-eye,” and five-sun trumpet vases in the same body.

As prosperity rose in the Enpō era, fuel purchases became difficult. With poor roads, hauling firewood from other villages was hard; Kihara suffered soaring prices. In Tenna, Yokoishi Chōuemon moved to Eienaga to start a works; early in Genroku, a Kojima from Arita did likewise, and fuel shortages struck there too.

Thus in 1692 petitions went to Lord Matsuura Nobu for nearby forest grants. Mikawachi received over ten chō (Arahira, Sasa-no-tani, Sumikama-no-tani) as temporary domain fuel forests; Eienaga and Kihara each got ten chō. In 1698, a second petition sought 50 chō for Mikawachi and 50 combined for Kihara and Eienaga. Applicants included Ide Jingobē (plate-kiln steward), Imamura Jōen/Nyōen “Jozaru” (chief), painter Tanaka Yoheibē, mountain office Shikata Sa-goe-mon, village head Kuchi-ishi Chō-emon, five-man heads Kan-shi Ta-za-emon and Furukawa Jin’emon, and clerk Takahashi Zenbē.

Kihara and Eienaga had earlier received ten chō each free of charge, but to avert future shortages, Kihara headman Ishimaru Yaichibee and Eienaga headman Yokoishi Chōuemon conferred. Chōuemon’s second son, Ri-emon—being in the retinue of mountain magistrate Tateishi Izaemon—leveraged the tie to re-apply for all forests in the Eienaga fief. Izaemon initially refused, citing the prior year’s grant. Later, during his field inspection, Ri-emon hosted a banquet atop Eienaga-yama for the magistrate and inspectors.

At the height of the feast, the village beauty “Omina,” said to have come by while gathering brushwood, was invited to attend. The permit was granted; with a token ground rent, all three kiln districts achieved their aim, and Eienaga and Kihara had no fuel woes until about 1882. To this day the hilltop is called the Omina-Sakemori site, the tale living on amid rich woodlands.

Unlike Mikawachi, Eienaga focused on daily-use wares: at its peak over a hundred households and 15–16 firing shops; today about eighty. Even in slump years, output totals ¥150,000–160,000, making it the most productive of the three kiln regions. Mainlines are tablewares like Kihara’s; active firers include Yamaguchi Seizaburō, Oguri Uhei, Tateishi Ushitō, Tateishi Kimiyoshi, Yamaguchi Mitsunori, and Mori Katsuji.


【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]

木原窑转向瓷器后,火口(アンコ)一带仍长期烧陶器,多为施青釉的土瓶,俗称“木原茶出し”。明治10年前后,压模染付流行,茶泡饭碗、小ぶく茶碗与菊纹煎茶碗等下等品大量生产。

明治17—18年间,大川内的鍋島藩窑旧御用工人流入,当地制品水平大幅提升。其中特别是横石臥牛从加々良傳八(萬平之子)受教,苦练轆轤技法。

“横藤”系横石藤七兵衛后裔,因用天草石著名。其人亦善俳谐,深得松浦藩主器重,掌木原山事务。地藏平碑记享和2年6月12日卒,疑为孙藤七兵衛。子藤次兵衛卒于文化15年1月20日;其子嘉助据二本松淨漸寺过录,元治元年(1864)7月5日卒。嘉助长子久九郎,其子鹿吉;久九郎之子常太郎、邦三(湯口邦山),常太郎之子丑之助即今之臥牛。因嘉助令次子鹿吉承宗家,此宅为御本陣,松浦藩主屡次来宿。鹿吉之子为今之門吉。

记载又称,松浦凞某年墓参唐津獅子ヶ城(厳木村)归途,正月14日宿横石嘉助宅,15日宿三河内今村槌太郎宅。明治14年11月,松浦厚与弟靖亦宿横石鹿吉宅。随行书函请其宅为本陣,随员14—15人,并附注意:用平日不用之器物(烧物),膳仅茶泡饭,夜具为清洁木棉,备少量茶菓与酒肴。

下窑旁大神宫碑刻有元禄期木原窑烧施主:池田伊左エ門、丸田孫太夫、湯口又右工門等,纪年1696年4月11日。近代代表者有石丸六郎(1911年卒,55岁)、横石鹿吉(1925年卒,86岁)。

木原名工有石田伊之助(周游诸陶山精进)、名画工山田宗次郎(天保期卒于伊豫砥部山)、轆轤名手松永吉藏(筑前須惠)。今以横石臥牛最著,仿古造诣高,至能惑人。概而言之,木原瓷尚未重现昔日刷毛目之异彩,今后宜以日用品为轴,精研图案,求成光彩之作。现窑为尾崎久之亟、本石仙一等,户数约60,距三河内驿约一里半山地。

江永山在木原之邻,相传创于寛永10年(1633),为木原分窑。地有“古窑”与“西窑”,出土与木原近似:灰釉、飴釉上施白色漩涡或条纹刷毛目,并有精巧櫛目。瓷器化初期之物有淡灰草画染付深碗、粗绘松竹梅、芋山水圆碗、青磯小开片中皿之蛇目积、同胎喇叭形五寸花立等。

延宝期景气兴盛,薪材购置艰难,道路不佳,运材不易;木原饱受薪价高腾。天和期横石長右工門移居江永设厂,元禄初又有有田小島某来此制陶,江永亦渐告燃料不足。

故于元禄5年(1692)向松浦信请给周边山林:三河内得荒平、笹の谷、炭釜の谷十町余为藩用薪林;江永、木原各十町。元禄11年(1698)再请:三河内50町,木原与江永合50町。出愿者有井手甚五兵衞、今村如猿、田中與兵衛、志方佐五右エ門、口石長右工門、金氏太左工門、古川甚右工門、高橋善兵衛等。

江永、木原虽已受无偿十町,仍为将来计,石丸彌一兵衛与横石長右工門再谋。其次子利右工門以与御山奉行立石伊左工門之缘,再度申请。伊左工門初以既准为由不应;后巡查至此,利右工門择时于江永山上设宴款待。宴酣时,请村小町“おみな”入席,终获许可,仅纳微租,三山达成所望,江永、木原至明治15年前后无燃料之忧。山顶今称“おみな酒盛塲”,逸话犹存。

江永瓷专以日用品为主,盛时百余户、窑烧15—16户,今约80户;即在不景气下年产仍15—16万元,为三山之首。品类与木原同为食器,窑烧有山口清三郎、小栗卯平、立石丑太郎、立石君義、山口光僑、森勝次等。


【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditional from Japanese]

木原窯轉為瓷器後,火口(アンコ)一帶仍久燒陶器,多施青釉之土瓶,俗稱「木原茶出し」。明治10年前後,壓模染付流行,茶泡飯碗、小ぶく茶碗與菊紋煎茶碗等下手物大量生產。

明治17—18年間,大川內鍋島藩窯舊御用工人流入,地方製品水準大幅提升。其中特以橫石臥牛受加々良傳八(萬平之子)指授,精鍊轆轤技。

「橫藤」為橫石藤七兵衛後裔,因用天草石聞名,亦善俳諧,深得松浦藩主器重,掌木原山。地藏平碑記享和2年6月12日卒,疑為孫藤七兵衛。子藤次兵衛卒於文化15年1月20日,其子嘉助據二本松淨漸寺過錄,元治元年(1864)7月5日卒。嘉助長子久九郎,其子鹿吉;久九郎之子常太郎、邦三(湯口邦山),常太郎之子丑之助即今之臥牛。嘉助令次子鹿吉承宗家,此宅為御本陣,松浦藩主屢宿。鹿吉之子為今之門吉。

記載又云,松浦凞某年謁墓唐津獅子ヶ城(厳木村)歸途,正月14日宿橫石嘉助宅,15日宿三河內今村槌太郎宅。明治14年11月松浦厚偕弟靖亦宿橫石鹿吉宅。來函請其宅為本陣,隨員14—15人,並附注意:用平日不用之燒物,膳只茶泡飯,夜具潔淨木棉,備少量茶菓與酒肴。

下窯旁大神宮碑刻元祿期木原窯燒施主若干,紀年1696年4月11日。近代代表有石丸六郎(1911卒,55歲)、橫石鹿吉(1925卒,86歲)。

木原名工如石田伊之助(遊歷諸陶山精進)、名畫工山田宗次郎(天保期卒於伊豫砥部山)、轆轤名手松永吉藏(筑前須惠)。今以橫石臥牛最著,擅仿古,幾惑真偽。總言之,木原瓷尚未再現昔日刷毛目之異彩,當以日用品為本,研圖案,求光彩之作。現窯有尾崎久之亟、本石仙一,戶數約60,距三河內驛約一里半之山地。

江永山在木原鄰境,傳創於寛永10年(1633),為木原分窯。地有「古窯」「西窯」,出土與木原相近:灰釉、飴釉配白色漩渦與縞刷毛目,並精巧櫛目。瓷化初期之物有淡灰草畫染付深碗、粗繪松竹梅、芋山水圓碗、青磯小開片中皿之蛇目積、同胎喇叭形五寸花立等。

延寶期景況隆,薪材難購,道路不佳,運輸艱;木原為薪價所困。天和期橫石長右工門移江永設廠,元祿初有田小島某亦至,江永亦告燃料匱乏。

乃於元祿5年(1692)請給周邊山林:三河內得十町餘藩用薪林(荒平、笹の谷、炭釜の谷),江永、木原各十町;元祿11年(1698)再請三河內50町,木原與江永合50町。出願者列井手甚五兵衞、今村如猿、田中與兵衛、志方佐五右工門、口石長右工門、金氏太左工門、古川甚右工門、高橋善兵衛等。

江永、木原雖先受無償十町,仍為後計,石丸彌一兵衛與橫石長右工門再議,其次子利右工門以與御山奉行立石伊左工門之系屬再申。伊左工門初拒;後巡視至此,利右工門擇時於江永山上設宴厚待。宴酣,引村小町「おみな」侍席,遂獲許可,納微租而三山達願,江永、木原至明治15年左右無燃料之虞。山頂今稱「おみな酒盛塲」,事跡猶傳。

江永瓷主注日用品,盛時百餘戶、窯燒15—16戶,今約80戶;雖不景氣仍年產15—16萬元,為三山之冠。品類與木原同為食器,窯燒有山口清三郎、小栗卯平、立石丑太郎、立石君義、山口光僑、森勝次等。


【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]

木原窑改烧瓷器后,火口区域仍长期烧陶器,多为青釉土瓶,俗称“木原茶出し”。约1877年起,压模染付流行,茶泡饭碗、小茶碗、菊纹煎茶杯等低档品大量生产。

约1884–85年,鍋島藩窑(大川内)的旧御用工人流入,当地品质明显提升。横石臥牛在名匠加々良傳八(萬平之子)门下苦练拉坯。

“横藤”指横石藤七兵衛后裔,因采用天草石著称,同时精于俳谐,受松浦藩主器重,主管木原山。墓志与过录记载其家系与卒年。宗家为次子鹿吉承继,此宅为御本陣,藩主屡宿。

文献记载:松浦凞自唐津獅子ヶ城墓参返途,正月14日宿横石嘉助宅、15日宿今村槌太郎宅;1881年11月松浦厚与弟靖宿横石鹿吉宅。随函要求以其宅为本陣,随员14–15名,并简餐、整洁寝具与少量酒肴等准备。

神社碑刻载1696年捐助者多名。近代代表:石丸六郎(1911、55岁)、横石鹿吉(1925、86岁)。名工尚有石田伊之助、山田宗次郎、松永吉藏。今以横石臥牛最著,仿古精到。总体而言,木原瓷尚未重现旧时刷毛目之华,宜以日用品为主、深化设计。现有窑户约60,距三河内站约一里半。

江永山据传始于1633,为木原分窑。当地“古窑”“西窑”出土与木原相似:灰/飴釉配白色旋纹或条纹刷毛目、櫛纹。瓷化初期见淡灰草画碗、粗笔松竹梅、芋山水、青磯小开片中皿之蛇目积、五寸喇叭花插等。

延宝期景气起,薪柴紧缺,路差运输难。天和期横石長右工門迁江永设厂,元禄初有田小島某亦来,江永亦缺燃料。故1692年请给附近林地;1698年再请扩大。申请人包括井手甚五兵衞、今村如猿等。后借宴请与“おみな酒盛”典故获批,小租金供给,至约1882年无燃料之忧。

江永以日用瓷为主,盛时百余户、窑15–16家,今约80户;即便不景气年产仍达15–16万元,为三山之首。主打餐具,窑工有山口清三郎、小栗卯平、立石丑太郎、立石君義、山口光僑、森勝次等。


【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]

木原窯改燒瓷器後,火口區仍長期燒陶器,多為青釉土瓶,俗稱「木原茶出し」。約1877年起,壓模染付流行,茶泡飯碗、小茶碗、菊紋煎茶杯等低檔品大量生產。

約1884–85年,鍋島藩窯(大川內)舊御用工人流入,品質大幅提升。橫石臥牛從名匠加々良傳八(萬平之子)習拉坯。

「橫藤」指橫石藤七兵衛後裔,因採用天草石著稱,亦善俳諧,受松浦藩主倚重,主理木原山。墓誌與過錄載其家系與卒年。宗家由次子鹿吉承襲,此宅為御本陣,藩主屢次留宿。

記錄稱:松浦凞自唐津獅子ヶ城墓參返途,正月14日宿橫石嘉助宅、15日宿今村槌太郎宅;1881年11月松浦厚偕弟靖宿橫石鹿吉宅。附函請其宅為本陣,隨員14–15名,並作簡餐、潔淨寢具與少量酒肴等準備。

神社碑刻載1696年捐者多名。近代代表:石丸六郎(1911、55歲)、橫石鹿吉(1925、86歲)。名工尚有石田伊之助、山田宗次郎、松永吉藏。今以橫石臥牛最著,善仿古。總體言之,木原瓷尚未復舊時刷毛目之華,宜以日用品為主、深化設計。現有窯戶約60,距三河內驛約一里半。

江永山傳始於1633,為木原分窯。當地「古窯」「西窯」出土與木原相似:灰/飴釉配白色渦紋或縞刷毛目、櫛紋。瓷化初期見淡灰草畫碗、粗筆松竹梅、芋山水、青磯小開片中皿之蛇目積、五寸喇叭花立等。

延寶期景氣起,薪柴緊缺,道路不便。天和期橫石長右工門遷江永設廠,元祿初有田小島某亦至,江永亦乏燃料。故1692年請給附近林地;1698年再請擴大。申請人有井手甚五兵衞、今村如猿等。後憑宴請與「おみな酒盛」典故獲批,繳小額地租,至約1882年無燃料之憂。

江永以日用瓷為主,盛時百餘戶、窯15–16家,今約80戶;即在不景氣年產仍15–16萬元,為三山之首。主餐具,窯工有山口清三郎、小栗卯平、立石丑太郎、立石君義、山口光僑、森勝次等。