近藤憲一~太田工場の研究

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【原文】[Original text]

近藤憲一
 目下所長近藤憲一(瀬戸の人)の外技手一名、助手一名、職工一名を擁し、講習所を開催して意匠、圖案配布、新種製品、考案幇助、石膏型製作配布、窯道具製造配給等を行ひつゝある。此全豫算七千二百三拾圓にて、所長希望の三分一の額にもせざりし由なるも、其施設頗る完備せるが如きがある。 そして前記の意匠傳習所及び三河内の徒弟養成所と連絡を保ちてゐる。而して近藤所長が真摯なる研究振は、試験所長の模範者といはれてゐる。

長興山普請古文書
 以上が波佐見窯の新舊山である。猶此外長崎市に近き西彼杵郡に、長興山の古窯跡がある、此處も亦舊大村藩領にて前記の如く、永尾の木場山より移轉せるところなるも、左の古文書に依れば、それより二十年以前に於いて既に開窯されし陶山の遺跡であることが判る。

二十年前焼きしことあり
長興皿山 同年まで三年と相成
右者正徳二年辰の六月より御普請相始候事御役人
御元締役富永五郎左工門殿
御作事奉行大村三郎太夫殿
御郡代役 喜多助右工門殿
木山 役本島四郎右工門殿
皿山 役 福田八左工門殿
右の御人數より中尾平左工門へ被仰付正德二辰六月二十六日長興へ罷趣巳正月三日迄相詰釜塗立心見(試し)焼出し釜別條無之處見届罷歸候事
 右に依れば、正徳二年(1712年)より二十年前、即ち元祿五年(1692年)に開窯して其後廢滅に歸せしを、さらに木場山の窯焼を、移轉せしめたのであるらしい。

長與の古窯品
 長興磁器の製殘缺には、釉色稍黄味を帯びそれに下呉洲にて九紋繒なご描きし皿があり、そして蛇の目積にて焼いてゐる。又五寸丼につくね芋山水ともいふ可き染附などあるが、是等は木場山より移轉前の製品といはれてゐる。
 移轉後の殘缺には、染附山水の畫風頗る素朴な七寸丼や、同五段筋にて中央に廣塗筋を焼らせ突底形の煎茶々碗があり或は六方捻割の中に粗雑なる霊芝とギリを交描させる四寸丼がある。斯くて此長奥の窯焼は其後六十四年を経て安永四年(1775年)に至り、又伊豫の砥部山に移せしものである。

川棚
 此外大村湾沿岸なる、東彼杵郡川棚に於いて、近年磁器製造が開業されてゐる。原料は波佐見焼同様天草石を用ひて火鉢や酒樽及朝鮮向等を焼いている。最初は三の股の田崎圓藏が開窯せしものにて、今其跡を俵屋儀鉢が継承し、外に波瀬一三、山口文一以上三戸の窯焼にて、年産額三万四五千圓位といはれてゐる。
 要するに波佐見焼の主要製品は、日用品であるところに發展の可能性が多く、而して地元なる三の股に、良原料を産出することに大なる強味を具備してゐる。然るに近來凡ての窯焼は、天草石を使用せざれば良器は得られざるかの如き傾向を生じ、何れの陶山も地元原料の應用研究を閑却せる風がある。
 若し豫期の火度に堪へ得る丈けの原料なれば、現代科墨の進歩は原石に含有する硫化鐵分除去法に就いては、電磁石分離法やフローテーション・マシン(浮遊選礦器)法、或は塩素漂白法等に依つて、全く解決さらるゝことゝなつた。要は如何にして之を經濟的に悪用するかの問題のみである。而して日用品製造の要諦は燃料と製作能率の外、原料の經濟問題も重要なる研究の一たるを失はぬ。

太田工場の研究
 然るに今や製器次第にては、砥石川の原料のみを以て全く完成し得ることが証明された。即ち西山の太田工場に於いて、朝鮮向を製作するに砥石川を主料なし、之に蛙目の僅分を混和して完全に製造しつゝある。而して右の製造法によれば、天草土のみにて一圓二三十錢を要する土代が、砥石川と蛙目代と合計して九十錢にて足りるといふのである。
 なほ同工場にては、酒樽の如き巨器さへも、砥石川を主料さして、必ず製作し得る自信のもどに研究しつゝある。斯くの如く近き地元の産石を主料なし、其足らざる質分のみを補足し、或は又其調節に依つて、目的製品の完成を期する研究は各山陶家の大いに考慮すべき問題であらう。


【現代語訳】[Modern Japanese translation]

近藤憲一(瀬戸出身)所長の下、技手1名・助手1名・職工1名を置き、講習所を開いて意匠・図案の配布、新製品の考案支援、石膏型の作製配布、窯道具の製作配給などを行っている。年間予算は7,230円で、所長の希望額の3分の1にも満たないというが、施設はよく整っている。前記の意匠伝習所および三河内の徒弟養成所とも連携し、近藤所長の真摯な研究姿勢は試験所長の模範と称されている。

長崎市近くの西彼杵郡には長興山の古窯跡がある。ここも旧大村藩領で、永尾の木場山から移ったと伝えるが、下掲の古文書からは、それより二十年前にすでに開窯していた窯場の遺跡であることがわかる。記録によれば、正徳二年(1712)から遡る二十年前、すなわち元禄五年(1692)に開窯し、のち一度は廃絶、そこへ木場山の窯を移転したらしい。

長與(長興)で見つかる古窯の残片は、やや黄味を帯びた釉に下呉須で九紋風の文様を描いた皿があり、蛇の目積みで焼かれている。五寸丼には「芋山水」ともいえる染付も見えるが、これらは移転前の作とされる。移転後の残片には、素朴な山水染付の七寸丼、五段筋で中央に広い塗り筋を回し突底形に仕上げた煎茶碗、六方捻割の中に霊芝とギリを粗く描いた四寸丼などがある。長興の窯はその後64年を経て安永四年(1775)に伊豫の砥部山へ移された。

また大村湾沿いの東彼杵郡・川棚でも近年磁器生産が始まった。原料は波佐見と同じく天草石で、火鉢や酒樽、朝鮮向けの品を焼く。最初は三の股の田崎圓藏が開窯し、現在は俵屋儀鉢が継ぎ、ほかに波瀬一三・山口文一の3戸で、年産は3万4〜5千円とされる。波佐見焼は日用品を主とする点に発展の余地が大きく、三の股に良質の原料を産する強みもあるが、近年は“天草石に頼らねば良品なし”との風潮から、各地で地元原料の応用研究がなおざりにされがちである。

原料が所定の焼成温度に耐えるなら、原石中の硫化鉄分の除去はすでに電磁分離、フローテーション・マシン(浮遊選鉱)、塩素漂白などで解決できる。要は、いかに経済的に活用するかである。日用品量産では、燃料と能率に加え、原料コストの最適化が重要な研究課題となる。

西山の太田工場では、製品によっては砥石川産原料のみで仕上げられることを実証した。朝鮮向け製品を砥石川を主材に、わずかに蛙目を加えて完全に作り得るという。天草土のみを用いると土代が1円20〜30銭かかるのに対し、砥石川+蛙目なら計90銭で足りる。さらに同工場では酒樽のような大物も砥石川主材で必ず成し得るとの確信で研究中である。近在の原石を主に、不足分だけを補い配合を調整して目的製品を完成させる方針は、各地の陶家が大いに考慮すべき課題だろう。


【英語訳】[English translation]

Under Director 近藤憲一 (from 瀬戸), the station employs one technician, one assistant, and one worker. It runs courses; distributes design patterns; supports new-product ideas; makes and supplies plaster molds; and manufactures and allocates kiln furniture. Although the annual budget is only 7,230 yen—about one-third of what the director hoped for—the facilities are impressively complete. The station coordinates with the earlier design institute and the apprentice center at 三河内, and 近藤’s earnest research is regarded as exemplary for testing-station heads.

Near 長崎市, in 西彼杵郡, lies the old kiln site of 長興山. This, too, was in the former 大村藩; while tradition says it was relocated from 永尾の木場山, a document shows the site had already been opened twenty years earlier. It indicates a start in 元禄五年 (1692), a later decline, and then a transfer of the 木場山 kilns to revive the site in 正徳二年 (1712).

Ancient wares from 長與/長興 include slightly yellowish glazes with underglaze gosu “nine-pattern” decoration, fired with janome-zumi stacking. Some five-sun bowls bear the so-called “imo-sansui” sometsuke; these are thought to predate the relocation. Later fragments show simple landscape painting on seven-sun bowls,突底型 sencha cups with five encircling lines and a broad central band, and four-sun bowls with rough 霊芝 and ギリ motifs within six-sided twists. After sixty-four years the kilns were moved in 安永四年 (1775) to 砥部山 in 伊豫.

Along 大村湾 at 川棚, porcelain works have recently begun, using 天草石 like Hasami to make hibachi, sake casks, and items for the Korean market. The first kiln was opened by 三の股’s 田崎圓藏; now 俵屋儀鉢 continues it, together with 波瀬一三 and 山口文一—about three kilns in all, producing roughly 34–35 thousand yen a year. Hasami’s focus on daily wares gives it room to grow, and 三の股’s local raw stone is a major advantage; yet an overreliance on 天草石 has led many hills to neglect research on local materials.

If a local stone can withstand the target firing, modern methods can remove pyritic sulfur—by electromagnetic separation, flotation machines, or chlorine bleaching—so the remaining question is economical utilization. For everyday ware, beyond fuel and labor efficiency, optimizing raw-material costs is a key research theme.

At 西山’s 太田工場 it has been proven that, depending on the ware, 砥石川 clay alone can complete the body. For Korean-market goods, they use 砥石川 as the base with a small addition of 蛙目, achieving full results. Compared with using only 天草土 (costing 1.20–1.30 yen in clay cost), the 砥石川 + 蛙目 mix totals about 0.90 yen. The factory is also studying large vessels like sake casks with 砥石川 as the main ingredient. Using nearby stone as the base, supplementing only what is lacking, and adjusting the mix to the intended product is a line of work every kiln should consider seriously.


【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]

在所长近藤憲一(瀬戸出身)领导下,配置技手1名、助手1名、职工1名,开设讲习,分发意匠与图案,协助新产品构想,制作并配发石膏模具,制造与配给窑具。年度预算仅7,230日元,未及所长期望的三分之一,但设施颇为完备,并与先前的意匠伝習所及三河内徒弟養成所保持联络。近藤所长的踏实研究,被称为试验所长的模范。

长崎市近郊西彼杵郡有长興山古窑址,同属旧大村藩领。相传由永尾の木場山迁来,但按古文书,早在其二十年前已开窑:元禄五年(1692)创烧,后曾废绝,至正徳二年(1712)再移木場山之窑以复兴。

长與(长興)遗片呈微黄釉,下呉須绘“九纹”之皿,见“蛇之目”堆叠烧成。五寸丼可见所谓“芋山水”染付,疑为移转前之作。移转后遗片有笔致素朴之山水七寸丼、作五道筋并以广涂筋围中的突底煎茶碗,及六方捻割间粗描霊芝与ギリ之四寸丼。其后历64年,于安永四年(1775)迁至伊豫之砥部山。

大村湾岸之川棚近年亦起磁器业,原料同波佐見用天草石,烧制火鉢、酒樽及朝鲜向器。始创者为三の股之田崎圓藏,今由俵屋儀鉢承继,另有波瀬一三、山口文一等,共约三窑,年产约三万四五千日元。波佐見焼以日用品为主,发展潜力大,且三の股出产良石,优势显著;但近来偏重天草石,致各山忽视本地原料之应用研究。

若原料能耐既定火度,则原石中硫化铁的去除已可由电磁分离、浮选机(Flotation Machine)、氯漂等法解决;问题在于如何经济利用。量产日用品除燃料与效率外,原料成本优化亦为要务。

西山之太田工場已证实,视器种而定,仅以砥石川原料亦可完成坯体。其朝鲜向产品以砥石川为主,少量掺入蛙目即可;与仅用天草土(成本1.20〜1.30日元)相比,砥石川+蛙目合计约0.90日元。且正研究以砥石川为主制成酒樽等大件。以近在之原石为主材,补其不足并调配以就目的成品,此一思路应为各窑家所深思。


【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditional from Japanese]

在所長近藤憲一(瀬戸出身)領導下,配有技手1名、助手1名、職工1名,開設講習,配布意匠與圖案,支援新產品構想,製作並配發石膏模具,製造與配給窯具。年度預算僅7,230日圓,未達所長期望之三分之一,然設施頗為完備,並與意匠傳習所及三河内徒弟養成所聯絡。近藤所長之篤實研究,被稱為試驗所長之典範。

長崎市近郊西彼杵郡有長興山古窯址,亦屬舊大村藩。相傳自永尾之木場山遷來,然據古文書,早於其二十年前已開窯:元祿五年(1692)創燒,後一度廢絕,至正德二年(1712)復移木場山之窯以興之。

長與(長興)遺片見微黃釉,下呉須繪「九紋」之皿,並有「蛇之目」堆疊燒成痕。五寸丼見所謂「芋山水」染付,疑為移轉前作品。移轉後遺片則有筆致素樸之山水七寸丼、作五道筋且中央廣塗之突底煎茶碗,及六方捻割間粗描靈芝與ギリ之四寸丼。其後歷六十四年,於安永四年(1775)遷伊豫砥部山。

大村灣岸川棚近年亦興磁器業,原料同波佐見用天草石,燒火鉢、酒樽與朝鮮向器。始創為三の股田崎圓藏,今由俵屋儀鉢承,並有波瀬一三、山口文一等,約三窯,年產三萬四五千日圓。波佐見焼以日用品為主,發展潛力大,加之三の股出良石,優勢顯著;然近年偏重天草石,致各山忽略本地原料之應用研究。

若原料能耐既定火度,則原石所含硫化鐵之去除已可由電磁分離、浮選機、氯漂等法解決;重點在於如何經濟運用。日用品量產除燃料與效率外,原料成本之最適化亦為要務。

西山太田工場已證明,視器種而定,僅以砥石川原料亦可完成坯體。其朝鮮向產品以砥石川為主,少量摻入蛙目即足;較之單用天草土(成本1.20〜1.30日圓),砥石川+蛙目合計約0.90日圓。並研究以砥石川為主製作酒樽等大件。以近在之原石為主材,補其不足並調配以就目的成品,此路向宜為各窯家深思。


【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]

在 Director 近藤憲一(瀬戸)带领下,配备技师、助手与工人各一名,开展课程,分发设计与图案,支持新产品构想,制作并配给石膏模与窑具。年预算7,230日元,仅为期望的约三分之一,但设施完善,并与意匠伝習所、三河内徒弟養成所协作;近藤的研究被视为试验所长的典范。

西彼杵郡的 长興山 为旧窑址,属旧 大村藩。文献示其在元禄五年(1692)已开窑,后废绝,正徳二年(1712)再移 木場山 之窑以复兴。

长與/长興 遗片见微黄釉与下呉須“九纹”,有“蛇之目”堆叠痕;五寸丼有“芋山水”染付(移转前)。移后有素朴山水七寸丼、五道筋+中央广带之突底煎茶碗,及六方捻割内粗画霊芝与ギリ之四寸丼。六十四年后,安永四年(1775)迁伊豫 砥部山。

川棚 近年兴办磁器,以 天草石 为原料,制 火鉢、酒樽 与 朝鲜向 器。始于 三の股 田崎圓藏,今由 俵屋儀鉢 承继,并有 波瀬一三、山口文一;年产约3.4–3.5万日元。波佐見焼 以日用品为主且具当地原石优势,但过度依赖 天草石 使本地材料研究被忽视。

若能耐烧,含硫化铁之去除可用电磁分离、浮选机或氯漂解决;关键在经济化利用。量产日用品需兼顾燃料、效率与原料成本。

西山 太田工場 证明:按器类,单用 砥石川 亦可成体;朝鲜向 以砥石川 为基,少量加 蛙目 即足。仅用 天草土 成本1.20–1.30日元,而 砥石川+蛙目 约0.90日元。并正研究以 砥石川 制作 酒樽 等大件。以近材为主、按需补足与调配,值得诸窑重视。


【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]

在 Director 近藤憲一(瀬戸)帶領下,設技師、助手、工人各一名,開課分發設計與圖案,支援新產品構想,製作並配給石膏模與窯具。年預算7,230日圓,僅約期望三分之一,但設施完善,並與意匠傳習所、三河内徒弟養成所協作;近藤之研究被視為試驗所長典範。

西彼杵郡 長興山 為舊窯址,屬舊 大村藩。文獻示其元祿五年(1692)已開窯,後廢絕,正德二年(1712)再移 木場山 之窯以復興。

長與/長興 遺片見微黃釉與下呉須「九紋」,有「蛇之目」堆疊痕;五寸丼有「芋山水」染付(移轉前)。移轉後有素樸山水七寸丼、五道筋與中央廣帶之突底煎茶碗,及六方捻割內粗畫靈芝與ギリ之四寸丼。六十四年後,安永四年(1775)遷伊豫 砥部山。

川棚 近年興辦磁器,採 天草石 製 火鉢、酒樽 與 朝鮮向 器。始於 三の股 田崎圓藏,今由 俵屋儀鉢 承,並有 波瀬一三、山口文一;年產約3.4–3.5萬日圓。波佐見焼 主打日用品且具三の股原石優勢,然過度依賴 天草石 致本地材料研究被忽略。

若能耐燒,去除硫化鐵可用電磁分離、浮選機或氯漂;關鍵在經濟化利用。量產日用品須兼顧燃料、效率與原料成本。

西山 太田工場 證實:依器類,僅用 砥石川 亦可成體;朝鮮向 以砥石川 為基,少量加 蛙目 即足。單用 天草土 成本1.20–1.30日圓,而 砥石川+蛙目 約0.90日圓。並研以 砥石川 製 酒樽 等大件。以近材為主、按需補足及調配,值得諸窯重視。