伊萬里系 南川原窯~甘酒と生團子

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【原文】[Original text]

伊萬里系 南川原窯

伊萬里灣
 西松浦郡の伊萬里沿岸は、九州西北部の一端にて、古代大陸民族の渡せし、土地なることは、其地理的にも考察さるゝところである今遺跡として東山代村の日尾崎と、西山代村の波瀬の小島には、高句麗式の横穴古墳があり、そして日尾崎よりは、石器時代の鏃や、石鉈刀の如き破片が發見されてゐる。

紀の飯麿
 此灣内の奥地なる伊萬里港は、そのかみ神功皇后出兵の折、此處に御船を寄せ給ひしとの口碑あるを考ふれば、往時は内深き良港なりしと覚しく、其後五百四十年を経て聖武天皇の天平十二年九月三日(740年)藤原廣嗣筑紫に叛するや、武内宿彌十一代の後裔古麿(正三位大納言)の長子紀の飯麿(従三位参議)は、大野東人と共に救命を蒙りて西國に下り、十一月五日廣嗣の誅伐を奏申するに至った。此時飯麿は遠祖彦太忍信命の武勇を敬慕し、此地岩栗に神壇を築きて祀りしより、飯麿の名に因みて爾來此處を伊萬里と解するに至りしといはれてゐる。
 永長元年(1097年)源太夫判官源久、今福に梶谷城を築きて根擄を定め、伊萬里を擁してこの地方に松浦黨の勢力を扶植するや、治承年間(1177-1181年)久の孫公文次郎眞高伊萬里を領し、其子津吉十郎重平之を継ぎしも、其後彼が再従兄弟なる峯源三郎上此地に封ぜられ幸平の城主(此處を今峯の坂と稱するは峯氏の居城下なりし故か)となった。

伊萬里源三郎
 上は後年此處の地名を執りて伊萬里を氏となし、伊萬里源三郎と稱した。然るに上男子なきを以て、従兄弟大河野彌二郎茂を婿養子となし一男を繋げた、之が伊萬里源六留である。

北岡築城
 寛元年間(1243-1247年)留は伊萬里の地頭職となり、斯くて北岡山に築城した(今の城山公園)。 其子源二郎勝入道如性は文永十一年(1274年)同族山代彌三郎階同又三郎父子、及び石志次郎兼(松浦直の舎弟増の裔也)等と共に、蒙古勢を壹岐に防戦し、十月九日の奮闘にて山代彌三郎、石志郎は戦死するに至つた。 伊萬里 山代氏系圖左の如くである。

伊萬里治開城
 天正五年(1577年)龍造寺隆信松浦を攻略するや、北岡城主伊萬里兵部少輔治は、防戰大いに努めしも、戦敗れて途に開城し、治は家來二百人を率ゐて、室の實家なる武雄の後藤氏に頼った。貴明は深く之を憐れみて自領の内大野、宮野、神六の土地三百石を給興したのである。そして後年治の一女に鍋島直茂の甥六左工門茂成を婿養子として、伊萬里治郎五郎純治稱せしが、後又鍋島姓に復し、次に茂成の婿養子が貴明の孫傳兵衛茂成であり、以後代々藤津郡吉田に於いて二千六百六十石を知行したのである。

山代貞捕る
 此時龍造寺の軍は、伊萬里を降して山代に打向ふや、飯盛山の城主山代彌七郎貞は、邀へ出て山の中腹なる、城峰の下方に防禦陣地を構へ、腹乾(福河内付近)斬寄及び禁都山の各所に於いて悪戦苦闘の末、敗れて捕虜となり、遂に隆信に降り、後鍋島氏に属して朝鮮役に従軍した。後年山代領は田尻氏に興へられ山代氏は杵島郡の橋下なる草原に移封されしが、又佐嘉に轉し鍋島姓に改めて喜左工門茂貞と改名したのである。

御船屋
 斯くて伊萬里地方は、鍋島直茂の支領となり、天正十四年(1586年)北岡城は破壊され、今門外や陣内などの地名に、城下の名残を止めてゐる。此は佐嘉藩領唯一の要港にて、宗藩及支藩の御船手が置かれ、近くの牧島には、宗藩の牧場があつた、加ふるに潜入深くして水淺からず、七ッ島を始め許多の島嶼散見せる風光は美しき一幅の畫圓である。而して此伊萬里と有田とは、磁器の市場生産地として、榊車の關係深きのみならず、又此港より韓人陶工の上陸せしことも研究すべき題材であらう。

國一丸
 朝鮮役の際鍋島直茂の軍は、兩度とも此伊萬里より解覺せるが。當時は今の伊萬里驛や女學校方面よりナンサ(渚の訛りらし)邊りまで潮内なりしが如く、又濱町が海岸なりしことは、其時直茂の乗船國一丸を繋留せしは、今の有田町(伊萬里町内の陶器街)稻荷社の樟樹なりしの碑に察せらる。其外濱町には船隠といふのがあり、ナンサには魚釣場の地名が残つてゐる。
 斯くて鍋島軍歸陣の際のみならず、戰役中往復の船に便乗して、此伊萬里港に上陸し、それより領内の各地に移住せし韓人の、少からざりしことを察するに難くない。中に幸善なる者の一家のみ、此伊萬里に居住せしより、其嘘が今の幸善町であるとの口碑あるも詳でない。

人柱
 茲に伊佐線今福驛(北松浦郡にて西松浦郡の堺)のトンネル邊に、人柱と稱する處ありて、此處より種々の陶器の殘缺を發掘せし由なるが、それは山代貞が戦役歸陣の折帯同せし韓人か
らしい。

或は佐嘉軍に従ひりし者が、此地に上陸して、開窯せにあらざるかとの説がある。而して其缺中には、卵色釉に口より胴の半まで白の刷毛目徳利にて、しかも糸切高臺の、一見武內窯の古窯品に髣髴たる作品があつた。

有田茂成の居城
 當時有田の邑主として、有田八工門尉成(須古安房守信周の四男にて龍造寺隆信の甥也)が山谷の唐船城に居住した。而して南側なる北平には二拾戶許りの小村落ありて此處に唐船城の武器製作に従ひし鍛冶職が住んでをり、北方二の瀬がこの城下の家中屋敷であつたらしい。
 城主茂成も、朝鮮役に従軍して各地に奮戦し歸陣の際多くの韓人を帯同せし稱せらるゝも、中には前記の如く屢伊萬里港より任意的に上陸せし者もありしなる可く、而して茂成の領内有田鄉なる廣瀬、黒牟田、小溝、南川原、原明等の各方面に開窯せしものが即ち伊萬里系とするものである。
 是等の韓人が唐船城下二の瀬に於いて開窯し、或は廣瀬山に入り、又曲川の小物成や天神の森等へ開窯し、一面小溝より原明や黒牟田方面へ展開せしが如きも、墓碑の年號より検討すれば、黒牟田の開山は、なほ朝鮮役以前であつたらしい。

中の小路
 又曲川驛の川向ひ向原なる中の小路は、小溝の韓人系が、此處に粘土を發見して開窯せし稱せられ、殘缺には例の飴釉や、灰色釉の無釉高台なる皿茶碗が焼かれてをり、中には簡素な鐡畫を文せしものもある。而して後年には磁器を焼いてゐる。

二の瀬
 邑主茂成は一韓人をして二の瀬に開窯せしめしなるも、今其物原さへ見出されざるは察するにそれが御庭焼程度の小規模なりして此處が全く農村化して開墾されしため湮滅せしものなるべく、而して此韓人の墓碑とせらるゝものが此處の農家岩永善六方の前庭に祀られてある。

高来神碑
 それは夏蜜柑の生り盛る下に、高さ二尺斗りの自然石で、一見舊碑らしく、別に其前面に屋根冦りにて、臺石から二尺五六寸の石碑が建てられ、之には高來と刻して施主岩永定右工門と記されてある。岩永家は今の善六より遡りて父定右工門、其父武平、其父定右エ門、其父善六と成つてゐる、そして碑の方は曾祖父定右工門の代に、碑が余りにみすぼらして建直せしものといはれてゐる。

甘酒と生團子
 此高来神の命日なる十一月十五日には、必ず甘酒と生團子とを供へる古例があり岩永家は、代々此祭を缺がせしことなく続けてゐる。而して此家には以前くろ物の皿や茶碗などありし由なるも、保存することに重きを措かず、使用破れせしまゝ打棄てたものらしい。又此岩永家は韓人の末裔なるか、或は元有田氏の家中にて、此韓人を世話せし縁故の者なるか詳でない。


【現代語訳】[Modern Japanese translation]

伊万里湾沿岸(西松浦郡)は九州西北端に位置し、古代に大陸から人々が渡来した地と考えられる。東山代村の日尾崎と西山代村の波瀬の小島には高句麗式横穴古墳があり、日尾崎からは石器時代の鏃や石鉈の破片が見つかっている。

伊万里港は内海が深い良港で、神功皇后が遠征の折に寄港したという伝承が残る。天平十二年(740)に藤原広嗣が筑紫で挙兵した際、紀の飯麿(武内宿禰の後裔)は大野東人とともに西下し、十一月五日に討伐の成就を奏上した。飯麿は遠祖・彦太忍信命の武勇を慕い、岩栗に神壇を築いて祀ったことから、その名にちなみ「伊万里」と呼ぶようになったという。

永長元年(1097)源久が今福に梶谷城を築いて松浦党の勢力を固め、治承年間には孫の公文次郎真高が伊万里を領し、子の津吉十郎重平が継いだ。のちに再従兄弟の峯源三郎上が封ぜられ、幸平城主となる(今の「峯の坂」はその居城の名残とされる)。上は後に地名を氏とし「伊万里源三郎」と称したが、男子がなく、大河野弥二郎茂を婿に迎えて伊万里源六留をもうけた。

寛元年間、留は地頭として北岡山に城を築いた(現・城山公園)。子の源二郎勝入道如性は文永十一年(1274)一族らとともに壱岐で蒙古軍を防ぎ、激戦の末、山代弥三郎・石志郎は戦死した。

天正五年(1577)龍造寺隆信が松浦を攻めると、北岡城主・伊万里兵部少輔治は奮戦したが敗れて開城。治は家臣二百を率いて武雄の後藤氏を頼み、貴明は大野・宮野・神六の三百石を与えた。後に治の娘に鍋島直茂の甥・六左衛門茂成を婿に迎え、伊万里治郎五郎純治と称したが、やがて鍋島姓に戻り、茂成の婿で貴明の孫・伝兵衛茂成が継いで、以後は藤津郡吉田で二千六百六十石を領した。

同時期、龍造寺軍は伊万里を落として山代へ進撃。飯盛山城主・山代弥七郎貞は各所で抗戦したが敗れ、降ってのち鍋島氏に属し朝鮮役に従軍。のちに田尻氏に山代領が与えられ、山代氏は杵島郡橋下の草原に移封、さらに佐嘉に移って鍋島姓・喜左衛門茂貞と改名した。

伊万里は鍋島直茂の支領となり、天正十四年(1586)北岡城は破却。門外・陣内などの地名に城下の名残がある。ここは佐嘉藩唯一の要港で宗藩・支藩の御船手が置かれ、近くの牧島には藩牧場もあった。入江は奥深く水も浅からず、七ツ島などの景観は美しく、有田とは市場・生産の上で車の両輪の関係にあった。さらにこの港から韓人陶工が上陸した可能性も研究課題である。

朝鮮役では鍋島軍が二度とも伊万里から出港。当時は伊万里駅や女学校付近からナンサ辺りまでが入江で、浜町が海岸線だった。直茂の乗船「国一丸」をつないだのは、有田町稲荷社の樟だったと碑にある。浜町の「船隠」やナンサの「魚釣場」など地名も残る。戦役の往還船に便乗して伊万里に上陸し、領内各地へ移住した韓人は少なくなかったらしい。一家が伊万里に残り「幸善町」の地名の由来になったという伝承もある。

伊佐線今福駅近くのトンネル脇に「人柱」と呼ぶ場所があり、陶器片が出土。山代貞の帰陣に同行した韓人の遺物とも、佐嘉軍に従った者が上陸して開窯したともいう。欠片には、卵色釉に口から胴半ばまで白の刷毛目を施し、糸切り高台の徳利があり、武内窯の古品を思わせる。

当時、有田の邑主・有田八工門尉成(須古信周の四男・龍造寺隆信の甥)は山谷の唐船城に居住。南の北平には鍛冶が住み、北の二の瀬は家中屋敷だった。城主茂成は朝鮮役で奮戦し、多くの韓人を伴って帰ったとされるが、伊万里港から任意に上陸した者もいたろう。茂成の領内・有田郷の広瀬、黒牟田、小溝、南川原、原明などに開窯したのが「伊万里系」である。墓碑年代からみて、黒牟田の開山は朝鮮役以前とも推測される。

曲川駅対岸の向原・中の小路は、小溝系の韓人が粘土を見つけて開窯した地と伝え、飴釉や灰釉の無釉高台の皿・茶碗、簡素な鉄絵も見られる。のちには磁器も焼いた。

二の瀬では、茂成が一人の韓人に開窯を命じたが、御庭焼程度の小規模だったらしく、完全に農地化され遺構は失われた。韓人の墓碑と伝える石が、農家・岩永善六家の前庭に祀られている。

その石は高さ二尺ほどの自然石で、前に屋根付きの台座から二尺五、六寸の碑が建ち、「高来」と刻し施主を岩永定右衛門と記す。岩永家は善六—定右衛門—武平—定右衛門—善六と遡れ、みすぼらしくなったため曾祖父定右衛門の代に建て替えたという。

高来神の命日(十一月十五日)には甘酒と生団子を供える習わしがあり、岩永家は代々欠かさない。以前は黒物の皿や茶碗もあったが保存せず、使い減りとともに廃棄したらしい。岩永家が韓人の末裔か、あるいは有田家中として世話役だったかは不明である。


【英語訳】[English translation]

Imari Bay on the west coast of Nishimatsuura lies at Kyushu’s north-west edge and is thought to have received migrants from the continent in antiquity. Koguryŏ-style horizontal tombs remain at Hiozaki (Higashiyamadayo) and on a small islet off Haze (Nishiyamadayo); stone-age arrowheads and stone adzes have been found at Hiozaki.

Imari Port, deep and sheltered, is said to have hosted Empress Jingū’s fleet. In 740 (Tenpyō 12), when Fujiwara no Hirotsugu rebelled in Tsukushi, Ki no Iimaro—descendant of Takenouchi no Sukune—marched west with Ōno no Azumabito and reported the pacification on November 5. Honoring his distant ancestor Hikotaoshin no Mikoto, Iimaro enshrined him at Iwaguri; the place thereafter came to be called “Imari,” after Iimaro.

In 1097 Minamoto no Hisashi fortified Kajitani Castle at Imafuku, consolidating the Matsura party. During the Jishō era his grandson Kumon Jirō Masataka held Imari, succeeded by his son Tsuyoshi Jūrō Shigehira; later their kinsman Mine Genzaburō Ue was enfeoffed as lord of Kōhei Castle (the “Mine-no-saka” toponym recalls this). Ue later took the place-name as a surname—Imari Genzaburō. Lacking a son, he adopted his cousin Ōkawano Yajirō Shigeru, whose son was Imari Genroku Tome.

In Kangen (1243–1247) Tome, as jitō of Imari, built a castle on Mt. Kitaoka (today’s Shiroyama Park). His son Genjirō, the monk Nyoshō, fought Mongol forces at Iki in 1274 with kin Yamashiro Yasaburō and his son, and Ishi Jirō Kane; Yamashiro and Ishi fell on October 9.

In 1577 Ryūzōji Takanobu attacked Matsura. Imari Hyōbu-shōyū Osamu, lord of Kitaoka, resisted but lost and opened the gates, retreating with 200 retainers to the Gotō clan of Takeo. Takaki granted him 300 koku in Ōno, Miyano, and Kamiroku. Later Osamu took Nabeshima Naoshige’s nephew, Rokuzaemon Shigenari, as son-in-law—styled Imari Jirōgorō Sumiharu—then reverted to Nabeshima. Shigenari’s adopted heir, Takaki’s grandson Denbē Shigenari, thereafter held 2,660 koku at Yoshida in Fujitsu.

Ryūzōji forces then advanced on Yamashiro. Lord Yamashiro Yashichirō Sadāki fought at several points but was captured and submitted, later serving the Nabeshima in the Korean campaigns. The Yamashiro fief went to the Tajiri; the Yamashiro moved to Kusabara at Hashimoto, Kishima, then to Saga, taking the Nabeshima name as Kizaemon Shige­sada.

Imari became a Nabeshima branch domain; Kitaoka Castle was demolished in 1586. Place-names like Mongai and Jinnai recall the castle town. As Saga’s only strategic port, it hosted the shogunal and branch “ofune-te”; Makishima nearby was a domain ranch. The inlet is deep yet not shallow, studded with isles like Nanatsushima; Imari and Arita formed twin hubs of ceramic production and trade, and the port likely served as a landing site for Korean potters.

During the invasions of Korea, Nabeshima fleets sailed twice from Imari. Then, the inlet reached from today’s Imari Station and girls’ school area to Nansa; Hamamachi lay on the shore. A stele notes that Naoshige’s ship “Kuni-ichimaru” was moored to the camphor at Inari Shrine in Arita Town (Imari’s pottery quarter). “Funagakushi” in Hamamachi and “Uotsuriba” at Nansa preserve old toponyms. Not only at the war’s end but during it, Koreans likely landed at Imari and resettled across the domain; one fortunate family is said to have remained, giving rise to Kōzen-machi, though this is uncertain.

By the Imazasa Line’s Imafuku Station tunnel is a place called “Hitobashira,” where ceramic sherds were unearthed—perhaps from Koreans accompanying Yamashiro Sada on his return, or from those who landed with Saga forces and opened a kiln. Among the finds was a thread-cut footed bottle with egg-yellow glaze and white brushed slip from mouth to mid-body, reminiscent of old Takeuchi ware.

At that time the Arita lord Arita Hachikamon-no-jō Shigenari (fourth son of Suko Nobuchika; nephew of Ryūzōji Takanobu) resided at Karafune Castle in Yamatani. North-Taira to the south housed about twenty smith families forging weapons; Ninonose to the north seems to have been the retainers’ quarter. The lord fought in Korea and is said to have brought back many Koreans, though some landed independently at Imari. Kilns opened across his Arita domain—Hirose, Kuromuta, Komizo, Minamikawara, Haraake—forming the “Imari line.” Tomb dates suggest Kuromuta may predate the invasions.

At Mukaibara’s Naka-no-Kōji across from Magarikawa Station, Koreans of the Komizo line found clay and opened a kiln; sherds show candy and gray glazes, unglazed footrings, and simple iron painting; later they fired porcelain.

At Ninonose, Shigenari set a Korean to open a kiln, likely a small “on-niwayaki” scale; farmland expansion erased traces. A stone said to be his grave stands in farmer Iwanaga Zenroku’s forecourt. The original natural stone (about two shaku high) stands before a roofed stele (two shaku five–six sun) inscribed “Takaki,” donor Iwanaga Sadaemon. The Iwanaga line—Zenroku, Sadaemon, Buhei, Sadaemon, Zenroku—rebuilt the shabby stone in the great-grandfather’s time.

On Takaki-kami’s feast day, November 15, the family offers sweet sake and fresh dumplings, a rite kept without fail. The house once had black-glazed plates and bowls but, not valuing preservation, used and discarded them. Whether the Iwanaga are Korean descendants or former Arita retainers who sponsored the Korean is unclear.


【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]

伊万里湾沿岸位于九州西北端,被认为自古有大陆移民渡来。东山代村日尾崎与西山代村波瀬小岛留有高句丽式横穴古坟,日尾崎出土石器时代的箭头与石斧片。

伊万里港为深闺良港,相传神功皇后远征时曾泊舟。天平十二年(740)藤原广嗣叛乱,纪饭麿随大野东人西下,十一月五日报捷。饭麿崇敬远祖彦太忍信命,于岩栗建坛祭祀,因其名“饭麿”而此地后称“伊万里”。

永长元年(1097)源久筑今福梶谷城以固松浦党。治承年间孙公文次郎真高领伊万里,子津吉十郎重平继之;后再从兄弟峯源三郎上封为幸平城主,并取地名为氏,号“伊万里源三郎”。无子,迎従兄大河野弥二郎茂为婿,生伊万里源六留。

寛元间留任地头,筑北冈城(今城山公园)。子源二郎胜入道如性文永十一年(1274)与一族于壹岐抗蒙,山代弥三郎与石志郎战殁。

天正五年(1577)龙造寺隆信攻松浦,北冈城主伊万里兵部少辅治败而开城,率二百家臣投武雄后藤氏,贵明给大野・宫野・神六三百石。后治之女嫁鍋島直茂之甥六左卫门茂成,称伊万里治郎五郎纯治,旋复鍋島姓。继者为贵明之孙传兵卫茂成,后世于藤津郡吉田领二千六百六十石。

龙造寺军又趋山代,饭盛山城主山代弥七郎贞败降,后属鍋島随朝鲜役。其领后授田尻氏,山代氏移封杵岛郡桥下草原,复转佐嘉改鍋島姓,名喜左卫门茂贞。

伊万里为鍋島直茂支领,天正十四年(1586)北冈城毁,门外・阵内等地名尚存。此乃佐嘉藩唯一要港,置御船手,近牧岛有藩牧。湾入深、群岛点缀,与有田同为磁器生产与市场两枢纽,且或为韩人陶工登岸之地,值得研究。

朝鲜役时鍋島军两度自伊万里出航。其时入海自今伊万里站与女学校一带延至“ナンサ”,滨町即海岸。碑载直茂乘“国一丸”系于有田町稻荷社樟树。滨町有“船隐”、ナンサ留“鱼钓场”等旧地名。战时往返之便船使韩人登陆伊万里并迁往域内各地者不少;亦传一户善居于此,成今之幸善町(未详)。

今福站隧道旁“人柱”处出土陶片,或为随山代贞归阵之韩人遗物,或为从佐嘉军上岸开窑者。其间有卵色釉、口至腹半白刷毛,糸切高台之徳利,颇似武内窑古品。

时有田邑主有田八工门尉成居山谷唐船城。南侧北平聚约二十户锻冶,北方二之濑为家中屋敷。茂成従军归据称携多韩人,亦有自伊万里任意上岸者。其在广濑、黑牟田、小沟、南川原、原明等处开窑,即所谓“伊万里系”。墓碑年号推之,黑牟田开山或在朝鲜役前。

曲川站对岸向原“中之小路”为小沟系韩人发见粘土处,出飴釉、灰釉无釉高台之皿碗,亦有简素铁画,后期烧磁器。

二之濑所设韩人窑疑仅御庭烧规模,今已农地化湮灭。传为其墓碑之石在农家岩永善六庭前。碑为自然石,高约二尺;前置覆屋碑,刻“高来”,施主岩永定右卫门。岩永家谱可上溯数代,碑于曾祖定右卫门时因陈旧而重建。

高来神命日十一月十五日供甘酒与生团子之旧例,岩永家世代不辍。家中旧有黑物盘碗,因不重保存,损则弃之。其是否韩人后裔,或原有田家中而照料韩人者,未可详。


【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditional from Japanese]

伊萬里灣沿岸位於九州西北端,被認為自古有大陸移民渡來。東山代村日尾崎與西山代村波瀨小島存高句麗式橫穴古墳,日尾崎出土石器時代箭鏃與石斧片。

伊萬里港為深闃良港,相傳神功皇后遠征時曾泊舟。天平十二年(740)藤原廣嗣叛亂,紀飯麿隨大野東人西下,十一月五日奏捷。飯麿敬祖彦太忍信命,於岩栗建壇祀之,因其名而地稱「伊萬里」。

永長元年(1097)源久築今福梶谷城以固松浦黨。治承年間,孫公文次郎真高領伊萬里,子津吉十郎重平繼之;後再從兄弟峯源三郎上封為幸平城主,並取地名為氏,號「伊萬里源三郎」。無子,迎従兄大河野彌二郎茂為婿,生伊萬里源六留。

寛元間留任地頭,築北岡城(今城山公園)。子源二郎勝入道如性文永十一年(1274)與族於壹岐抗蒙,山代彌三郎與石志郎戰殁。

天正五年(1577)龍造寺隆信攻松浦,北岡城主伊萬里兵部少輔治敗而開城,率二百家臣投武雄後藤氏;貴明給大野・宮野・神六三百石。後以治女嫁鍋島直茂之甥六左衛門茂成,稱伊萬里治郎五郎純治,旋復鍋島姓。繼者為貴明之孫傳兵衛茂成,世領藤津郡吉田二千六百六十石。

龍造寺軍復趨山代;飯盛山城主山代彌七郎貞敗降,後屬鍋島隨朝鮮役。其領授田尻氏,山代氏移封杵島郡橋下草原,轉佐嘉改鍋島姓,名喜左衛門茂貞。

伊萬里為鍋島直茂支領,天正十四年(1586)北岡城毀,門外・陣內等地名仍存。此為佐嘉藩唯一要港,置御船手,近牧島有藩牧。灣入深、群島點綴,與有田為磁器生產與市場雙樞紐,亦或為韓人陶工登岸之地,宜加考。

朝鮮役時鍋島軍兩度自伊萬里出航。其時入海自今伊萬里站與女學校一帶延至「ナンサ」,濱町即海岸。碑載直茂乘「國一丸」繫於有田町稻荷社樟樹。濱町有「船隱」、ナンサ存「魚釣場」等舊名。戰中往返便船載韓人登陸並遷居域內者不少;亦傳一戶善留此,為今「幸善町」之由(未詳)。

今福站隧道旁「人柱」處出土陶片,或為隨山代貞歸陣之韓人遺物,或從佐嘉軍上岸開窯者。其間有卵色釉、白刷毛、糸切高臺之德利,頗類武內窯古品。

時有田邑主有田八工門尉成居山谷唐船城。南側北平聚約二十戶鍛冶,北方二之瀨為家中屋敷。茂成從軍歸稱攜多韓人,亦有自伊萬里任意上岸者。其於廣瀨、黑牟田、小溝、南川原、原明等開窯,即「伊萬里系」。墓碑年號推之,黑牟田開山或在朝鮮役前。

曲川站對岸向原「中之小路」為小溝系韓人發見黏土之地,出飴釉、灰釉無釉高臺皿碗,亦有簡素鐵畫;後期燒磁器。

二之瀨之韓人窯疑僅御庭燒規模,今已農地化泯沒。其墓碑傳在農家岩永善六庭前。碑為自然石,高約二尺;前置覆屋碑,刻「高來」,施主岩永定右衛門。家乘可上溯數代,碑於曾祖定右衛門時重建。

高來神命日十一月十五日供甘酒與生糰之舊例,岩永家世守不替。家曾有黑物盤碗,不重保存,耗損即棄。其為韓人後裔抑或有田家中世話者,未可詳。


【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]

伊万里湾位于九州西北端,被认为自古接纳大陆移民。东山代村日尾崎与西山代村波瀬岛上存高句丽式横穴古墓;日尾崎出土石器残片。

伊万里港深且避风,相传神功皇后曾泊。740年藤原广嗣叛乱,纪饭麿随大野东人西下,11月5日报捷;他在岩栗建坛祭祖,地名由此称“伊万里”。

1097年源久在今福筑梶谷城;其后公文次郎真高与子重平相继领伊万里,亲族峯源三郎上为幸平城主,后以地为氏称“伊万里源三郎”。无子,迎従兄为婿,生伊万里源六留。

1243–1247年留为地头筑北冈城。其子如性1274年与族在壹岐抗蒙,有人阵亡。

1577年龙造寺隆信攻松浦,北冈城主伊万里兵部少辅治败而开城,率二百人投武雄后藤氏并获三百石。后与鍋島氏联姻,继承者传至藤津郡吉田领2660石。

龙造寺军再攻山代,城主山代贞败降,属鍋島随朝鲜役;后移封改姓鍋島。

伊万里成鍋島支领,1586年北冈城毁,仍存门外、阵内等地名。此为佐嘉藩唯一要港,与有田并为瓷业生产与市场中心,亦可能为韩人陶工登岸地。

朝鲜役时鍋島军两度自伊万里出航;当时入海延至“ナンサ”,滨町即海岸。碑记直茂所乘“国一丸”系于有田稻荷社樟树。地名如“船隐”“鱼钓场”犹存。韩人借军船登陆并散居域内者不少;传一户定居为幸善町之由。

今福站隧道旁“人柱”出土陶片,或为随军韩人遗物,或为登陆开窑者。见有卵黄釉白刷毛、线切足的德利,似武内窑古品。

时有田主居唐船城;北平聚锻冶,二之濑为家中屋敷。茂成据传携多韩人归,或有人自行伊万里登陆;在广濑、黑牟田、小沟、南川原、原明等处开窑,称“伊万里系”。墓碑年代表明黑牟田或早于朝鲜役。

向原“中之小路”由小沟系韩人开窑,见飴釉、灰釉无釉足皿碗与简铁画,后烧瓷。

二之濑之韩人窑或仅御庭烧规模,今被耕作湮没;传其墓石在岩永善六宅前。刻“高来”,施主岩永定右卫门,家谱可上溯数代,碑于曾祖时重建。

每年11月15日供甘酒与生团子;岩永家素不辍。其是否韩人后裔或旧有田家中尚未可知。


【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]

伊萬里灣位於九州西北端,被認為自古接納大陸移民。東山代村日尾崎與西山代村波瀨島上存高句麗式橫穴古墓;日尾崎出土石器殘片。

伊萬里港深且避風,相傳神功皇后曾泊。740年藤原廣嗣叛亂,紀飯麿隨大野東人西下,11月5日奏捷;其於岩栗建壇祭祖,地名遂稱「伊萬里」。

1097年源久於今福築梶谷城;其後公文次郎真高與子重平相繼領伊萬里,親族峯源三郎上為幸平城主,後以地為氏稱「伊萬里源三郎」。無子,迎從兄為婿,生伊萬里源六留。

1243–1247年留為地頭築北岡城。其子如性1274年與族於壹岐抗蒙,有人戰殁。

1577年龍造寺隆信攻松浦,北岡城主伊萬里兵部少輔治敗而開城,率二百人投武雄後藤氏並得三百石。後與鍋島通婚,繼承者世居藤津郡吉田領二千六百六十石。

龍造寺軍再攻山代,城主山代貞敗降,屬鍋島隨朝鮮役;後移封改姓鍋島。

伊萬里成鍋島支領,1586年北岡城毀,尚存門外、陣內等地名。此為佐嘉藩唯一要港,與有田同為瓷業生產與市場中心,亦或為韓人陶工登岸地。

朝鮮役時鍋島軍兩度自伊萬里出航;當時入海延至「ナンサ」,濱町即海岸。碑記直茂所乘「國一丸」繫於有田稻荷社樟樹。舊地名如「船隱」「魚釣場」仍存。韓人藉軍船登陸並散居域內者不少;傳有一家定居為幸善町之由。

今福站隧道旁「人柱」出土陶片,或為隨軍韓人遺物,或為登陸開窯者。見卵黃釉白刷毛、線切足之德利,似武內窯古品。

時有田主居唐船城;北平聚鍛冶,二之瀨為家中屋敷。茂成據說攜多韓人歸,亦有人自伊萬里登陸;在廣瀨、黑牟田、小溝、南川原、原明等處開窯,稱「伊萬里系」。墓碑年代示黑牟田或早於朝鮮役。

向原「中之小路」由小溝系韓人開窯,見飴釉、灰釉無釉足皿碗與簡鐵畫,後亦燒瓷。

二之瀨韓人窯或僅御庭燒規模,今耕作湮沒;其墓石傳在岩永善六宅前,刻「高來」,施主岩永定右衛門,家乘可上溯數代,碑於曾祖時重建。

每年11月15日供甘酒與生糰;岩永家守之不替。其是否韓人後裔或舊有田家中,未可確定。