【原文】[Original text]
廣瀬の小森谷
最初二の瀬に来りし韓人の一行は、別れて廣瀬の山の口なる小森谷に開窯せしといはれてゐる。此處は今俗に要左エ門山といへる杉の木谷にて、今に多くの破片が轉がつてゐる。それは例の灰色釉や飴釉の中に、白化粧を施せる茶碗などで、何れも無釉高台にて、中には縮緬皺を現はしたのがある。又箆先にて高台内を新月形に抉りたる天目茶碗があり、或は唐焼の小花立にて糸切底がある。又小皿類は多く重ね目積なるも、後には小ハマを臺として焼かれてゐる。後代には此處にて磁器が製作され、薄鼠の地肌に呉洲猫の韲物碗や徳利形の油瓶などが残されてゐる。
香茸山
廣瀬山の諸窯は此小森谷より分窯されしものらしく、其他權現山、香茸山、向窯の如きも、最初陶器を焼きしかも知れねど、今は磁器の破片のみが多く残されてゐる。香茸山には吳洲描の鯨さへぬけ出つべき粗き網畫の丸茶碗があり、概して高台無釉のものが多い。又白の茶碗に高台と緑腰丈け吳洲筋を撓らし、底は四つ目積に重ねて焼いてゐる。高台施釉の物には底廣筋内に下吳洲にて實草畫を描きし中皿、前記の筋茶碗があり、其外染附突底小皿や煎茶碗等がある。
廣瀬の向窯
向窯の古窯品には、呉洲にて簡勁な實草畫を描きし丸茶碗や、下吳洲猫にて實蔓畫の台付佛飯器があり、又草繪の四つ目積の皿などは小氷裂を現はしてゐる。或は梅底にて内縁には粗地紋を描きし外青磁の丸茶碗や、同手の小丼など此處は多く砧青磁が焼かれてゐる。中にも初期の製品と覺しきものに、茶色や薄青地の底碗にて、磁半器が焼かれてゐる。
廣瀬の権現谷
権現谷の古窯は、前三窯より数段進步せし本格的磁器のみを焼いてゐる。それには染附八方割水草繪にて、底には岩に片足立鳥を描きし八寸皿や内緑地紋に、外は雄健なる千羽鶴を描きし嗽ひ丼があり。或は垣目畫の大反碗や、又松竹梅畫、四つ手畫、蝶々畫、菊桐外道渲染書、實草畫、九紋詰畫等の反中食碗がある。
此外突矢の模様の韲物碗があり、此處も亦多くの砧青磁が焼かれてゐる。それは底三方龜畫の八寸皿にて、底筋の外部は青磁が掛けられてあつた。其外梅底畫にて内縁地紋描なる突底の菓子碗や、同畫の丸奈良茶など何れも外青磁か掛られてある。
除け場の石
廣瀬諸窯の是等の磁器は、勿論有田の製法に傚らひ、最初は地元の原料を以て半磁器を製せしも、成器全からざりしものゝ如く、漸く泉山の下等品を採ることを許されて、之に除け場の地石を加へ、藩制時代には染附の茶漬茶碗や嗽ひ丼、又型打の八角井(四寸五分)へ、簡素な蘭繪を描きし下手物を焼いたのである。
聖門口の釉石
維新後は、泉山の採石も自由となりて、製品の面目を一新し、今聖門口の山石を採掘して、釉薬料に使用しつゝある。此地勝景龍門の溪湖より、落来る水利があり、且探薪に至便の地と稱せられてゐる。明治初年には窯焼の數十六戸あり重なる者に中島森右工門があり、後年には舘林興助、森孫一等の有力者があつた。現在數八十戶、窯焼には市川喜兵衛外四五戸がある。
此廣瀬の韓人系が、應法や黒牟田に分窯せしいよ説をなす者がある。然し乍ら現代こそ開盤されし道路なるも往年の廣瀬より黒牟田や應法に往來せしは、猪や兎などの外なかりしと見るの外なく、況んや黒牟田の開窯は頗る舊代に属し、其分系が應法につて開窯せし者と考察すべく、既に此地は磁器製作期の開窯にて、陶器を焼きし形跡は全くない。
應法山
應法の古窯趾には柿の谷、松山、窯の谷等があり、又應法山とは始め王寶山と書かれてあつた。(二三の陶書には鷹房山と誤記されたのがある)前記の二の瀬や、廣瀬山は大山村に関するも、此應法よりは有田村である。最初此地ば瘤山の地石を原料として、薄鼠色の軟質磁器を焼いてゐた。
柿の谷
就中柿の谷が一番古く、殘缺には下呉洲にて縁と底部に筋を引き、草の如き文様に、大筆にて点花をうちし小皿があり。或は二重捻ち描き模様や、水草繪、蔓草書等の中皿がある、何れも幼稚を極めし畫描振であり、そして高台低小にて、釉面には小氷裂を生ぜしもの多く又外部丈砧青磁を掛けし茶碗があり、或は内底に一筆菊を描き外のみ天目釉を施せし高台無釉の茶碗がある。
松山
松山の古窯品は、専ら油瓶のみ焼かれしものゝ如く、それは丸胴形か主なる形にて、白地物多きは共上に赤繪を施せしものであらう。尤も中には例の呉洲猫ギリ詰模様のものや、或は下吳洲にて草繪など描きし油瓶もある。
應法窯の谷
應法窯の谷の古窯品には、粗蔓に点花をせし中皿や、底筋内草花畫の深皿があり或は眞底に日の字を書きし本皿などありて、何れも高台が小さく出来てゐる。又ギリ詰や二方草畫又は薄瑠璃の小瓶があり、其他雷紋に蝙蝠畫の反形洗面鉢や、八橋畫の茶碗などあるが、是等は既に練熟期時代の染附磁器である。
御神酒瓶
此の應法山は藩制時代には、神酒瓶及び小瓶専門の下手物製造地とて、有田泉山の最下等石の分配山なりしも、維新後は此差別配給が撤廢されて、他山に遜色なき製品を産するに至つた。明治初年には窯焼十余戸ありしが、現在數五十戸の内窯焼は徳永幸一、武富謙之助、原田重吉、原田千三其他二三戸である。
黒牟田山
黒牟田山の古窯には、平松、裏山、宮の元、山端の一、山端の二、多々良の元右、多々良の元左、多々良の元山上、局古窯、せめき、黒牟田新窯等がある。此内局古窯とめき及新窯はすでに練熟期に入りし磁器窯である。
西山家の韓人墓
平松には、以前多くの韓人墓ありし由なるも、残存するもの今は六七基に過ぎぬ、それには加工碑もあり、又は自然石の墓碑もある。就中一番古き年號を刻まれしは、隣村曲川村藏宿の酒造家なりし、西山家祖先の韓人墓にて一基には敷山道夢信士として、文祿二癸巳六月二日(1594年)と記され、なほ並べる一基には、清玉好泉信女として、寛文六丙午八月十日(1666年)とあるは、前者より七十四年後に死去せるものにて、想ふに之は夫婦ではなく、親子か季妹であらう。
なほ此墓石に、西山氏先祖と記されしは、後年に至つて彫加へしものと見らるゝも、兎も角此墓碑は往時より、西山酒屋の墓碑として知られ、毎年盛んに先祖祭が執行され、又系譜などありし由なるも、先年同家火災の際焼失せしといはれてゐる。そして此西山酒屋より出て、名古屋の養家に入りしものが、松村八次郎である。
西山姓考
此黑牟田山より藏宿方面に涉り、今に西山姓を冒す者頗る多きは、有田の金ヶ江姓の如く同行の韓人が齢化せる際、皆西山姓を用ひたるにはあらざるか、精しくは考ふ可きてあらう。
又此墓碑の戒名なる教山とは、最初此地方に陶技を教えて、開山し故かとも思はしめるが、要するに此墓碑に就いて考究すべき焦点は、文祿二年(1594年)の死去である。
韓人最初の来朝期
鍋島直茂が初度の朝鮮役は文祿元年(1593年)三月の出兵にて、同三年明使つて和議を講せるより、我軍一旦釜山へ退陣し、文祿五年(1596年)の十一月則ち慶長元年(1596年)の正月に歸陣してゐる。故に交戦の初期に於いて、船便に依って早く來朝せし者としても、直ちに死去したのでは開山の意味が消滅する。此遊の消息より推考すれば、此韓人は文祿以前乃ち天正年間に於いて、既に此地に来つて開窯せしもの如く、其後戦役時代に來りし韓人が、又之に倣うて何れも西山姓を用ひしにあらすやと推測されぬこともない。
【現代語訳】[Modern Japanese translation]
広瀬の小森谷
二の瀬に来た韓人の一行は別れて、広瀬の山口にある小森谷で窯を開いたという。今も俗に要左エ門山と呼ぶ杉林の谷で、多くの破片が転がる。灰色釉や飴釉に白化粧を施した茶碗が多く、いずれも高台は無釉で、縮緬じわが出たものもある。高台内をヘラで三日月形にえぐった天目茶碗、糸切りの小花入、重ね焼き(目積)の小皿類が見られ、のちには小ハマを台にして焼いた。後代には磁器も作られ、薄鼠地に呉州描の雑器碗や徳利形の油瓶が残る。
香茸山
広瀬山の諸窯は小森谷から分かれたらしく、権現山・香茸山・向窯なども当初は陶器を焼いたかもしれないが、今残るのは磁器片が主。香茸山には、呉州描の粗い網文が走る丸茶碗(鯨も抜け出しそうな荒さ)などがあり、無釉高台が多い。白磁の茶碗で高台と腰に緑の呉州筋を回し、底は四つ目積で焼く。高台施釉のものでは、広い底筋内に下呉州で実草を描いた中皿や、前記の筋茶碗、さらに染付の突底小皿や煎茶碗がある。
広瀬の向窯
向窯の古品には、呉州で簡潔な実草を描く丸茶碗、下呉州“猫”で実蔓を描く台付き仏飯器、草絵で四つ目積の皿(小さな貫入あり)がある。梅底で内縁に粗い地紋を描き、外面は青磁の丸茶碗や小丼など、砧青磁が多い。初期作と見られる茶色・薄青地の底碗には、磁半器(半磁器)もある。
広瀬の権現谷
権現谷の古窯は前の三窯より数段進み、正格の磁器のみを焼く。染付八方割の水草文で、底に岩に片足立ちの鳥を描く八寸皿、内に緑地紋・外に力強い千羽鶴の口洗い丼、垣目文の大反碗、松竹梅・四つ手・蝶々・菊桐・外道渲染書・実草・九紋詰などの反中食碗がある。
ほかに矢文様の雑器碗もあり、ここでも砧青磁が多い。底三方に亀文の八寸皿では、底筋の外側に青磁が掛けられる。梅底に内縁地紋を描く突底の菓子碗や、同図の丸奈良茶など、いずれも外面に青磁を掛ける。
除け場の石
これら広瀬の磁器は有田の製法に倣い、当初は地元原料で半磁器を焼いたが成りが悪く、やがて泉山の下級石の採取を許され、「除け場」の地石を加えて、藩政期には染付の茶漬茶碗や口洗い丼、型打ちの八角井(四寸五分)に簡素な蘭を描くなどの下手物を焼いた。
聖門口の釉石
維新後は泉山の採石が自由となり、製品の趣を改めた。今は聖門口の山石を掘って釉薬に用いる。景勝・龍門の渓湖から落ちる水利があり、薪の調達にも至便とされる。明治初年、窯焼は十六戸ほどで中島森右衛門らが重立ち、のちに館林興助・森孫一ら有力者が出た。現在は八十戸ほど、窯焼は市川喜兵衛ほか数戸。
広瀬の韓人系が応法や黒牟田に分窯したという説もあるが、往年、広瀬から黒牟田・応法への往来は獣道に近く、黒牟田の開窯はむしろ古い。その支系が応法で開いたと見るべきで、この地は磁器期の開窯であり、陶器焼成の痕跡はない。
応法山
応法の古窯址には柿の谷・松山・窯の谷があり、応法山は初め「王寶山」と書いた(陶書に「鷹房山」との誤記あり)。二の瀬・広瀬山が大山村に属するのに対し、応法は有田村。最初は瘤山の地石を原料に、薄鼠色の軟質磁器を焼いた。
柿の谷
最古とされる。下呉州で縁と底に筋を引き、草様文に太筆の点花を打つ小皿、二重ねじ文、水草・蔓草の中皿などがある。筆致は稚拙で、高台は低く小さい。釉面に細かな貫入が多く、外面だけ砧青磁を掛けた茶碗、内底に一筆菊を描き外面のみ天目釉で高台無釉の茶碗もある。
松山
古窯品は専ら油瓶で、丸胴が主形。白地が多く、上絵に赤絵を施したらしい。ほかに呉州“猫”のギリ詰文や、下呉州の草絵を描いた油瓶もある。
応法・窯の谷
粗い蔓に点花の中皿、底筋内に草花を描く深皿、真底に「日の字」を記す本皿など、高台はいずれも小さい。ギリ詰や二方草、薄瑠璃の小瓶、雷文に蝙蝠の反形洗面鉢、八橋文の茶碗など、すでに練熟期の染付磁器である。
御神酒瓶
応法山は藩制期、御神酒瓶・小瓶の下手物専門の分配山で、有田泉山の最下等石が割り当てられた。維新後は差別配給が廃止され、他山に劣らぬ製品を産するようになった。明治初年は十数戸、現在は五十戸ほどで、窯焼は徳永幸一・武富謙之助・原田重吉・原田千三ほか。
黒牟田山
古窯に平松・裏山・宮の元・山端一・山端二・多々良の元右・元左・元山上・局古窯・せめき・新窯などがある。うち局古窯・せめき・新窯はすでに練熟期の磁器窯。
西山家の韓人墓
平松には多くの韓人墓があったが、今は六、七基のみ。加工碑と自然石の墓碑が混在する。最古の銘は、隣村・曲川村蔵宿の酒造家・西山家の先祖の韓人墓で、「敷山道夢信士」文禄二年(1594)六月二日とあり、並ぶ一基は「清玉好泉信女」寛文六年(1666)八月十日。七十四年の隔たりがあるので夫婦ではなく、親子か妹であろう。
墓石に「西山氏先祖」と追刻されたのは後年の加筆らしいが、もとより「西山酒屋の墓」として知られ、毎年先祖祭が行われた。系譜もあったが、家の火災で焼失したという。西山酒屋から養子に出て名古屋に入ったのが松村八次郎である。
西山姓について
黒牟田山から蔵宿一帯に西山姓が今も多いのは、有田の金ヶ江姓のように、同行の韓人が土着の際に一様に西山姓を用いた可能性がある。墓碑の戒名「教山」は、この地に陶技を教え開窯したことに由来するのかもしれない。焦点は文禄二年(1594)の没年である。
韓人来朝の最初期
鍋島直茂の初出兵は文禄元年(1593)三月。文禄三年の和議でいったん釜山に退き、文禄五年(1596)十一月=慶長元年正月に帰陣した。交戦初期に船で早く来ても、すぐ没しては「開山」の意味が薄い。事情から推せば、この韓人は文禄以前、すなわち天正年間にすでに来住・開窯し、その後の戦役期に来た韓人がこれに倣って西山姓を用いたのではないかと推測される。
【英語訳】[English translation]
Komori-dani of Hirose
After arriving at Ninonose, the Korean party split, and one group opened a kiln at Komori-dani, the mountain mouth of Hirose—today’s Yōzaemon-yama, a cedar valley still littered with sherds. Bowls show gray or amber glazes with white slip, all with unglazed footrings; some display crepon-like wrinkles. There are tenmoku bowls with crescent-carved foot interiors, thread-cut small flower vases, and small plates once fired stacked (mezumi), later on small setters. In later times porcelain was made: pale-gray bodies with gosu-painted utility bowls and oil bottles in tokkuri form.
Kōtake-yama
Hirose’s kilns seem to branch from Komori-dani. Gongen-yama, Kōtake-yama, and Mukai-gama likely began with earthenware, but shards now are chiefly porcelain. At Kōtake-yama, round bowls bear coarse net patterns in gosu; most footrings are unglazed. White bowls have green gosu bands on foot and waist and were fired on four-point setters. Glazed-foot pieces include medium plates with under-gosu vegetal motifs in the broad foot-channel, banded tea bowls, and small pierced-base plates and sencha cups in underglaze blue.
Mukai-gama of Hirose
Old wares include round bowls with crisp gosu plant sketches; pedestal rice vessels with under-gosu vine designs (“cat” style); and four-point-set plates with grassy designs and fine crackle. Also, “ume-soko” bowls whose inner rim carries rough ground patterns and whose exterior is celadon; many small bowls of the same hand—砧青磁 (kinuta-celadon). Early pieces include base bowls in brown or pale blue grounds—semi-porcelain.
Gongen-dani of Hirose
This kiln, several steps advanced, fired only full porcelain: eight-panel split designs with water-weeds and, on the base, a one-legged bird on rock (eight-sun plates); rinsing bowls with inner green diaper and vigorous flocks of cranes outside; large flared bowls with fence motifs; and table bowls with pine-bamboo-plum, “four-hand,” butterflies, chrysanthemum-paulownia, script in pale wash, naturalistic plants, and “nine-emblem fill.”
There are also miscellaneous bowls with arrow motifs and many kinuta-celadons: an eight-sun plate with three-direction tortoise on the base and celadon outside the foot-channel; sweets bowls with “ume-soko” bases and inner-rim diapers, and round Nara-tea cups—all with exterior celadon.
Stone from the “Removal Yard”
Following Arita methods, Hirose first used local stone for semi-porcelain—unsatisfactory—then was allowed to take lower-grade Izumiyama stone and blend it with “yokeba” local stone. Under the domain, they made underglaze-blue rice-tea bowls, rinsing bowls, and die-pressed octagonal dishes (4 sun 5 bu), painting simple orchid designs—commonwares.
Glaze stone of Shōmonguchi
After the Restoration, quarrying at Izumiyama became free; products changed markedly. Stone from Shōmonguchi is now mined for glaze. The site enjoys water from the scenic Ryūmon ravine lake and easy fuel gathering. In early Meiji there were about 16 kilns—Nakajima Moriuemon prominent—later leaders included Tatebayashi Kōsuke and Mori Magokichi. Today about 80 households remain; active kilns include Ichikawa Kihei and a few others.
Some claim the Hirose Korean line branched to Ōhō and Kuromuta. But in former days paths between Hirose and those places were little more than game trails, and Kuromuta’s opening is quite old; its branch likely opened Ōhō. Ōhō’s start belongs to the porcelain phase; there is no trace of earlier earthenware.
Ōhō-yama
Kiln sites include Kaki-no-tani, Matsuyama, and Kama-no-tani. Ōhō-yama was first written 王寶山 (some books err as 鷹房山). While Ninonose and Hirose-yama lay in Ōyama Village, Ōhō belonged to Arita Village. Early wares used stone from Koba-yama, producing soft porcelain in pale gray.
Kaki-no-tani
The oldest. Sherds show small plates with under-gosu bands at rim and base, grassy motifs with big dotted flowers; medium plates with double-twist patterns, water-plants, and vines. Draftsmanship is naive; footrings low and small; many surfaces have fine crackle. Some bowls have celadon only on the exterior; others bear a single-stroke chrysanthemum in the inner base and tenmoku on the exterior, with unglazed feet.
Matsuyama
Specialized in oil bottles—mostly round-bodied. Many white-ground pieces likely took red overglaze. Some show dense “giri-zume” gosu fills or simple under-gosu grass painting.
Kama-no-tani at Ōhō
Old wares include medium plates with coarse vines and dotted flowers, deep plates with floral designs inside the foot-channel, and main plates with “日の字” on the true base; all have small footrings. There are “giri-zume,” two-side grass motifs, small pale-ruri bottles, a flared wash-basin with thunder-pattern and bats, and yatsuhashi-pattern tea bowls—mature-phase underglaze blue porcelains.
Sake bottles for shrines
Under the domain, Ōhō specialized in shrine sake bottles and small bottles—commonwares—receiving the lowest-grade Izumiyama stone. After the Restoration, differential allotments ended and the wares rivaled other districts. In early Meiji there were a dozen-plus kilns; now about 50 households, with kilns such as Tokunaga Kōichi, Taketomi Kennosuke, Harada Jūkichi, and Harada Senzo.
Kuromuta-yama
Old kilns include Hiramatsu, Ura-yama, Miya-no-moto, Yamabata 1 and 2, Tatara-no-moto right/left, Tatara-no-moto up-mountain, Kyoku old kiln, Semeki, and Kuromuta new kiln. Kyoku, Semeki, and the new kiln belong to the mature porcelain phase.
Korean graves of the Nishiyama family
Hiramatsu once had many Korean graves; now only six or seven remain, some worked stelae, others natural stones. The oldest inscription belongs to the ancestor of the Nishiyama sake-brewing family of the neighboring Kurasuka (Magarikawa Village): “Fukuyama Dōmu Shinji,” dated June 2, 1594 (Bunroku 2). Beside it stands “Seigyoku Kōsen Shinjo,” dated August 10, 1666 (Kanbun 6)—seventy-four years later; likely not a couple but parent and child or a younger sister.
“Ancestor of the Nishiyama clan” seems a later addition, but the stone was long known as the Nishiyama Brewers’ grave; annual rites were held. Their genealogy reportedly existed but burned in a house fire. One member, Matsumura Hachijirō, entered an adoptive family in Nagoya.
On the Nishiyama surname
From Kuromuta-yama to Kurasuka, many still bear “Nishiyama.” As with Kanagae in Arita, Korean companions may all have adopted Nishiyama upon settling. The posthumous name “Kyōzan” may reflect that he taught pottery and founded the kiln. The key datum is the death in 1594 (Bunroku 2).
Earliest Korean arrivals
Nabeshima Naoshige’s first Korean campaign sailed in March 1593. After the 1594 negotiations, the army withdrew to Busan and returned in November 1596 (Keichō 1). Even if some came early by ship, dying at once would undercut a “founder” role. Circumstances suggest this Korean had arrived already in the Tenshō years, opened a kiln, and later arrivals during the wars adopted the Nishiyama surname by following his precedent.
【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]
广濑·小森谷
自二之濑分来的韩人一行,在广濑山口的小森谷开窑。今俗称要左卫门山的杉林谷内仍散落众多残片:灰釉、飴釉配白化妆的茶碗,多为无釉高台,并见绉纹。亦有用铲尖将高台内掏成新月的天目、线切小花入,早期小皿多叠烧,后期以小垫饼承烧。其后并制磁器,薄灰地上有呉州描的杂器碗、德利形油瓶。
香茸山
广濑诸窑似由小森谷分出。权现山、香茸山、向窑等或亦先烧陶,今多存磁片。香茸山见粗网画的丸茶碗,多无釉高台;白碗于高台与腰部绕绿呉州筋,底用四眼垫。施釉高台者,底宽筋内以下呉州画写实草的中皿、带筋茶碗,并有染付实底小皿与煎茶碗。
广濑·向窑
旧作有呉州写草的丸茶碗、下呉州“猫”风蔓草的台付佛饭器、草绘四眼垫皿(细裂纹)。又有“梅底”、内缘粗地纹、外覆青磁的丸茶碗与小丼,砧青磁尤多;早期见茶色或淡青地之底碗与半磁器。
广濑·权现谷
本窑专烧成熟磁器:八方割水草文、底绘岩上独脚鸟之八寸皿;内绿地纹外绘劲健千羽鹤之口洗丼;垣目文大反碗;松竹梅、四手、蝶、菊桐、外道渲染书、写生草、九纹詰等之反中食碗。
并有矢文样杂器碗,砧青磁甚多:底三方龟文八寸皿,足外施青磁;梅底内缘地纹之突底菓子碗、同画丸奈良茶,外皆覆青磁。
“除け场”的石
初循有田法,以地石制半磁,成品不佳;继获准采泉山下等石,配“除け场”石,藩政期烧染付茶泡饭碗、口洗丼、模压八角井(四寸五分)等,画简素兰,属常器。
圣门口釉石
维新后泉山采石自由,器貌一新。今采圣门口山石入釉;得胜景龙门溪湖落水之利,薪采亦便。明治初十六户左右(中岛森右卫门等),后来有馆林兴助、森孙一等;今约八十户,窑烧有市川喜兵卫等。
所谓广濑韩人系分窑至应法、黑牟田之说,旧时两地往来仅兽径;且黑牟田开窑更古,其支系开于应法可也。应法系属磁器期开窑,未见陶器痕。
应法山
古窑址有柿之谷、松山、窑之谷;应法山初作“王宝山”(陶书或误作“鹰房山”)。二之瀬、广濑山属大山村,而应法属有田村。初以瘤山地石为料,烧薄灰之软质磁器。
柿之谷
最古。残片见:下呉州于缘与底引筋,草样文配大笔点花之小皿;或二重捻、水平草、蔓草之中皿。笔致稚拙,高台低小,多细裂;或仅外覆砧青磁之茶碗;或内底一笔菊、外施天目釉且无釉高台之茶碗。
松山
专烧油瓶,主为丸胴;白地多,似施赤绘。亦见呉州“猫”式密填,或下呉州草绘之油瓶。
应法·窑之谷
有粗蔓点花中皿、底筋内草花深皿、真底书“日”之本皿,高台皆小;并有“ギリ詰”、二方草、薄琉璃小瓶;雷纹配蝙蝠之反形洗面钵、八桥文茶碗,皆熟期染付。
御神酒瓶
藩政时为御神酒瓶与小瓶的常器产地,受配泉山最下等石;维新后撤差配,产器不逊他山。明治初十余户,今约五十户,窑烧有德永幸一、武富谦之助、原田重吉、原田千三等。
黑牟田山
古窑有平松、裏山、宫之元、山端一、山端二、多多良元右/元左/元山上、局古窑、せめき、新窑等;局古窑、せめき、新窑皆属熟期磁窑。
西山家韩人墓
平松昔多韩人墓,今存仅六七。加工碑与自然石并见。最古铭属邻村曲川·藏宿之酒造家西山先祖:一为“敷山道梦信士”文禄二年(1594)六月二日;一为“清玉好泉信女”寛文六年(1666)八月十日,相隔七十四年,盖非夫妇,或为父女/妹。
“西山氏先祖”为后刻然久负“西山酒屋之墓”之名,岁举先祖祭;系谱已于火灾中失。其家出养入名古屋者为松村八次郎。
西山姓考
黑牟田至藏宿今多西山姓,疑如有田“金ヶ江”般,同行韩人土着时共用此姓。戒名“教山”或因教陶开窑。关键在文禄二年(1594)的卒年。
韩人最初来朝期
鍋岛直茂初出兵为文禄元年(1593)三月;文禄三年议和撤至釜山,文禄五年十一月/庆长元年正月回国。即便早乘船至日,旋即卒则难称“开山”。情状推之,此韩人或已于文禄前(天正年间)来此开窑,其后战时来者效之而用西山姓。
【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditional from Japanese]
廣瀨·小森谷
自二之瀨分出的韓人一行,在廣瀨山口小森谷開窯。今俗稱要左衛門山之杉谷仍散落碎片:灰釉、飴釉配白化妝茶碗,多無釉高臺,見有皺紋。亦有以篦先掘成新月之天目、線切小花入,早期小皿多疊燒,後用小墊燒。其後並製磁器,薄灰地有呉州描雜器碗與德利形油瓶。
香茸山
廣瀨諸窯似自小森谷分出。權現山、香茸山、向窯等或先燒陶,今多存磁片。香茸山見粗網文丸茶碗,多無釉高臺;白碗於高臺與腰施綠呉州筋,底以四目墊。施釉高臺者,底寬筋內下呉州寫實草之中皿、筋茶碗,並染付實底小皿與煎茶碗。
廣瀨·向窯
舊作有呉州草繪丸茶碗、下呉州「貓」式蔓草台付佛飯器、草繪四目墊皿(細貫入)。又「梅底」內緣粗地紋、外覆青磁之丸茶碗與小丼,砧青磁為多;早期見茶色/淡青地底碗與半磁器。
廣瀨·權現谷
本窯專燒成熟磁器:八方割水草文、底畫岩上獨腳鳥之八寸皿;內綠地紋外畫千羽鶴之口洗丼;垣目文大反碗;松竹梅、四手、蝶、菊桐、外道渲染書、寫生草、九紋詰之反中食碗。
亦有矢文雜器碗與多種砧青磁:底三方龜文八寸皿,足外施青磁;梅底內緣地紋之突底菓子碗、同圖丸奈良茶,外皆覆青磁。
除け場之石
初仿有田,以地石燒半磁,成品不良;後許采泉山下等石,配除け場之石。藩政期燒染付茶泡飯碗、口洗丼、模壓八角井(四寸五分)等,繪簡素蘭,屬常器。
聖門口釉石
維新後泉山採石自由,器貌一新。今採聖門口山石為釉;得龍門溪湖落水之利,薪炭易取。明治初約十六戶(中島森右衛門等),後有館林興助、森孫一等;今約八十戶,窯燒有市川喜兵衛等。
廣瀨韓人系分窯至應法、黑牟田之說,昔時往來僅獸徑;且黑牟田開窯更古,其支系開於應法可也。應法屬磁器期開窯,無陶器跡。
應法山
古窯址有柿之谷、松山、窯之谷;應法山初作「王寶山」(陶書或誤「鷹房山」)。二之瀨、廣瀨山屬大山村,應法屬有田村。初以瘤山地石為料,燒薄灰軟質磁器。
柿之谷
最古。殘片見下呉州於緣與底引筋,草樣文配大筆點花之小皿;或二重捻、水草、蔓草之中皿。筆致稚拙,高臺低小,多細貫入;或外覆砧青磁之茶碗;或內底一筆菊、外施天目釉且無釉高臺之茶碗。
松山
專燒油瓶,多為丸胴;白地居多,似施赤繪。亦見呉州「貓」式密填或下呉州草繪之油瓶。
應法·窯之谷
有粗蔓點花中皿、底筋內草花深皿、真底書「日」之本皿,高臺皆小;並見「ギリ詰」、二方草、薄瑠璃小瓶;雷紋配蝙蝠之反形洗面鉢、八橋文茶碗,皆熟期染付。
御神酒瓶
藩政時為御神酒瓶、小瓶常器產地,配泉山最下等石;維新後撤差配,製品不遜他山。明治初十餘戶,今約五十戶,窯燒德永幸一、武富謙之助、原田重吉、原田千三等。
黑牟田山
古窯有平松、裏山、宮之元、山端一、山端二、多多良元右/元左/元山上、局古窯、せめき、新窯等;局古窯、せめき、新窯皆熟期磁窯。
西山家韓人墓
平松昔有多墓,今存六七。加工碑與自然石並見。最古銘為鄰村曲川·藏宿酒造家西山先祖:一為「敷山道夢信士」文祿二年(1594)六月二日;一為「清玉好泉信女」寛文六年(1666)八月十日,相距七十四年,疑非伉儷,或為父女/季妹。
「西山氏先祖」為後刻,然素為「西山酒屋之墓」,歲舉先祖祭;系譜已焚。其家出養入名古屋者松村八次郎。
西山姓考
黑牟田至藏宿西山姓眾多,或如有田「金ヶ江」,同來韓人土著時共用此姓。戒名「教山」或因教陶開窯。關鍵為文祿二年(1594)卒年。
韓人最初來朝期
鍋島直茂初出兵文祿元年(1593)三月;文祿三年議和撤至釜山,文祿五年十一月/慶長元年正月歸。即早來而旋卒則難稱「開山」。情狀推之,此韓人或已於文祿前(天正年間)來此開窯,其後戰時來者效而用西山姓。
【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]
广濑·小森谷
韩人队伍一支在广濑山口的小森谷开窑,今称要左卫门山。碎片多为灰/飴釉配白化妆、无釉高台的碗;见新月形内削的天目、线切小花入与叠烧小皿,后期用小垫架烧,并制作薄灰胎的呉州描杂器与德利式油瓶。
香茸山与向窑
广濑诸窑源自小森谷。香茸山留粗网呉州画之碗,多无釉高台;白碗以绿筋绕足与腰,并用四点垫。向窑见写草碗、蔓草佛饭器、四点垫皿(细裂),以及“梅底”内缘纹、外覆青磁的碗与小丼,早期含半瓷。
权现谷
此窑仅烧成熟瓷:八方割水草文、底画岩上独脚鸟的八寸皿;内绿地、外千羽鹤的口洗丼;垣目文大反碗;及松竹梅、四手、蝶、菊桐、书法淡彩、写生草、九纹詰等的食碗。并多见砧青瓷与箭纹杂器。
料石与釉石
遵有田法,初用当地石制半瓷,后准取泉山下等石并配“除け场”石;藩政期烧染付常器。维新后采石自由,今采圣门口石入釉,赖龙门溪湖水利与薪源。
应法与黑牟田
应法遗址有柿之谷、松山、窑之谷;最初以瘤山石制薄灰软瓷。柿之谷器绘风稚拙,高台小且多细裂;松山多油瓶。窑之谷出“ギリ詰”、二方草、薄琉璃小瓶等,属成熟期染付。应法在瓷器期始烧,未见陶器痕。黑牟田诸窑(含“局古窑”“せめき”“新窑”)属成熟期。
韩人墓与西山姓
平松存六七基韩人墓:最早为“敷山道梦信士”1594年,旁为“清玉好泉信女”1666年,疑为父女或姊妹。碑上“西山氏先祖”为后刻,昔为“西山酒屋之墓”,谱牒已焚;松村八次郎出自其家。黑牟田至藏宿多“西山”姓,或为韩人定居时统一所用。
最早来朝
鍋岛直茂首次出兵1593年;1594议和撤至釜山,1596归。若创始者1594即卒,则“开山”难立;推测其于文禄前(天正年间)已来开窑,后至者沿用“西山”。
【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]
廣瀨·小森谷
韓人隊伍之一在廣瀨山口小森谷開窯(要左衛門山)。碎片多為灰/飴釉配白化妝、無釉高臺之碗;見新月形內削天目、線切小花入與疊燒小皿,後期用小墊承燒,並製薄灰胎之呉州描雜器與德利式油瓶。
香茸山與向窯
廣瀨諸窯出於小森谷。香茸山存粗網呉州畫之碗,多無釉高臺;白碗以綠筋繞足與腰,四點承燒。向窯見草繪碗、蔓草佛飯器、四點承皿(細貫入),及「梅底」內緣紋、外覆青磁之碗與小丼,早期含半瓷。
權現谷
此窯專燒成熟瓷:八方割水草文、底畫岩上獨腳鳥之八寸皿;內綠地、外千羽鶴之口洗丼;垣目文大反碗;松竹梅、四手、蝶、菊桐、淡渲書、寫生草、九紋詰等食碗;並多砧青瓷與箭紋雜器。
料石與釉石
遵有田法,初用當地石為半瓷,後許取泉山下等石並配「除け場」石;藩政期燒染付常器。維新後採石自由,今采聖門口石入釉,仰龍門溪湖水利與薪源。
應法與黑牟田
應法遺址有柿之谷、松山、窯之谷;初以瘤山石製薄灰軟瓷。柿之谷筆致稚拙,高臺小且多細裂;松山多油瓶。窯之谷出「ギリ詰」、二方草、薄琉璃小瓶等,屬成熟期染付。應法屬瓷器期開窯,未見陶跡。黑牟田諸窯(含「局古窯」「せめき」「新窯」)皆成熟期。
韓人墓與西山姓
平松存六七基韓人墓:最早「敷山道夢信士」1594年,旁「清玉好泉信女」1666年,疑為父女或季妹。「西山氏先祖」為後刻,昔稱「西山酒屋之墓」,譜已焚;松村八次郎出自其家。黑牟田至藏宿多「西山」姓,或為韓人定居時之通用姓。
最早來朝
鍋島直茂首征1593年,1594議和退至釜山,1596歸。若創始者1594即卒,則難稱「開山」;推測其於文祿前(天正年間)已至開窯,後至者襲用「西山」。

