支那に於ける柿右衛門焼~三代柿より本藩へ差出文書

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【原文】[Original text]

支那に於ける柿右衛門焼
 柿右工門の陶技は、彌々圓熟の境に達したのである。之まで韓人の手に依って、消極的製作に従事せし陶業が、今や一博して、當時不可能とされし白磁に成功し、其上に抜群なる赤繪まで施されし柿右工門の作品は、世界焼物の代表國とされて、青花も赤繪も、其爛熟期といはれし萬曆後の支那に於いてさへ、相當の地位を占むるに至り、否佛蘭西にては、支那明代の赤繪以上となし、當時柿右工門製品を以て、世界第一と稱したのであった。

歐洲の窯業と柿右衛門
 勿論其頃に於ける歐州の文化は、今日の科學より見て、未だ混沌たる時代であり、又東洋と西洋とは、元水窯業の進路を異にし、彼等は専ら玻璃器や七賓の如き、低火窯業に針路を執りしが如く、唯伊太利のフロレンス邊にて、火度の弱き陶器を焼成しつゝあるに止まりて、何れの地に於いても、未だ磁器などは全く造り得なかった時代であった。
 斯かる當時に於いて、純白なる素地に、淡雅な彩畫を施したる柿右工門の製品が、如何に歐州人に賞翫されしかは想像に余りある。斯くて彼等嗜好の焦点は、一に柿右工門焼に集まり、競うて之を購入することとなった。蓋し柿右工門とて當時の工場組織に於いて、多額の需要に應し得しさは思はれぬ。其に至っては、利に敏き支那人である、彼等は自國に於いて、柿右工門の擬造物を製作して、歐洲に輸出せるもの少からざりしは、察するに難くない。

歐洲の柿右衛門模作
 和蘭のデルフトにては、途に柿右工門式専門の模寫製造を試みるに至り、澳太利のマイセン又之に傚らひ、其他英國のウースター或はボー(共に製陶地)の如きも、皆柿右工門を手本とした。次いで佛、獨、伊の各園も之に追従すべく腐心したのである。蓋しそれは、何れも皆陶器に之を模倣せしに過ぎず、後年獨逸に於いて、始めて磁器製作に成功せしより、各國亦之に傚ふことゝなった。而して其初期の製品は、皆柿右工門をイミテートせしは勿論であった。
 斯くの如く歐州に於いてさへ、一の驚異として迎へられ程なれば、我邦に於いても、有田の製磯法と共に此赤繪手の秘法に就いて、全國の陶業者が注目の的とせしは當然であった。去れば此秘法を探る可變装して、此地方へ潜入するもの少からず、鍋島宗藩に於いても、之が取締の法を下して、深く警戒せしめたのである。

碗久物語
 明暦年間(1655-1658年)京都三條河原町に、屋號を壺屋と呼べる、茶碗屋久兵衛といふのがあった。彼は島原の遊女松山が色香に迷ひ、途に家産を蕩盡して、見る影もなき迄に落魄したのである。松山太夫は此窮状を憫みて如何にもして久兵衛が生活を救はんものと案じ煩へる折柄、幸ひにも父の青山幸兵衛が、肥前有田の郷里より上京したのである。
に於之
 幸兵衛は、豫て有田赤繪附の秘傳を知り居るより、松山は只管父に縋りて、此秘法を久兵衛に授けしめ、久兵衛又之を陶工清兵衛に傅へしより、茲に赤繪附が京都に弘まるに至った。然るところ此傳授の事露はれ、幸兵衛は秘法漏洩の詮議を恐れて自殺せしかば、之を聴きし久兵衛は忽ち精神錯亂して狂人となり、松山太夫世を果敢なみて病歿せしという。是が即ち碗久物語の筋書である。
 此ロマンスが、果して何れのまで事實なるかは分明ならざるも、當時は今の硝子でさへ、ギヤマンの珍器として尊重され、和蘭渡りの皿一枚を紛失せし責任を負ひ、潔く切腹せるものさへあった時代である。まして鍋島藩の厳重なる取締を犯して、其秘法を漏せし結果の出来事としては、頗る首肯すべきことと見るべきであろう。

仁清の赤繪
 陶工清兵衛とは、純日本式の意匠を獨創せし名工野々村仁清(播磨大椽)にて、彼は始め茶碗屋清兵衛と稱し、碗久は親しき間柄なりしが如く、而して幸兵衛の赤繪附法がどの程度まで傳へられしかは揣願し難きも、未だ陶器時代の京焼に、絢爛目を奪ふが如きまで、巧みに應用し得しは、流石稀世の名匠仁清にして、始めて良くし得し技術であろう。當時有田の工人は京都に赤繪の秘法が洩れ、然も陶器に巧みなる構圖を見て、何れも異様の眼を見張りしに相違ない。

柿右衛門卒去す
 初代柿右工門は、寛文六年六月十九日(1666年)名工としての終りを告げた。彼は慶長元年九月二十五日(1596年)の生れにて行年七十一才であった。墓碑は下南川原の上外づれの道端なる酒井田家墓地にある。二代柿右工門は初代よりも五年前の寛文元年(1661年)に四十二才を以て卒し、嗣子なき故舎弟が三代柿右工門を襲名相続し、寛文十二年(1672年)五十一才にて卒してゐる。
 此二代及三代は共に父初代に劣らざる名工なりしが如く、製品に於いても相當進步せし時代なりといはれてゐる。三代柿右工門も、宗藩主鍋島丹後守光茂へ御目見え仰せ付られしことは、貞享二年十一月(1685年)宗藩へ差出したる、左の酒井田家記録中の口上覺書によりて知らる。

三代柿より本藩へ差出文書
前略伊萬里津に罷在候東島德右工門と申す者長崎にて「シンカン」と申す唐人(此唐人は支那人の意)より赤繪傅習仕り右禮銀白銀十枚差出し一々に習ひ取り罷歸り(此間不明)親柿右工門年木山(南川原にて前記の古窯)にて釜を焼居候處に德右工門と申す者長崎にて唐人よ赤繪附篤くと習取候條赤繪を付け(此間不明)然らば御互に渡世可仕の通り申候につき一々焼立見申候得共終に出来不申大分損失相立候事
一其後絶に取捨不申工夫仕に燒覺へ正保三年カリアン船参り候年長崎持こしコーゼン町(興善町)八くわんと申す唐人(支那人)同宿仕り加賀筑前守樣(前田利常)御用聞塙市郎兵衛と申す人に賣り其後段々おらんだへも賣渡申候事
一赤繪物に金銀焼付に付ても親柿右工門工夫仕付燒覺へ丹州樣(鍋島光茂)初め御入部御滯留の節納富九郎兵衛殿御取にて錦付富士山の鉢猪口杯相添へ御献上御目見得仕誠以難有仕合云々
 前記の正保三年(1645年)カリアン船参り候年云々とあるは、正保四年六月二十四日葡萄牙の使節船二艘、長崎へ入港の時であろう。ガリアンとは船の型式にて、ガリアンアルマタといへば、英語のガレオン艦隊といふ意味なる由である。
 酒井田略系 酒井田家の略系左の如くである。

酒井田圓西 —慶安四年六月二十四日卒 七十八才
柿右工門 初代始喜三右工門 寛文六年六月十九日 卒七十一才
柿右工門 二代寛文元年七月二十七日卒 四十二才,
柿右工門 三代寛文十二年十月十四日卒五十一才
柿右工門 四代延寶七年八月十五日卒 三十九才
柿右工門 五代元禄四年七月三日卒 三十二才
澁右エ門 享保年間卒
柿右工門 六代享保二十年五月三日卒 四十六才
柿右工門 七代明和元年二月二十六日卒 五十四才
柿右工門 八代天明元年三月十日卒 四十八才
實右工門 九代ヨリ十代ヲ補佐ス
柿右工門 九代天保七年正月二日卒 六十一才
柿右工門 十代萬延元年三月十日卒 五十六才
柿右工門 十一代始澁之助 大正六年二月八日卒 七十八才
柿右工門 十三代始政次明治十一年九月九日生
澁雄 明治三十九年九月二十日生


【現代語訳】[Modern Japanese translation]

中国における柿右衛門様式
 柿右工門の技は円熟し、従来は韓人主導で受け身だった窯業が一転、当時不可能とされた白磁に成功し、さらに卓越した赤絵を施した。万暦後の中国の爛熟期においても、柿右工門の青花・赤絵は高く評価され、フランスでは明代の赤絵を凌ぐとして「世界一」と称された。

欧州窯業と受容
 当時の欧州は科学も窯業も未成熟で、ガラスや低火度の器物が中心、磁器は未開だった。純白の素地に淡雅な彩画を配した柿右衛門は熱烈に歓迎され、需要が殺到。供給が追いつかず、中国でも模作が作られ欧州へ輸出された。

欧州での模作と秘法警戒
 和蘭のデルフトが柿右衛門風を専門に模写し、マイセン、英国のウースター・ボー、さらに仏独伊も追随。のち独逸が磁器に成功すると初期作はこぞって柿右衛門を模倣した。日本でも赤絵の秘法が狙われ、鍋島藩は厳しく取締を行った。

「碗久物語」
 明暦期、京都の茶碗屋久兵衛は松山太夫のとりなしで、父・青山幸兵衛が知る有田の赤絵の秘伝を得て、陶工清兵衛(野々村仁清)へ伝え、京都に広まったという逸話がある。露見を恐れ幸兵衛は自害、久兵衛は発狂、松山は病没という筋立てで、当時の秘法流出の重さを物語る。

仁清の赤絵
 清兵衛=野々村仁清は和様意匠を独創した名工で、伝来の赤絵法を陶器の京焼に高度に応用した。有田の工人は、秘法が京に及び、巧緻な構図に驚嘆したにちがいない。

初代没後と系譜
 初代柿右工門は寛文六年(1666)七十一歳で没。墓は下南川原の酒井田家墓地。二代は寛文元年(1661)四十二歳で早世、嗣子なく舎弟が三代を継ぎ寛文十二年(1672)五十一歳で没。二・三代も名工とされ、貞享二年(1685)の酒井田家文書には、赤絵伝習・輸出・金銀彩献上などの口上書が残る。最新の略系は文末一覧のとおり。


【英語訳】[English translation]

Kakiemon ware in China and beyond
Kakiemon’s craft matured fully: shifting from Korean-led, conservative production to achieving once-impossible white porcelain and superb aka-e. Even amid late-Ming sophistication, his blue-and-white and overglaze red were esteemed; in France they were hailed as surpassing Ming red, “the world’s finest.”

European reception and imitation
Europe then lacked true porcelain, focusing on glass and low-fired wares. Kakiemon’s pure white grounds with restrained, elegant painting captivated collectors; demand outstripped supply. Chinese workshops produced imitations for export to Europe. Delft specialized in Kakiemon-style copies; Meissen, Worcester, and Bow followed, then France, Germany, and Italy. Early European porcelains largely imitated Kakiemon. In Japan, secrecy around aka-e tightened under Nabeshima control.

The “Wankyu tale”
A Kyoto dealer, Wankyu (Hisakubei), reportedly obtained Arita’s aka-e secret via Aoyama Kōbei (urged by courtesan Matsuyama) and passed it to the potter Seibei—Nonomura Ninsei—spreading aka-e in Kyoto. When exposed, Kōbei allegedly killed himself; Wankyu lost his mind; Matsuyama died—an emblematic legend of the risks of leaking kiln secrets.

Ninsei’s aka-e
Ninsei, a master of native Japanese design, applied the red-enamel method brilliantly to Kyoto earthenware, stunning Arita artisans with refined compositions.

Deaths and lineage
First Kakiemon died Kanbun 6 (1666), age 71; grave at the Sakaida plot in Shimo-Nakawara. Second Kakiemon died in 1661 at 42; a younger brother became the third, who died in 1672 at 51. Both were reputed masters. A 1685 Sakaida memo records training in aka-e, exports, and gifts with gold/silver enamels. A condensed lineage list follows in the original.


【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]

在中国与欧洲的柿右卫门样式
 柿右工门技艺臻于成熟:由韩人主导的保守制作迈向白瓷成功,并施以卓绝赤绘。即使在万历以后中国陶艺繁盛期,柿右卫门的青花与赤绘亦占要位,法兰西更称其超越明代赤绘,为“世界第一”。

欧洲的接受与仿作
 当时欧洲尚无真正瓷器,重玻璃与低温烧成。纯白胎配淡雅彩画深受追捧,需求远超供给;中国亦制柿右卫门仿品外销。和兰德尔夫特专作仿制,马伊森、伍斯特、博等继之,法德意纷纷追随。早期欧洲瓷多仿柿右卫门。日本国内,赤绘秘法被严加警戒。

“碗久物语”
 传说京都茶碗屋久兵卫在松山太夫斡旋下,经其父青山幸兵卫得有田赤绘秘传,并传于陶工清兵卫(野々村仁清),赤绘遂行于京都。事泄后幸兵卫自尽,久兵卫失心,松山病逝,足见秘法外流之重。

仁清的赤绘
 仁清以和样意匠著称,将赤绘巧妙用于京烧陶器,令有田工人惊叹其构图之妙。

初代逝世与谱系
 初代柿右工门1666年卒(71岁),墓在下南川原酒井田家墓地。二代1661年卒(42岁),无嗣,弟承为三代,1672年卒(51岁)。二三代亦为名工。1685年酒井田家文书记载赤绘传习、输出与金银彩进献。略系见原文末。


【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditional from Japanese]

在中國與歐洲的柿右衛門樣式
 柿右工門技藝臻熟:由韓人主導之保守窯業,一躍而成白瓷,復施妙絕赤繪。即於萬曆後中國繁盛期,柿右衛門之青花與赤繪亦居要席,法蘭西更稱其超越明代赤繪,為「天下第一」。

歐洲之接受與摹作
 彼時歐洲未得真瓷,多為玻璃與低溫器。純白胎配淡雅彩畫備受推重,求過於供;中國亦製仿品外銷。和蘭德爾夫特專營仿作,邁森、伍斯特、博等繼起,法德義相繼追隨。早期歐瓷多仿柿右衛門。日本則嚴禁赤繪秘法外洩。

「碗久物語」
 傳稱京都茶碗屋久兵衛,經松山太夫周旋,由其父青山幸兵衛得有田赤繪秘傳,授陶工清兵衛(野々村仁清),赤繪遂行於京都。事泄幸兵衛自盡,久兵衛發狂,松山病逝,足證秘法外流之重。

仁清之赤繪
 仁清以和樣意匠見長,妙用赤繪於京燒,構圖精麗,有田工人皆歎服。

初代卒與系譜
 初代柿右工門1666年卒(七十一歲),墓在下南川原酒井田家墓地。二代1661年卒(四十二歲),無嗣,弟襲為三代,1672年卒(五十一歲)。二三代亦稱名工。1685年酒井田家文書載赤繪傳習、輸出與金銀彩進獻。略系如原末所列。


【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]

柿右卫门在中欧的影响(英译直译)
 柿右卫门技艺成熟:由保守到白瓷与赤绘并成,在晚明语境中亦受推崇,法兰西称“世界最佳”。当时欧洲未制真瓷,故其白地淡彩格外动人,中国亦制仿品转销。德尔夫特、马伊森、伍斯特、博等循其样式,早期欧瓷多从柿右卫门起步;日本方面严守秘法。京都“碗久物语”叙青山幸兵卫泄授、仁清应用之事,映照秘传风险。初代1666年卒,二代1661年卒,三代1672年卒,皆负盛名。


【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]

柿右衛門於中歐之影響(英譯直譯)
 柿右衛門技藝大成:由保守轉為白瓷與赤繪兼備,於晚明語境亦蒙讚譽,法國稱「世界最佳」。時歐未能製瓷,白地淡彩尤動人;中國亦製仿品轉銷。德爾夫特、邁森、伍斯特、博等循其式,早期歐瓷多由柿右衛門入手;日本嚴守秘法。京都「碗久物語」述青山幸兵衛洩授、仁清運用之事,見秘傳之險。初代1666卒,二代1661卒,三代1672卒,皆稱名家。