【原文】[Original text]
優秀陶家へ藩用を命ず
鍋島宗藩の御細工屋が有田の岩谷川内にありし時も、なほ傍らに南川原の窯焼中抜群の者へは、折々製品を用命せしものにて、當時優れ陶家は南川原に多かりしが如くそれは柿右工門を始め、徳永常光、中野徳兵衛な其重なる者であった。而して寛文の末御細工屋此地南川原へ移り來りし當時より、殊に柿右工門への用命多く成りしが如く、とりわけ赤糸附丈は柿右工門の専屬なりしに相違ない。
酒井田の藩用差止
延三年南川原の御細工屋が、大川内山へ移轉されしと同時に、自然藩より柿右工門への注文が、疎隔さるに至ったのである。之には特に重要なる理由ありしものゝ如くそれは如何なる名家とても、代々名工のみ繼續し得べき道理がなく、柿右工門も四代五代に至つでは技術頗る劣りしかば、藩は大河内にて赤繪附まで創めし物の如く、そして柿右工門へ對し、到底父祖の名を維持し得る資格を認めずとて、貞享二年十一月八日(1685年)附を以て五代柿右工門二十六才の時遂に宗藩の御用を差止めらるに至った。
覺
其方事從以前(不明)御用の御焼物被仰付候處一人に被入數年(不明)相調被差上候殊に赤繪錦手其方焼初め候義其紛無之に付永々其職被差免候條難有可被存候此段中野將監殿より被仰如此候
以上
貞享二年十一月八日 大石軍平判
又酒井田家記録にある左の歎願書は、當時の柿右エ門より、鍋島宗藩へ差出せしものであらう。
其一節に
一柿右工門南川原へ罷在御用物の儀は不申及方々大名方御誂物相調居候然るに赤繪物の儀釜燒其他のもの共世上クワット(一時に壙がりし意味か)仕候得共共手前にて出来立申迄獅子物(玉取獅子の底繪?)の儀某手本にて仕候事
一親柿右工門家(隠居)仕り某に家を渡し候時節世上燒物大分大のナグレ(零落即ち不景氣なるべし)にて大分の難澁を仕込候上手のもの(不明)すでに混成しばらく家職を相止罷在候然る處に今程燒物直段よく罷成此時親柿右工門江戸上方は不申及大明迄も相知れ申したる珍敷今此時燒立可申と奉存候今新敷申上くるに不及候得共赤繪の義も先年の様に被仰付可被下候此節御上の以御影願の通り被仰付候様に筋々に宜敷仰上可被下様偏に奉願候
酒井田の藩用復活
従來他の窯焼よりも、多くの御用製品を受けおりし柿右工門は、此の御用御差し止めに思うて、經濟上の脅威に堪へきれず、享保八年(1723年)切なる願書を呈出しで、再び御用命を乞ふこと頻りなるより、宗藩に無之於いてもの關係上全く見捨て難く、依って藩窯にて製作する規定数の外、臨時注文の一部を割いて柿右エ門へ用命すること成ったのである。
名工澁右衛門
是より先き五代柿右工門は、元祿四年(1691年)三十二才にて卒し歿後四年目に六代柿右工門五才にして相續するや、叔父澁右工門後見となりしが、彼は宗家の家名断絶せんことを恐れ、刻苦勉勵六代を守り立て、絶大の努力をしたのである。此澁右工門は反鉢細工の妙手のみならず、意匠圖案亦抜群の名工と稱せられ、元祿時代(1688-1704年)の優秀品は、此澁右工門の作といはれてゐる。
八代柿の御目見え
安永三年九月三日(1774年)八代柿右工門は、藩主鍋島肥前守治茂へ御目見えを許された。蓋し當時に於いては、身分なき一陶家として、非常なる光榮なりしことは申すまでもない。
初代柿右衛門へ追賞
明治十八年六月東京上野に於いて繭絲、織物、陶磁器共進のあるや、時の農商務大臣西郷従道は、初代柿右工門の功績を追賞して、金參拾圓を下附したのである。明治の末年には西松浦郡出身の在京有志、川原茂輔(代議士)松尾廣吉(貴族院議員)松尾寬三(前代議士業銀行理事)藤山雷太(東京商業會議所會頭)森永太一郎(森永製菓株式會社長)等は十一代柿右工門を引立て後援したのである。
和蘭東印度商會のマーク
初代柿右工門が、和蘭聯合東印度商會(1803年乃ち享和三年「1803年」に解散してゐる)の(Vereengde 「聯合」Oost「東」Indisene「印度」Compagnie 「會社」)
の頭文字を取り、VOICの四文字を模様化してマークとせしもの、及「今里於應求柿右工門」と暑銘せる製品は今歐州に於いて珍重されてゐるといはれてゐる。
而して今長崎高商の武藤長藏教授が所持せる尺二寸の縁鉢は、支那の古染附風にて、縁は六方割の模様であり、底には柘榴と尾長鳥を書き、中央なる二寸五分程の丸の中に、別圖の如く羅馬字を模様化したのがあるが、Ⅰの一字が足りない。蓋し夫は東印度と略すれば、此方が本當らしく、又四文字としては、模様化するに頗る困難なところもある。
柿右工門が、宗藩よりの御用命品や其他の特製品と稱すべきものは、多く無銘にて、そして角幅の銘を記入せし分は、普通製品といはれてゐる。
支支那風を模倣せしものには、他の有田焼と同様に、「大明成化年製」や、「奇玉寶鼎之珍」 など記銘せしものに、頗る優秀な作品があり、しかもそれが何代の製作なるかは判明せぬ。
福字銘
近年まで柿右工門が専用とせし角福銘(別紙参照)は、元來支那古陶磁の銘款にて、祥瑞と同じく、福壽は吉祥文字として多く用ひられてゐる。明陶には表面に福字を書いたのがあり、呉須福学皿と稱せるは、見込の中に福字が大書されてある、又赤釉物には、霊獣が福字を背負うたのがあり、裏銘に至っては、別紙の如く我邦にも廣用ひられてゐる。殊に黒牟田の福島助五郎の如きは専ら角福銘のみを用ひしといはれてゐる。
而して柿冶工門が、最初此角福銘を用ひしは、何代頃なるや區々の説ありて、或説には九代頃ならんとの推論もある。然るに小城の松ケ谷焼には元祿時代の製品と見る可き物に、角幅の銘品あるを見れば、既に五六代頃の柿右工門が、小城藩主に招聘されしことを立証することゝなる。
顧ふに前述せる如く、五代柿右工門の時に於いて、宗藩の御用一時差止めの事があり、従つて家計の都合より、松ヶ谷へ出張せしにはあらざるか尤も松ヶ谷焼の創始は、寛永時代なるが如きも、開窯の當時より南川原の工人が、其陶師として招聘されしと見る可く。而して柿右工門は、自己の作品のみに角層の銘を用ひし如く検討さるゝのである。蓋し柿右工門が、松ヶ谷に於ても此銘款を用ひしは、他の有田内外の各窯焼と同じく、單に支那燒模倣の程度にありしことは申すまでもない。
角福銘侵害事件
然るに十一代柿右工門は、明治十八年に此角福銘を、自家の商標として特許登鎌を受け、此同銘(別紙の最初)を用ひしものは差押へらるゝことゝ成りしより、従来此記銘を用ひたりし斯業者に恐惶を起すに至った。就中有田赤繪町の今泉藤太が、無反省に此銘を使用しつゝありさて、柿右工門より交渉せしところ、藤太が言ふには、抑角福の銘たるや、支那傳來にて、往時より有田内外は勿論、既に九谷や京都を始め全國山に使用されつゝある。
然るに今日に及んで、卒然柿右工門が獨占すべき理由なして断然之に應せず、遂に訴訟沙汰となり、東京其他の方面よりも反證に應援せんとする氣勢ありしが、理屈は兎も角、後年たりごも柿右エ門が既に特許の登録を了せし以上は、侵害るべしとの説起りて仲裁となり、藤太より若干の訴訟費を提供して、漸く解決せしは明治四十年頃であった。
【現代語訳】[Modern Japanese translation]
優れた陶工への藩の発注
鍋島宗藩の御細工屋が有田の岩谷川内にあった頃も、南川原で抜きん出た窯元には随時製作を依頼した。優秀な陶工は南川原に多く、中心は柿右工門、徳永常光、中野徳兵衛らである。寛文末に御細工屋が南川原へ移って以降、とくに柿右工門への注文が増え、赤絵(赤糸付)はほぼ専属だった。
酒井田家への御用停止
延宝三年、御細工屋が大川内山へ移転すると、藩の柿右工門への発注は疎遠となった。名家といえど代々名工が続くとは限らず、四代・五代では技量が落ちたため、藩は大河内で赤絵まで自製化。父祖の名に見合う力量なしとして、貞享二年十一月八日(1685年)、二十六歳の五代柿右工門は御用停止となった。
覚書と嘆願
当時の覚には「赤絵錦手を焼き始めた功は認めるが、永くその職を免ず」とある。酒井田家の嘆願書では、各大名注文を担ってきたこと、世情不況で家職が中断したが今や相場回復し再び赤絵御用を望む旨を丁寧に訴えている。
藩用の一部復活
御用停止で経営が逼迫した柿右工門は、享保八年(1723年)に再三願い出、藩も関係上見放せず、藩窯の規定数とは別に臨時注文の一部を割いて発注することになった。
名工・澁右衛門
五代は元禄四年(1691年)三十二歳で没。四年後に六代(当時五歳)が相続し、叔父の澁右工門が後見に。家名断絶を恐れ奮励し、反鉢の妙手かつ意匠にも秀で、元禄期の優作は澁右工門作とされる。
八代の拝謁と初代追賞
安永三年(1774年)九月三日、八代柿右工門が鍋島治茂に拝謁を許され、無位の陶工としては破格の栄誉。明治十八年、上野の共進会で西郷従道が初代の功績を追賞し金三十円を下賜。明治末には川原茂輔、松尾廣吉、松尾寬三、藤山雷太、森永太一郎らが十一代を後援した。
VOCマークと欧州評価
初代は和蘭聯合東印度商會(VOC)の頭字 VOIC を意匠化したマークや「今里於應求柿右工門」銘を用いた作を残し、欧州で珍重される。武藤長藏所蔵の尺二寸縁鉢には羅馬字風意匠があるが “I” を欠き、東印度略称と見る説がある。御用や特製は無銘が多く、角幅銘は通用品とされた。中国風銘「大明成化年製」「奇玉寶鼎之珍」等を写した優品もあり、製作代別は未詳。
角福銘と紛争
角福銘は本来中国の吉祥銘で、我が国でも広く用例がある。黒牟田の福島助五郎も専用にしたと伝わる。柿右工門が最初に用いた時期は諸説あるが、松ヶ谷焼の元禄期作に角福が見られるため、五・六代期に小城藩主の招聘に応じた証左とされる。十一代は明治十八年に角福を商標登録し、今泉藤太らとの紛争が発生。全国的通用銘を独占できないとの反論もあったが、登録後は侵害と扱われ、仲裁で訴訟費の提供により明治四十年頃に収束した。
【英語訳】[English translation]
Domain commissions to outstanding potters
When the Nabeshima domain’s official workshop stood at Iwaya-gawachi in Arita, it also commissioned standout kilns in Minamigawara—especially Kakiemon, Tokunaga Tsunemitsu, and Nakano Tokubei. After the late Kanbun move of the workshop to Minamigawara, orders to Kakiemon increased; overglaze red (aka-e) was effectively his preserve.
Suspension of Sakaida family service
In Enpō 3, when the workshop moved to Ōkawachiyama, domain orders to Kakiemon waned. As no lineage yields geniuses forever, technique declined by the 4th–5th generations; the domain even began aka-e at Ōkawachi and judged the 5th Kakiemon (age 26) unfit to uphold the house name, issuing a suspension on Jōkyō 2 (Nov 8, 1685).
Memorandum and petition
A memo acknowledges he pioneered aka-e nishide yet removes him from post. A Sakaida petition pleads that, despite past slumps, market prices have recovered and requests restoration of aka-e commissions.
Partial reinstatement
Financial strain led to repeated appeals; in Kyōhō 8 (1723) the domain allotted part of ad-hoc orders beyond the official quota to Kakiemon.
Master Shibue-mon
The 5th died in Genroku 4 (1691) at 32. Four years later the 6th (age 5) succeeded under the guardianship of his uncle Shibue-mon, who safeguarded the line. Renowned for large flanged bowls and design, many prime Genroku pieces are attributed to him.
Audiences and honors
On An’ei 3 (1774) Sep 3, the 8th Kakiemon was granted audience with Nabeshima Harushige—exceptional for a commoner potter. In Meiji 18 (1885) the minister Saigō Tsugumichi posthumously awarded the first Kakiemon at the Ueno exposition; later Tokyo elites backed the 11th.
VOC mark and European taste
The first Kakiemon used a mark stylizing the Dutch VOC initials “VOIC,” and pieces inscribed “今里於應求柿右工門” are prized in Europe. Prof. Mutō Chōzō’s 12-sun rim bowl bears Roman-letter motifs (one “I” missing), likely an “East Indies” abbreviation. Court or special pieces were often unsigned; square-frame signatures marked regular wares. Some fine works bear Chinese-style reign marks; authorship era is unclear.
The “square-Fuku” mark dispute
The square Fuku, a Chinese auspicious mark, was widely used in Japan (e.g., Fukushima Sukegorō of Kuromuta). When Kakiemon first adopted it is debated; Matsugatani wares of Genroku with the mark suggest 5th–6th generation ties to the Ogi domain. In Meiji 18 the 11th registered it as a trademark, provoking conflict (e.g., Imaizumi Tōta). Though many claimed it was public domain, registration made unauthorized use infringing; mediation around Meiji 40 settled the case with costs paid by the opponent.
【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]
对优秀陶工的藩用委嘱
鍋島宗藩的御细工屋在有田岩谷川内时,亦常向南川原的拔尖窑元下单。代表为柿右卫门、德永常光、中野德兵卫。寛文末迁至南川原后,柿右卫门受命更频,赤绘几为其专属。
酒井田家的御用停止
延宝三年御细工屋迁大川内山,藩对柿右卫门下单转疏。因四、五代技艺不逮,藩在大河内自制赤绘,并以无力维持家名为由,于贵享二年十一月八日(1685)停止五代(26岁)御用。
陈情与部分恢复
酒井田家呈嘆愿,述及景气回升,愿再担赤绘。享保八年(1723)藩以临时订单的一部再委柿右卫门。叔父澁右卫门为六代监护,善于反钵与设计,元禄佳作多归其手。安永三年(1774)八代获鍋島治茂接见。明治十八年西乡从道追赏初代;东京实业界亦扶持十一代。
VOC标与角福争议
初代曾用和兰联合东印度公司“VOIC”意匠标与「今里於應求柿右工門」款,今为欧藏所珍。御用特制多无款,角框款多为普通品;亦有仿中款佳作。角福原为中华吉祥款,我国沿用广。十一代明治十八年将其注册为商标,引发与今泉藤太等之讼;终以登记在先为据,明治四十年左右调解了结。
【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditional from Japanese]
對優秀陶工的藩用委命
鍋島宗藩御細工屋在有田岩谷川內時,亦頻向南川原之名窯下單,如柿右衛門、德永常光、中野德兵衛。寬文末遷至南川原後,對柿右衛門尤多,其赤繪幾為專屬。
酒井田家之御用停止
延寶三年遷大川內山,藩命遂疏。四、五代技藝不及,藩於大河內自作赤繪,以難維家名為由,於貞享二年十一月八日(1685)停五代(26歲)御用。
陳情與部分復活
其後屢陳願,享保八年(1723)獲分配臨時訂單。叔父澁右衛門監護六代,反鉢與設計兼妙,元祿佳作多歸其作。安永三年(1774)八代得鍋島治茂召見。明治十八年西鄉從道追賞初代;京師實業界亦援助十一代。
VOC標與角福爭議
初代曾用和蘭聯合東印度公司“VOIC”意匠標與「今里於應求柿右工門」款,今為歐洲所珍。御用品多無銘,角框款屬通品,亦有仿中銘之佳作。角福原為華夏吉祥款,國內沿用廣。十一代於明治十八年註冊為商標,引發與今泉藤太等之訟;終以註冊在先為據,明治四十年前後調解終結。
【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]
藩用与角福(英译直译)
藩工坊亦向南川原名窑下单,柿右卫门几成赤绘专属。延宝三年迁大川内后,以四、五代技退为由,1685年停五代御用;1723年以临时订单局部恢复。叔父澁右卫门护持六代,元禄名品多出其手。1774年八代获召见;1885年初代受追赏。初代用VOC意匠与「今里於應求柿右工門」款。角福为华吉祥款,明治十八年注册引起诉争,约1907年调解。
【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]
藩用與角福(英譯直譯)
藩工坊亦向南川原下單,柿右衛門幾為赤繪專屬。延寶三年遷大川內後,以四、五代技弱為由,1685年停五代御用;1723年以臨時訂單部分恢復。叔父澁右衛門扶持六代,元祿名品多其作。1774年八代獲召見;1885年初代受追賞。初代用VOC意匠與「今里於應求柿右工門」款。角福為華之吉祥款,明治十八年註冊致爭訟,約1907年調解收束。

