岳野山~小笠原長昌代る

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【原文】[Original text]

岳野山
 岳野山は此處の向ひ合せにて、古窯品は牟田の原と相似たるも概して口物を焼きしもゝの如く、それ等の種類には褐色地にて線彫文様の八寸の壺や、黒天目にて大胴形五寸の花瓶及茶褐色釉に鐵釉飛点ある同形の花瓶があり。又黒天目涙痕にて大胴形三寸の花立や、飴色釉に芽を描せる隅ゆり四角の小皿などもある。
 松浦村の山形は戸數百四十戸ありて、此處の山邊には寺の谷なる鞍壺と栗木谷の二ヶ所に古窯趾がある。従來後家田に窯趾あり稱せられしも、此處は栗木谷より二た谷を隔てし處にて今何等の形蹟も見出されない。

鞍壺
 鞍壺の殘缺には鶯釉や赤茶釉の徳利或は黄灰色の火入があり、又例の甕や壺などを焼きしものゝ如くそこはかに其破片がある。此外天目茶碗など何れも高臺無釉にて焼かれてゐる。

栗の木谷
 栗木谷の古窯品には、褐色胎土に白釉を薄掛して、胎土の色を透視せる深茶碗があり。或は鉛色胎土褐色地の大皿がある。又炻器にて驚釉や、黄瀬戸釉を掛けし茶碗があり、或は同地に白釉を施せし茶碗の如き、其何れも内部より外縁部まで施釉せしものありて、半磁器に近き地質の堅緻と相反し頗る元始的作風である。

山崎
 山崎窯趾は松浦村の隣地なるも、此處は杵島郡若木村なる本部の小字にて、小川内と稱する十四五戸の小村落である。此地東方の丘山に窯趾ありし由なるも、今は畑地に開拓されて其破片を見出すさへも容易でない。たゞ僅に高麗人の墳と稱せらるゝもの高さ一尺許りの自然石が建られてゐるのみである。
 原料は粘力に富める此處の坏土を使用せしものにて、殘缺には尺口の大口甕に内部丈飴釉を施せしものや、青茶釉や灰色釉の溝縁小皿があり。又廣縁淵の小皿に四方二つ葉と、底に蘭をせしもの何れも高臺無釉である。

古甕屋
 又同隣地の長尾には、古甕屋と稱し往年甕類を焼きし由なるも、今は全く其痕跡を止めざるまでに開墾されてゐるのである。

桃の川甕山
 此地唐津系にはあらざるも松浦村に桃の川甕山がある。此處は伊萬里より二里八丁戸數二百五十戸の一宿驛である。

中野清明
 松浦村は元波多氏の支配地なりしが後年鍋島氏の領地に属し、佐嘉より中野神右工門清明桃の川を知行して此地に治した。そして彼は直茂に従ひて朝鮮役に従軍せしが、帰国の際韓人の陶工を帯同して此處に甕焼を開始せしめたのである。
 此地甕類専門の製造地としては肥前中第一と稱せられ、多々良や上野よりも一割乃至二割の高値にて取引されてゐる。蓋し往時には製甕の傍ら、六七寸より尺口位迄の皿類を製せしものにて、それは褐色或は暗褐色胎土に飴釉を掛け、白にて縁へ浪刷毛目をしたるがあり。又小豆釉の上に白刷毛目を施したる七寸の淺井等は全釉なるも多くは高臺尻無釉にて蛇の目積にて焼かれてゐる。

清明の墓碑
 清明は晩年隠居して此地に歿せしより、此處に其墓碑がある。それは五坪位の地取にて石園の中を三和土となし、其上なる墓石の高さ五尺五寸、巾四尺四寸にて、厚さ四寸位の鳥帽子形平面石の中央に、南無妙法蓮華經下に照眞院通禪定門と銘し、右に南無多如來元和七年辛酉(1621年)逝去好真靈、左には南無釋迦牟尼佛七月十八日一週忌建之と彫られてある。
(彼の死を追って殉死せし横田工門の墓は小城の墓地にある)清明の長子將監正守善く民を治め、殊に此地の製甕を保護獎勵せしといはれてゐる。中野家の略系左の如し。(中野略系参照)

桃の川焼
 此地の原料は、現今三間坂(杵島郡中通村)眞手野(同郡武内村)砥石川(當郡大川村)山口(同村)等の粘土を調節し、甕は五石人の巨器をはじめ其他、土管、植木鉢或は瓦等を製造しつゝある。今の伊藤伊之十は四代績きの當業者にて、此外に二戸の同業者がある。一時は泡盛の容器として鹿児島地方へ多量の甕を供給し、年產額一萬圓以上を繋げたりしも、當今は其半額に過ぎぬといはれてゐる。

堅高自す
 寛永十四年十一月九日(1637年)板倉重昌の所領肥前國島原に於いて、耶蘇切支丹の徒蜂起せし時に、寺澤堅高が領せる天草の農民又之に興せるを、堅高速に征服の軍を出さざりし爲に頗る討伐に手古摺らせしを罪として天草の所領四萬石を削除さるに至った。堅高は大いに之を遺憾となし、正保四年十一月十八日三十九才を以て、江戸淺草の海解寺に於いて自刃したのである。

久盛勝隆來治
 依って領地を没収され、同月二十四日幕命にて豊岡の城主(七萬四百石)中川主膳正久盛(瀬兵衛清秀の曾孫承應二年三月十八日卒、六十才)及び備中國松山の城主(五萬石)水谷伊勢守勝隆(勝隆の後妻は堅高の妹也勝隆は寛文四年閏五月三日卒す、六十八才)の一行は唐津に来つて舞鶴城を領受し、當城の番衛として爾後の政務を管掌すること成った。斯くて坊主町の藩窯も一時幕府の直轄として製陶するに至った。

大久保忠職代る
 慶安二年(1649年)大久保加賀守忠職(加賀守忠常の男)が、播州明石より移封されて唐津の領主となり八萬七千石を祿せしが、彼が母は奥平美作守信昌の女ゆゑ家康の外孫に當り、鎮西の探題として治績大いに擧がるに至つた。忠職の赴任と共に中川久盛と水谷勝隆は自領へ帰りしも、當時勝隆に從ひりし梅村利兵衛さいへる士のみ獪殘留したのである。

梅村利兵衛
 利兵衛は茶道の趣味深く且器物の鑑識に富み殊に繪畫に就いて深き造詣があつた。
彼は一旦浪々して筑前國鹿家の呂久(糸島郡福吉村)といへる地に於いて人形を造り、或は團扇の繪など描きおりしが、又佐嘉領に来り有田より三河内地方の陶業を観察して再び唐津に歸り領主忠職に献策し、牟形村(有浦村)の坏土を採取して之を坊主町の藩窯に用ひ、専ら幕府へ進献の陶器を製作した。

平山上窯
 然るに後年に及び、彼は去つて相知村に来り此處の平山上字櫨の谷西に築窯し、三河内より工人を招きて製陶に従事せしも五ヶ年にして止み、又此地を去って浪々せしが、晩年和多田(唐津郊外鬼塚村)の御茶屋番を勤務中茲に名工の終りを告げしは痛惜すべき次第である。
 寛文九年四月十九日大久保忠職六十九(七)才を以て卒去し、出羽守忠朝(實は忠常の叔父右京亮数隆の次男)二代を嗣きしが、彼は下總國佐倉へ移封された。

松平乘久代る
 延宝六年七月(1678年)下総松倉の城主松平和泉守乘久(和泉守乘壽の男貞享三年七月十七日卒す)代つて七萬三千石を領有した二代は子和泉守乘春嗣ぎ、三代左近監乘色に至って、貞享四年二月(1687年)志摩國鳥羽に移封されたのである。

土井利益代る
 元祿四年五月二十九日(1691年)山城國鳥羽の城主土井周防守利益(遠江守利隆次男正徳三年閏五月廿五日卒す)代つて七萬石を食祿した。正徳四年四月二十七日二代大炊頭利實次ぎ、元文三年四月十八日三代大炊頭利延(實は族備後守利清の男)継ぎ、四代は大炊頭利里(實は利延の舎弟)嗣いだ。
そして實永四年(1627年)或は享保四年説もあ坊主町の藩窯は餘りに海岸に近して、今の唐人町字谷町の御茶碗窯に移窯されたのである。
而して利里は實曆十二年九月(1635年)舊領下の國古河に歸ることゝ成った。

水野忠任代る
 實曆十三年三河國岡崎の城主水野和泉守忠任(監物忠辰の養子にて實は水野多宮の弟)代つて唐津を所領した。然るに其頃天災相次ぎ五穀實らず、加ふるに忠任猥りに制を更して大いに人民を苦しめしかば、此苛政にして領内の農民蜂起し、明和八年七月二十日(1711年)虹の松原に集合する者二萬二千人に及び

智月と才治
 就中鏡村常樂寺の住職智月、玉島村平原の大庄屋富田才治等の義民達に其犧牲者たるに至った。二代式部少輔忠鼎遠江國濱松へ移封し、三代和泉守忠光、四代越中守忠邦嗣ぎしが、文政元年六月餘石一萬七千石は幕府の直轄となるに至った。

小笠原長昌代る
 文政元年(1818年)小笠原主殿頭長昌の領地となりて六萬石を食した。小笠原氏は清和源氏新羅三郎義光の四代甲斐冠者遠光より出でしものにて、系圖左の如し。(小笠原系圖参照)


【現代語訳】[Modern Japanese translation]

岳野山は牟田の原と向かい合う位置にあり、出土品は牟田の原と似るが、主に「口物」(口径の小さな器)を焼いたようである。種類としては、褐色地に線彫文様を施した八寸の壺、黒天目の大胴形・五寸の花瓶、茶褐色釉に鉄釉の飛び点が出た同形の花瓶、黒天目の涙痕が出た大胴形・三寸の花立、飴色釉に芽の絵を描いた隅丸の四角小皿などがある。

松浦村の山形は戸数一四〇戸で、山辺には「寺の谷」の鞍壺と栗木谷の二か所に古窯跡が残る。従来、後家田にも窯跡があると言われたが、そこは栗木谷から二つ谷を隔てた場所で、現在は痕跡が見つからない。

鞍壺の出土には、鶯色釉や赤茶釉の徳利、黄灰色の火入(火入れ)などがあり、甕や壺の破片も散見される。天目茶碗も出ており、いずれも高台は無釉で焼かれている。

栗木谷の出土には、褐色胎土に白釉を薄く掛けて胎の色が透ける深茶碗、鉛色の胎に褐色地の大皿、また炻器で灰釉や黄瀬戸釉を掛けた茶碗、同じく白釉を施した茶碗などがあり、いずれも内側から外縁まで釉を掛ける作りで、半磁器に近い緻密な素地でありながら作風はかなり素朴で原初的である。

山崎の窯跡は松浦村の隣、杵島郡若木村の本部字・小川内(十四、五戸の小集落)にあったという。東方の丘に窯跡があったと伝わるが、今は畑に開かれ、破片を見つけるのも容易でない。わずかに「高麗人の墳」と呼ばれる、背丈一尺ほどの自然石が立つのみである。用いた原料は当地の粘りの強い坏土で、出土には口径一尺の大口甕(内側だけ飴釉)、青茶釉や灰色釉の溝縁小皿、広い縁の小皿で縁に四方二つ葉、井戸(底)に蘭を描いたものなどがあり、いずれも高台は無釉である。

同じく隣地の長尾には、かつて甕類を焼いた「古甕屋」と呼ばれた場所があったが、今は開墾が進み痕跡は失われた。

唐津系からは外れるが、松浦村には「桃の川甕山」があり、伊万里から二里八丁、戸数二五〇戸ほどの宿駅である。松浦村はもと波多氏の支配地で、のち鍋島氏の領に属した。佐嘉から中野神右工門清明が桃の川を知行して当地を治め、直茂に従って朝鮮の役に出陣し、帰国の際に韓人陶工を伴って甕焼を始めさせた。ここは甕専門の産地として肥前随一と称され、多々良や上野よりも一~二割高で取引された。往時は甕のかたわら六、七寸から一尺口ほどの皿も作り、褐色~暗褐色の胎に飴釉を掛け、白で縁に波刷毛目を入れたもの、小豆釉の上に白刷毛目を施した七寸の浅鉢などがあり、全面釉の作もあるが、多くは高台尻が無釉で「蛇の目積み」で焼かれている。

清明は晩年に隠居して当地で亡くなり、墓碑が残る。約五坪の区画に石の庭を三和土で固め、その上に高さ五尺五寸・幅四尺四寸・厚さ四寸ほどの烏帽子形の平石を据え、中央に「南無妙法蓮華経」の下に「照真院通禅定門」と刻み、右に「南無多如来 元和七年辛酉(1621年)逝去 好真霊」、左に「南無釈迦牟尼佛 七月十八日 一周忌建之」と彫る。(殉死した横田工門の墓は小城の墓地にある。)長子・将監正守は善政を敷き、とくに当地の甕業を保護・奨励したという。

桃の川焼の原料は、現在は三間坂(杵島郡中通村)、真手野(同郡武内村)、砥石川(大川村)、山口(同村)などの粘土を調合し、五石入の大甕をはじめ、土管・植木鉢・瓦なども製造している。今の伊藤伊之十は四代続く当業者で、ほかに同業が二戸ある。かつては泡盛の容器として鹿児島方面に多量の甕を供給し、年産一万円以上をあげたが、現在はその半分にとどまるという。

寛永十四年(一六三七)十一月九日、板倉重昌領の肥前国島原で切支丹一揆が起こった際、寺澤堅高の領する天草でも農民が呼応した。堅高が迅速に出兵しなかったため討伐が難航した責を問われ、天草四万石を没収された。堅高はこれを遺恨として、正保四年(一六四七)十一月十八日、三十九歳で江戸・浅草の海解寺にて自刃した。

領地没収により、同月二十四日、幕命で豊岡城主・中川主膳正久盛(七万四百石)と備中国松山城主・水谷伊勢守勝隆(五万石)が唐津に来て舞鶴城を受領し、番衛として政務を管掌した。これにより坊主町の藩窯も一時、幕府直轄の製陶となった。

慶安二年(一六四九)、大久保加賀守忠職(加賀守忠常の子)が播州明石から移封され、唐津八万七千石を領した。母は奥平信昌の娘で家康の外孫に当たり、鎮西探題として治績を挙げた。忠職の赴任で中川久盛・水谷勝隆は帰国したが、勝隆に従っていた梅村利兵衛のみが残留した。

梅村利兵衛は茶の湯の趣味が深く、器物の鑑識に富み、とくに絵画に通じた。いったん浪人して筑前国鹿家の呂久(糸島郡福吉村)で人形作りや団扇絵を描き、佐嘉領に来て有田から三河内地方の陶業を見て回り、再び唐津に戻って忠職に献策し、有浦村・牟形の坏土を採って坊主町の藩窯に用い、幕府献上の器を専ら製作した。

のち相知村に移り、平山上・字櫨の谷西に築窯して三河内から工人を招き製陶に従事したが、五年でやめ、また流浪した。晩年は和多田(唐津郊外・鬼塚村)の御茶屋番に勤めるうちに没し、名工の生涯を閉じた。寛文九年四月十九日、大久保忠職は六十九(七十)歳で没し、出羽守忠朝(二代)が継いだが、下総国佐倉へ移封となった。

延宝六年(1678)七月、下総・松倉城主の松平和泉守乗久が代わって七万三千石を領し、二代・乗春、三代・乗色と続き、貞享四年(1687)二月に志摩国鳥羽へ移封された。

元禄四年(1691)五月二十九日、山城国鳥羽城主・土井周防守利益が代わって七万石を領し、二代・大炊頭利実、三代・大炊頭利延、四代・大炊頭利里と続いた。坊主町の藩窯は海に近すぎたため、実永四年(1627)説、または享保四年説もあるが、唐人町・字谷町の「御茶碗窯」へ移された。利里は実暦十二年(1635)九月に旧領・下野国古河へ帰ることとなった。

実暦十三年、三河国岡崎城主・水野和泉守忠任(監物忠辰の養子、実は水野多宮の弟)が唐津を領したが、天災が続き凶作のうえ、忠任がみだりに法を改めて民を苦しめたため、領内の農民が蜂起し、明和八年(1711)七月二十日には虹の松原に二万二千人が集結した。鏡村・常楽寺の住職・智月、玉島村平原の大庄屋・富田才治ら義民が犠牲となり、二代・忠鼎は遠江国浜松へ移封、三代・忠光、四代・忠邦と続いたが、文政元年六月には余石一万七千石が幕府直轄となった。

文政元年(1818)、小笠原主殿頭長昌の領地となり、六万石を食した。小笠原氏は清和源氏・新羅三郎義光の四代、甲斐冠者遠光の流れに出るという。


【英語訳】[English translation]

Gakuno-yama faces Muta-no-Hara across the way. Its finds resemble those of Muta-no-Hara, yet the site seems to have specialized in “kuchimono,” i.e., small-mouthed vessels. Types include an eight-sun jar with linear incised patterns on a brown ground; a five-sun, large-bellied vase in black tenmoku; another vase of the same form in tea-brown glaze with iron-fleck “fly specks”; a three-sun, large-bellied bud vase with tear-streaked black tenmoku; and a small, rounded-corner square dish in amber glaze painted with sprouting shoots.

At Yamagata in Matsuura-mura (about 140 households), two old kiln sites remain along the hills: Kuratsubo in “Tera-no-Tani” and Kurigidani. A site once claimed at Goke-da lies two valleys beyond Kurigidani, but no trace can now be found.

Kuratsubo yields flasks in uguisu (greenish) and red-brown glazes, yellowish-gray hibachi (fire cups), and sherds of jars and pots. Tenmoku teabowls also appear; all have unglazed footrings.

Kurigidani produces deep bowls with a thin white glaze over brown bodies so that the clay tone shows through; large dishes on a lead-colored body with brown ground; stoneware bowls in ash glaze and ki-Seto glaze; and bowls in white glaze. These are fully glazed from interior to rim. Despite dense, semi-porcelain-like bodies, the manners are markedly primitive.

The Yamazaki kiln site, though neighboring Matsuura-mura, stands in Ogawauchi, a 14–15 household hamlet of Motobu in Wakagi-mura, Kishima-gun. A kiln once stood on the hill to the east, but the land is now under cultivation and even sherds are hard to find. Only a natural stone about one shaku tall—called a “Korean grave”—remains. Local clay, noted for plasticity, was used. Finds include a wide-mouthed jar (about one shaku) glazed with ame only on the interior; small, grooved-rim dishes in blue-brown or gray glaze; and wide-rim dishes with “four-square twin leaves” on the rim and an orchid painted in the well. All have unglazed feet.

At nearby Nagao stood a place known as “the old jar shop,” where jars were once fired; it has been completely reclaimed and no traces remain.

Though outside the Karatsu line, Matsuura-mura also has Momonokawa Kameyama, a posting station two ri and eight chō from Imari with about 250 households. Formerly under the Hata, Matsuura later belonged to the Nabeshima domain. From Saga, Nakano Jin’emon Kiyoki governed Momonokawa. He followed Nabeshima Naoshige to the Korean campaigns and, on returning, brought Korean potters, launching jar production here. As a jar-making center this place was considered foremost in Hizen; its wares sold 10–20% higher than those of Tatara or Ueno. Alongside jars, plates from 6–7 sun up to about one shaku were made: brown to dark-brown bodies with ame glaze and a white wave “hakeme” on the rim; seven-sun shallow bowls in azuki glaze brushed over with white. Many are fully glazed, yet most have unglazed footrims and were stacked “snake’s-eye” style for firing.

Kiyoki retired and died here; his gravestone survives: within a plot of about five tsubo, a tamped-earth forecourt among stones supports an eboshi-shaped flat stone, 5 shaku 5 sun high, 4 shaku 4 sun wide, 4 sun thick, inscribed down the center beneath “Namu Myōhō Renge Kyō” with “Shōshin’in Tsūzenjōmon,” to the right “Namu Tathāgata—Genna 7 (1621), the passing of Kōshin’s spirit,” and to the left “Namu Śākyamuni Buddha—set up on the first-year memorial, 7/18.” (The grave of Yokota Kōmon, who followed him in death, is in the Ogī cemetery.) His eldest son, Jōgen Masamori, ruled benevolently and especially protected and encouraged the local jar industry.

For Momonokawa ware, clays are now blended from Sannenzaka (Nakadōri-mura), Mateno (Takeuchi-mura), Toishigawa (Ōkawa-mura), and Yamaguchi (same). Besides giant jars up to five-koku capacity, they produce drainpipes, flowerpots, and tiles. Itō Inojū, now in his fourth generation, is a principal maker; two other households practice the trade. At one time many jars were supplied to Kagoshima as containers for awamori; annual output exceeded ¥10,000, but today it is said to be half that.

On 9/11, Kan’ei 14 (1637), when a Christian uprising broke out in Shimabara (the Itakura Shigemasa fief), peasants in Terazawa Katataka’s Amakusa holdings also rose. Katataka failed to dispatch troops promptly, hampering suppression; he was stripped of Amakusa (40,000 koku). Harboring deep regret, he committed seppuku at Kaikai-ji, Asakusa, Edo, on 11/18, Shōhō 4 (1647), aged thirty-nine.

With the confiscation, on the 24th of the same month the shogunate ordered Nakagawa Chūzen-no-shō Hisamori (70,400 koku), lord of Toyooka, and Mizutani Ise-no-kami Katsutaka (50,000 koku), lord of Matsuyama in Bitchū, to take charge of Karatsu and receive Maizuru Castle; they oversaw administration as castle guards. The Bōzumachi domain kiln thus became, for a time, a shogunal works.

In Keian 2 (1649), Ōkubo Kaga-no-kami Tadatōshi (son of Tadatsune) was transferred from Akashi in Banshū to rule Karatsu (87,000 koku). His mother was a daughter of Okudaira Nobumasa, making him a grandson of Ieyasu; he achieved notable results as Kyūshū inspector. With his arrival, Nakagawa Hisamori and Mizutani Katsutaka returned to their fiefs; only Uemura Rihee, one of Katsutaka’s men, remained.

Uemura Rihee had a deep taste for chanoyu, keen connoisseurship, and particular mastery in painting. After a period as a rōnin, he made dolls and painted fans at Roku in Shika (Fukuoka’s Itoshima-gun), then came into the Saga domain, surveyed ceramics from Arita to Mikawachi, returned to Karatsu to advise Lord Tadatōshi, procured clay from Mukata (Aora-mura), and used it at the Bōzumachi domain kiln to make presentation wares for the shogunate.

Later he moved to Ochi-mura, built a kiln west of Haze-no-Tani, Hirayama-Ue, invited craftsmen from Mikawachi, and worked five years before closing. He again wandered; in old age, while serving as ochaya guard at Watada (Onizuka-mura outside Karatsu), he died—an end lamented for a master craftsman. On 4/19, Kanbun 9, Ōkubo Tadatōshi died aged 69 (or 70); Dewa-no-kami Tadatomo succeeded as the second lord and was transferred to Sakura in Shimōsa.

In Enpō 6 (1678) Matsudaira Izumi-no-kami Norihisa of Matsukura in Shimōsa succeeded to 73,000 koku; the second, Noriharu, and third, Noriiro, followed until in Jōkyō 4 (1687) they were transferred to Toba in Shima.

On 5/29, Genroku 4 (1691), Doi Suō-no-kami Tomonari of Toba in Yamashiro succeeded to 70,000 koku; the line continued with Ōinomikoto Toshizane (2nd), Ōinomikoto Toshinobu (3rd; actually son of Bingo-no-kami Toshikiyo), and Ōinomikoto Toshisato (4th; Toshinobu’s younger brother). Because Bōzumachi’s domain kiln stood too near the shore, it was moved—some say in “Jitsuei” 4 (1627), others in Kyōhō 4—to the “O-chawan kiln” in Tōjinmachi, Tanimachi. Toshisato returned to the old fief at Koga in Shimotsuke in “Jitsureki” 12 (1635).

In “Jitsureki” 13, Mizuno Izumi-no-kami Tadanori, lord of Okazaki in Mikawa (adopted son of Kanemono Tadatatsu; in fact the younger brother of Mizuno Tamiya), took Karatsu. Disasters struck; crops failed; and Tadanori’s arbitrary reforms burdened the people. Peasants rose, and on 7/20, Meiwa 8 (1711), 22,000 gathered at Niji-no-Matsubara.

Among the martyrs were the righteous monk Chigetsu of Jōraku-ji in Kagami-mura and the great headman Tomita Saiji of Hirahara in Tamashima-mura. The second lord, Chūdai Tadayasu, was transferred to Hamamatsu in Tōtōmi; the third, Tadamitsu, and fourth, Tadakuni, followed; in the 6th month of Bunsei 1 the remaining 17,000 koku came under direct shogunal control.

In Bunsei 1 (1818) the land passed to Ogasawara Tonono-no-kami Nagamasa (60,000 koku). The Ogasawara trace their line to the Seiwa Genji via Shinra Saburō Yoshimitsu’s fourth generation, Kai-no-Kanja Tōmitsu.


【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]

岳野山与牟田之原相对,出土器物与牟田之原相似,但应主要烧造“口物”(口径较小的器物)。品类有:褐色地线刻纹八寸壶、黑天目大腹五寸花瓶、茶褐釉并现铁釉飞点之同形花瓶、黑天目泪痕大腹三寸花插、以及以飴釉绘芽纹的隅圆方小盘。

松浦村山形约一四〇户,山麓留有两处古窑:寺之谷的“鞍壶”与“栗木谷”。旧说后家田亦有窑址,然其在栗木谷外隔两谷之处,今已无迹。

鞍壶出土有鶯色釉、赤茶釉德利,黄灰色火入等,另见甕与壶之碎片;并有天目茶碗,皆高台无釉。

栗木谷出土有褐胎薄施白釉、胎色透出的深茶碗;铅色胎褐色地大盘;亦有炻器之灰釉、黄瀬户釉茶碗,及同地白釉茶碗。诸器多自内至口沿皆施釉,素地致密近半瓷,而作风颇为朴拙原始。

山崎窑址在邻近的杵岛郡若木村本部字小川内(十四五户小聚落)。东丘曾有窑,今垦为农地,碎片难觅,仅存一块约一尺高的自然石,称为“高丽人之坟”。所用原料为当地黏性强之坏土。出土有内施飴釉之一尺口大甕,青茶釉、灰釉之沟缘小盘,及广缘小盘,缘饰“四方二叶”,井部绘兰,皆高台无釉。

邻地长尾处有旧称“古甕屋”者,昔烧甕,今已尽为垦地。

虽非唐津系,松浦村亦有“桃之川甕山”,距伊万里二里八丁,为约二五〇户之宿驿。松浦村旧为波多氏领,后属鍋島氏。自佐嘉来之中野神右工门清明知行桃之川而治此地,随直茂出征朝鲜,归时携韩人陶工,于此开烧甕业。此地为肥前首屈一指之甕产地,售价较多々良、上野高一至二成。昔日兼制六七寸至一尺口之盘:褐至暗褐胎覆飴釉,口沿以白作浪刷毛目;七寸浅钵以小豆釉上白刷毛目。多为全施釉,然多见高台边无釉,以“蛇目积”装匣烧成。

清明晚年隐居卒于此,墓碑尚存:约五坪地,庭以三和土夯实,其上立烏帽子形平石,高五尺五寸、宽四尺四寸、厚四寸,中央“南无妙法莲华经”下刻“照真院通禅定门”,右刻“南无多如来 元和七年(1621)逝去 好真灵”,左刻“南无释迦牟尼佛 七月十八日 一周年建立”。(从死殉随之横田工门之墓在小城。)长子将监正守施善政,尤重护育甕业。

桃之川烧今以三间坂、真手野、砥石川、山口等地黏土调配,除五石入大甕外,兼制土管、花盆、瓦。今有伊藤伊之十为四代业者,另有同业二家。曾大量供鹿儿岛泡盛容器,年产值逾一万元,今仅半之。

寛永十四年(1637)十一月九日,岛原切支丹一揆起,寺澤堅高之天草农民亦响应。以堅高出兵不捷致剿抚艰难,天草四万石被削。堅高愤恨,正保四年(1647)十一月十八日于江户浅草海解寺自刃,年三十九。

领地被收,同月二十四日奉命,丰冈城主中川主膳正久盛(七万四百石)与备中国松山城主水谷伊势守胜隆(五万石)来唐津,领受舞鹤城,掌城务。坊主町藩窑遂一时为幕府直辖之窑。

慶安二年(1649)大久保加贺守忠职自播州明石移封,领唐津八万七千石。其母为奥平信昌之女,系家康外孙,治绩著。随其赴任,中川久盛、水谷胜隆返国,惟胜隆麾下梅村利兵卫留驻。

梅村利兵卫嗜茶、善鉴器,尤通绘事。曾浪人于筑前鹿家之呂久(糸岛郡福吉村)制人形、绘团扇,后入佐嘉,察有田至三河内陶业,复归唐津献策,采有浦村牟形坏土供坊主町藩窑,专制进献之器。

后至相知村,于平山上字“櫨之谷”西筑窑,招三河内工人,制陶五年而止,复浪游。晚年任和多田(唐津郊外鬼塚村)御茶屋番而卒,名工之生涯告终。寛文九年四月十九日大久保忠职卒(六十九/七十),出羽守忠朝继,旋移封下总佐仓。

延宝六年(1678)七月,松平和泉守乘久领七万三千石,次子乘春、三代乘色,相继至貞享四年(1687)二月移志摩鸟羽。

元禄四年(1691)五月二十九日,土井周防守利益领七万石,继以二代大炊头利实、三代大炊头利延、四代大炊头利里。以坊主町藩窑近海,或谓实永四年(1627),或谓享保四年,移至唐人町谷町“御茶碗窑”。利里于实历十二年(1635)九月归旧领下野古河。

实历十三年,三河国冈崎城主水野和泉守忠任(监物忠辰养子,实为水野多宫之弟)领唐津。值天灾连年、五谷不登,且忠任擅改成例以虐民,民变蜂起,明和八年(1711)七月二十日虹之松原集二万二千人。其间义民有镜村常乐寺住持智月、玉岛村平原大庄屋富田才治等。二代忠鼎移封远江滨松,三代忠光、四代忠邦相继,至文政元年六月,余石一万七千石属幕府直辖。

文政元年(1818)小笠原主殿头长昌领地,食六万石。小笠原氏出自清和源氏新罗三郎义光四代甲斐冠者远光之流。


【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditionalfrom Japanese]

岳野山與牟田之原相對,出土器物與牟田之原類似,但應以燒造「口物」(口徑較小之器)為主。品類有:褐色地線刻紋八寸壺、黑天目大腹五寸花瓶、茶褐釉並現鐵釉飛點之同形花瓶、黑天目淚痕大腹三寸花插、以及以飴釉繪芽紋之隅圓方小盤。

松浦村山形約一四〇戶,山麓存兩處古窯:寺之谷之「鞍壺」與「栗木谷」。舊稱後家田亦有窯址,然其在栗木谷外隔兩谷之地,今已無跡。

鞍壺出土有鶯色釉、赤茶釉德利,黃灰色火入等,亦見甕、壺之片;並有天目茶碗,皆高臺無釉。

栗木谷出土有褐胎薄施白釉、胎色外露之深茶碗;鉛色胎褐色地大盤;亦有炻器之灰釉、黃瀨戶釉茶碗,及同地白釉茶碗。諸器多自內至口沿皆施釉,素地緻密近半瓷,而作風頗為樸拙原始。

山崎窯址在鄰近杵島郡若木村本部字小川內(十四五戶之小聚落)。東丘曾有窯,今垦為農地,片瓦難尋;僅存一塊約一尺高之自然石,稱「高麗人之墳」。所用原料為當地黏性強之壞土。出土有內施飴釉之一尺口大甕、青茶釉與灰釉之溝緣小盤,及廣緣小盤,緣飾「四方二葉」,井部繪蘭,皆高臺無釉。

鄰地長尾曾有「古甕屋」,昔燒甕,今盡為墾地。

雖非唐津系,松浦村亦有「桃之川甕山」,距伊萬里二里八丁,約二五〇戶之宿驛。松浦村舊隸波多氏,後屬鍋島氏。自佐嘉來之中野神右工門清明知行桃之川,治此地;隨直茂出征朝鮮,歸時攜韓人陶工,於此開甕業。此處為肥前首善之甕產地,價較多々良、上野高一至二成。昔兼製六七寸至一尺口之盤:褐至暗褐胎覆飴釉,口沿以白作浪刷毛目;七寸淺鉢以小豆釉上白刷毛目。多為全施釉,然多見高臺邊無釉,以「蛇目積」裝匣燒成。

清明晚年隱居卒於此,墓碑猶存:約五坪之地,石庭以三和土夯實,其上置烏帽子形平石,高五尺五寸、寬四尺四寸、厚四寸,中央「南無妙法蓮華經」下刻「照真院通禪定門」,右刻「南無多如來 元和七年(1621)逝去 好真靈」,左刻「南無釋迦牟尼佛 七月十八日 一週年建立」。 (殉死之橫田工門墓在小城。)長子將監正守施善政,尤重保護甕業。

桃之川燒今以三間坂、真手野、砥石川、山口等黏土調配;除五石入大甕外,兼製土管、花盆、瓦。今有伊藤伊之十為四代業者,另有二家同業。嘗多供鹿兒島泡盛之容器,年產值逾一萬元,今僅其半。

寬永十四年(1637)十一月九日,島原切支丹一揆起,寺澤堅高之天草農民亦響應。因堅高出兵不及致討伐艱難,天草四萬石被削。堅高憤懣,正保四年(1647)十一月十八日於江戶淺草海解寺自刃,年三十九。

領地被收,同月二十四日奉命,豐岡城主中川主膳正久盛(七萬四百石)與備中國松山城主水谷伊勢守勝隆(五萬石)來唐津,領受舞鶴城,掌城政。坊主町藩窯因而一時歸於幕府直轄。

慶安二年(1649),大久保加賀守忠職自播州明石移封,領唐津八萬七千石。其母為奧平信昌之女,為家康外孫,治績著。隨其赴任,中川久盛、水谷勝隆還國,惟勝隆麾下梅村利兵衛留駐。

梅村利兵衛嗜茶,善鑑器,尤通繪事。曾浪人於筑前鹿家之呂久(糸島郡福吉村)製人形、繪團扇,後入佐嘉,觀有田至三河內陶業,復歸唐津獻策,採有浦村牟形壞土供坊主町藩窯,專製進獻之器。

後至相知村,於平山上字「櫨之谷」西築窯,延三河內工人,治陶五年而止,復浪遊。晚年任和多田(唐津郊外鬼塚村)御茶屋番而卒,名工之生涯告終。寬文九年四月十九日大久保忠職卒(六十九/七十),出羽守忠朝繼,旋移封下總佐倉。

延寶六年(1678)七月,松平和泉守乘久領七萬三千石,次子乘春、三代乘色相繼,至貞享四年(1687)二月移志摩鳥羽。

元祿四年(1691)五月二十九日,土井周防守利益領七萬石,繼以二代大炊頭利實、三代大炊頭利延、四代大炊頭利里。以坊主町藩窯近海,或謂實永四年(1627),或謂享保四年,移至唐人町谷町「御茶碗窯」。利里於實曆十二年(1635)九月歸下野古河舊領。

實曆十三年,三河國岡崎城主水野和泉守忠任(監物忠辰養子,實為水野多宮之弟)領唐津。時天災疊至、五穀不登,且忠任擅改成憲以虐民,民變蜂起,明和八年(1711)七月二十日虹之松原集二萬二千人。其間義民有鏡村常樂寺住持智月、玉島村平原大莊屋富田才治等。二代忠鼎移封遠江濱松,三代忠光、四代忠邦相繼,至文政元年六月,餘石一萬七千石為幕府直轄。

文政元年(1818)小笠原主殿頭長昌領地,食六萬石。小笠原氏出自清和源氏新羅三郎義光四代甲斐冠者遠光之流。


【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]

岳野山与牟田之原相对,遗物相近,但似以烧造“口物”(小口器)为主:如八寸线刻壶、黑天目大腹五寸花瓶、茶褐釉带铁斑的同形花瓶、泪痕黑天目大腹三寸花插,以及以飴釉绘芽纹的隅圆方小盘。

松浦村山形(约140户)有两处古窑:寺之谷的“鞍壶”和“栗木谷”。后家田旧称有窑,今已无迹。鞍壶出土:鶯色釉、赤茶釉德利,黄灰色火入,以及甕、壶片;并有天目茶碗,皆无釉足。栗木谷出土:薄白釉褐胎深碗、铅色胎褐地大盘、灰釉与黄濑户釉炻器碗、白釉碗;多自内至口沿皆施釉,致密近半瓷而风格原始。

山崎窑在若木村本部字小川内(14–15户),东丘旧有窑,今垦为农地,仅存称“高丽人墓”的一尺自然石。用当地黏性强的坏土。出土:一尺口内施飴釉大甕、青茶/灰釉沟缘小盘、广缘小盘(缘作“四方二叶”、井部绘兰),皆无釉足。

邻地长尾旧称“古甕屋”,今无存。

虽非唐津系,松浦村亦有“桃之川甕山”,距伊万里二里八丁,约250户。旧属波多氏,后属鍋島氏;自佐嘉来的中野神右工门清明知行桃之川,随直茂征朝,归时携韩人陶工,创甕业。为肥前首屈一指的甕产地,价比多々良、上野高10–20%。昔亦制6–7寸至一尺口之盘:褐/暗褐胎覆飴釉,白刷口沿浪刷毛目;七寸浅钵以小豆釉上白刷毛目。多全施釉,然多见无釉足、以“蛇目积”焙烧。

清明卒于当地,墓碑尚存:约5坪地,三和土庭,置烏帽子形平石(高5尺5寸、宽4尺4寸、厚4寸),中央“南无妙法莲华经”下刻“照真院通禅定门”;右刻“南无多如来 元和七年(1621)逝去 好真灵”;左刻“南无释迦牟尼佛 七月十八日 一周年建立”。长子将监正守施善政,护育甕业。

桃之川烧今以三间坂、真手野、砥石川、山口等粘土调配;制五石入大甕,亦制土管、花盆、瓦。伊藤伊之十为四代业者,另两家同业。曾大量供鹿儿岛泡盛容器,年产逾一万日元,今约其半。

寛永14年(1637)11月9日,岛原一揆起;天草亦应,寺澤堅高因出兵迟缓被削天草4万石。正保4年(1647)11月18日于江户浅草海解寺自刃,年39。

此后,丰冈中川主膳正久盛(70,400石)与备中松山水谷伊势守胜隆(50,000石)受领舞鹤城,坊主町藩窑一时归幕府直辖。

慶安2年(1649)大久保加贺守忠职自明石移封领唐津(87,000石);其母为奥平信昌之女,家康外孙。中川与水谷归国,仅梅村利兵卫留驻。利兵卫嗜茶善鉴,曾为浪人;视察有田至三河内后献策,用有浦牟形坏土于坊主町藩窑制贡器。后赴相知村平山上筑窑,延三河内工人,五年而止;终在和多田御茶屋番任上卒。

延宝6年(1678)松平和泉守乘久继领(73,000石),至貞享4年(1687)移志摩鸟羽。元禄4年(1691)土井周防守利益领(70,000石),历利实、利延、利里;以坊主町窑近海,移至唐人町谷町“御茶碗窑”。利里后归旧领古河。

其后,水野和泉守忠任领唐津;灾荒并作,苛政横行,明和8年(1711)7月20日,二万二千人聚虹之松原。义民有镜村常乐寺智月、玉岛村平原大庄屋富田才治等。继而调任更替,至文政元年,余石17,000石归幕府直辖。文政元年(1818)小笠原主殿头长昌领(60,000石),系出清和源氏新罗三郎义光四代甲斐冠者远光。


【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]

岳野山與牟田之原相對,遺物相近,但似以燒造「口物」(小口器)為主:如八寸線刻壺、黑天目大腹五寸花瓶、茶褐釉帶鐵斑之同形花瓶、淚痕黑天目大腹三寸花插,及以飴釉繪芽紋之隅圓方小盤。

松浦村山形(約一四〇戶)有二古窯:寺之谷之「鞍壺」與「栗木谷」。後家田舊傳有窯,今無跡。鞍壺出土:鶯色釉、赤茶釉德利,黃灰色火入,以及甕、壺片;並有天目茶碗,皆無釉足。栗木谷出土:薄白釉褐胎深碗、鉛色胎褐地大盤、灰釉與黃瀨戶釉炻器碗、白釉碗;多自內至口沿皆施釉,致密近半瓷而風格原始。

山崎窯在若木村本部字小川內(十四至十五戶),東丘舊有窯,今垦為農地,僅存稱「高麗人墓」之一尺自然石。用當地黏性強之壞土。出土:一尺口內施飴釉大甕、青茶/灰釉溝緣小盤、廣緣小盤(緣作「四方二葉」、井部繪蘭),皆無釉足。

鄰地長尾舊稱「古甕屋」,今已不存。

雖非唐津系,松浦村亦有「桃之川甕山」,距伊萬里二里八丁、約二五〇戶。舊屬波多氏,後屬鍋島氏;自佐嘉來之中野神右工門清明知行桃之川,隨直茂征朝,歸時攜韓人工匠,創甕業。為肥前首屈一指之甕產地,價較多々良、上野高一至二成。昔亦製六七寸至一尺口之盤:褐/暗褐胎覆飴釉,白刷口沿浪刷毛目;七寸淺鉢以小豆釉上白刷毛目。多全施釉,然多見無釉足與「蛇目積」焙燒。

清明卒於當地,墓碑猶在:約五坪地,三和土庭,置烏帽子形平石(高五尺五寸、寬四尺四寸、厚四寸),中央「南無妙法蓮華經」下刻「照真院通禪定門」;右刻「南無多如來 元和七年(1621)逝去 好真靈」;左刻「南無釋迦牟尼佛 七月十八日 一週年建立」。長子將監正守施善政,護育甕業。

桃之川燒今以三間坂、真手野、砥石川、山口等黏土調配;製五石入大甕,亦製土管、花盆、瓦。伊藤伊之十為四代業者,另二家同業。嘗大量供鹿兒島泡盛容器,年產逾一萬圓,今約其半。

寬永十四年(1637)十一月九日島原一揆起;天草亦應,寺澤堅高因出兵遲緩被削天草四萬石。正保四年(1647)十一月十八日於江戶淺草海解寺自刃,年三十九。

其後,豐岡中川主膳正久盛(七萬四百石)與備中松山水谷伊勢守勝隆(五萬石)受領舞鶴城,坊主町藩窯一時歸幕府直轄。

慶安二年(1649)大久保加賀守忠職自明石移封領唐津(八萬七千石);其母為奧平信昌之女,家康外孫。中川與水谷返國,惟梅村利兵衛留駐。利兵衛嗜茶善鑑,曾為浪人;觀察有田至三河內後獻策,以有浦牟形壞土供坊主町藩窯製貢器。後赴相知村平山上築窯,延三河內工人,五年而止;終在和多田御茶屋番任上卒。

延寶六年(1678)松平和泉守乘久繼領(七萬三千石),至貞享四年(1687)移志摩鳥羽。元祿四年(1691)土井周防守利益領(七萬石),歷利實、利延、利里;以坊主町窯近海,移至唐人町谷町「御茶碗窯」。利里後歸舊領古河。

其後水野和泉守忠任領唐津;災荒並作,苛政橫行,明和八年(1711)七月二十日二萬二千人聚虹之松原。義民有鏡村常樂寺智月、玉島村平原大莊屋富田才治等。繼而調任更替,至文政元年,餘石一萬七千石歸幕府直轄。文政元年(1818)小笠原主殿頭長昌領(六萬石),系出清和源氏新羅三郎義光四代甲斐冠者遠光。