佛の谷~高麗餅

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【原文】[Original text]

佛の谷
 椎の峯の古窯には、上多々良の佛の谷、中多々良の中村、下多々良の菰谷及び古椎新窯の四ヶ處がある。佛の谷は一番奥なる山畑にて兩脇が谷間となり、全く謎へ向の築窯丘と勾配の地勢をなしてゐる。此處の古窯品は皆糸切底にて施釉薄さも地質は石器に近き堅牢なる古唐津焼である。中に白釉の茶碗に無釉の高臺造りあるも之さて半磁器近く焼かれてある。
 此處にて最多き破片は褐色物にて、それは皿、鉢、茶碗などが重なる種類である。又此手の糸切擂鉢には中の櫛目が十二方位に引かれてあり、其他灰色及黄薄釉の鉢に青葉にて文飾せしものがある。要するに此佛の谷は飯洞に次ぐ古窯であるらしい。而して何れの古窯も概して中古窯より上古窯の方が比較的に堅く焼締められしあるは當時森林の繁茂せし關係にあらざるか、それより中古窯時代に至つては薪材に於いて稍減少し加ふるに燃料の採算に注意せし傾向の結果であらう。

中村
 中村窯と菰谷窯は、前述せる如く元和二年(1616年)の開窯である。中村の古窯品には栗地に白釉を化粧し、それに模様の如きも釉せし丸茶碗や、青味灰色釉に鐡描せし縁小反の茶碗があり、或は暗色黄釉にて底蛇の目積の夏茶碗などもある。又石器質の堅牢なのものがある。
 又夏茶碗には天目釉や栗茶釉のものがあり、或は海鼠釉縁反の茶碗や黄色釉突の茶碗がある。
或は卵色釉に緑青藥の煎茶碗や栗色釉へ櫻花押文形模様三寸の小皿があり、又は栗地へ縁ギリ押文形を施し上に白化粧を掛けし小丼など、其他種々の優技品が焼かれてゐる。

菰谷
 菰谷の古窯趾は高麗神への上り口にて此處は重に卵色釉の茶碗が焼かれてゐるも、稀には黒天目の茶碗や又同釉にて蛇の目積にせし夏茶碗があり、或は灰色釉の丸茶碗もある。又此處にて後期磁器が焼かれてゐる。次に古椎の新窯とは現在椎の峯登として使用されてるものにて、之とても百年以前の開窯なれば其後改築されし窯なることは申すまでもない。

其他椎の峯の古窯品
 此外椎の峯の古窯品には流石に秀な品が乏しくない。其何れの窯出しなるか不明なるも中に尺口の卵形花瓶にて涙痕に掛けし油滴天目の逸品があり、又飴釉や鼠釉の上に白釉にて粗豪なる秋海棠を現はせし烟管流しといへるものありて、それは彩釉を烟管に通して文飾せしてふ奇抜な方法が用ひられし徳利である。
 又卵色釉に青藥を流せし四寸の大茶碗や、同釉にて描梅繪三寸の小皿、及び鐡褐色釉象嵌の小皿に縁紅を施せしものがある。又茶色釉に繪唐津を文せし縁太鼓鋲描の突立の火盆があり。 緑栗色釉胴暗黄釉に白にて文様を施せし中徳利や、濃茶釉に縁邊天目釉を施し胴には縮緬皺を寄せる六寸の糸切徳利がある。或は栗地白化粧掛へ縁は黒釉を掛け、それへ白釉にて獨樂筋を施せし七寸の徳利や、茶色釉に白の獨樂筋を文飾せし八寸の徳利があり。其他鶏の糞釉緣反八寸の花瓶や、青海鼠に緣天目釉遊環付の六寸花立がある。

椎の峯の磁器
 明治二十九年伊萬里下町の上田米蔵(原屋)は、江湖の辻前川焼廢業の窯具を引受けて椎の峯に運び、天草石を原料として磁器を焼くことゝ成った。それは伊萬里玄界小路の水町幸吉が支配人として擔當し、此地の窯焼緒方喜一等五六人を糾合せしめ、そして藤津郡吉田山より工人手傳等十五六人を雇傭して銅板轉寫の下手物食器を製造しが、五六年にして廢するに至ったのである。
 明治四十五年頃此地の中里某は、再び磁器の製作を復興し、かんとん茶漬や湯呑の如き下手物を製造せしも、是又一ヶ年許にして廢業し、爾後は全く従来の黒手物(陶器)製作に立戻ること成つたのである。

伊萬里との一手取引
 此處の陶器は明治六・七年頃より伊万里濱町の石丸善作と一手取引を結び、其時代に於ける製品中には、ずんど花瓶に霜降の斑点ある海鼠流しなど優秀なる物少からざりしも後價格と共に作風も漸々と下落するに至りしといはれてゐる。
 善作の後は同町の東島貞吉が一手となりしも、當時椎の峯の製品漸く微々となり、窯焼は中里庄治郎等四人にて年産額僅に三千餘圓に過ぎなかつた。而して其後此下手物を送荷するに、従前の如く伊萬里港より大阪地方へ向けて和船積の便宜を失ふに至り、此地の窯焼又製品を直賣する風を生しより、貞吉も全く取引を中止するに至りしは今より十年以前のことである。

椎の峯海鼠と天目
 而して椎の峯の窯技には、古き傳統の尚見るべきものあるを以て、此海鼠や天目釉を應用し瓶掛や半洞の如き巨器を製したらんには、當時上海邊よりの輸入品を防遏し得べしとなし、一部の有田商人は有田より器細工の名手を送りて之を試むべく、此地の窯焼に慫慂せしことありしも、斯くては他山の工人に傳統の釉法を識る恐れありとして、途に此議にじなかつたのである。
 往時三百五十戸の繁昌を極めし椎の峯は、今や戸數僅に十三戸に減じ、南波多村大字府招の小字に編入されてゐる。そして現在窯焼として經營しつゝあるは南波多村長緒方高世にて、其他に中里敬市、緒方虎次郎、江口好三等の小規模營業者がある。

小形改姓
 高世は此處の家小形氏の裔にて代々小形又は小方を姓とせしが、文政元年小笠原長昌領主と成るに及び、當時の廣兵衛高雅より小の字を遠慮して緒方に改姓し、其子高親孫高政を經て現代の高世と成つてゐる。

中里宗家
 又椎の峯中里の宗家は前記の敬市にて、遡れば敬市の父百吉、其父庄治郎、其父敬入明治九年に卒し、其父太平治が弘化四年に卒し其父孫右工門が文化十四年に卒し、其父太一其父茂一と成つてゐるがそれより以前は不明である。
惟ふに三河内へ移轉せし中里茂右工門は此系統より出でし者であらう。

椎の峯の現在製品
 現在製品の重なる種類は、湯婆、植木鉢、床置類、花器等にて、下手物の中にも見事なる海鼠の廢色があり、浸瓶等には勿体なく寧ろ鴨徳利にせばやと思はるのさへある。
蓋し床置物や花器等に至つては、大いに技術の向上を計る可き餘地が残されてあるらしい。
 此地墓所の丘麓に一基の韓人墓があり、高さ四尺五六寸にて全面に刻られし細字淺くして今全く讀むことを得ぬ。

椎の峯の多々良の神
 又多々良の神として高麗神を祀りし社がある、そこは菰谷窯跡のより左へ登り、又右曲左折して凡そ八疊敷程の檐高き拝殿がある。其處の奥なる三つの石祠の中一番古きは寛政五年丑八月(1793年)の建立にて施主には中里彌右工門、大島市右工門、中里註司、小形清治、小形利左エ門、福島三右工門、小形卯之助等の名前がある。

神祭と花見
 此神祭は四月八日にて、往年は芝居や角力などを興行して非常な販ひを呈したのである。そして九日より花見の宴が始められ、此の工人は凡て五六日の間酒興に浸る慣習ありしも、今は全く閑寂なる小村落と化し、往古の盛時を偲ぶ多々良の神の石鳥居が、只年古るまゝに苔蒸す斗りである。

高麗餅
 なは此高麗祭の際神前の供物とて、糯と米を等分に和して搗き、次に水囊にて粉篩をなし、そして厚さ三四分程の平面角形にして蒸し上ぐる。別に小豆を煮て摺潰せしものを其上に塗に塩少しも交へず、又之を切るに鐵庖丁を用ひず、必ず竹館にて一角を鱗形に断ち、それに味噌汁をへて此品を捧げ、又客人をも饗せし由にて之が高麗餅と唱へられてゐる。蓋し現今の厚く砂糖餡を載せし高麗餅の元祖であらう。

之より記事は又元に還る、前記椎の峯崩れが又四散して北波多村の田中を始め、鬼塚村の畑島へ開窯した。或は大川村の片草、佐次郎、善徳等へ開窯せし者もあつた。就中遠地としては三河内の杉林や筑前糸島郡の吉井へ開窯せしといはれてゐる。


【現代語訳】[Modern Japanese translation]

椎の峯の古窯は、上多々良の佛の谷・中多々良の中村・下多々良の菰谷、それに古椎新窯の四か所が知られている。佛の谷は山奥の畑で、両側が谷になり、築窯した丘が斜面に向かう地形である。ここから出る古唐津は、いずれも糸切底で、釉は薄く、胎は石器のように締まって堅牢である。白釉の茶碗で高台が無釉のものもあり、半磁器に近い焼き上がりの例も見られる。
破片で最も多いのは褐色の器で、皿・鉢・茶碗が主。糸切の擂鉢には、内側に十二方向の櫛目が引かれたものがあり、ほかに灰色や淡黄釉の鉢に青葉文様を施したものもある。総じて佛の谷は飯洞に次ぐ古窯と考えられる。また、どの古窯でも中世の窯より上代の窯の方が相対的に高火度でよく締まっているが、これは当時は森林が豊かで薪を惜しまなかったためで、のちの中世窯期には薪がやや減り、燃料の採算を意識した結果だろう。

中村窯と菰谷窯は元和二年(1616年)の開窯である。中村の出土品には、栗色の胎に白釉を化粧がけした丸茶碗、青みがかった灰色釉に鉄描を施した縁小反りの茶碗、暗黄釉で底に蛇の目積を残す夏茶碗など、石器質で堅牢なものが見られる。夏茶碗には天目釉や栗茶釉のもの、海鼠釉で縁を反らせた茶碗、黄色釉で口縁を強調した茶碗もある。卵色釉に緑青薬の煎茶碗、栗色釉に桜花の押文を配した三寸小皿、栗色胎に縁ギリの押文を施し白化粧をかけた小丼など、巧みな作が多い。

菰谷の古窯跡は高麗神へ上る入口付近にあり、ここでは卵色釉の茶碗が主流で、ときに黒天目の茶碗や、同釉で蛇の目積にした夏茶碗、灰色釉の丸茶碗もある。後期には磁器も焼かれた。古椎の新窯は、現在の椎の峯の登窯として使われているもので、百年ほど前の開窯ながら、その後に改築されているのは言うまでもない。

このほか椎の峯の古窯品には優品が少なくない。どの窯のものか特定できないが、口径一尺の卵形花瓶に油滴天目を涙痕に流した逸品、飴釉や鼠釉の上に白釉で粗豪な秋海棠を表した「烟管流し」の徳利(彩釉を煙管に通して文様を描く奇抜な手法)などがある。卵色釉に青薬を流した四寸の大茶碗、同釉で梅を描いた三寸小皿、鉄褐色釉に象嵌し縁に紅を差した小皿、茶色釉に絵唐津風の文様を置き、縁を太鼓鋲描にした突立の火盆も見える。緑栗色釉の胴に暗黄釉、白で文様を施した中徳利、濃茶釉の縁に天目釉を掛け、胴に縮緬皺が寄る六寸の糸切徳利、栗胎に白化粧、縁に黒釉を掛け白釉で独楽筋を入れた七寸徳利、茶色釉に白の独楽筋を飾る八寸徳利、鶏の糞釉の縁反り八寸花瓶、青海鼠に縁天目釉・遊環付き六寸花立など、多彩である。

明治二十九年、伊萬里下町の上田米蔵(原屋)が辻前川焼廃業の窯道具を譲り受けて椎の峯へ運び、天草石を原料に磁器焼成を始めた。伊萬里・玄界小路の水町幸吉が支配人となり、当地の窯焼・緒方喜一ら五、六名をまとめ、藤津郡吉田山からも工人・手伝い十五、六名を雇って、銅板転写の下手物食器を作ったが、五、六年で廃業した。明治四十五年ごろには中里某が再び磁器を試み、かんとん茶漬や湯呑といった下手物を製造したものの、一年ほどでやめ、その後は従来の黒手物(陶器)に戻った。

明治六・七年ころから、この地の陶器は伊萬里濱町の石丸善作と一手取引となり、その頃の製品には、ずんどう花瓶に霜降りの斑点をもつ海鼠流しなど優れたものも多かったが、のちには価格とともに作風も徐々に下がったという。石丸の後は同町の東島貞吉が一手となったが、当時すでに椎の峯の生産は細り、窯焼は中里庄治郎ら四人、年産額も三千円あまりに過ぎなかった。やがて、伊萬里港から大阪方面へ和船で送る便が失われ、窯元が直売するようになったため、貞吉も十年ほど前に取引を打ち切った。

椎の峯の窯技には、今も見るべき伝統が残る。海鼠釉や天目釉を用い、瓶掛や半洞のような大物を作れば、当時の上海方面からの輸入品にも対抗できるとして、有田の商人が器細工の名手を送り込み試作を勧めたことがあった。しかし、そのやり方では他山の工人に伝統の釉法が漏れるおそれがあるとして、話は立ち消えになった。最盛期に三百五十戸を数えた椎の峯は、今や十三戸ほどに減り、南波多村大字府招の小字に組み入れられている。現在、窯焼として営むのは南波多村長・緒方高世のほか、中里敬市、緒方虎次郎、江口好三らの小規模事業者である。

緒方高世は、この地の小形氏の後裔で、代々「小形」あるいは「小方」を姓としていたが、文政元年に小笠原長昌が領主となると、当時の廣兵衛高雅が「小」の字を遠慮して「緒方」に改姓し、子の高親、孫の高政を経て、現在の高世に至る。

椎の峯・中里の宗家は前掲の中里敬市で、さかのぼると父・百吉、その父・庄治郎、その父・敬入(明治九年没)、その父・太平治(弘化四年没)、その父・孫右工門(文化十四年没)、その父・太一、その父・茂一と続くが、それ以前は不詳である。三河内へ移った中里茂右工門は、この系統の出であろう。

現在の主な製品は、湯婆、植木鉢、床置類、花器など。下手物の中にも見事な海鼠の発色があり、浸瓶には惜しく、むしろ鴨徳利にしたいと思わせるものさえある。床置物や花器は、なお技術向上の余地が残っていそうだ。墓地の丘の麓には一基の韓人墓があり、四尺五、六寸の高さで全面に細字が刻まれているが浅く、今は判読できない。

また「多々良の神」として高麗神を祀る社がある。菰谷窯跡から左に登り、右に曲がり左に折れて行くと、八畳ほどの高い庇をもつ拝殿がある。奥の石祠三基のうち最古は寛政五年丑八月(1793年)の建立で、施主として中里彌右工門、大島市右工門、中里註司、小形清治、小形利左エ門、福島三右工門、小形卯之助らの名が刻まれる。

この神祭は四月八日で、昔は芝居や相撲が催され、たいへんな賑わいであった。九日からは花見の宴が始まり、工人たちは五、六日ほど酒を楽しむのが習いだったが、今はすっかり閑かな小村となり、往時を偲ぶ多々良の神の石鳥居が、ただ年を経て苔むすばかりである。

なお高麗祭の供物「高麗餅」は、糯と米を等分に混ぜて搗き、水囊でふるって、厚さ三、四分の角い平板に蒸し上げる。別に煮てすり潰した小豆を塗り、塩は加えない。切るのに鉄庖丁は使わず、必ず竹のヘラで一角を鱗形に断ち、味噌汁を添えて神前に供え、客にも振る舞ったという。いま一般に見られる、砂糖餡をたっぷり載せる高麗餅の元祖といえよう。

話を戻すと、椎の峯崩れののち陶工たちは散り、北波多村・田中をはじめ、鬼塚村・畑島にも開窯し、大川村の片草・佐次郎・善徳などでも窯を開いた。遠方では三河内の杉林や、筑前糸島郡・吉井にも開窯したと伝わる。


【英語訳】[English translation]

Old kilns at Shii-no-Mine are recorded at four sites: Hotoke-no-Tani in Upper Tatara, Nakamura in Middle Tatara, Kogomotani in Lower Tatara, and the “Furushii New Kiln.” Hotoke-no-Tani lies deep in the hills; a field flanked by ravines, with a kiln mound set into the slope. Sherds from here are classic Old Karatsu: string-cut bases, thin glaze, and a stoneware-like, tightly fired body. Some white-glazed tea bowls have unglazed feet yet fire to near-porcelain hardness.
Brown-bodied wares—plates, bowls, tea bowls—are most common. String-cut mortars show twelve directional comb marks inside; there are also gray- or pale-yellow-glazed bowls brushed with green leaf motifs. Taken together, Hotoke-no-Tani appears to be the next oldest kiln after Iidō. In general the oldest kilns are harder fired than later medieval ones—likely because abundant forests once allowed generous fuel use, whereas later shortages and cost consciousness lowered firing intensity.

The Nakamura and Kogomotani kilns opened in Genna 2 (1616). Nakamura pieces include round tea bowls with a chestnut body dressed in white glaze; small-flared bowls with bluish-gray glaze and iron painting; summer bowls in dark yellow glaze with a janome (“bull’s-eye”) ring left on the base; robust, stony bodies overall. Summer bowls also appear in tenmoku and chestnut-brown glazes; bowls with a sea-cucumber glaze and turned-out rims; yellow-glazed, strongly accented rims. There are sencha bowls in straw-yellow glaze with verdigris, three-sun saucers impressed with cherry-blossom motifs on a chestnut glaze, and small donburi with rim-impressed patterns under a white slip—many refined works.

Kogomotani lies at the approach to the Koma-jinja (Kōraijin) shrine. Egg-yellow–glazed tea bowls predominate, with occasional black-tenmoku bowls and summer bowls fired with janome bases in the same glaze, as well as round bowls in gray glaze. Porcelain was fired here in the later phase. The “Furushii New Kiln” is essentially the climbing kiln still used at Shii-no-Mine today—opened about a century ago and rebuilt since.

Other Shii-no-Mine finds include no shortage of standouts: a one-shaku, egg-shaped flower vase with oil-spot tenmoku tears; a sake bottle decorated by the quirky “kiseru-nagashi” method—conducting colored glaze through a pipe to draw a bold begonia on amber or mouse-gray grounds. Also noted are a four-sun large tea bowl in straw-yellow glaze with green glaze run; three-sun plates with plum painting in the same glaze; small dishes with iron-brown glaze and inlay edged in red; a standing hibachi with thick brown glaze painted in E-Karatsu style and a “taiko-byō” rim; a medium bottle with green-chestnut glaze on the body, dark yellow on the waist, and white slip decoration; a six-sun, string-cut bottle in dark-brown glaze, tenmoku on the rim, and crepe-like wrinkles on the belly; seven-sun and eight-sun bottles with white “spinning-top” stripes over slip-coated chestnut bodies; an eight-sun flared vase in “chicken-dropping” glaze; and a six-sun flower holder in blue sea-cucumber glaze with tenmoku rim and loose rings.

In 1896, Ueda Yonezō (Haraya) of Imari Shimomachi acquired the tools from the discontinued Tsuji-Maekawa kiln and moved them to Shii-no-Mine, starting porcelain using Amakusa stone. Mizumachi Kōkichi of Imari Gengaikōji managed operations, rallying five or six local kilnmen—among them Ogata Kiichi—and hiring fifteen or sixteen workers from Yoshidayama in Fujitsu-gun to produce transfer-printed tableware. The venture closed in five or six years. Around 1912, a certain Nakazato briefly revived porcelain—making low-end wares such as “kanton chazuke” bowls and yunomi—but ceased within a year and reverted entirely to the traditional black-bodied pottery.

From 1873–74 the wares were handled on an exclusive contract by Ishimaru Zensaku of Imari Hamamachi. That period yielded many fine pieces—stubby vases with frost-like flecks and sea-cucumber drip—yet prices and quality later declined. After Zensaku, Higashijima Teikichi took the exclusive, but Shii-no-Mine’s output had waned: four kilnmen including Nakazato Shōjirō, with annual production barely over ¥3,000. When the handy coastal transport by wasen from Imari to Osaka ceased, kilnmen shifted to direct sales; Teikichi ended dealings about ten years ago.

Because Shii-no-Mine still preserves notable traditions, some Arita merchants once urged local kilnmen to apply sea-cucumber and tenmoku glazes to large implements—hibachi stands and “handō” jars—to fend off imports from the Shanghai coast, even offering skilled finishers from Arita. Fearing leakage of their glaze secrets to outsiders, the kilnmen declined. A settlement that once held 350 households now counts only thirteen, incorporated as a ko-aza of Minami-Hada-mura Ōaza Fushō. Today the operating kilnmen include the village head Ogata Takayo, with small shops by Nakazato Keishi, Ogata Torajirō, and Eguchi Kōzō.

Ogata Takayo descends from the local Ogata (formerly written Ogata/Okata). The family long bore the surname “Ogata/Okata,” but in Bunsei 1, when Ogasawara Nagamasa became lord, Hirobee Takamasa avoided the character 「小」 and changed the name to “Ogata,” passing through his son Takachika and grandson Takamasa to the present Takayo.

The head family of the Shii-no-Mine Nakazato is the aforementioned Nakazato Keishi. Tracing back: his father Hyakukichi; then Shōjirō; then Keiiri (d. 1876); then Taiheiji (d. 1847); then Magouemon (d. 1817); then Taiichi; then Shigeichi; earlier generations unknown. Nakazato Morouemon, who moved to Mikawachi, likely sprang from this line.

Current products are mainly yutampo (hot-water bottles), flowerpots, floor ornaments, and vases. Even among the “low-end” wares there are superb sea-cucumber hues—too good for soaking jars and better suited, one feels, to kamo-tokkuri bottles. Floor pieces and vases, in particular, still have room for technical refinement. At the foot of the graveyard hill stands a Korean grave stele about 4 shaku 5–6 sun tall; its fine shallow script is now unreadable.

There is also a shrine to the “Tatara no Kami,” identified here with Kōraijin. From the Kogomotani kiln site one climbs left, then winds right and left to a worship hall about eight tatami in size with a high eave. Of three stone sanctuaries behind it, the oldest dates to Kansei 5, Ox, 8th month (1793); donors include Nakazato Yayūemon, Ōshima Ichiyūemon, Nakazato Chūshi, Ogata Seiji, Ogata Risāemon, Fukushima Sayūemon, and Ogata Unosuke.

The festival is held on April 8. In former days plays and sumō drew great crowds; from the 9th, flower-viewing banquets began, and artisans would spend five or six days in merrymaking. Now it is a quiet hamlet; only the stone torii of Tatara-no-Kami, moss-grown with age, recalls the bustle of old.

For the Koma (Kōrai) festival offering “Kōraimochi,” equal parts glutinous rice and ordinary rice are pounded, sifted, and steamed into a rectangular slab about 3–4 bu thick. Sweetened adzuki are boiled and mashed, spread on top without any salt added. The slab is not cut with an iron knife but with a bamboo spatula; one corner is sliced on the bias into a “scale” shape, and the mochi is served with miso soup—both to the deity and to guests. This is likely the ancestor of today’s thick, sugar-an “Kōraimochi.”

To return to our thread: after the Shii-no-Mine Collapse the potters dispersed, opening kilns at Tanaka in Kita-Hada-mura, at Hatashima in Onizuka-mura, and at Katakusa, Saji rō, and Zentoku in Ōkawa-mura. Farther afield, kilns were opened at Sugibayashi in Mikawachi and at Yoshii in Chikuzen Itoshima-gun.


【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]

椎の峯的古窑位于四处:上多々良的佛の谷、中多々良的中村、下多々良的菰谷,以及古椎新窑。佛の谷在最深的山间田地,两侧为谷,窑丘顺坡而筑。出土的古唐津多为“糸切底”,施釉薄,胎体烧结致密近似石器,也见白釉茶碗而高台无釉者,烧成硬度近半瓷。
出土碎片以褐色胎器最多,主为盘、钵、茶碗。糸切擂钵内侧有十二向梳纹;亦有灰色或淡黄釉钵以青叶纹点缀。概观之,佛の谷应为仅次于飯洞的古窑。整体看,上代窑较中世窑烧得更紧密,这多半因当时林木繁茂、薪料充足;至中世窑期,薪源稍减且顾及成本,火力相对降低。

中村窑与菰谷窑开于元和二年(1616)。中村出土有栗色胎施白釉的圆茶碗、青灰釉配铁描的小反口茶碗、暗黄釉而底留“蛇之目积”的夏茶碗等,胎质坚实近石器。夏茶碗亦见天目釉、栗茶釉,或海鼠釉翻口、黄色釉加强口沿者。还有卵色釉配绿青药的煎茶碗、栗色釉上压樱花纹的三寸小盘、栗胎作“缘ギリ”押纹并覆白化妆土的小丼等,作风精巧。

菰谷古窑址在通往高麗神的登道口,主要烧卵色釉茶碗,偶有黑天目茶碗及同釉“蛇之目积”的夏茶碗、灰釉圆茶碗;后期曾烧磁器。古椎新窑即今仍作椎の峯登窑者,约百年前开窑,后经改筑。

此外,椎の峯古器中佳作甚多:如口径一尺的卵形花瓶,上施油滴天目“泪痕”流;又有所谓“烟管流し”的德利,于飴釉或鼠釉地上,以白釉借烟管导流绘粗犷秋海棠——手法奇巧。另见卵色釉泼青药的四寸大茶碗、同釉绘梅的三寸小盘、铁褐釉嵌花并施红缘的小盘;茶色釉绘唐津纹、缘作“太鼓铆钉描”的立式火盆;绿栗色釉胴配暗黄釉并以白绘纹的中德利;浓茶釉口沿覆天目、腹起“绉纹”的六寸糸切德利;栗胎白化妆、口沿黑釉、以白釉作独乐筋的七寸德利;茶色釉配白独乐筋的八寸德利;“鸡屎釉”反口八寸花瓶;青海鼠釉配天目口沿、带游环的六寸花立,等等。

明治二十九年,伊万里下町的上田米藏(原屋)收购辻前川烧停业之窑具运至椎の峯,以天草石为原料试烧磁器。由伊万里玄界小路的水町幸吉任支配人,集结本地窑烧绪方喜一等五六人,并自藤津郡吉田山雇工与帮手十五六人,生产铜版转写的下手物食器,五六年后停办。明治四十五年前后,中里某再兴磁器,制作“かんとん茶漬”碗、汤吞等低端品,亦仅一年左右即止,复归传统黑胎陶。

明治六、七年起,本地陶器由伊万里滨町石丸善作专销。一时曾出“桶形花瓶、霜降斑点之海鼠流”等佳作,后随价格一起走低。其后由东岛贞吉接手,但当时产量已微,仅中里庄治郎等四人经营,年产额不过三千余圆。继而失去自伊万里港至大阪的和船装运便利,窑元转向直销,贞吉遂于约十年前完全中止交易。

椎の峯仍存可观传统。有田商人曾主张以海鼠釉、天目釉制瓶掛、半洞等大物,以抗“上海边”输入,并欲自有田派器工名手来试作;但本地忧其泄露釉法机密,终告作罢。昔日三百五十户之盛,今仅十三户,编入南波多村大字府招之小字。现行窑户有南波多村长绪方高世,另有中里敬市、绪方虎次郎、江口好三等小规模业者。

绪方高世出自本地小形氏一系,世称“小形”或“小方”。文政元年小笠原長昌就封为领主时,当代之廣兵衛高雅避“小”字,改姓“緒方”,经子高親、孙高政而至今之高世。

椎の峯中里宗家为前述中里敬市。上溯其系:父百吉,祖庄治郎,曾祖敬入(明治九年卒),高祖太平治(弘化四年卒),六世祖孫右工門(文化十四年卒),上系为太一、茂一,更前不详。迁三河内之中里茂右工門,盖出此系。

现行主品为湯婆、花盆、床置、花器等。虽为下手物,亦有海鼠釉发色极佳者,作浸瓶殊为可惜,反觉宜制鴨徳利。床置与花器尤有技艺精进之余地。墓地丘麓有一座韩人墓,高约四尺五六寸,满刻细字因浅而今难读。

又有“多々良の神”之社,所祀高麗神。自菰谷窑址左上,曲折而行,至檐高约八叠之拜殿。其奥三座石祠中,最古者建于寛政五年丑八月(1793),施主名见中里彌右工門、大島市右工門、中里註司、小形清治、小形利左エ門、福島三右工門、小形卯之助等。

神祭在四月八日。昔日曾演戏、办相扑,极一时之盛。九日起花见宴作,工人常沉醉五六日。今则寂寥小村,仅多々良の神石鸟居苔痕上阶,依稀追想旧观。

高丽祭之供“高麗餅”:糯米与粳米等量相和而杵捣,经水囊筛粉,蒸成厚三四分之方形平板;另煮红豆捣泥覆其上,不加盐。切割不用铁刀,必以竹箆,自一角斜切作鳞形,配味噌汤奉神,亦飨宾客,称“高麗餅”,盖今之厚覆糖馅“高丽饼”之祖。

再回主线:椎の峯崩れ后,陶工分散,先后于北波多村田中、鬼塚村畑島开窑,亦有至大川村片草・佐次郎・善徳者;更远则至三河内杉林、筑前糸島郡吉井开窑。


【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditionalfrom Japanese]

椎の峯之古窯計有四處:上多々良之佛の谷、中多々良之中村、下多々良之菰谷,以及古椎新窯。佛の谷居山奧之田畦,兩側為谷,窯丘順坡而築。其出土古唐津多為「糸切底」,施釉薄,胎體緊實近石器,亦見白釉茶碗而高臺無釉者,燒成硬度近半瓷。
碎片以褐胎器最多,主為皿、鉢、茶碗。糸切擂鉢內側作十二向梳紋;亦有灰或淡黃釉鉢飾青葉紋。概觀之,佛の谷應為僅次飯洞之古窯。整體而言,上代窯較中世窯燒結更緊,蓋以時林木繁茂、薪料充裕;及至中世窯期,薪源略減且顧及成本,火力遂減。

中村與菰谷開於元和二年(1616)。中村出土有栗色胎施白釉之圓茶碗、青灰釉配鐵描之小反口茶碗、暗黃釉而底留「蛇之目積」之夏茶碗等,胎質堅實。夏茶碗亦見天目釉、栗茶釉,或海鼠釉翻口、黃釉強口者;並有卵色釉佐綠青藥之煎茶碗、栗釉上壓櫻花紋三寸小皿、栗胎作「緣ギリ」押紋覆白化妝土之小丼等,作品精妙。

菰谷古窯址在高麗神之登道口,主燒卵色釉茶碗,間見黑天目茶碗與同釉「蛇之目積」之夏茶碗、灰釉圓茶碗;後期亦燒瓷。古椎新窯即今仍作椎の峯登窯者,約百年前開窯,後復改築。

此外,椎の峯古器佳作頗多:如口徑一尺之卵形花瓶,上施油滴天目「淚痕」流;又有稱「煙管流し」之德利,以白釉經煙管導流,於飴釉或鼠釉地上寫粗獷秋海棠——手法奇巧。並見卵色釉潑青藥四寸大茶碗、同釉畫梅三寸小皿、鐵褐釉嵌花作紅緣小皿;茶釉繪唐津紋、緣作「太鼓鉚釘描」之立式火盆;綠栗色釉胴配暗黃釉,白繪紋之中德利;濃茶釉口覆天目、腹起「縮緬皺」之六寸糸切德利;栗胎白化妝、緣施黑釉、以白釉作獨樂筋之七寸德利;茶釉配白獨樂筋之八寸德利;「雞屎釉」反口八寸花瓶;青海鼠釉配天目口沿、帶遊環之六寸花立等。

明治二十九年,伊萬里下町上田米藏(原屋)收購辻前川燒停業之窯具運至椎の峯,以天草石為原料燒瓷。由伊萬里玄界小路水町幸吉為支配人,集合當地窯燒緒方喜一等五六人,並自藤津郡吉田山僱工十五六人,製銅版轉寫之下手物食器,五六年後停辦。明治四十五年前後,中里某再試瓷器,製「かんとん茶漬」碗、湯吞等低端品,亦僅一年即止,復歸黑胎陶。

明治六、七年起,本地陶器由伊萬里濱町石丸善作專銷。其時出「桶形花瓶、霜降斑點之海鼠流」等佳作,後隨價格趨降而品質亦落。繼由東島貞吉承之,然產量已微,窯戶僅中里庄治郎等四人,年產額約三千圓。既而失去自伊萬里港赴大阪之和船運輸之便,窯元改行直售,貞吉亦於約十年前全止交易。

椎の峯仍存可觀傳統。有田商人曾倡以海鼠、天目釉為瓶掛、半洞等大物,以抗「上海邊」輸入,且欲自有田遣器工名手試作;本地以恐泄釉法為由,終不果。昔日三百五十戶之盛,今惟十三戶,編入南波多村大字府招之小字。現行窯戶有南波多村長緒方高世,並中里敬市、緒方虎次郎、江口好三等小規模業者。

緒方高世出自本地小形氏,世稱「小形」或「小方」。文政元年小笠原長昌為領主時,時人廣兵衛高雅避「小」字,改姓「緒方」,經子高親、孫高政,至今之高世。

椎の峯中里宗家為中里敬市。上溯:父百吉、祖庄治郎、曾祖敬入(明治九年卒)、高祖太平治(弘化四年卒)、六世祖孫右工門(文化十四年卒),上系太一、茂一,更前不詳。遷三河內之中里茂右工門,當出此系。

今主製湯婆、花盆、床置、花器等。雖為下手物,亦有海鼠釉發色甚佳者,作浸瓶殊可惜,寧宜作鴨德利。床置與花器猶有技進之地。墓地丘麓存一韓人墓,高約四尺五六寸,滿刻細字淺刻,今難辨讀。

另有祀高麗神之「多々良の神」社。自菰谷窯址左上,曲折至檐高約八疊之拜殿;其後三石祠中,最古建於寛政五年丑八月(1793),施主名錄中里彌右工門、大島市右工門、中里註司、小形清治、小形利左エ門、福島三右工門、小形卯之助等。

神祭在四月八日。昔時演劇、相撲,極為喧闐;九日起花見宴,工人往往酣飲五六日。今則寂寥,小村惟多々良之神石鳥居,歲久苔生,以資追想。

高麗祭供物「高麗餅」:糯米與粳米等份搗合,經水囊篩粉,蒸成厚三四分之方形平板;另煮紅豆搗泥覆其上,不加鹽。切割不用鐵刀,必以竹箆,自一角斜切成鱗形,配味噌湯奉神,亦饗賓,稱「高麗餅」,蓋今厚覆糖餡之高麗餅之祖。

復歸本題:椎の峯崩れ後,陶工分散,於北波多村田中、鬼塚村畑島開窯,亦有至大川村片草・佐次郎・善德者;更遠則至三河內杉林、筑前糸島郡吉井開窯。


【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]

椎の峯的旧窑分布在四处:上多々良的佛の谷、中多々良的中村、下多々良的菰谷,以及“古椎新窑”。佛の谷位于山中深处,两侧是山谷,窑丘沿坡而筑。出土多为古唐津:底部“糸切”,薄施釉、胎体紧实近石器;亦见白釉茶碗而高台无釉者,烧成硬度近半瓷。
褐胎器最常见,盘、钵、茶碗为主。糸切擂钵内常见十二向梳纹;亦有灰或淡黄釉钵配青叶纹。整体看,佛の谷或为仅次飯洞的古窑。上古窑普遍比中世窑烧得更紧,盖因昔时林木丰茂薪料充足;后期薪源趋紧且考虑成本,火力趋弱。

中村与菰谷窑开于元和二年(1616)。中村出土包括:栗胎白釉圆茶碗、青灰釉配铁描的小反口碗、暗黄釉而底留“蛇之目”的夏茶碗等,胎质坚实。夏茶碗亦有天目与栗茶釉、海鼠釉翻口、黄色釉强口者。另有卵色釉配绿青药的煎茶碗、栗釉压樱花纹三寸小盘、栗胎作“缘ギリ”押纹覆白化妆的小丼等。

菰谷在通往高麗神的登道口,主烧卵色釉茶碗;偶见黑天目及同釉“蛇之目”夏茶碗、灰釉圆碗;后期亦烧瓷。所谓“古椎新窑”即今仍在用的椎の峯登窑,约百年前开窑,后经改建。

其余椎の峯器物中佳作甚多:如口径一尺的卵形花瓶施油滴天目“泪痕”;又有“烟管流し”德利,于飴或鼠釉上以白釉经烟管导流绘粗犷秋海棠。并见卵色釉泼青药四寸大茶碗、同釉绘梅三寸小盘、铁褐釉嵌花配红缘小盘;茶釉绘唐津风、作“太鼓铆钉描”之立式火盆;绿栗色釉胴配暗黄釉并白绘纹的中德利;深茶釉口覆天目、腹起绉纹的六寸糸切德利;栗胎白化妆、口沿黑釉并白釉独乐筋的七寸德利;茶釉配白独乐筋的八寸德利;“鸡屎釉”反口八寸花瓶;青海鼠釉配天目口沿、带游环的六寸花立等。

1896年,伊万里下町上田米藏(原屋)购得辻前川烧停办之窑具移至椎の峯,以天草石为料烧瓷;由伊万里玄界小路水町幸吉任经理,集合本地窑户绪方喜一等五六人,并自藤津郡吉田山雇15–16名工与帮手,制作铜版转印的低端餐具;五六年即歇业。约1912年,中里某再试瓷器(“かんとん茶漬”碗、汤吞等),仅一年即止,旋归黑胎陶。

自1873–74年起,制品由伊万里滨町石丸善作专销;曾出“桶形花瓶、霜斑海鼠流”等佳作,后价格与风格齐降。继者东岛贞吉接手,但产量已微,仅中里庄治郎等四人,年产额逾三千日元。及至失去自伊万里港赴大阪的和船运输便利,窑元转向直销,贞吉遂于约十年前停办经销。

椎の峯仍存可观传统。有田商人曾提议以海鼠与天目釉制瓶掛、半洞等大物以抗“上海沿海”输入,并拟派器工名手来试作;本地忧其外泄釉法,遂拒。昔日三百五十户,今仅十三户,编入南波多村大字府招之小字。现营者有村长绪方高世,及中里敬市、绪方虎次郎、江口好三等小户。

绪方高世出自本地小形氏,旧姓“小形/小方”。文政元年小笠原長昌为领主时,广兵卫高雅避“小”字改“绪方”,经子高親、孙高政至今之高世。

椎の峯中里宗家为中里敬市。上溯:父百吉、祖庄治郎、曾祖敬入(1876卒)、高祖太平治(1847卒)、六世祖孫右工門(1817卒),上系太一、茂一,更前不详。迁三河内之中里茂右工門当出此系。

现主产湯婆、花盆、床置、花器等。低端品中亦多海鼠釉发色上佳者,作浸瓶殊可惜,宁宜作鴨徳利。床置与花器尚有技进空间。墓地坡脚有韩人墓一基,高约4尺5–6寸,细字浅刻今难辨。

另有祭“多々良の神”的社,所祀高麗神。自菰谷窑址左上,曲折至约八叠的高檐拜殿;后列三石祠,最古建于1793年(寛政五年丑八月),施主名录见中里彌右工門、大島市右工門、中里註司、小形清治、小形利左エ門、福島三右工門、小形卯之助等。

神祭在4月8日;昔日有戏与相扑,盛极一时。9日起花见宴,工人常酣饮五六日。今仅苔生石鸟居存,追忆当年。

“高麗餅”作法:糯米与粳米等量捣合,经水囊筛粉,蒸成厚3–4分之方板;另煮红豆成泥覆上,不加盐。切割不用铁刀,必以竹箆,自一角斜切成鳞形,并以味噌汤相配,供神且飨宾;盖今厚覆糖馅“高丽饼”之祖。

事归本线:椎の峯崩れ后,陶工分散,于北波多村田中、鬼塚村畑島开窑,亦至大川村片草・佐次郎・善徳;更远则至三河内杉林、筑前糸岛郡吉井开窑。


【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]

椎の峯之舊窯分布四處:上多々良之佛の谷、中多々良之中村、下多々良之菰谷,及「古椎新窯」。佛の谷居山奧,兩側為谷,窯丘沿坡而築。出土多為古唐津:底作「糸切」,薄施釉、胎體緊實近石器;亦見白釉茶碗而高臺無釉者,燒成近半瓷硬度。
褐胎器最常見,以皿、鉢、茶碗為主。糸切擂鉢內見十二向梳紋;亦有灰或淡黃釉鉢飾青葉紋。整體看,佛の谷或為僅次飯洞之古窯。上古窯普遍較中世窯燒結更緊,蓋因昔時林木豐茂、薪料充足;後期薪源趨緊且計算成本,火力轉弱。

中村與菰谷窯開於元和二年(1616)。中村出土包括:栗胎白釉圓茶碗、青灰釉配鐵描之小反口碗、暗黃釉而底留「蛇之目」之夏茶碗等,胎質堅實。夏茶碗亦見天目與栗茶釉、海鼠釉翻口、黃釉強口者。另有卵色釉配綠青藥之煎茶碗、栗釉壓櫻花紋三寸小皿、栗胎作「緣ギリ」押紋覆白化妝之小丼等。

菰谷在通往高麗神之登道口,主燒卵色釉茶碗;間見黑天目及同釉「蛇之目」夏茶碗、灰釉圓碗;後期亦燒瓷。「古椎新窯」即今仍用之椎の峯登窯,約百年前開窯,後經改建。

其餘椎の峯器物中佳作甚多:如口徑一尺之卵形花瓶施油滴天目「淚痕」;又有「煙管流し」德利,於飴或鼠釉地上以白釉經煙管導流繪粗獷秋海棠。並見卵色釉潑青藥四寸大茶碗、同釉畫梅三寸小皿、鐵褐釉嵌花作紅緣小皿;茶釉繪唐津風、作「太鼓鉚釘描」之立式火盆;綠栗色釉胴配暗黃釉並白繪紋之中德利;深茶釉口覆天目、腹起絹縮紋之六寸糸切德利;栗胎白化妝、口沿黑釉並白釉獨樂筋之七寸德利;茶釉配白獨樂筋之八寸德利;「雞屎釉」反口八寸花瓶;青海鼠釉配天目口沿、帶遊環之六寸花立等。

明治二十九年,伊萬里下町上田米藏(原屋)購得辻前川燒停辦之窯具移至椎の峯,以天草石為料燒瓷;由伊萬里玄界小路水町幸吉任經理,集合本地窯戶緒方喜一等五六人,並自藤津郡吉田山僱十五六名工與幫手,製作銅版轉印之低階餐具;五六年即歇業。約1912年,中里某再試瓷器(「かんとん茶漬」碗、湯吞等),僅一年即止,復歸黑胎陶。

自1873–74年起,製品由伊萬里濱町石丸善作專銷;曾出「桶形花瓶、霜斑海鼠流」等佳作,後價格與風格俱降。繼者東島貞吉接手,然產量已微,僅中里庄治郎等四人,年產額逾三千圓。及至失去自伊萬里港赴大阪之和船運輸,窯元改行直售,貞吉遂於約十年前停辦經銷。

椎の峯仍存可觀傳統。有田商人曾建議以海鼠、天目釉製瓶掛、半洞等大物以抗「上海沿海」輸入,並擬派器工名手試作;本地憂其外洩釉法而拒。昔之三百五十戶,今僅十三戶,編入南波多村大字府招之小字。現營者有村長緒方高世,及中里敬市、緒方虎次郎、江口好三等。

緒方高世出自本地小形氏,舊姓「小形/小方」。文政元年小笠原長昌為領主時,廣兵衛高雅避「小」字改「緒方」,經子高親、孫高政至今之高世。

椎の峯中里宗家為中里敬市。上溯:父百吉、祖庄治郎、曾祖敬入(1876卒)、高祖太平治(1847卒)、六世祖孫右工門(1817卒),上系太一、茂一,之前未詳。遷三河內之中里茂右工門,當出此系。

現主產湯婆、花盆、床置、花器等。低階品中亦多海鼠釉發色佳者,作浸瓶殊可惜,寧作鴨德利。床置與花器尚有精進之地。墓地坡麓有韓人墓一基,高約四尺五六寸,細字淺刻今難辨。

另有祀「多々良の神」(高麗神)之社。自菰谷窯址左上,曲折至高簷約八疊之拜殿;後列三石祠,最古建於1793年(寛政五年丑八月),施主名錄見中里彌右工門、大島市右工門、中里註司、小形清治、小形利左エ門、福島三右工門、小形卯之助等。

神祭在4月8日;昔有戲與相撲,極一時之盛。9日起花見宴,工人多酣飲五六日。今則僅苔生石鳥居存,以資追想。

「高麗餅」作法:糯米與粳米等量搗合,經水囊篩粉,蒸成厚3–4分方板;另煮紅豆成餡覆上,不加鹽。切割不用鐵刀,必以竹箆自一角斜切成鱗形,並以味噌湯相配,供神且饗賓;當為今厚覆糖餡「高麗餅」之祖。

歸回本線:椎の峯崩れ後,陶工分散,於北波多村田中、鬼塚村畑島開窯,亦至大川村片草・佐次郎・善德;更遠則至三河內杉林、筑前糸島郡吉井開窯。