【原文】[Original text]
白紋雲鶴
壹岐守忠知は豊後國杵築及吉田を領し、其子長矩の代より長祜、長庸まで遠州掛川六萬石を食み、長恭の代より奥州棚倉六萬石に移封された。長昌は領地に於いて製陶を督せし経験あるを以て頗る斯道を獎勵し、そして御茶碗窯に於いて、高麗を模せる白紋雲鶴の茶器を製作し幕府へ進献すること成った(白雲鶴とは雲鶴の散文を器面に彫刻し、それに白亞の象嵌を施せしものなれど、後世には印花象嵌物多くなり、そして此様式のものまでも、凡ての象嵌模様を白雲鶴さ稱するに至ったのである)
二代長泰は羽州鶴岡城主酒井家より来り嗣ぎ、三代長會は豊前千束より、四代長和は大和郡山り、五代長國又相尋て養子である。此長の天明年間より、幕府へ進献の陶器は毎年十月と定められた。六代長行(實は初代長昌の子也季父修理長光の子として)又養子にて五代より二才の年長であつた。
小笠原明山
長行が當時若年寄として彼の生麥事件の賠償金支拂を断行し有名な明山(字國華又字伯華山又天全流耳と號す、老中格外國御用掛となる)である。
唐津藩窯の陶工として代々其製作に従事せし者に中里太郎右工門と大島彌兵衛の家がある。
中里の私銘には∴印(下向きの三角形に点が3つある印)があり、大島の同銘にはM印があつた。そして両家とも抜群の名工を出してゐる、中里家の略系左の如くである。
中里又七
初代又七は、元韓人彌作の子などゝいはれしも、實は鬼子嶽崩れの殘黨にて世を憚かる身の素性を明にせざるため、斯く言ひ觸らされしのみでなく。當時は勝し陶工には高麗人して祀り上げた時代であつた。故に又七に於いてもそれをもつけの幸ひと、韓人に成りすました者と察せらる。
窯の神勘右エ門
又七は田代の藩窯時代に勤務せし者であつた。二代太郎右工門は、慶長八年に移された大川原(樅の木谷)の藩窯時代させられ三代勘右工門は元和年間椎の峯藩窯にありしが、都合ありて大川原に帰りしより椎の峯にては窯の神の立ち去りして落膽せし程の巧者であつた。
四代太郎右工門に至りて又椎の峯に来ること成つた。五代太郎右工門の時享保十一年の椎の峯崩れより、四代大島彌と共に坊主町の藩窯へ轉勤を命ぜられたのである。
前田藤次右エ門
是より先梅村利兵衛の繪畫の高弟に前田藤次右工門といへる名畫師があつた。
喜平次と日羅坊
之に師事して學べるが六代喜平次にて、此名工喜平次時代の作品を中興焼と稱せられてゐる。七代太郎右工門の舎弟に日羅坊と名工があつた。今十二代太郎右工門が御茶碗窯の跡に私營として製作を続けてゐる。
鶉手刷毛目
そして彼は、有田の作陶新人會の一人として種々の雅致ある作品を發表してゐる。
就中手刷毛目と稱する作風がある、それは青地小氷裂手に鐵釉を流せし擂鉢形菓子器にて、それに一見三島手の如き刷毛目が文飾され、そして底部には菊形刷毛目が施されてある。又中里家と共に、代々藩窯の陶工として妙技を振ひし大島家の略系左の如くである。
中にも六代の彌大平の如きは比類なき名工であつた。八代の源之助が小笠原佐渡守時代に相當すと稱せらるゝが事蹟詳でない。又其後の人名に權太夫、喜左工門、新九郎、吉三郎等あるも、大島家は中里家より早く廢業せしもの如く、今善などいへる末葉平戸の炭鉱地に移住して調査頗る困難である。
唐津焼の衰退
斯くの如くにして古き沿革史さ特種の技能を傳統せる唐津焼も、其後見る影もなく衰退したのである。而して舊藩主を始め其後唐津には一人の復興者なく、縦令之を絶叫しても誰さて出資する特志家さへなかつたのである。
草場見節
明治二十二年唐津町の婦人科醫草場見節(盆太郎長子)は。斯くて唐津焼の絶滅せん事を慨き、巨費を投じて谷町に設備を整へ、或は己が意匠を授け、又は白に雲鶴の文飾を試みる等ひたすら復興に努力して、一時各地の陳列館等にて大に宣傳を試みしが、明治三十九年九月廿八六十三才で卒去した。(子榮喜嗣ぎ前岐阜高等農林學校長であつた)
山内末喜
見節の三男にて、山内小兵衛の養子となりし末喜は質父の遺志を嗣ぎ、同年熊本縣八代の濱田義徳(又美徳と書けり有田工業學校第一回卒業)を雇用して各種の釉薬及素地を造らしめ彫刻には松島隣、繪畫には角義則(同校第三回卒業)等を招き、其他有田の工人等を雇ひて床置、花瓶 茶器 食器等を製作したのである。
或時は博覧會に、又共進會等に出品し、嘗て侍男爵米田虎雄に依りて、製品を宮内省に提供せしは明治三十九年であつた。斯くの如くにして大に斯業の復興を計りしころ、同四十四年十一月十四日三十七才にして卒去するに及び事業も亦中止するの止むなきに到りしは痛惜の至りである。
中野霓林
次に勃興せしは巨像作家の中野寛林である。茲に献上唐津の調土及其釉薬の調合者に前田幸太郎なる者ありしが、彼は晩年其調合秘帳を擔保として草場見節に借金せしを、明治廿五年回収して之を霓林に譲ったのである。霓林は谷町の奥地に築窯し、當時京都の焼修業にあり福田直行歸郷し居りしが、同登窯を共用して製陶に従事したのである。
霓林の作風は巨像の外馬や蟹などが得意の様である。今彼が本町の店舗には、尺五寸丈の馬や大籠に這登れる群蟹なご陳列されてある。蓋し彼が技とするところは巨大の塑像製作にて、これは前記の坏土調合の秘傳と彼が技巧とに依るものとせられ、大は高さ一丈に至るも獪完全に製し得るを以て、各地の巨像や名馬の如きは寫眞を以て製作せしものが少くない。
【現代語訳】[Modern Japanese translation]
壹岐守忠知は豊後國の杵築と吉田を領し、その子の長矩から長祜・長庸の代までは遠州掛川で六万石を領有し、長恭の代からは奥州棚倉六万石へ転封された。長昌は領内で製陶を監督した経験があり、この道を強く奨励して、御茶碗窯で高麗を手本にした「白紋雲鶴」の茶器を作り、幕府への献上品とした(白雲鶴とは、器面に雲と鶴の散らし文様を刻み、白い象嵌を施したもの。のちには印花象嵌が増え、この様式以外の象嵌文様まで広く白雲鶴と呼ぶようになった)。
二代の長泰は羽州鶴岡城主の酒井家から入り継ぎ、三代の長會は豊前千束から、四代の長和は大和郡山から、五代の長國も相続の養子である。長の家では天明年間から、幕府への進献陶器を毎年十月と定めた。六代の長行(実は初代長昌の子で、季父・修理長光の子として養われた)は、五代より二歳年長の養子である。
小笠原明山こと長行は、若年寄として生麦事件の賠償金支払いを断行して名を知られ、号を明山(字は國華・伯華山、また天全流耳と号す)といい、老中格の外国御用掛を務めた。
唐津の藩窯で代々制作に当たった家には、中里太郎右工門家と大島彌兵衛家がある。中里の私印は「「∴」印(下向きの三角形に点が3つある印)」、大島は「M印」を用い、いずれも優れた名工を輩出した。
中里又七は当初、韓人彌作の子とも言われたが、実は鬼子嶽崩れの残党で、身の上を明かせない事情からそう触れ回られたにすぎない。当時は優れた陶工を高麗人として持ち上げる風潮があり、又七もそれに便乗して韓人を装ったと見られる。
又七は田代の藩窯に勤め、二代太郎右工門は慶長八年に大川原(樅の木谷)の藩窯へ移った時代の人、三代勘右工門は元和年間に椎の峯の藩窯にいたが、事情あって大川原に戻ったため、椎の峯では「窯の神が去った」と落胆するほどの腕前であった。四代太郎右工門の時に再び椎の峯へ戻り、五代太郎右工門のとき享保十一年の椎の峯崩れに遭って、四代大島彌とともに坊主町の藩窯へ転勤を命じられた。
その前、梅村利兵衛に絵を学んだ高弟に、名画師・前田藤次右工門がいた。六代喜平次はその流れを継いだ名工で、この時代の作品は「中興焼」と称される。七代太郎右工門の弟には名工・日羅坊もいた。現在、十二代太郎右工門が御茶碗窯の跡地で私営として制作を続けている。
また彼(十二代)は有田の作陶新人会の一員として、趣ある作品を数多く発表している。なかでも「鶉手刷毛目」と称する作があり、青地で細かな貫入(小氷裂)の素地に鉄釉を流した擂鉢形の菓子器で、一見三島手のような刷毛目文様を施し、底にも菊形の刷毛目を入れる。中里家と並んで代々藩窯で腕を振るった大島家の系譜も伝わる。とりわけ六代彌大平は比類のない名工で、八代源之助は小笠原佐渡守の時代に当たるとされるが事績は詳らかでない。その後には権太夫・喜左工門・新九郎・吉三郎などの名が見えるが、大島家は中里家より早く廃業したらしく、今は末裔の善らが平戸の炭鉱地に移り、調査はきわめて難しい。
このように由緒と特殊技能を継いできた唐津焼も、のちには見る影もなく衰退した。旧藩主をはじめ、唐津には復興の先導者が一人も現れず、声を上げても出資する志ある人すらいなかった。
明治二十二年、唐津町の産婦人科医・草場見節(盆太郎の長子)は、唐津焼の絶滅を憂い巨費を投じて谷町に設備を整え、自ら意匠を与え、白地に雲鶴の文様を試作するなど復興に努め、各地の陳列館で大いに宣伝もしたが、明治三十九年九月二十八日、六十三歳で逝去した(子の榮喜が跡を継ぎ、のち岐阜高等農林学校長)。
三男で山内小兵衛の養子となった山内末喜は、養父の遺志を継ぎ、同年、熊本県八代の濱田義徳(または美徳。有田工業学校第一回卒)を雇って各種の釉薬と素地を調合させ、彫刻は松島隣、絵画は角義則(同校第三回卒)らを招き、有田の工人も雇って床置・花瓶・茶器・食器などを製作した。博覧会や共進会に出品し、明治三十九年には侍男爵・米田虎雄の取り計らいで宮内省にも納めた。復興に力を尽くしていたが、明治四十四年十一月十四日、三十七歳で没し、事業もやむなく中止となった。
続いて台頭したのが巨像作家・中野霓林である。献上唐津の調土と釉薬を調合した前田幸太郎という人物が、晩年、その秘伝帳を草場見節に質入れして借財し、明治二十五年に回収されて霓林に譲られた。霓林は谷町の奥に築窯し、当時京都で修業していた福田直行が帰郷して同じ登窯を共用し、製陶に従事した。霓林は巨像のほか馬や蟹を得意とし、現在も本町の店舗には丈一尺五寸の馬や、大籠をはい上がる群蟹などが陳列されている。彼の本領は巨大な塑像で、前記の調土秘伝と技巧によって、大は高さ一丈にも及ぶ作を完全に作り上げることができ、各地の巨像や名馬は写真から制作したものも少なくない。
【英語訳】[English translation]
Ikino-no-kami Tadachika held Kitsuki and Yoshida in Bungo. From his son Nagakaku through Nagaoki and Nagatsune the family drew 60,000 koku at Enshū Kakegawa; under Nagayasu they were transferred to 60,000 koku at Tanagura in Ōshū. Having overseen ceramics in his domain, Nagamasa actively promoted the craft and, at the domain “Ochawan-gama,” produced Korean-style “Hakumon Unkaku” tea ware as offerings to the shogunate (Unkaku originally meant cloud-and-crane patterns carved on the vessel and inlaid with white slip; later, with the spread of stamped inlay, even other inlay motifs came to be called “Haku Unkaku”).
The second lord, Nagayasu (Chōtai), came from the Sakai of Tsuruoka in Uzen; the third, Chōe, from Senzoku in Buzen; the fourth, Chōwa, from Yamato Kōriyama; the fifth, Chōkoku, was likewise an adopted heir. From the Tenmei era they fixed every October as the month to submit ceramic tributes. The sixth, Chōyuki—actually the first lord Nagamasa’s son, adopted as the child of his uncle, the steward Nagamitsu—was an adopted heir two years older than the fifth.
Known by the art name Meizan (courtesy names Kokka and Hakakazan, also styled Tenzan Ryūji), Chōyuki became famed as wakadoshiyori for forcing through payment of indemnities after the Namamugi Incident, later serving as foreign-affairs commissioner outside the regular rōjū ranks.
Among the craftsmen who served the Karatsu domain kiln generation after generation were the houses of Nakazato Tarōemon and Ōshima Yahei. Nakazato pieces bore a private “? mark,” Ōshima an “M mark,” and both lines produced outstanding masters.
The first Nakazato Yashichi was once said to be the son of the Korean Yasaku, but he was in fact a survivor of the Onikodake collapse; in an age when superior potters were exalted as “Korean,” he hid his origins and likely passed himself off as one.
Yashichi worked at the Tashiro domain kiln. The second Tarōemon belonged to the Ōkawabara (Mominoki-dani) kiln after its move in Keichō 8; the third Kan’emon served at Shii-no-Mine in the Genna years but returned to Ōkawabara, his departure from Shii-no-Mine lamented as though “the kiln god had left.” Under the fourth Tarōemon the family returned to Shii-no-Mine; in the fifth Tarōemon’s time, after the Shii-no-Mine collapse in Kyōhō 11, he and the fourth Ōshima Ya (Yahē) were ordered to transfer to the Bōzumachi domain kiln.
Earlier, Uemura Rihei’s distinguished painting pupil Maeda Tōjiemon was renowned. The sixth Nakazato Kihēji, trained in that lineage, produced wares celebrated as the “Restoration Firing” (Chūkō-yaki). The seventh Tarōemon’s younger brother, Nichirabō, was also a master. Today the twelfth Tarōemon continues production privately on the former Ochawan-gama site.
As a member of Arita’s Newcomers’ Potters Association, he has released many tasteful works. Notably, his “Uzura-te Hakeme” style features a suribachi-shaped sweets dish on a bluish ground with fine crackle, iron glaze poured to run, a surface brushed in a manner recalling Mishima ware, and chrysanthemum-shaped brushwork on the base. Parallel to the Nakazato, the Ōshima line also served the domain kiln; among them the sixth, Yadaihei, was a peerless master. The eighth, Gennosuke, is said to correspond to the age of Ogasawara Sado-no-kami, though details are unclear. Later names—Gondayū, Kizaemon, Shinkurō, Kichisaburō—appear, but the Ōshima family seems to have closed earlier than the Nakazato; descendants such as Zen moved to the Hirado coalfields, making inquiry difficult.
Despite its venerable pedigree and distinctive technique, Karatsu ware declined until it was scarcely recognizable. No restorer emerged in Karatsu—not even a patron willing to put up funds.
In 1889, the Karatsu obstetrician Kusaba Misetsu (eldest son of Bontarō) lamented the looming extinction of Karatsu ware. He invested heavily to equip workshops at Tanimachi, provided his own designs, tried white ground with Unkaku decoration, and strove for revival, promoting the wares at exhibitions nationwide; but he died on September 28, 1906, aged 63 (his son Eiki succeeded him and later headed Gifu Higher Agricultural and Forestry School).
His third son, Yamauchi Sueki—adopted by Yamauchi Kohei—continued his foster father’s intent. That same year he hired Hamada Yoshinori (also written Minori; first graduating class of Arita Technical School) to formulate bodies and glazes, brought in Matsushima Rin for carving and Kado Yoshinori (third graduating class) for painting, and, with Arita craftsmen, produced floor vases, flower vases, tea ware, and tableware. He exhibited at fairs and expositions, and in 1906, at the intercession of Baron Yoneda Torao, supplied pieces to the Imperial Household Ministry. Just as the revival gathered pace, he died on November 14, 1911, aged 37, and the enterprise was forced to cease.
Next arose the colossal sculptor Nakano Geirin. Maeda Kōtarō—who had compounded the clays and glazes for “Kenjō Karatsu”—had pawned his secret recipe book to Kusaba Misetsu; in 1892 it was redeemed and passed to Geirin. Geirin built a kiln deep in Tanimachi. Fukuda Naoyuki, then back from kiln training in Kyōto, shared the climbing kiln and worked alongside him. Geirin excelled in monumental figures as well as horses and crabs; his main-street shop still shows a 1 shaku 5 sun horse and a swarm of crabs climbing a large basket. His specialty is large plastic sculpture: using the secret body recipe and his technique, he could complete works up to 1 jō in height. Many large statues and famous horses across the country were modeled from photographs.
【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]
壹岐守忠知曾领有丰后国的杵筑与吉田;其子长矩起,经长祜、长庸,在远州挂川食禄六万石,至长恭时转封奥州棚仓六万石。长昌因在领内督理制陶的经验,极力提倡此业,在御茶碗窑仿高丽制作“白纹云鹤”茶器,进献幕府(“白云鹤”原指在器面刻云鹤散纹并以白色象嵌点缀,后世印花象嵌增多,凡此类象嵌纹饰皆泛称白云鹤)。
二代长泰自羽州鹤冈之酒井家入嗣,三代长会自丰前千束,四代长和自大和郡山,五代长国亦为养子。自天明年间起,进献幕府之陶器定于每年十月。六代长行(实为初代长昌之子,作为季父修理长光之子被养)比五代年长二岁。
小笠原长行号明山(字国华、伯华山,又号天全流耳),以若年寄身份断行支付“生麦事件”赔款而著名,并任老中格的外国御用挂。
唐津藩窑世代从事制作者有中里太郎右工门家与大岛弥兵卫家。中里多用“?印”私章,大岛用“M印”,两家皆出名匠。
中里又七起初被称为“韩人弥作之子”,其实是“鬼子嶽崩れ”的遗民,因不便明示身世而有此传。彼时有将卓越陶工抬为“高丽人”的风气,又七亦借势装作韩人。
又七在田代藩窑任事;二代太郎右工门属庆长八年移至大川原(樅の木谷)的时期;三代勘右工门于元和年间在椎之峯藩窑,后因事回大川原,致使椎之峯“如窑神远去”。四代太郎右工门时再返椎之峯;至五代太郎右工门,遭享保十一年的“椎之峯崩れ”,与四代大岛弥同被调至坊主町藩窑。
此前,梅村利兵卫门下的高弟、名画师前田藤次右工门甚负盛名。六代喜平次承其脉络,为名工,其时作品称“中兴烧”。七代太郎右工门之弟日罗坊亦为名匠。今第十二代太郎右工门在御茶碗窑旧址以私营续作。
此外,他作为“有田作陶新人会”成员,发表多种雅致新作。尤以“鹌鹑手刷毛目”为著:青地细开片素胎上泼流铁釉之擂钵形菓子器,面施似三岛手之刷毛纹,底饰菊形刷毛目。与中里家并列的藩窑名家大岛家亦世传精技;其中六代弥大平尤为无匹,八代源之助约当小笠原佐渡守之世,事迹未详。其后有权太夫、喜左工门、新九郎、吉三郎等名;大岛家似较中里家更早歇业,后裔如“善”等迁居平户煤矿区,调查殊难。
虽承正统与技艺,唐津烧终至式微。旧藩主等亦无人领起复兴之先,纵声疾呼,亦乏出资之志士。
明治二十二年,唐津町产科医草场见节(盆太郎长子)惋惜唐津烧将绝,重金整备谷町作坊,亲授意匠,并试作白地云鹤,力图复兴,曾在各地陈列馆大力宣传;然明治三十九年九月二十八日卒,享年六十三(子荣喜继,后任岐阜高等农林学校长)。
其三子山内末喜为山内小兵卫养子,承遗志。同年延聘熊本县八代之滨田义德(又作美德,有田工业学校首届卒)调配各类釉与素地,雕刻邀松岛隣,绘画邀角义则(同校第三届卒),并雇用有田工人,制床置、花瓶、茶器、食器等。屡赴博览会、共进会,明治三十九年经侍男爵米田虎雄斡旋,进供宫内省。正值复兴见效,明治四十四年十一月十四日以三十七岁卒,事业被迫中止。
其后崛起者为巨像作家中野霓林。昔有献上唐津之调土与釉药调合者前田幸太郎,晚年以秘传配方账质于草场见节,明治二十五年赎回后转与霓林。霓林于谷町深处筑窑,时京都修业之福田直行归郷,共用登窑制陶。霓林善巨像与马、蟹,今其本町店陈列尺五寸高之马、攀大篮之群蟹等。其所长为巨塑,凭秘传调土与技巧,可作至一丈之作,国内多处巨像、名马作品多据照片写制。
【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditional from Japanese]
壹岐守忠知曾領有豐後國之杵築與吉田;其子長矩起,經長祜、長庸,在遠州掛川食祿六萬石,至長恭時轉封奧州棚倉六萬石。長昌因督理領內製陶之經驗,大力獎勵此業,於御茶碗窯仿高麗製作「白紋雲鶴」茶器進獻幕府(「白雲鶴」本指在器面刻雲鶴散紋並以白色象嵌點綴,後世印花象嵌漸多,凡此類象嵌紋飾皆泛稱白雲鶴)。
二代長泰自羽州鶴岡酒井家入嗣,三代長會自豐前千束,四代長和自大和郡山,五代長國亦為養子。自天明年間起,進獻幕府之陶器定於每年十月。六代長行(實為初代長昌之子,作季父修理長光之子而養)較五代年長二歲。
小笠原長行號明山(字國華、伯華山,又號天全流耳),以若年寄身分斷行支付「生麥事件」賠款而知名,並任老中格之外國御用掛。
唐津藩窯世代從事者有中里太郎右工門家與大島彌兵衛家。中里多用「?印」私章,大島用「M印」,兩家皆出名匠。
中里又七初被稱為「韓人彌作之子」,其實為「鬼子嶽崩れ」之遺民,因不便明示身世而有此傳。當時有尊優秀陶工為「高麗人」之風, 又七亦因勢裝作韓人。
又七任事於田代藩窯;二代太郎右工門屬慶長八年移至大川原(樅之木谷)之期;三代勘右工門於元和年間在椎之峯藩窯,後因事歸大川原,致椎之峯「猶如窯神遠去」。四代太郎右工門時再返椎之峯;至五代太郎右工門,遭享保十一年「椎之峯崩れ」,與四代大島彌同被調往坊主町藩窯。
此前,梅村利兵衛之高弟、名畫師前田藤次右工門甚著。六代喜平次承其脈絡為名工,其時作品稱「中興燒」。七代太郎右工門之弟日羅坊亦為名匠。今第十二代太郎右工門於御茶碗窯舊址私營續作。
此外,他為「有田作陶新人會」成員,發表多種雅作。尤以「鶉手刷毛目」為著:青地細開片胎上傾注鐵釉之擂鉢形菓子器,施似三島手之刷毛紋,底飾菊形刷毛目。與中里家並列之藩窯名家大島家亦世傳精技;其中六代彌大平尤為絕倫,八代源之助約當小笠原佐渡守之世,事蹟未詳。其後有權太夫、喜左工門、新九郎、吉三郎等名;大島家似較中里家更早歇業,末裔如「善」等移居平戶炭礦地,調查殊難。
雖承正統與技藝,唐津燒終至衰微。舊藩主等亦無人率先復興,縱聲疾呼,亦乏出資之志士。
明治二十二年,唐津町產科醫草場見節(盆太郎長子)慨歎唐津燒將絕,重金整備谷町作坊,親授意匠,試作白地雲鶴,力圖復興,並於各地陳列館大力宣傳;然明治三十九年九月二十八日卒,享年六十三(子榮喜繼之,後任岐阜高等農林學校長)。
其三子山內末喜為山內小兵衛養子,承遺志。同年延聘熊本縣八代之濱田義德(又作美德,有田工業學校首屆卒)調配諸釉與素地,雕刻邀松島隣,繪畫邀角義則(同校第三屆卒),並僱用有田工人,製床置、花瓶、茶器、食器等。屢赴博覽會、共進會,明治三十九年經侍男爵米田虎雄斡旋,進供宮內省。復興方見起色,明治四十四年十一月十四日以三十七歲卒,事業被迫中止。
其後崛起者為巨像作家中野霓林。昔有獻上唐津調土與釉藥調合者前田幸太郎,晚年以秘傳配方帳質於草場見節,明治二十五年贖回後轉與霓林。霓林於谷町深處築窯,時京都修業之福田直行歸鄉,共用登窯製陶。霓林善巨像與馬、蟹,今其本町店陳列尺五寸高之馬、攀大籃之群蟹等。其所長為巨塑,憑秘傳調土與技巧,可作至一丈之作,國內多處巨像、名馬作品多據照片寫製。
【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]
壹岐守忠知领有丰后国的杵筑与吉田;自其子长矩起,经长祜、长庸,家族在远州挂川食禄六万石;至长恭转封奥州棚仓六万石。长昌曾在领内主管陶业,积极提倡,于藩“御茶碗窑”仿高丽制作“白纹云鹤”茶器进献幕府(最初指云鹤刻纹并嵌白泥,后凡象嵌纹皆泛称“白云鹤”)。
二代长泰自羽州鹤冈酒井家入嗣;三代长会自丰前千束;四代长和自大和郡山;五代长国亦为养子。自天明期起,每年十月固定进献。六代长行实为初代长昌子,养为季父修理长光之子,比五代年长二岁。
小笠原长行号“明山”(字国华、伯华山,亦作“天全流耳”),以若年寄身份断行支付“生麦事件”赔款著名,后为老中格的外国御用挂。
唐津藩窑的世家有中里太郎右工门与大岛弥兵卫。中里用“?印”,大岛用“M印”,两家多名匠。
中里又七曾被称为“韩人弥作之子”,实为“鬼子嶽崩れ”的遗民,因当时推崇“高丽匠”,多以韩人自称以隐其身世。
又七在田代藩窑任事;二代太郎右工门属庆长八年迁至大川原(樅の木谷)之期;三代勘右工门在元和年间于椎之峯,后返大川原,时人叹“窑神远去”。四代再回椎之峯;五代时,遭享保十一年“椎之峯崩れ”,与四代大岛弥一道调至坊主町藩窑。
此前,梅村利兵卫之高弟、名画师前田藤次右工门著称。六代喜平次的作品被称作“中兴烧”;七代太郎右工门之弟日罗坊亦名。今第十二代太郎右工门在旧址私营延续。
他亦为“有田作陶新人会”成员,推出“鹌鹑手刷毛目”等:青地细开片的擂钵形菓子器,泼铁釉成流,面作类三岛的刷毛纹,底施菊形刷毛目。大岛家并列为藩窑世家,六代弥大平尤为绝伦,八代源之助约当小笠原佐渡守期,后续有权太夫、喜左工门、新九郎、吉三郎等。大岛家较早歇业,末裔迁平户煤矿区,考稽难。
虽有渊源与技艺,唐津烧终至衰落,无人出资重振。
1889年,唐津医者草场见节大举投资于谷町,供图样、试白地云鹤以复兴,并在各地展陈;1906年9月28日卒,享年63(子荣喜继之,后任岐阜高等农林校长)。
其三子山内末喜(为山内小兵卫养子)承志,同年聘滨田义德(又作美德,有田工校首届)调配坯釉;雕刻用松岛隣,绘画用角义则(第三届),并雇有田工人,制地置花瓶、茶器、食器等。参博览会与共进会,1906年经男爵米田虎雄周旋,供奉宫内省。1911年11月14日卒,年37,事业止。
继之者为巨像作家中野霓林。前田幸太郎曾调配“献上唐津”之坯釉,晚年以秘方账典当于草场,1892年赎回并转予霓林。霓林在谷町深处筑窑,福田直行自京都学成返乡共用登窑。霓林擅巨像、马与蟹;店陈一尺五寸之马与攀篮群蟹。凭秘方坯体与技巧,可作至一丈之塑,多以照片为稿。
【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]
壹岐守忠知領有豐後之杵築與吉田;自其子長矩起,經長祜、長庸,家族在遠州掛川食祿六萬石;至長恭轉封奧州棚倉六萬石。長昌曾督理領內陶業,積極提倡,於藩「御茶碗窯」仿高麗製「白紋雲鶴」茶器進獻(初指雲鶴刻紋嵌白泥,後凡象嵌紋皆泛稱「白雲鶴」)。
二代長泰自羽州鶴岡酒井家入嗣;三代長會自豐前千束;四代長和自大和郡山;五代長國亦為養子。自天明起,每年十月定期進獻。六代長行實為初代長昌子,養為季父修理長光之子,比五代年長二歲。
小笠原長行號「明山」(字國華、伯華山,亦稱天全流耳),以若年寄身分斷行支付「生麥事件」賠款著稱,後為老中格之外國御用掛。
唐津藩窯名家有中里太郎右工門與大島彌兵衛。中里用「?印」,大島用「M印」,兩家多名匠。
中里又七曾被稱為「韓人彌作之子」,實為「鬼子嶽崩れ」遺民,時俗尊「高麗匠」,多以韓人自稱以蔽其身。
又七在田代藩窯;二代太郎右工門屬慶長八年遷大川原(樅之木谷)之期;三代勘右工門元和間在椎之峯,後返大川原,時人嘆「窯神遠去」。四代復返椎之峯;五代遭享保十一年「椎之峯崩れ」,與四代大島彌同調坊主町藩窯。
此前,梅村利兵衛之高弟、名畫師前田藤次右工門著稱。六代喜平次作品稱「中興燒」;七代太郎右工門之弟日羅坊亦名。今第十二代太郎右工門在舊址私營續作。
其亦為「有田作陶新人會」成員,推出「鶉手刷毛目」等:青地細開片擂鉢形菓子器,傾注鐵釉成流,面作類三島刷毛紋,底施菊形刷毛目。大島家並列藩窯世家,六代彌大平尤絕,八代源之助約當小笠原佐渡守期;後有權太夫、喜左工門、新九郎、吉三郎等。大島家較早歇業,末裔遷平戶煤礦,考稽難。
雖承淵源與技藝,唐津燒終至衰落,無人出資重振。
明治二十二年,唐津醫草場見節大舉投資谷町,授意匠、試白地雲鶴以圖復興,並遍陳各地;明治三十九年九月二十八日卒,享年六十三(子榮喜繼,後任岐阜高等農林校長)。
其三子山內末喜(山內小兵衛養子)承志,同年聘濱田義德(又作美德,有田工校首屆)調坯釉;雕刻松島隣,繪畫角義則(第三屆),並僱有田工人,製花瓶、茶器、食器等。參博覽與共進會;明治三十九年經男爵米田虎雄周旋,供宮內省。明治四十四年十一月十四日卒,年三十七,業止。
繼起者為巨像作家中野霓林。前田幸太郎曾調配「獻上唐津」坯釉,晚年以秘方帳典當於草場;明治二十五年贖回轉予霓林。霓林於谷町深處築窯;福田直行自京都學成返鄉共用登窯。霓林善巨像、馬與蟹;店陳一尺五寸之馬與攀籃群蟹。憑秘方坯體與技巧,可作至一丈,高作多據照片而成。

