唐津焼の各原料~人別帳除き

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【原文】[Original text]

唐津焼の各原料
 是より記事はまた元に帰る、偖從來唐津焼原料の粘土は専ら鐵分多きもののみであつた。其使用さる重なる原料としては、有浦村の牟形の土(青小米白)名護屋村の加部島の土(白)北波多村徳須恵の稗田の土(赤)同野村山彥の土(白)相知村牟田部の佐里の土(白)西唐津村の岩砂利(小米白)同神田西浦の人形土(赤)など多種類がある。

笠椎の土
 然るに元和二年笠椎(南波多村)に於て、鐵分少なき良土が発見されしより隣地椎の峯の製陶然として盛大になり、従来の登窯(多々良の上)の外新たに上下二た登(多々良の中、多々良の下)が築造され、そして連續間數何れも二十間づゝであつた。此處より笠椎までの道程半里位にて該土の運搬頗る便利であり、且此粘土は俗に殿様の土として唐津の藩窯へも運び探られ猥りに採取することを禁ぜらるゝに至った。

椎の峯山
 椎の峯は今の南波多村の一村落にて南波多は明治十一年十一月波多津、黒川、大川の三村と共に西松浦郡に編入されしも、何れも唐津領にて椎の峯の地名は往時古椎と稱し、波多氏の家臣椎の峯雅楽の居城であつた。而して此地が商なる伊萬里市場まで僅か一里程にて貨物の運搬頗る便利なるより、斯業の發展は唐津焼の代表地たる観を呈し、盛時に於いては三百五十餘の戸數があつた。
 此山固より鬼子嶽に次ぐ古窯地なるも、特に進歩をせしは鬼子嶽崩れの陶工多く入込みしより以後のことに属し、其重なる陶家には中里、大島、小形、福島、福本等の諸姓があつた。

唐津領主の保護
 寺澤氏の領有に歸してより頗陶家を優遇し、殊に藩用五人の陶家には各々一人扶持を給し、毎年一人前米三拾俵宛を拝借せしめ、そして焼物を以て之を代納せしめたのである。又製陶燃料として椎の峯近地に於いて五十町の山林を下附されたのである。

高原五郎七の下向
 さきに秀吉が聚楽邸の御用陶師として仕へし高原五郎七は、大阪籠城の折木鐵砲を工夫せし程の器量者なるが、落城後の元和二年筑前博多に來り、承天寺の僧登叔を使り、暫時此地方に於いて製陶せしものと考察さるも事蹟分明でない。(或は鞍手郡の大鳴谷開窯説もある)
勿論彼が豊臣家の殘黨として大いに自己を警戒し且其の擧動を秘密にせしことは申すまでもない。

五郎七椎の峯に来る
 元和五年(1628年)五郎七は椎の峯に来り、居ること七ヶ年の長きに涉りしを見れば、一面には世を韜晦する必要に驅られしとしても如何に彼が此地に愛着し、そして此處の陶工を指導して其の五郎七風なる一種のトーンを扶植せしかを察するに難くない。(俗にいふ五郎八茶碗とは是より始まりしならんとの説がある)まして此の境地に於いて韓人直系の陶技を研究しつゝ浪士の身を忍ぶには究竟の場所であつた。

三之亟の見學
 三河内の今村三之亟なども、はるばる五郎七を訪ねて陶技の教を乞ふ可く此椎の峯に来りしは、同時に又此地の優秀なる技風を見學せんとの希望に外なかつた。加ふるに鬼子嶽崩れの陶工に因って開窯されし長葉山の關係からも彼が椎の峯観察は豫てあこがれの一つでありしに相違ない。

浪土の椎の峯集合
 又慶長より元和に於ける闘ヶ原の敗殘者や大阪落城の殘黨など、世を憚る多くの浪人が此山間に五郎七を便りて陶工となり、彼の鬼子嶽崩れの浪士に交りて落着きし者少くなかつた。而して邊土の朴訥に都雅の濔酒を加味せし意匠が淳化されて、又一種のクリエーションが構成されして見る可きであらう。

土井利益來山
 元禄年間唐津の領主土井周防守利益は、長崎へ向途次此椎の峯に立寄りて、藩用の陶家太郎右工門、彌次兵衛 嘉平次、作平、太左工門等五家の製作を視察せしが、此中太左工門のみ苗字なきを以て之に福本の姓を與へたのである。蓋し太郎右工門は中里氏、彌兵衛は大島氏なる可きも、嘉平次、作平は小形、福島何れかであるらしい。
 斯くて領主の厚き保護と、名工等の研鑽裡に育まるる事八十年、さしも盛業を極めし此陶山に椎の峰崩れなる事件が勃發した。

椎の峯崩れ
 尤も此地寛文三年七月(1663年)大火に罹りしも、それよりは或事件が此嘘の産業をして根本的に破壊せしめたのである。
而して此椎の峯崩なるものには二説あり、外に又小松系圖に因れば寛永年間ともありて、其何れの時に覆滅を來せしかは確かならねど、事件年代共に多少の相違あるを以て、其中の二件をのみ抄録することしたのである。

其前説
 一は元禄十年(1697年)にて此地窯焼(又窯元即ち製造陶家の通稱)の大部分は、豫て伊万里商人より製造資金の融通を受けつ有りながら、其期限に至るも勘定をなさざる而巳でなく、之を度外視して新たに他の商人と取引を結び、又は窯出しの大部分を密かに他へ搬出する者多く成りしかば、金主の商人等は大いに憤慨し同村井手野の庄屋と結託して、此儀を大川野の代官所へ出訴に及んだのである。
 代官は早速之を調べたるところ、果して商人側の申立に相違なかりしかば、窯焼共の振舞以ての外不埒千萬なりとて此時大部分の者が處拂ひを厳命された。そして残るは僅かに四五戸の窯焼となり、さしも繁昌を極めし此地の陶業も忽ち火の消えし如くに成りしているのである。

其後説
 一は享保二年(1717年)の出来事であつた。元来製陶の技法中胎土の如きは大同小異とするも、陶家が最も苦心研鑽するは釉薬の調製である。故に調法に就いては其山々にても共通的に特種の秘傅があり、従って之に用ふる原料の探收にも人知れぬ苦労があつたらしい。

山伏拾ひ
 此處の釉薬材料とて維新頃までは、大川内山正力坊(佐賀領)の石が伊萬里の岩栗川に流れるを知り、夜中密かに忍んで池の峠を越えて之を採取した。そしてお互に警戒して豫てか正力坊の名をいはず、山伏といふ匿名を用ひてたのである。
 それは萬一此事が露見すれば、相手は入釜しき鍋島領の事とて如何なる厳談を持込まれんも計り難き恐れがあったからである。故に時には夜振の如き風体にて魚籠の中に拾ひ入れたといふのである。蓋しそれも維新後は解放されて、大川内村榎原の白料も、同村小石原の赤料も、公然と運ばる時代となりしことは勿論である。

椎の峯の秘法傳授
 然し藩制當時にあつては、此釉法の秘傳は陶山の生命であった。事件の發生は此地佐賀や武雄領に近きより、それ等の陶山の窯焼より或る手段を以て買収されし者が、此椎の峯傳統の秘密なる施釉法を傳授せしとて、目附役に密告せる者ありしより時の代官大に恚り其疑ある者を厳しく糺明することゝ成なつたのである。

焼窯等の處払拂ひ
 然るところ意外にも多数の連累者あることが發覺し、其等の窯焼は勿論職工及荒仕子(工人の手傳ひに下働きを成す職人)に至るまで悉く處拂ひに處せられたといふのである。
而して此騒動に因り五代中里太郎右工門と四代の大島彌兵衛は、膝元なる坊主町の藩窯へ寄せらるゝことゝ成りしといはれてゐる。

人別帳除き
 安永五年丙申五月太郎右工門、彌二兵衛の椎の峯山人別帳を除く云々の記録あるは享保二年より六十年目に於いて之を執行しものか、參考として記述する。而して當時の椎の峯の窯焼は他山へ離散し或は断絶し、残るは彌右工門(中里氏)市兵衛(小形か)の二戸のみであった。
 我藩制時代の政治は、敢て産業の利得を眼中に措かず、専ら道義正邪を以て事件の裁定を下せしは、現代の世界各國が自我貿易上の得失より、打算的外交にのみ没頭する陋劣さとは全然其軌を異にせるどころ、我民族性の一貫せる主張のとき片影を観る可きであらう。


【現代語訳】[Modern Japanese translation]

ここで話題を元に戻す。従来、唐津焼に用いられる粘土は主として鉄分の多いものだった。主な原料は、有浦村の牟形の土(青小米白)、名護屋村・加部島の土(白)、北波多村徳須恵・稗田の土(赤)、同・野村山彥の土(白)、相知村牟田部・佐里の土(白)、西唐津村の岩砂利(小米白)、同・神田西浦の人形土(赤)など、多種に及ぶ。

ところが元和二年、南波多村の笠椎で鉄分の少ない良質の土が見つかると、隣の椎の峯の陶業は一気に隆盛となった。従来の登窯(「多々良の上」)に加え、新たに「多々良の中」「多々良の下」の二基が築かれ、いずれも連房は二十間であった。笠椎までは半里ほどで運搬に便利で、この粘土は俗に「殿様の土」と呼ばれて唐津の藩窯にも送られ、乱掘が禁じられるに至った。

椎の峯は今の南波多村の一集落で、南波多は明治十一年十一月に波多津・黒川・大川の三村とともに西松浦郡へ編入されたが、いずれも唐津領である。椎の峯は昔「古椎」と称し、波多氏家臣・椎の峯雅楽の居城の地でもあった。商いの中心である伊萬里市場まで一里ほどと運搬に恵まれ、唐津焼の代表地の趣を示し、最盛期には三百五十戸余を数えた。古くは鬼子嶽に次ぐ古窯地で、とりわけ発展したのは「鬼子嶽崩れ」で多くの陶工が移り住んで以後のことで、主要な陶家には中里・大島・小形・福島・福本などがあった。

寺澤氏の治下では陶家は厚遇され、特に藩用の五家にはそれぞれ一人扶持が与えられ、毎年一人前米三十俵を借り受け、焼物で代納する制度があった。燃料確保のため、椎の峯近くに五十町の山林も下付された。

高原五郎七は、かつて秀吉の聚楽邸の御用陶師として仕え、大坂籠城の際には木鉄砲を工夫したほどの才人である。落城後の元和二年に筑前・博多へ来て、承天寺の僧・登叔を頼り、しばし当地で製陶したと考えられる(鞍手郡・大鳴谷での開窯説もある)。豊臣家の残党として身を慎み、動静を秘したのは言うまでもない。

元和五年(1628)、五郎七は椎の峯に来住し、七年にわたり滞在した。身を隠す必要があったにせよ、この地への愛着と、陶工を導いて「五郎七風」ともいうべき調子を根づかせたことは想像に難くない(いわゆる「五郎八茶碗」はここに起こったという説もある)。ここは、韓人直系の陶技を学びつつ浪人として身を忍ぶにも最適の場だった。

三河内の今村三之亟も、遠路はるばる五郎七を訪ねて教えを請い、同時に当地の優れた作風を見学することを望んだ。鬼子嶽崩れの陶工が開いた長葉山との関係からしても、椎の峯の観察は彼にとって憧れであったに違いない。

また、慶長から元和にかけての関ヶ原の敗残者や大坂落城の残党など、多くの浪人が五郎七を頼ってこの山間に集まり、陶工となって鬼子嶽崩れの浪士らに交じり落ち着いた。辺地の朴訥に都雅の趣を加えた意匠が練れて、独自の創造が形づくられていった。

元禄年間、唐津領主・土井周防守利益は長崎への途次に椎の峯へ立ち寄り、藩用の陶家である太郎右工門・彌次兵衛・嘉平次・作平・太左工門の五家の制作を視察した。うち太左工門だけが苗字をもたなかったため、「福本」の姓を与えた。太郎右工門は中里氏、彌兵衛は大島氏で、嘉平次と作平は小形か福島のいずれかであろう。こうして領主の厚い保護と名工の研鑽のもとに八十年、隆盛を極めたこの陶山に「椎の峯崩れ」が勃発する。

この地は寛文三年(1663)にも大火に遭ったが、それとは別に、とある事件が産業基盤を根本から破壊した。「椎の峯崩れ」には二説あり、小松系図では寛永年間ともする。年代に差があるため、ここでは二件のみを抄録する。

前説――元禄十年(1697)。当地の窯焼(=窯元、製造を担う陶家)の多くは、伊万里の商人から製造資金の融通を受けながら期日に勘定を果たさないばかりか、これを無視して別の商人と新規取引を結び、窯出しの大半を密かに他所へ搬出する者が続出した。金主の商人たちは憤激し、同村・井手野の庄屋と結んで大川野の代官所に訴え出た。調査の結果、申し立てどおりと認められ、多くの窯焼が不埒千万として処払いを命じられた。残った窯焼はわずか四、五戸で、繁昌を極めた陶業はたちまち鎮火したかのように衰えた。

後説――享保二年(1717)の出来事。製陶の技法のうち胎土はおおむね共通だが、陶家が最も心血を注いだのは釉薬調合である。各山ごとに特有の秘伝があり、その原料の採取にも人知れぬ苦労があった。維新頃までは、佐賀領・大川内山の正力坊の石が伊萬里の岩栗川へ流れ込むのを知り、夜密かに池の峠を越えて採取した。互いに用心して「正力坊」の名は出さず、あらかじめ「山伏」との仮称を用いた。鍋島領のこととて露見すれば厳しい詰問を受けかねなかったからである。夜廻り風の装いで、魚籠に拾い入れたともいう。維新後は解放され、大川内村・榎原の白料や同村・小石原の赤料も公然と運ばれるようになった。

藩制下では、この釉法の秘伝は陶山の生命であった。佐賀や武雄領に近いことから、近隣の窯焼に買収されて椎の峯伝統の秘伝の施釉法が伝授されたとする密告が目附役にもたらされ、代官は激怒して疑わしい者の厳正な糾明に着手した。ところが連累者は意外に多く、窯焼はもちろん、職工や荒仕子(工人の手伝いをする下職)に至るまで一斉に処払いとなった。この騒動で、五代・中里太郎右工門と四代・大島彌兵衛は、唐津・坊主町の藩窯に呼び寄せられたという。

安永五年丙申五月には、「太郎右工門・彌二兵衛を椎の峯山の人別帳から除く」旨の記録があり、享保二年から六十年後に執行したものかと思われる。当時、椎の峯の窯焼は他山へ離散・断絶し、残ったのは彌右工門(中里氏)と市兵衛(小形か)の二戸のみであった。藩政は産業の利得を第一とせず、道義・是非を基準に裁定を下した。現代諸国が通商上の打算にのみ傾くのとは軌を一にせず、わが民族性の一貫した主張の一端を見る思いがする。


【英語訳】[English translation]

Returning to the topic: historically, Karatsu ware used clay rich in iron. Principal raw materials included the clay of Mugata in Ariura-mura (ao-komeshiro), the clay of Kabejima in Nago-ya-mura (white), the clay of Hieda in Tokusue, Kita-Hada-mura (red), the clay of Nomura Yamahiko (white), the clay of Sari in Mutabe, Ochi-mura (white), gravel from Nishi-Karatsu-mura (komeshiro), and the “ningyō-tsuchi” (red) of Kanda Nishiura—among many others.

In Genna 2, at Kasashii (Minami-Hada-mura), a good low-iron clay was found. Potting in neighboring Shii-no-Mine then flourished: in addition to the existing climbing kiln “Tadara-no-Ue,” two new kilns, “Tadara-no-Naka” and “Tadara-no-Shita,” were built, each with twenty chambers in sequence. Kasashii lay only half a ri away, making transport easy. The clay, popularly called “tonosama no tsuchi” (“lord’s clay”), was also sent to the Karatsu domain kiln; random digging was forbidden.

Shii-no-Mine is a hamlet of present-day Minami-Hada-mura. Minami-Hada was incorporated into Nishi-Matsuura-gun with Hatatsu, Kurokawa, and Ōkawa in Meiji 11; all were Karatsu holdings. The place was formerly called “Furushii,” site of the castle of Shii-no-Mine no Utaga, a vassal of the Hata. With Imari market—the commercial hub—only about one ri away, transport was convenient; the area came to represent Karatsu ware, and at its peak had over 350 households. Though second only to Oniko-dake as an old kiln site, it advanced especially after the “Oniko-dake Collapse,” when many potters moved in. Notable potter families included Nakazato, Ōshima, Ogata, Fukushima, and Fukumoto.

Under the Terazawa, potters were favored. Five official potter households each received a stipend (ichinin-buchi) and a yearly loan of thirty bales of rice, to be repaid in wares. Fifty chō of nearby woodland were also granted for fuel.

Takahara Goroshichi, formerly a court potter at Hideyoshi’s Juraku residence and ingenious enough to devise wooden firearms during the Ōsaka siege, came to Hakata (Chikuzen) in Genna 2. Through the monk Tōshuku of Jōten-ji he is thought to have produced ware in the area for a time (some say he opened a kiln at Ōnarutani in Kurate-gun). As a Toyotomi remnant he kept a low profile.

In Genna 5 (1628) Goroshichi came to Shii-no-Mine and stayed seven years. Even granting his need for concealment, his attachment to the place and his guidance of local potters—implanting a distinct “Goroshichi tone”—are evident (some say the so-called “Gorohachi chawan” began here). It was an ideal refuge for studying Korean-line techniques while living incognito.

Imamura Sannojo of Mikawachi visited Shii-no-Mine to seek instruction from Goroshichi and to observe the superior local style; given the Mikawachi connection to Nagabayama—opened by potters displaced in the Oniko-dake Collapse—his wish to study Shii-no-Mine is unsurprising.

From Keichō into Genna, many masterless men—losers of Sekigahara and remnants of Ōsaka—also sought out Goroshichi in this mountain valley, became potters, and settled among the Oniko-dake refugees. Rustic outland directness blended with urban elegance to yield a refined, truly original creation.

In the Genroku years, Doi Suō-no-kami Tomonari, lord of Karatsu, stopped at Shii-no-Mine en route to Nagasaki and inspected the five domain potter families—Tarōemon, Yajibei, Kapeiji, Sakubei, and Tasamon. Only Tasamon lacked a surname, so he was granted “Fukumoto.” Tarōemon was of the Nakazato line, Yahē of the Ōshima; Kapeiji and Sakubei were likely Ogata or Fukushima. Nurtured by lordly protection and masterly effort for eighty years, the mountain at last faced the “Shii-no-Mine Collapse.”

The district had already suffered a great fire in Kanbun 3 (1663), but another incident later shattered the industry at its roots. Two traditions exist; the Komatsu genealogy even places it in the Kan’ei years. Because accounts and dates vary, two cases are excerpted here.

First account (Genroku 10, 1697): Many kiln operators (kayaki, i.e., kamamoto) had received advances from Imari merchants, yet when due they failed to settle accounts, struck new deals elsewhere, and secretly removed most kiln loads. The financiers, outraged, joined with the headman of Idéno and lodged a complaint with the Ōkawano magistrate. The inquiry upheld their claim; most kilnmen were expelled (shobarai) as grossly improper. Only four or five kiln households remained, and the once-thriving industry went dark as if a flame had been snuffed.

Second account (Kyōhō 2, 1717): While body recipes were broadly similar, glaze compounding was the potters’ most painstaking art, with each mountain keeping its own secret methods; gathering raw glaze materials took hidden labor. Until the Restoration, they knew that stones from Shōrikibō on Ōkawauchi-yama (Saga domain) washed into the Iwakuri River at Imari; by night they slipped over Ike Pass to collect them. For safety they used the codename “yamabushi,” never saying “Shōrikibō,” for exposure might bring severe inquiry from Nabeshima. Dressed like night watchmen, they dropped the stones into fish baskets. After the Restoration, this was freed: white material from Enokibara and red from Koishibara in Ōkawauchi-mura could be transported openly.

Under the feudal regime these glaze secrets were the very life of the kiln-mountain. Proximity to Saga and Takeo meant that some kilnmen were allegedly bought off and taught Shii-no-Mine’s secret glazing; an informer notified the inspectors, the magistrate raged, and strict examinations followed. Many were implicated: not only kiln owners but craftsmen and even arashiko (helpers) were all expelled. In the turmoil, the fifth Nakazato Tarōemon and the fourth Ōshima Yahei were reassigned to the domain kiln at Bōzumachi in Karatsu.

A record dated An’ei 5 (hinoe-saru), fifth month, notes: “Remove Tarōemon and Yanihei from the Shii-no-Mine population register,” perhaps executing, sixty years later, measures stemming from Kyōhō 2. By then the Shii-no-Mine kilns had scattered or died out; only two households remained—Yaemon (Nakazato) and Ichibee (likely Ogata). The domain’s rule did not prize industrial profit, but judged by moral right and wrong—a stance unlike today’s nations absorbed in calculative trade diplomacy—and one may glimpse a consistent thread of our national character therein.


【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]

回到主题。以往唐津烧多用含铁量高的粘土。主要原料有:有浦村“牟形”的土(青小米白)、名护屋村“加部岛”的土(白)、北波多村德须惠“稗田”的土(赤)、同“野村山彥”的土(白)、相知村牟田部“佐里”的土(白)、西唐津村的岩砂利(小米白)、同“神田西浦”的人形土(赤)等。

元和二年,南波多村“笠椎”发现低铁优质土,邻地“椎の峯”的制陶迅速兴盛。除既有的登窑“多々良之上”外,新建“多々良之中”“多々良之下”两座,皆为二十间连房。笠椎距此仅半里,运输便利。此粘土俗称“殿様の土”,亦送往唐津藩窑,并禁止滥采。

“椎の峯”今属南波多村一聚落。南波多于明治十一年十一月与波多津、黑川、大川同编入西松浦郡,皆为唐津领。古称“古椎”,为波多氏家臣“椎の峯雅楽”居城之地。距商贸中心伊万里市场约一里,运输便捷,遂成唐津烧代表地,盛时户数逾三百五十。其为古窑地仅次“鬼子嶽”,尤以“鬼子嶽崩れ”后多陶工迁入而大进,主要陶家有中里、大岛、小形、福岛、福本等。

寺澤氏治下优待陶家。藩用五家各给一人扶持,年借米三十俵,以烧物代纳;并下付近地五十町山林供燃料。

高原五郎七曾为秀吉聚乐邸御用陶师,大坂籠城时甚至创制木铁炮。落城后之元和二年至筑前博多,依承天寺僧“登叔”,一时在当地制陶(亦有鞍手郡大鸣谷开窑说)。以丰臣遗臣之身,行止多所隐蔽。

元和五年(1628)五郎七至“椎の峯”居七年。虽为避祸而隐,但其眷恋此地、指导陶工,培育出所谓“五郎七风”自可想见(俗称“五郎八茶碗”或肇于此)。此处亦适于研习韩人直系陶技而匿名潜居。

三河内“今村三之亟”远赴“椎の峯”求教,并希观摩其优异风格。由“鬼子嶽崩れ”陶工所开“长叶山”的渊源看,他对“椎の峯”的向往亦理所当然。

自慶長至元和,关原败残与大坂遗臣多以五郎七为依归,入此山间为陶工,与“鬼子嶽崩れ”浪士相杂而定居。边地朴拙与都雅情趣相融,渐成独创之意匠。

元禄年间,唐津领主“土井周防守利益”赴长崎途中驻“椎の峯”,视察藩用五家:太郎右工門、彌次兵衛、嘉平次、作平、太左工門。唯太左工門无姓,赐以“福本”。太郎右工門属中里系,彌兵衛属大岛系,嘉平次与作平疑为小形或福岛。蒙领主厚护、名工研镕八十年后,此山终爆发“椎の峯崩れ”。

寛文三年(1663)曾遭大火,但另有一事从根本上摧毁此业。“椎の峯崩れ”有二说,小松系图亦谓在寛永年间。因叙述与年代有异,此处仅录二案。

其一(元禄十年,1697):多窑烧(即窑元)受伊万里商人融资而到期不清,反与他商新结交易,并暗将大部窑货外运。金主愤激,联同井手野庄屋诉之大川野代官所。调查属实,多数窑烧以“不埒”被处以“处払い”(驱逐),仅余四五户,盛业骤然熄灭。

其二(享保二年,1717):胎土大同小异,然釉药调制为陶家至难之学,各山有其秘传,原料采集亦多艰。维新前,知佐贺领“大川内山正力坊”之石流入伊万里“岩栗川”,遂夜越“池之峠”采石。为防泄露,不称“正力坊”,而以“山伏”为代号;一旦败露,鍋島领或将严讯。或装作夜巡,拾石入鱼篓。维新后解禁,大川内村“榎原”白料与“小石原”赤料得以公运。

藩制下,釉法秘传乃陶山命脉。因近佐贺与武雄,有人称被邻山窑烧收买而传出椎の峯之秘釉法,目附得报,代官震怒而严鞫。连累者众,窑主、工匠乃至荒仕子(下手)皆被“处払い”。因此,五代中里太郎右工門与四代大岛彌兵衛被召至唐津“坊主町”藩窑。

安永五年丙申五月有记:“将太郎右工門、彌二兵衛自椎の峯山人别帐中除名”,或为自享保二年六十年后之执行。其时,椎の峯窑烧或散至他山或断绝,仅存彌右工門(中里系)与市兵卫(或小形系)二户。藩政不以利为先,专以道义是非决事;此与今世诸国只顾经贸算计者迥异,可见民族主张之一端。


【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditionalfrom Japanese]

回到主題。以往唐津燒多用含鐵量高之黏土。主要原料有:有浦村「牟形」之土(青小米白)、名護屋村「加部島」之土(白)、北波多村德須惠「稗田」之土(赤)、同「野村山彥」之土(白)、相知村牟田部「佐里」之土(白)、西唐津村之岩砂利(小米白)、同「神田西浦」之人形土(赤)等。

元和二年,南波多村「笠椎」發現低鐵良土,鄰地「椎の峯」製陶遂大盛。除既有登窯「多々良之上」外,新建「多々良之中」「多々良之下」二座,皆為二十間連房。至笠椎僅半里,運輸便捷。此黏土俗稱「殿様の土」,亦運至唐津藩窯,並禁亂採。

「椎の峯」今為南波多村一聚落。南波多於明治十一年十一月與波多津、黑川、大川同編入西松浦郡,悉為唐津領。古稱「古椎」,為波多氏家臣「椎の峯雅樂」居城之地。距商業中心伊萬里市場約一里,運輸便利,遂成唐津燒代表地,極盛時戶數逾三百五十。其為古窯地僅次「鬼子嶽」,尤以「鬼子嶽崩れ」後多陶工移入而進步,主要陶家有中里、大島、小形、福島、福本等。

寺澤氏治下優禮陶家。藩用五家各給一人扶持,歲借米三十俵,以燒物代納;並下付近地五十町山林供燃料。

高原五郎七嘗為秀吉聚樂邸御用陶師,大坂籠城時甚至創製木鐵砲。落城後之元和二年至筑前博多,依承天寺僧「登叔」,暫於當地製陶(亦有鞍手郡大鳴谷開窯之說)。以豐臣遺民之身,多所匿跡。

元和五年(1628)至「椎の峯」居七年。雖為避禍而隱,然其眷戀此地、指導陶工,扶植所謂「五郎七風」可想而知(俗稱「五郎八茶碗」或肇於此)。此處亦宜研習韓人直系陶技而匿名潛居。

三河內「今村三之亟」遠赴「椎の峯」求教,亦冀觀摩其優異風致。由「鬼子嶽崩れ」陶工所開「長葉山」之淵源觀之,其嚮往「椎の峯」亦屬當然。

自慶長至元和,關原敗殘與大坂遺臣多以五郎七為依,入此山間為陶工,與「鬼子嶽崩れ」浪士雜處而定居。邊地樸拙與都雅情趣交融,漸成獨創意匠。

元祿年間,唐津領主「土井周防守利益」赴長崎途中駐「椎の峯」,視察藩用五家:太郎右工門、彌次兵衛、嘉平次、作平、太左工門。惟太左工門無姓,賜「福本」。太郎右工門屬中里系,彌兵衛屬大島系,嘉平次與作平疑為小形或福島。受領主厚護、名工研鑽八十年後,此山終爆發「椎の峯崩れ」。

寬文三年(1663)曾遭大火,但另有一事從根本摧毀其業。「椎の峯崩れ」有二說,小松系圖亦謂在寬永年間。由於記述與年代互異,此處僅錄二案。

其一(元祿十年,1697):多數窯燒(即窯元)受伊萬里商人融資而到期不清,反與他商另締交易,且暗將多數窯貨外運。金主憤激,聯同井手野庄屋訴諸大川野代官所。查屬實,多數窯燒以「不埒」被處「處拂」,僅餘四五戶,極盛之業驟如熄火。

其二(享保二年,1717):胎土大同小異,然釉藥調製為陶家所最苦心,各山自有秘傳,原料採集亦多艱。維新前,知佐賀領「大川內山正力坊」之石入伊萬里「岩栗川」,遂夜越「池之峠」采石。為防洩露,不稱「正力坊」,而以「山伏」為代號;一旦敗露,鍋島領或嚴訊。或裝夜巡,拾石入魚籠。維新後解禁,大川內村「榎原」白料與「小石原」赤料得以公運。

藩制下,釉法秘傳為陶山命脈。近佐賀、武雄,據稱有人為鄰山窯燒收買而外泄椎の峯秘釉法;目附得報,代官震怒而嚴鞫。連累者眾,窯主、工匠乃至荒仕子(下手)皆被「處拂」。因此,五代中里太郎右工門與四代大島彌兵衛被召至唐津「坊主町」藩窯。

安永五年丙申五月記有:「自椎の峯山人別帳除太郎右工門、彌二兵衛」,或為自享保二年六十年後之執行。其時,椎の峯窯燒或散於他山或斷絕,僅存彌右工門(中里系)與市兵衛(或小形系)二戶。藩政不以利為先,專以道義是非決事;此與今世諸國唯事通商算計者迥異,可見民族一貫主張之一隅。


【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]

回到主题:唐津烧历来多用富铁粘土。主要原料包括:有浦村“牟形”的土(青小米白)、名护屋村“加部岛”的白土、北波多村德须惠“稗田”的赤土、野村山彥的白土、相知村牟田部“佐里”的白土、西唐津村的岩砂利(小米白),以及神田西浦的“人形土”(赤)等。

元和二年,南波多村“笠椎”发现低铁优质土,邻地“椎の峯”随即兴盛:在既有“多々良之上”登窑之外,新建“多々良之中”“多々良之下”,各为二十连房。笠椎仅半里之遥,运输便利;此土被称“殿様の土”,亦供唐津藩窑并禁乱采。

“椎の峯”今属南波多村。其古名“古椎”,为波多氏家臣“椎の峯雅楽”之居城。距伊万里市场约一里,运输便捷,成为唐津烧重镇,极盛时超三百五十户。其为古窑地仅次“鬼子嶽”,尤以“鬼子嶽崩れ”后多陶工迁入而大进;著名陶家有中里、Ō島、Ogata、福岛、福本。

在寺澤氏治下,陶家受优待:藩用五家给“一人扶持”,每年借米三十俵,以器物偿纳;并授五十町林地作燃料。

高原Goroshichi曾为Hideyoshi聚乐邸御用陶师,亦在大坂籠城时创木铁炮。落城后之元和二年来筑前博多,通过承天寺僧Tōshuku短期制陶(亦有鞍手郡大鸣谷开窑说)。作为丰臣遗臣,他行止低调。

元和五年(1628)至“椎の峯”,居七年;不惟避祸,亦眷恋此地、指导陶工,形成“Goroshichi调”(亦有“Gorohachi茶碗”起于此说)。此处亦适合潜习韩系陶技。

三河内Imamura Sannojo来访求教,并观其优良风格;与“长叶山”之渊源使其更向往“椎の峯”。

自庆长至元和,关原与大坂败残浪人寻之入山为陶工,与“鬼子嶽崩れ”浪士相杂,朴拙与都雅融合,成独创意匠。

元禄年间,唐津主Doi Suō-no-kami赴长崎途经“椎の峯”,察五家:Tarōemon、Yajibei、Kapeiji、Sakubei、Tasamon。以Tasamon无姓赐“福本”。其后八十年在庇护与研修中繁盛,终爆发“椎の峯崩れ”。

寛文三年(1663)曾大火;而后之案根本摧毁产业。两说并存(Komatsu系谱亦置于寛永)。此录二例:其一(元禄十年,1697)多窑元欠账并暗运窑货,商人诉至大川野代官,核实后多数被“处払い”,仅余四五户,产业骤落。其二(享保二年,1717)釉方为命脉,各山有秘传,采料艰难;维新前夜越“池之峠”取“大川内山正力坊”流石,代号“山伏”;维新后榎原白料与小石原赤料得以公运。

藩制下釉法为命;因近佐贺、武雄,被告称秘法外泄,代官严讯,连累窑主、工匠、荒仕子皆被逐。五代Nakazato Tarōemon与四代Ōshima Yahei遂调至唐津“坊主町”藩窑。安永五年有“自人别帐除名”之记。届时窑户散绝,仅余“彌右工門”(中里)与“市兵卫”(或小形)。此政不逐利而重是非,与今日唯算计之外交不同,可见民族一贯之主张。


【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]

回到主題:唐津燒歷來多用富鐵黏土。主要原料如有浦村「牟形」之土(青小米白)、名護屋村「加部島」白土、北波多村德須惠「稗田」赤土、野村山彥白土、相知村牟田部「佐里」白土、西唐津村岩砂利(小米白),及神田西浦「人形土」(赤)等。

元和二年南波多村「笠椎」得低鐵良土,鄰地「椎の峯」因之興盛:在既有「多々良之上」外,新築「多々良之中」「多々良之下」登窯,各二十連房。笠椎僅半里,運輸便捷;此土稱「殿様の土」,亦供唐津藩窯並禁亂採。

「椎の峯」今屬南波多村,古稱「古椎」,為波多氏家臣「椎の峯雅樂」之居城。距伊萬里市場約一里,運輸便捷,成為唐津燒重鎮,極盛逾三百五十戶。其為古窯地僅次「鬼子嶽」,尤以「鬼子嶽崩れ」後多陶工移入而大進;著名陶家有中里、Ō島、Ogata、福島、福本。

寺澤氏治下優待陶家:藩用五家給「一人扶持」,年借三十俵米,以器代納;並授五十町林地為燃料。

高原Goroshichi曾為Hideyoshi聚樂邸御用陶師,亦於大坂籠城時創木鐵砲。落城後元和二年至筑前博多,憑承天寺僧Tōshuku短期製陶(亦有鞍手郡大鳴谷說)。以豐臣遺臣之身,行跡低調。

元和五年(1628)至「椎の峯」居七年;除避禍外,亦眷戀此地、指導陶工,形成「Goroshichi調」(亦有「Gorohachi茶碗」肇於此說)。亦宜潛習韓系陶技。

三河內Imamura Sannojo來訪求教並觀優良風格;與「長葉山」淵源使其更嚮往「椎の峯」。

自慶長至元和,關原與大坂敗殘浪人尋之入山為陶工,與「鬼子嶽崩れ」浪士雜處。樸拙與都雅交融,遂成獨創意匠。

元祿間,唐津主Doi Suō-no-kami由長崎途經「椎の峯」,察五家:Tarōemon、Yajibei、Kapeiji、Sakubei、Tasamon。以Tasamon無姓賜「福本」。八十年庇護與研修後,終爆「椎の峯崩れ」。

寬文三年(1663)曾大火;其後之案根本摧毀。兩說並傳(Komatsu系譜亦置於寛永)。錄二例:其一(元祿十年,1697)多窯元欠帳暗運,被訴至大川野代官,多數「處拂」,僅餘四五戶。其二(享保二年,1717)釉方為命,各山秘傳,採料艱難;維新前夜越「池之峠」取「大川內山正力坊」流石,代號「山伏」;維新後「榎原」白料與「小石原」赤料得公運。

藩制下釉法為命;因近佐賀、武雄,被告秘法外泄,代官嚴鞫,連累窯主、工匠、荒仕子皆被逐。五代Nakazato Tarōemon與四代Ōshima Yahei乃調唐津「坊主町」藩窯。安永五年有「除名」記。時窯戶散絕,僅存「彌右工門」(中里)與「市兵衛」(或小形)。此政不逐利而重是非,異於今之算計外交,見民族一貫之主張。