【原文】[Original text]
陶磁器意匠傳習所
明治三十三年豊島政治は里見政七、中里利一、今村虎之助、中里巳午太等と計り、際費の補助を得て、陶磁器意匠傳習所を開設し、陶畫と製型の二實科を教科目とした。そし夏季休暇を利用して、東京より島田佳矣を、有田より徳見知敬を聘して、専ら圖案の改良を計り斯くて政治が所長となり、里見政七及古川又造が副所長であつた。其他中里巳午太、今村豊壽は畫風を敷へ、細工の教師には諸隈虎太郎、古川米之亟、池田直之助等があった。
福本の羅漢製作
此年﨟本源七は、群馬縣群馬郡寛田山長命寺の五百羅漢を製作した。(後年武藏國安樂寺の二十六羅漢を、又信濃國正安寺の五百羅漢を、又東京田畑興寺の弘法大師像を製作した)
佐世保市の献上品
明治三十三年五月十日 皇太子殿下御成婚の大典に際し、佐世保市より献納の高さ一尺八寸の透彫香爐壹對の製作を囑託され今村克郎之を謹製したのである。
今村六郎
明治三十四年戶鶴峯邸に於ける、御庭焼主任として、今村六郎が勤務することゝなつた。
中里己午太
明治三十九年工業補習學校を創立し、中里巳午太之を擔當することゝなつた。
三河内焼を英國皇族へ献ず
豊島政治は三河内陶器組合を代表し、接伴員なる宮中顧問官長崎省吾の手を経て、佐世保御来臨の、英國皇族アーサ・オフ・コンノート殿下へ花瓶三個を献上した。
明治四十年合會社が設立され、豊島政治社長となった。
三河内焼の生産と販賣
明治四十二年の統計に依れば、三河内山窯焼三十九戶、職工數男三百三十五人、女百七十五人であつた。そして天草石千斤代八園、三つ岳の網代千代拾圓、燃料木千斤代四圓、本焼窯數三十九間、赤繪窯數三十間、製産高拾壹萬參千五百餘圓、種類は花瓶、香爐、床置物、机飾器、茶器 酒器、食器、菓子器等にて販路は横濱、神戸、長崎等の外國向六〇%、東京大阪等の内地向四〇%であつた。
明治四十三年巨關の墓碑及遺骨を黒髪山より當山に移し、三之亟及如猿と共に三代を、同所に奉祀したのである。
松浦邸へ皇太子殿下御成
明治四十四年六月一日 皇太子殿下、東京淺草の松浦邸に御成遊ばされ玉ふや、伯爵厚(三十二代)は深く之を光榮として、三河内焼の香爐を献上したのである。
大正六年松浦厚は、山民の請により、三皿山開窯記念の銘を撰し、同七年三月には、又開窯三百年記念碑の題を揮毫し、かくて兩記念碑は、美ごとに釜山神祠の傍に建立されたのである。
工業補習學校
大正七年工業補習校を陶磁器徒弟養成所と改称すると共に、學制に改革を加へ爾來徒弟養成の實蹟を向上するに至った。
豊島政治卒す
大正八年五月三十一日豊島政治六十九才を以て卒去した。實に明治時代の三河内窯業は、活躍せし彼氏の努力に負ふさころ少からざりしこさを特筆すべきであらう。彼は此繁忙の間にあつて、獪村會及郡會の議員として、地方自治に貢献するところあつた。
現今の徒弟養成所
其後の子弟養成所は、所長山田祐士が、積極的經營の施設に腐心して彌々其効果を繋げ、大正十二年四月より、釆女甚一を主任として教習せしむること成った。此間陶書及成形に優秀なる工人の多數を出し、以て平戸焼技術の中心機關たらしめたのである。現所長は折尾村長迎顕義にて、技術職員二名を置き、本科生十七名、別科生三十七名、研究科生十二名を収容し、上波佐見に於ける長崎縣窯業指導所と連絡を保つてゐる。
由此地創作の名手に乏しからず、明治三年今村喜八郎は磁器白蠟を創作し、同十七年藤本恒太郎は磁器碁石を創作し、同二十年には藤本熊次郎同源吉磁器義齒を創作したのである。尚此處の名工と稱すべき陶家に左の如き人々がある。
三河内の名工
今村利右工門
元治元年七月二十七日卒三河内風花鳥繪の名工である。
中里丑太郎
文久二年六月十七日卒、三十二才轆轤薄手の名工にて、其紙の如き細工は糸底に至る迄厚薄なく驚く可き技術を残してゐる。
今村幾三郎
明治七年十二月十三日卒藩窯松唐子の名工である。
今村良作
明治十年舊五月十二日卒、四十八才彫刻細工物の名工である。
古川正作
明治二十一年六月二十一日卒七十五才轆轤細工の名工にて、薄手にて筆の長軸を製作せしものである。
口石丈之助
明治三十五年二月六日卒六十九才明治十五年頃より、一意専心香爐等の透彫を研究し、同十七年頃に及んで逸品を製作せるが、其技頗る精巧を極めてゐる。
今村六郎
明治三十八年一月九日卒、七十二才前記今村利右工門の門下にて、藩主より表猿の號を興へらる、三河内風龍虎模様を善くし、彫刻の名工であつた。
三河内現代の名工
現代の名工には中里巳午太がある、彼は中里分家八代の孫庄之助の長男にて田中南門に入って陶畫を學び、會て明治四十四年松浦伯より三猿の號を授かつてゐる。今村豊壽は、如猿の次子岸九郎より分家せし長兵衛の孫にて、通稱を十代次と云ひ、藩の御用畫師片山舟水に學び、豊壽齋長之と號して繪畫専門の工人である。
池田直之助は、如猿の婿傳九郎の裔孫にて、轆轤上に於ける小間物細工は、當代並ぶ者なき名工である。口石大八は、沈之助の孫にて近太郎の男である。彼は透彫の技巧に於いて第一人者といはれてゐる。
陽山の宮内省御用達
中里陽山は、通稱助十と云ひ、窯技は勿論繪畫や彫刻に堪能なることは既に定評があり、昭和三年十月二十三日宮内省御用達を拝命したのである。
其他口石嘉五郎、今村啓一郎等流石に此處は高級品製造して名陶工が少ない。 此地好況時の頃は戸數三百を越え、年産額三十萬圓を擧げしも、其後不況の爲め百二十戸に減じ、近來又二百戸に復興せし稱せらる。現在窯燒四十戶、職工四百人、年產額十萬圓除であらう。
木原山
之より木原山の沿革を記述せんに、此の発祥は隣地吉の元(同じ折尾瀬村)より移轉せしものゝ如く、而して吉の元を述べんとせば、又佐賀藩領なる伊萬里系の原明より筆を起さゞるを得ない。尤も折尾瀬鄉人中には、平戸の中野よりりし巨闘が、最初吉の元に開窯して一面原明に分窯され、そして柳の元より木原へ展開せしの説をなす者少からざるも之は平戸領と巨關の功績念のみに捉ばれたる考察にはあらざるか。
原明と吉の元との考察
而して吉の元窯の作風が、僅に數丁を隔てし原明窯と同一なりとせば、平戸系よりも、古き南川原系の原明より分窯せしと見ることが、地理的にも安當であらう。當時既に開窯されし吉の元へ、巨關は臨時的試燒に来りしもの如く、又彼の小山田佐平の如きも、椎の峯より此處に来て製陶したのである。要するに多くの製陶者が、此吉の元一帯の山林を探伐し、而して共缺乏を見るや、漸時木原方面の奥地へ轉せしものを観るべきであらう。
木原の古文書に、左の如きものがある。
吉の元燒立候折山の神と取立二月十五日十一月十五日年二度肥前(同じ肥前國内ながら平戸や大村藩民の言ふ佐賀藩領のこと)原明彌大峯は坊石千新院兩度を祓致木原山の神を吉の元より其神引移し嘉永年迄仙境院山祭りに御出ありき云々
右の文書に依るも原明と、吉の元及び木原山とは舊來より密接なる關係ありしことが察せらる。抑原明は、今の西松浦郡曲川村の大字村落にて、戸數五十餘ある舊佐賀藩領である。此處は有田驛より一里の行程であり、そして該村の南端に長崎縣との境界標ありて、吉の元と堺を接してゐる。
原明の窯の谷
此の鐵道線路の東、二三丁を隔てし山邊なる堤の上に、窯の谷と稱するのが即ち原明窯にて、此處にビク屋敷などありしといふは、小溝窯の分系らしく(ビクのこと伊萬里系小溝窯記事参照)此窯は明治中年頃まで、小形にて四十間餘登り居しが、今は全く取崩されて、大部分開墾地成つてゐる。
此處の古窯品は、飴色釉や灰色釉及び鶯色釉なごの溝縁、丸、緑淵等の四つ目積小皿が多く、或は淡緑釉にて蛇の目積の大皿もある。又天目釉の茶碗類あるも、何れも少さき無釉高臺にて、中に鐡釉にて粗雑な文様を施せるは、全く吉の元と同作風である。又後年には麁製磁器が焼かれ、皿類が何れも蛇の目積であることは、小溝と同式である。
【現代語訳】[Modern Japanese translation]
明治三十三年、豊島政治は里見政七・中里利一・今村虎之助・中里巳午太らと協議し、補助金を得て「陶磁器意匠傳習所」を開設した。教科は陶画と製型の二つ。夏季には東京の島田佳矣と有田の徳見知敬を招き、図案改良を徹底。政治が所長、里見政七と古川又造が副所長となり、中里巳午太・今村豊壽が画風指導、諸隈虎太郎・古川米之亟・池田直之助らが細工を教えた。
同年、福本源七は群馬・寛田山長命寺の五百羅漢を制作(のち武蔵国安樂寺二十六羅漢、信濃国正安寺五百羅漢、東京田畑興寺の弘法大師像も手掛ける)。
明治三十三年五月十日、皇太子御成婚の大典で佐世保市が献納する一尺八寸の透彫香炉一対を今村克郎が謹製した。
明治三十四年、戸鶴峯邸の御庭焼主任に今村六郎が就いた。明治三十九年には工業補習学校が創立され、中里巳午太が担当となる。豊島政治は三河内陶器組合を代表し、宮中顧問官長崎省吾の斡旋で、佐世保に来訪の英國皇族アーサ・オブ・コンノート殿下へ花瓶三個を献上。明治四十年には合會社を設立し、政治が社長に就任した。
統計によれば明治四十二年、三河内山の窯焼は三十九戸、職工は男三三五人・女一七五人。原料は天草石千斤八円、三つ岳の網代千斤十円、燃料木千斤四円。本焼窯三十九間、赤絵窯三十間。生産高は十一万三千五百余円。花瓶・香炉・床置物・机飾器・茶器・酒器・食器・菓子器などを製し、販路は海外向(横浜・神戸・長崎経由)六〇%、内地向(東京・大阪など)四〇%。明治四十三年には巨關の墓碑と遺骨を黒髪山から当山に移し、三之亟・如猿とともに三代を同所に祀った。
明治四十四年六月一日、皇太子が東京浅草の松浦邸に行幸。伯爵厚(三十二代)は栄誉として三河内焼の香炉を献上。大正六年に松浦厚は三皿山開窯記念の銘を撰し、翌七年三月には開窯三百年記念碑の題を揮毫。二碑は釜山神祠の傍らに建立された。
大正七年、工業補習校は「陶磁器徒弟養成所」と改称し、学制改革で養成の実績が向上。大正八年五月三十一日、豊島政治(六十九歳)逝去。明治期の三河内窯業の発展は、彼の尽力によるところが大きく、在職の合間には区村会・郡会議員として地方自治にも貢献した。
以後、所長山田祐士が積極的に運営を整え、大正十二年四月から采女甚一を主任に据えて教授。陶描・成形に優れた工人を多数輩出し、平戸焼技術の中核機関となった。現所長は折尾村長の迎顕義。技術職員二名、本科十七名、別科三十七名、研究科十二名を擁し、上波佐見の長崎県窯業指導所と連携する。創作でも、明治三年今村喜八郎が磁器白蝋、十七年藤本恒太郎が磁器碁石、二十年藤本熊次郎・源吉が磁器義歯を考案した。
名工として、今村利右工門(元治元年七月二十七日没・三河内風花鳥絵)、中里丑太郎(文久二年六月十七日没・三十二歳・轆轤薄手、糸底まで均質の薄作り)、今村幾三郎(明治七年十二月十三日没・藩窯松唐子)、今村良作(明治十年旧五月十二日没・四十八歳・彫刻細工)、古川正作(明治二十一年六月二十一日没・七十五歳・轆轤細工、薄手の筆長軸)、口石丈之助(明治三十五年二月六日没・六十九歳・香炉透彫の逸品)らが挙げられる。
今村六郎(明治三十八年一月九日没・七十二歳)は今村利右工門門下で、藩主から表猿の号を賜り、三河内風の龍虎文様と彫刻に秀でた。現代の名工には中里巳午太(中里分家八代孫・田中南門に学び、明治四十四年松浦伯より三猿の号)、今村豊壽(如猿の次子岸九郎の分家・長兵衛の孫、通称十代次、片山舟水に学ぶ。号は豊壽齋長之)、池田直之助(如猿の婿傳九郎の裔孫・小間物の轆轤細工で第一人者)、口石大八(沈之助の孫・近太郎の子・透彫の名手)がいる。
中里陽山(通称助十)は窯技・絵画・彫刻に秀で、昭和三年十月二十三日に宮内省御用達を拝命。口石嘉五郎・今村啓一郎らも名が挙がる。好況時は戸数三百超・年産三十万円、のち不況で百二十戸に減少、近年二百戸に復興。現在は窯焼四十戸・職工四百人・年産十万円余とされる。
木原山の沿革は、隣の吉の元(折尾瀬村)から移ったものと見え、吉の元を説くには佐賀藩領の伊萬里系・原明から述べねばならない。折尾瀬郷の一部には「平戸中野から来た巨闘が最初に吉の元で開窯し、原明へ分窯、さらに柳の元から木原へ展開」との説もあるが、平戸領と巨關の功績に偏した見方ではなかろうか。
吉の元窯の作風が、数丁隔てた原明窯と同一なら、平戸系より古い南川原系の原明から分窯したと見るのが地理的にも妥当。巨關は既に開窯していた吉の元へ臨時に試焼に来たらしい。小山田佐平も椎の峯から来住して製陶に従事。多くの陶工が吉の元一帯の山林を伐採し、資源が乏しくなると木原の奥地へと移っていった。
木原の古文書には「吉の元焼立の折、山の神を立て、二月十五日・十一月十五日の二度、肥前原明彌大峯は坊石千新院で祓い、木原山の神を吉の元から遷し、嘉永年まで仙境院の山祭に出仕した」旨が見える。これにより原明・吉の元・木原山の密接な関係が窺える。原明は西松浦郡曲川村の大字で、旧佐賀藩領。有田驛から一里、村の南端に長崎県境の標があり、吉の元と接している。
鉄道線路の東、二三丁の山辺の堤上に「窯の谷」と称する原明窯跡があり、かつてビク屋敷もあったという(小溝窯の分系らしい)。明治中期まで小形の四十間余の登り窯があったが、今は崩され大半が開墾地。古窯品は飴釉・灰釉・鶯釉の溝縁小皿、淡緑釉の蛇の目積の大皿、天目釉の茶碗類など。小さな無釉高台に鉄釉で粗文を施す作は吉の元と同系で、のちには粗製磁器も焼かれ、皿類は小溝と同様に蛇の目積である。
【英語訳】[English translation]
In 1900 (Meiji 33) Toyoshima Masatsugu, with Satomi Masashichi, Nakazato Riichi, Imamura Toranosuke, and Nakazato Migota, opened the “Ceramic Design Training Institute,” funded by subsidies. It taught two tracks—ceramic painting and mold-making. During summer, Shimada Kei from Tokyo and Tokumi Tomoyuki from Arita were invited to reform patterns. Toyoshima served as director; Satomi and Furukawa Matazō as vice directors. Nakazato Migota and Imamura Toyotoshi led painting; Morokuma Kotarō, Furukawa Yone-no-jō, and Ikeda Naonosuke taught fabrication.
That year Fukumoto Genshichi produced the Five Hundred Arhats for Chōmei-ji at Kandayama, Gunma (later also the Twenty-Six Arhats at Anraku-ji in Musashi, the Five Hundred at Shōan-ji in Shinano, and a Kōbō Daishi statue for Tabata Kōji in Tokyo). On May 10, 1900, for the Crown Prince’s wedding rites, Sasebo City commissioned Imamura Katsurō to craft a pair of openwork censers, each 1 shaku 8 sun high.
In 1901, Imamura Rokurō became on-site chief for garden wares at the Totsurugamine residence. In 1906, an Industrial Supplementary School was founded with Nakazato Migota in charge. Representing the Mikawachi Pottery Association, Toyoshima presented three vases to HRH Arthur of Connaught during his Sasebo visit, via court adviser Nagasaki Shōgo; in 1907 a joint-stock company was organized with Toyoshima as president.
By 1909, Mikawachi had 39 kilns, 335 male and 175 female workers; costs ran ~¥8 per 1,000 kin of Amakusa stone, ¥10 for Ajiro from Mitsudake, and ¥4 for fuelwood. There were 39 main kilns and 30 enamel kilns; output topped ¥113,500. Product lines—vases, censers, floor ornaments, desk pieces, tea and sake wares, table- and confectionery-wares—sold 60% abroad (via Yokohama, Kobe, Nagasaki) and 40% domestically (Tokyo, Osaka). In 1910, Gokan’s stele and remains were moved from Kurokami-yama and enshrined with Sannojo and Nyoen.
On June 1, 1911, the Crown Prince visited Count Matsuura’s Asakusa residence; Count Atsushi (32nd lord) presented Mikawachi censers. In 1917 he composed an inscription for the Sansarayama kiln-opening memorial; in March 1918 he brushed the title for the 300th-anniversary monument—both erected beside the Kamayama Shrine.
In 1918 the school was renamed the “Ceramic Apprentice Training Institute” and reformed; outcomes improved. Toyoshima Masatsugu died May 31, 1919 (age 69). Meiji-era Mikawachi owed much to his labors; he also served in local assemblies.
Afterward, director Yamada Yūshi advanced operations; from April 1923 Uneme Jin’ichi headed instruction, producing many outstanding decorators and throwers and making the institute a technical hub. The current head is Oriovillage mayor Mukae Akiyoshi; staff: 2 technicians; students: 17 main, 37 special, 12 research; liaison with the Nagasaki Ceramic Guidance Office at Kami-Hasami. Notable inventions include porcelain wax (Imamura Kihachirō, 1870), porcelain go-stones (Fujimoto Tsunetarō, 1884), and porcelain dentures (Fujimoto Kumajirō and Genkichi, 1887).
Masters include Imamura Riemon (d. 1864; Mikawachi-style birds-and-flowers), Nakazato Ushitārō (d. 1862, age 32; ultra-thin wheel work with even foot-rims), Imamura Ikusaburō (d. 1874; Matsukarako specialist), Imamura Ryōsaku (d. 1877, 48; carved works), Furukawa Shōsaku (d. 1888, 75; wheel work; long brush shafts in thin porcelain), and Kuchiishi Jōnosuke (d. 1902, 69; superb openwork censers).
Imamura Rokurō (d. 1905, 72), a disciple of Riemon, was titled “Omotesaru” by the lord and excelled in dragon-and-tiger motifs and carving. Contemporary masters: Nakazato Migota (descendant of the 8th branch; student of Tanaka Nanmon; granted the art name “Three Monkeys” in 1911), Imamura Toyotoshi (grandson of Chōbei of the Imamura branch from Nyoen’s son Kishikurō; styled Toyojusai Chōshi; painter), Ikeda Naonosuke (descendant of Nyoen’s son-in-law Denkurō; peerless small wheel work), and Kuchiishi Daihachi (grandson of Shinnosuke; son of Kintarō; foremost in openwork).
Nakazato Yōzan (aka Sukejū) was renowned across throwing, painting, and carving; on Oct 23, 1928 he was appointed Purveyor to the Imperial Household Ministry. Others include Kuchiishi Kagorō and Imamura Keiichirō. In boom times households exceeded 300 with ¥300,000 output; later slumps cut to 120, then rebounded to ~200. Today: ~40 kiln households, 400 workers, output ~¥100,000.
As for Kihara-yama: its origins appear to derive from neighboring Yoshinokoto (Oriose village). To describe Yoshinokoto requires touching on Haraake of the Imari line under Saga domain. Some locals claim a master, Kyotō, came from Nakano in Hirado, opened Yoshinokoto, branched to Haraake, and expanded from Yanaginokoto to Kihara—but that may over-credit Hirado and Gokan.
If Yoshinokoto ware matches Haraake just a few chō away, it is geographically sound to see it as a branch of the older Minamikawara-line Haraake rather than Hirado. Gokan likely came for trial firings after Yoshinokoto was already active; Oyamada Sahei likewise moved from Shi-no-Mine. Many potters logged Yoshinokoto’s hills, and when resources waned they shifted deeper into Kihara.
A Kihara document notes biannual mountain-god rites (2/15 and 11/15), purifications at Bōseki and Chishin-in for Haraake Yadaimine, and transfer of Kihara’s tutelary from Yoshinokoto; until the Kaei era the deity attended Sengen-in’s mountain festival. This shows the close ties among Haraake, Yoshinokoto, and Kihara. Haraake—today in Magarikawa, Nishimatsuura—lay one ri from Arita Station; its south end met Nagasaki Prefecture at the Yoshinokoto boundary.
East of the rail line, atop a banked slope, lay “Kiln Valley,” the Haraake kiln site—once including a “Biku residence,” likely a branch of Komizo kiln. A small 40-ken climbing kiln stood until mid-Meiji; it is now razed and largely fields. Finds include channel-rim small plates in amber, gray, and warbler glazes; large ring-footed dishes in pale green with “snake’s-eye” stacking; and tenmoku bowls, all with small unglazed feet and coarse iron-painted motifs, akin to Yoshinokoto. Later, rough porcelains were fired; plates used the same snake’s-eye stacking as Komizo.
【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]
1900年,豊島政治与里见政七、中里利一、今村虎之助、中里巳午太等创设“陶瓷意匠传习所”,科目为陶画与制型。夏季聘东京的岛田佳矣、有田的德见知敬改良图案;政治任所长,里见政七与古川又造为副所长,中里巳午太、今村丰寿主画风,诸隈虎太郎、古川米之亟、池田直之助授细工。
同年福本源七制群马寛田山长命寺“五百罗汉”(后又作武藏安乐寺二十六罗汉、信浓正安寺五百罗汉与东京田畑兴寺弘法大師像)。5月10日,今村克郎为皇太子成婚奉献制作一对高一尺八寸的透雕香炉。
1901年今村六郎任户鹤峯邸御庭烧主任。1906年设工业补习学校,由中里巳午太负责。豊島政治代表三河内陶器组合,经宫中顾问官长崎省吾转呈,向来佐世保的英国皇族Arthur of Connaught献花瓶三只;1907年设合会社,政治任社长。
1909年:窑烧39户,男工335、女工175;天草石千斤8円、三ツ岳网代千斤10円、薪木千斤4円;本烧窑39、赤绘窑30;产值11万3千5百余円。品类有花瓶、香炉、床置、桌饰、茶酒具、餐具、点心器;销路海外60%(横滨、神户、长崎)、内地40%(东京、大阪)。1910年迁巨關碑与遗骨至当山,与三之亟、如猿同祀。
1911年6月1日皇太子临松浦邸(浅草),伯爵厚献三河内香炉。1917年撰“三皿山开窑纪念”铭,1918年书“开窑三百年纪念碑”题,二碑立于釜山神祠侧。
1918年校改称“陶瓷徒弟养成所”,学制革新。1919年5月31日豊島政治卒(69岁),其功对明治期三河内窑业尤著,并任区村会、郡会议员。
其后所长山田祐士整备运营,自1923年4月采女甚一为主任,育成多名优秀绘工与成形工,成平户烧技术中枢。现所长迎顕義(折尾村长),技师2名;本科17、别科37、研究科12;与上波佐见之长崎县窑业指导所联络。创作方面:明治3年今村喜八郎作瓷用白蜡,17年藤本恒太郎作瓷围棋子,20年藤本熊次郎・源吉作瓷义齿。
名工:今村利右工门(花鸟绘)、中里丑太郎(32岁殁,轆轤薄胎,糸底亦匀)、今村幾三郎(藩窑松唐子)、今村良作(雕刻)、古川正作(轆轤,薄胎长轴笔)、口石丈之助(香炉透雕)。今村六郎(表猿之号)善龙虎与雕。现代表:中里巳午太(获“三猿”号)、今村丰寿(号豊寿斋长之)、池田直之助(小件轆轤第一人者)、口石大八(透雕名手)。
中里阳山(助十)兼善窑技与绘雕,1928年10月23日奉为宫内省御用达。尚有口石嘉五郎、今村启一郎。盛时户数300余、年产30万圆;后衰至120户,近复至200户。今约窑烧40户、工人400、年产10万圆。
木原山之源自邻地“吉の元”(折尾瀬村)。论“吉の元”必及佐贺藩伊万里系“原明”。土人有说:平户中野来之巨闘首开吉の元、分窑原明、复自柳の元展至木原,然或偏重平户与巨關之功。
若吉の元作风与仅数町之原明同,则从古之南川原系原明分窑较合地理。巨關当为既成之吉の元赴试烧者;小山田佐平亦自椎の峯来。众陶工伐吉の元山林,资源乏则转入木原腹地。
古文书载:吉の元烧立时立山神,二月十五日与十一月十五日两祭;原明彌大峯在坊石・千新院行祓;木原山之神自吉の元迁,至嘉永年仍出仕仙境院山祭。是原明・吉の元・木原山关系之证。原明在西松浦郡曲川村,距有田驿一里,南端接长崎界与吉の元相邻。
铁路以东山堤上为“窑之谷”即原明窑址,曾有“ビク屋敷”(似小溝窑分系)。至明治中期尚存小型四十间登窑,今废为垦地。出土有飴・灰・鶯釉沟缘小皿、淡绿釉蛇目积大皿、天目碗;皆小无釉高台、内以铁釉粗绘,作风与吉の元同。后亦烧粗瓷,皿类皆用蛇目积,与小溝同式。
【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditionalfrom Japanese]
1900年,豊島政治聯同里見政七、中里利一、今村虎之助、中里巳午太設立「陶瓷意匠傳習所」,課程為陶畫與製型。夏季延聘東京島田佳矣、有田德見知敬改良圖案;政治為所長,里見政七與古川又造為副所長,中里巳午太、今村豐壽授畫風,諸隈虎太郎、古川米之亟、池田直之助授細工。
同年福本源七作群馬寛田山長命寺「五百羅漢」(後又作武藏安樂寺二十六羅漢、信濃正安寺五百羅漢、東京田畑興寺弘法大師)。5月10日今村克郎為皇太子成婚奉製一對高一尺八寸之透雕香爐。
1901年今村六郎任戶鶴峯邸御庭燒主任。1906年創工業補習學校,由中里巳午太掌理。豊島政治代表三河內陶器組合,由宮中顧問官長崎省吾轉呈,向英國皇族Arthur of Connaught獻花瓶三只;1907年設合會社,政治任社長。
1909年:窯燒39戶,男工335、女工175;天草石千斤8圓、三ツ岳網代千斤10圓、薪木千斤4圓;本燒窯39、赤繪窯30;產值113,500餘圓。品類:花瓶、香爐、床置、桌飾、茶酒具、餐具、菓子器;外銷60%(橫濱、神戶、長崎),內銷40%(東京、大阪)。1910年遷巨關碑與遺骨至當山,與三之亟、如猿同祀。
1911年6月1日皇太子臨松浦邸(淺草),伯爵厚獻三河內香爐。1917年撰「三皿山開窯紀念」銘,1918年書「開窯三百年紀念碑」題,二碑立於釜山神祠側。
1918年校改稱「陶瓷徒弟養成所」,學制革新。1919年5月31日豊島政治卒(69歲),其於明治期三河內窯業之功卓著,亦任區村會、郡會議員。
其後山田祐士整備營運,自1923年4月采女甚一為主任,育成多名優秀畫工與成形工,成平戶燒技術樞紐。現所長迎顯義(折尾村長),技師2名;本科17、別科37、研究科12;與上波佐見之長崎縣窯業指導所連繫。創作:明治3年今村喜八郎作瓷用白蠟,17年藤本恒太郎作瓷碁石,20年藤本熊次郎・源吉作瓷義齒。
名工:今村利右工門(花鳥繪)、中里丑太郎(32歲殁,轆轤薄胎,糸底亦勻)、今村幾三郎(藩窯松唐子)、今村良作(雕刻)、古川正作(轆轤,薄胎長軸筆)、口石丈之助(香爐透雕)。今村六郎(表猿之號)善龍虎與雕。當代名手:中里巳午太(授「三猿」號)、今村豐壽(號豐壽齋長之)、池田直之助(小件轆轤第一人)、口石大八(透雕名家)。
中里陽山(助十)兼擅窯技、繪、雕,1928年10月23日奉為宮內省御用達。又有口石嘉五郎、今村啓一郎。盛時戶數300餘、年產30萬圓;後衰至120戶,近復至200戶。今約窯燒40戶、工人400、年產10萬圓餘。
木原山源自鄰地「吉の元」(折尾瀬村)。論「吉の元」必及佐賀藩伊萬里系「原明」。土人或稱:平戶中野來之巨闘先開吉の元,分窯原明,復自柳の元展至木原,然此說或偏重平戶與巨關之功。
若吉の元作風與僅數町之原明相同,則視為源自古之南川原系原明較合地理。巨關當為既開之吉の元赴試燒;小山田佐平亦自椎の峯來。多數陶工伐吉の元山林,資源乏則轉入木原內陸。
古文書載吉の元歲二祭,於坊石・千新院祓行;自吉の元遷木原山之神,至嘉永仍赴仙境院山祭。是原明・吉の元・木原山之密契。原明在西松浦郡曲川村,距有田驛一里,南界接長崎與吉の元。東側堤上之「窯之谷」即原明窯址,曾有「ビク屋敷」(似小溝窯分系);明治中期尚存小型四十間登窯,今為墾地。出土飴・灰・鶯釉溝緣小皿、淡綠釉蛇目積大皿、天目碗,小無釉高臺、鐵釉粗文,與吉の元同系;後亦燒粗瓷,皿類蛇目積如小溝。
【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]
1900年,豊島政治等设“陶瓷设计传习所”,两科:陶绘与制模;夏季邀东京岛田佳矣与有田德见知敬改良图案。所长:豊島;副所长:里见政七、古川又造;讲师含中里巳午太、今村丰寿、诸隈虎太郎、古川米之亟、池田直之助。
福本源七同年作群马长命寺五百罗汉(后又作多处罗汉与弘法大師像)。5月10日今村克郎制一对透雕香炉献庆。1901年今村六郎任御庭烧主任;1906年设工业补习校;豊島向Arthur of Connaught献三花瓶;1907年组建合会社。
1909年:窑39、工男335女175;天草8円/千斤、网代10円/千斤、薪4円/千斤;本烧39、赤绘30;产值11.35万圆;外销60%、内销40%。1910年迁巨關碑骨,与三之亟、如猿同祀。1911年太子访松浦邸,献三河内香炉;1917–18年两碑立于釜山神祠侧。
1918年改称“陶瓷徒弟养成所”;1919年豊島卒。其后联络上波佐见指导所,师生规模与成果俱进;并有白蜡、瓷围棋子、瓷义齿等发明。名工列传与当代名手(中里巳午太、今村丰寿、池田直之助、口石大八等)相继。中里阳山1928年获宫内省御用达。景气时>300户、年产30万圆;后降至120,再复约200;今约40户、400人、年产10万圆。
木原山源流见吉の元与原明:从地理与作风看,更可能自南川原系原明分窑而来;巨關与小山田佐平多为赴试烧与移住。古文书与遗址(“窑之谷”等)证实原明—吉の元—木原山之联系;器物风格与小溝窑一致的“蛇目积”等亦可见。
【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]
1900年,豊島政治等設「陶瓷設計傳習所」,教授陶繪與製模;夏季延聘東京島田佳矣、有田德見知敬。所長豊島,副所長里見政七與古川又造;授課並及中里巳午太、今村豐壽、諸隈虎太郎、古川米之亟、池田直之助。
福本源七同年作群馬長命寺五百羅漢(後亦作諸寺羅漢與弘法大師像)。5月10日今村克郎製透雕香爐一對獻禮。1901年今村六郎任御庭燒主任;1906年工業補習校;豊島向Arthur of Connaught獻三花瓶;1907年組合會社。
1909年:窯39、男工335女工175;天草8圓/千斤、網代10圓/千斤、薪4圓/千斤;本燒39、赤繪30;產值11.35萬圓;外銷60%、內銷40%。1910年遷巨關碑骨,同祀三之亟、如猿。1911年太子訪松浦邸,獻三河內香爐;1917–18年兩碑立於釜山神祠側。
1918年改稱「陶瓷徒弟養成所」;1919年豊島卒。其後與上波佐見指導所連繫,規模與成果俱進;並有白蠟、瓷圍棋子、瓷義齒等創製。名工列傳與當代名手(中里巳午太、今村豐壽、池田直之助、口石大八等)遞出。中里陽山1928年授宮內省御用達。景氣時逾300戶、年產30萬圓;後降至120,再復約200;今約40戶、400人、年產10萬圓。
木原山之淵源見吉の元與原明:從地理與作風觀之,較可能由南川原系原明分窯;巨關與小山田佐平多為試燒與移住。古文書與遺址(「窯之谷」等)證實原明—吉の元—木原山之聯繫;器物風格與小溝窯一致之「蛇目積」亦可見。

