【原文】[Original text]
天草石の産地
天草磁石は、石英粗面岩の分解せしものに、此地下島の北西部なる高濱、小田床、下津深江、都呂々の四ヶ村に亘る海濱地域に多く産出し、其他東南部の諸處にも發見されゐるも、現在の採掘地は前記の四ヶ處である。元祿年高濱村なる上田家三代の祖傳右工門が、同村鷹の巣に於いて始て之を發見し、砥石や硯なごの原料に切りて販賣しつゝあるうちに、前記の如く天然の單味磁器料として見出されたのである。
天草石の耐火度(焼成器にあらず)は、品質に依って異なるものあるが、まづゼーゲル錐の十七番乃至二十九番(攝氏千四百八十度より千六百五十度)を上下してゐる、該石は又水簸に依って珪酸分が減少するものにて、其水物の化學成分につき、工學博士北村彌一郎の調査せる分析表を例示すれば左の如し。
天草石の分析表
第一類分析表
珪酸 78.94
礬土 14.07
酸化鐵 0.44
石灰 0.18
苦土 0.17
加里 3.12
曹達 0.62
灼熟减量 2.59
第二類分析表
珪酸 79.34
礬土 13.82
酸化鐵 0.54
石灰 0.68
苦土 0.23
加里 3.63
曹達 0.51
灼熟减量 2.24
第三類分折表
珪酸 81.43
礬土 12.23
酸化鐵 0.98
石灰 0.39
苦土 0.22
加里 0.98
曹達 1.35
灼熟减量 2.62
第四類分析表
珪酸 75.22
礬土 15.46
酸化鐵 0.59
石灰 0.22
苦土 痕跡
加里 3.27
曹達 2.19
灼熟减量 3.39
第五類分析表
珪酸 76.46
礬土 15.90
酸化鐵 0.48
石灰 0.18
苦土 0.22
加里 2.79
曹達 1.48
灼熟减量 1.74
天草焼
而して原産地に於いて其磁器の原料石なる事を知りしは、上田家六代傳兵衛が、江戸の本草家平賀鳩溪(高松の人、源內國倫、字は士彝別號風來山人、福内鬼外、安永八年十二月十八日卒(1779年)、五十一才、贈從五位)より教はりしものにて、寶曆十二年八月(1762年)肥前より山路幸右エ門を招きて製法を習ひ、高濱村の庄屋傳五右エ門始めて磁器を製作した。
明和八年五月(1771年)前記の平賀鳩溪は、天草焼の製器甚拙なりし、自ら下津深江に来つて改良の製礎を起すべく、時の天草代官楫斐十太夫に、陶器工夫書なる願書を差出した。共文左の如くである。
平賀源内の工夫書
一陶器土
右之土天下無双の上品に御座候今利(伊萬里のこと)焼唐津焼平戸焼等皆々此土を取越候其内今利唐津は日本國中砦く行渡り唐人阿蘭陀人も相調候由平戸焼は御献上に相成候故御領主より厳重被仰付自由に賣買相成不申買仕候はゞ阿蘭陀人も大いに望可申由に御座候
一天草にても近年高濱村庄屋傳五右エ門と申者焼覺候得共細工人不宜候故器物下品に御座候私存付候は天草か長崎にて功勞ある職人を呼集器物の恰好繪の模様等差圖仕唐阿蘭陀の物好に合候様に工夫仕候て段々職人共を仕込候はゞ元来土は無類之上品に御座候得ば随分上焼物出來可仕奉存候焼物の儀荒方鍛練仕罷在候其上先年讚岐に而私取立候職人共之內器用なる者共御座候得ば右體の者共呼寄外國より相渡り候陶器手本に仕り工夫を加へ候はゞ随分宜焼物出來可仕候平戸焼など随分奇麗には御座候へ共未だ俗を離れ不申候今利唐津は勿論之儀に御座候今少し事に而風雅に相成候得共片田舎の職人共故古より致來り候を漸時覺候迄に而新に工夫所へは不參譬唐物阿蘭陀物を傍に置寫候而も心に風流無御座候故自然と下品に相成候畢竟天草之焼物土は南京焼阿蘭陀之土よりも抜群宜御座候得共形不風流に御座候故日本人は外國物を重寳仕高價を出候若日本之陶器外國に勝れ候得ば自然と日本物に而事足り候尤近きを賤み遠きを尊び候は常之人情に御座候得共既に刀脇差又は蒔繪物之類日本が萬国に勝れ宜御座候故日本物にて事濟候陶器も日本製宜さへ御座候得ば自然と我国之物を重寳仕外国陶器に金銀を費し不申却而唐人阿蘭陀人共も調歸候様に相成候得ば永代の御國益に御座候元來土に而御座候故いか程遣はし候而も跡の減候氣遣も無御座候ケ様之事は甚廻り遠き様なる事故表立押而而は難申上御座候得共成就仕候得ば内々に而天草へ參様子次第に而心覺之職人共呼寄少々宛も製し出度奉存候以上
明和八年辛卯五月 平賀源内印
鳩溪が此抱負に對し、之を許可せざりし代官の小量慣れむ可く、海に惜しきことであつた。今製陶原料として全國に供給せらるゝもの、年産量五千萬斤と稱させられ、上田松彦は高濱、小田床及下津深江を採掘し、木山道彦は都呂々を採掘してゐる。そして高濱の如きは、原料地より海岸までレールに依って搬出されてゐるのである。
天草石の磨き
天草原料中最上等石は、産地にて粉砕され、之を叭詰として輸送しつゝある。又此上等とても採掘せし當時には、表面に赤色の酸化鐵皮を被りてゐる故に、斧もて其着色部丈を削り去りしものを、磨きと称して多くの手數を要せし別拵物である。而して普通石は、其儘粉砕するを以て全く黄色の粘土となるも、それが焼成さるれば帯青白色の磁器となるのである。
三河内磁器完成
斯くて今村如猿は、此天草石へ三つ岳の網代土を調合することの研究を完成し茲に三河内焼をして純白天下に冠たる磁器たらしめたのである。此網代土採掘に就いて後年所有權の争議を生せしが、明治十三年(1880年)四月時の長崎内海忠勝(後の内務大臣)の行政處分に依つて解決したのである。
如猿卒去す
享保二年三月九日(1717年)如猿今村正景八十三才にして卒去した。彼れ窯技の外彫技に於いても優秀なる手碗を有し、現今今村豊壽が秘蔵せる、高さ五寸五分の太白観音像の如きは名作と稱せらる、蓋し之は未だ網代主用時代の製品ならざるやを思はしむ。今村家の略系左の如くである。
今村略系
今村彌次兵衛 韓人巨關 初代 寛永二十年卒八十八歲
正一 三之丞 二代 元祿九年七月九日卒八十七歳
正景 彌次兵衛始正名三代如猿ト號ス 享保二年三月九日卒八十三歲
好貞 彌次兵衛 四代 享保元年六月二十二日卒五十二歲
正幸 彌次兵衛 五代 元女元年六月三日卒五十歲
正芳 彌次兵衛 六代 享和三年九月三日卒七十三歳
正和 楚八 七代 天和九年十一月卒八十八歲
正文 槌太郎 八代 文久元年六月七日卒五十七歲
正義 楚八 九代 明治十二年四月二十四日卒四十五歳
正方 甚三郎 十代 明治二十三年七月十四日卒五十七歳
十代正方の一女タニに、婿養子せしもの現代の廣一正勝にて、彼は専ら海運問屋を営業し、今村宗家の陶業は十代にして廢絶したものである。
【現代語訳】[Modern Japanese translation]
天草石の産地。天草の磁器石は石英粗面岩が風化したもので、北西部の高濱・小田床・下津深江・都呂々の海岸地帯に多く産し、東南部にも点在する。現在の主な採掘地はこの四か所である。元禄のころ、高濱村の上田家三代・傳右工門が鷹の巣で見つけ、当初は砥石や硯材として切り出して売っていたが、のちに天然の純粋な磁器原料として注目された。
天草石の耐火度は品質で幅があり、ゼーゲル錐17〜29番(約1480〜1650℃)に及ぶ。水簸を行うと珪酸が減る性質があり、その水簸物の化学組成については工学博士・北村彌一郎の分析例が次のとおりである。
第一類:珪酸78.94/礬土14.07/酸化鉄0.44/石灰0.18/苦土0.17/加里3.12/曹達0.62/灼熱減量2.59
第二類:珪酸79.34/礬土13.82/酸化鉄0.54/石灰0.68/苦土0.23/加里3.63/曹達0.51/灼熱減量2.24
第三類:珪酸81.43/礬土12.23/酸化鉄0.98/石灰0.39/苦土0.22/加里0.98/曹達1.35/灼熱減量2.62
第四類:珪酸75.22/礬土15.46/酸化鉄0.59/石灰0.22/苦土痕跡/加里3.27/曹達2.19/灼熱減量3.39
第五類:珪酸76.46/礬土15.90/酸化鉄0.48/石灰0.18/苦土0.22/加里2.79/曹達1.48/灼熱減量1.74
天草焼。原産地でこれが磁器石だと認識されたのは、上田家六代・傳兵衛が江戸の本草家・平賀鳩溪(平賀源内)から教えを受け、宝暦十二年(1762年)に肥前から山路幸右エ門を招いて技法を学び、高濱村の庄屋・傳五右エ門が初めて磁器を焼いたことによる。明和八年(1771年)には平賀鳩溪みずから下津深江に来て改良を図るべく、代官・楫斐十太夫に「陶器工夫書」を提出した。
工夫書の趣旨は、天草の土は天下無双で、今利(伊萬里)・唐津・平戸でも用いられていること、器形や絵様を唐・阿蘭陀の好みに合わせ、有能な職人を集めて鍛えれば日本製が外物に勝ち得ること、そして国益のため秘かに天草で育成したい、というものであった。だが許可は下りず、実行は叶わなかった。
その後、天草石は製陶原料として全国へ供給され、年産五千萬斤と称された。採掘は上田松彦が高濱・小田床・下津深江を、木山道彦が都呂々を担当し、高濱では産地から海岸までレール搬出が行われた。
天草石の「磨き」。最上等石は産地で粉砕し「叭詰」で出荷する。上等石でも採掘時は赤い酸化鉄皮を帯びるため、斧で着色部だけを削り落とした別仕立てを「磨き」と称し、手数がかかる。普通石はそのまま粉砕すると黄土色だが、焼成すると青みを帯びた白磁となる。
三河内磁器の完成。今村如猿は天草石に三つ岳の網代土を調合する研究を成し遂げ、三河内焼を純白の名品に押し上げた。網代土の採掘権をめぐる争いは明治十三年(1880年)、長崎の内海忠勝(のち内務大臣)の行政処分で解決した。
如猿の逝去。享保二年三月九日(1717年)、今村正景(如猿)は八十三歳で没した。彼は窯業のみならず彫技にも秀で、今村豊壽所蔵の太白観音像(高さ五寸五分)は名作として伝わる。おそらく網代主用以前の作と考えられる。今村家の略系は次のとおり。
今村家略系:
今村彌次兵衛(韓人・巨關、初代/寛永二十年没・88歳)→ 正一(三之丞、二代/元禄九年七月九日没・87歳)→ 正景(彌次兵衛・はじめ正名、三代・如猿/享保二年三月九日没・83歳)→ 好貞(四代)→ 正幸(五代)→ 正芳(六代)→ 正和(楚八、七代)→ 正文(槌太郎、八代)→ 正義(楚八、九代)→ 正方(甚三郎、十代)
十代・正方の娘タニに婿養子となった廣一正勝は海運問屋を営み、今村宗家の陶業は十代で廃絶した。
【英語訳】[English translation]
Amakusa stone deposits. Amakusa porcelain stone, formed by the decomposition of quartz trachyte, occurs chiefly along the northwest coastal belt of the islands at Takahama, Odatoko, Shimo-Tsufukae, and Tororo, with additional finds in the southeast; today, these four sites are the active pits. In the Genroku era, Ueda Den’emon—the third ancestor of the Ueda family of Takahama—first found it at Takanosu. It was cut and sold as whetstone and inkstone material until it was recognized as a natural single-ingredient porcelain body.
Refractoriness varies by quality, ranging roughly from Seger cone 17 to 29 (≈1480–1650 °C). Levigation (mizuhiki) reduces silica. Representative analyses of levigated fractions by Dr. Kitamura Yaichirō are as follows:
Class I: SiO₂ 78.94 / Al₂O₃ 14.07 / Fe₂O₃ 0.44 / CaO 0.18 / MgO 0.17 / K₂O 3.12 / Na₂O 0.62 / LOI 2.59
Class II: SiO₂ 79.34 / Al₂O₃ 13.82 / Fe₂O₃ 0.54 / CaO 0.68 / MgO 0.23 / K₂O 3.63 / Na₂O 0.51 / LOI 2.24
Class III: SiO₂ 81.43 / Al₂O₃ 12.23 / Fe₂O₃ 0.98 / CaO 0.39 / MgO 0.22 / K₂O 0.98 / Na₂O 1.35 / LOI 2.62
Class IV: SiO₂ 75.22 / Al₂O₃ 15.46 / Fe₂O₃ 0.59 / CaO 0.22 / MgO trace / K₂O 3.27 / Na₂O 2.19 / LOI 3.39
Class V: SiO₂ 76.46 / Al₂O₃ 15.90 / Fe₂O₃ 0.48 / CaO 0.18 / MgO 0.22 / K₂O 2.79 / Na₂O 1.48 / LOI 1.74
Amakusa ware. Local recognition of the stone as a porcelain material came when the sixth-generation Ueda Denbē learned from the naturalist Hiraga Kyōkei (Hiraga Gennai). In Hōreki 12 (1762) he invited Yamaji Kōuemon from Hizen to teach the method, and village head Ueda Dengorō first fired porcelain at Takahama. In Meiwa 8 (1771) Hiraga himself came to Shimo-Tsufukae to improve production and submitted a proposal (“Plan for Pottery Improvements”) to the Amakusa magistrate Kabi Juta’yū.
Its thrust: Amakusa clay is peerless and already used at Imari, Karatsu, and Hirado; gather skilled craftsmen, design forms and patterns to suit Chinese and Dutch taste, and train a corps so Japanese wares may surpass imports—quietly, for the nation’s benefit. Permission was not granted.
Thereafter Amakusa stone supplied the nation as ceramic raw material—reportedly 50 million kin per year. Ueda Matsuhiko worked Takahama, Odatoko, and Shimo-Tsufukae; Kiyama Michihiko worked Tororo. At Takahama, rail lines carried ore to the coast.
“Migaki” processing. The finest stone is crushed at the pit and shipped in “hatsuzume” packs. Even top-grade blocks have a reddish iron-oxide skin when quarried; the colored rind is axed off to make a special “migaki,” a labor-intensive, select product. Ordinary stone crushes to yellowish clay, which fires to a bluish-white porcelain.
Completion of Mikawachi porcelain. Imamura Nyoen perfected a blend of Amakusa stone with Ajiro clay from Mitsudake, elevating Mikawachi ware to a pure white porcelain of national renown. Later disputes over Ajiro clay rights were settled in April 1880 by an administrative ruling of Nagasaki’s Uchiumi Tadakatsu (later Home Minister).
Passing of Nyoen. On March 9, Kyōhō 2 (1717), Imamura Masakage (Nyoen) died at 83. He excelled also in carving; a 5 sun 5 bu “Taibai Kannon” statue preserved by Imamura Toyohisa is famed and likely predates the Ajiro-dominant period. A brief Imamura lineage follows:
Imamura lineage:
Imamura Yajibei (Korean Gokan), 1st—d. Kan’ei 20 (age 88) → Shōichi (Sannojō), 2nd—d. Genroku 9-7-9 (87) → Masakage (Yajibei; first Masana), 3rd, style name Nyoen—d. Kyōhō 2-3-9 (83) → Yoshisada, 4th → Masayuki, 5th → Masayoshi, 6th → Masakazu (Sohachi), 7th → Masafumi (Tsuchitarō), 8th → Masayoshi (Sohachi), 9th → Masakata (Jinsaburō), 10th. The 10th’s daughter Tani married Kōichi Masakatsu; he ran a shipping agency, and the main family’s pottery ended with the tenth generation.
【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]
天草石的产地。天草瓷石由石英粗面岩风化而成,主要分布在西北部海岸的高濱、小田床、下津深江、都呂々四地,东南部亦有零星发现。现行采掘地即上述四处。元禄时,高濱村上田家第三代傳右工門在“鷹之巢”发现此石,初作砥石、砚材出售,后被视为天然纯质瓷料。
天草石耐火度随品质而异,约在赛格尔锥17—29(约1480—1650℃)。经水簸后硅含量下降。其水簸物化学组成(北村彌一郎博士):
第一类 SiO₂ 78.94/Al₂O₃ 14.07/Fe₂O₃ 0.44/CaO 0.18/MgO 0.17/K₂O 3.12/Na₂O 0.62/灼减2.59
第二类 SiO₂ 79.34/Al₂O₃ 13.82/Fe₂O₃ 0.54/CaO 0.68/MgO 0.23/K₂O 3.63/Na₂O 0.51/灼减2.24
第三类 SiO₂ 81.43/Al₂O₃ 12.23/Fe₂O₃ 0.98/CaO 0.39/MgO 0.22/K₂O 0.98/Na₂O 1.35/灼减2.62
第四类 SiO₂ 75.22/Al₂O₃ 15.46/Fe₂O₃ 0.59/CaO 0.22/MgO 痕量/K₂O 3.27/Na₂O 2.19/灼减3.39
第五类 SiO₂ 76.46/Al₂O₃ 15.90/Fe₂O₃ 0.48/CaO 0.18/MgO 0.22/K₂O 2.79/Na₂O 1.48/灼减1.74
天草烧。当地确认其为瓷器石,源于上田家六代傳兵衛受本草家平贺鳩溪(平贺源内)指点;宝历十二年(1762)自肥前邀山路幸右エ門授法,由高濱庄屋傳五右エ門首次烧成瓷器。明和八年(1771),平贺亲至下津深江,向代官楫斐十太夫上《陶器工夫书》求改良。要旨谓:天草之土天下无双,宜集能工、合唐荷之好、培育匠人,则日本瓷可胜外物,且当低调推行以利国。然未获许可。
其后天草石供全国制陶,年产称五千万斤。上田松彦采高濱、小田床、下津深江,木山道彦采都呂々;高濱以轨道运石至海岸。
“磨き”。上等石产地粉碎,以“叭詰”包装外运。其表皮多覆红色氧化铁,斧削去色皮的特制品称“磨き”,费工甚多。普通石粉碎呈黄土色,烧成后呈青白色瓷。
三河内瓷完成。今村如猿以天草石配三つ岳之網代土,成就纯白的三河内烧。网代土采掘争议于明治十三年(1880)由长崎内海忠胜行政裁决而定。
如猿卒。享保二年三月九日(1717)今村正景(如猿)卒,享年八十三。其雕刻亦精,今村豊壽所藏太白观音(五寸五分)名作,或为網代主用前之作。今村家略系如上;第十代正方之女タニ招婿廣一正勝,经营海运问屋,宗家陶业至十代而废。
【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditionalfrom Japanese]
天草石的產地。天草瓷石由石英粗面岩風化而成,主要分布於西北部海岸之高濱、小田床、下津深江、都呂々四地,東南部亦有零星產出。現行採掘地即上述四處。元祿時,高濱村上田家第三代傳右工門於鷹之巢發現,初作砥石、硯材販售,後被視為天然純質瓷料。
天草石耐火度隨品質而異,約為賽格爾錐17—29(約1480—1650℃)。水簸後矽含量下降。其水簸物化學組成(北村彌一郎博士):
第一類 SiO₂ 78.94/Al₂O₃ 14.07/Fe₂O₃ 0.44/CaO 0.18/MgO 0.17/K₂O 3.12/Na₂O 0.62/灼減2.59
第二類 SiO₂ 79.34/Al₂O₃ 13.82/Fe₂O₃ 0.54/CaO 0.68/MgO 0.23/K₂O 3.63/Na₂O 0.51/灼減2.24
第三類 SiO₂ 81.43/Al₂O₃ 12.23/Fe₂O₃ 0.98/CaO 0.39/MgO 0.22/K₂O 0.98/Na₂O 1.35/灼減2.62
第四類 SiO₂ 75.22/Al₂O₃ 15.46/Fe₂O₃ 0.59/CaO 0.22/MgO 痕量/K₂O 3.27/Na₂O 2.19/灼減3.39
第五類 SiO₂ 76.46/Al₂O₃ 15.90/Fe₂O₃ 0.48/CaO 0.18/MgO 0.22/K₂O 2.79/Na₂O 1.48/灼減1.74
天草燒。當地確認其為瓷器石,緣於上田家六代傳兵衛受本草家平賀鳩溪(平賀源內)指授;寶曆十二年(1762)自肥前延請山路幸右エ門授法,高濱庄屋傳五右エ門首度燒瓷。明和八年(1771),平賀親至下津深江,向代官楫斐十太夫呈《陶器工夫書》以求改良。旨在指出:天草之土天下無雙,宜集匠、合唐荷之好而訓練,則日本瓷可勝外物,且應低調推進以利國。惟未獲批准。
其後天草石供全國製陶,年產稱五千萬斤。上田松彥採高濱、小田床、下津深江,木山道彥採都呂々;高濱以軌道運石至海岸。
「磨き」。上等石於產地粉碎,以「叭詰」裝運。其表皮常覆紅色氧化鐵,斧削去色皮者稱「磨き」,耗工甚多。普通石粉碎呈黃土色,燒成後呈青白色瓷。
三河內瓷完成。今村如猿以天草石配三つ岳之網代土,成就三河內燒之純白名器。關於網代土採掘權之爭,於明治十三年(1880)由長崎內海忠勝行政裁決而定。
如猿卒。享保二年三月九日(1717)今村正景(如猿)卒,享年八十三。其雕刻亦佳,今村豊壽所藏太白觀音(五寸五分)名作,或為網代主用前之作。今村家略系如上;第十代正方之女タニ招婿廣一正勝,營海運問屋,宗家陶業至十代而廢。
【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]
天草石矿。天草瓷石由石英英安岩风化形成,主要出现在西北海岸的高濱、小田床、下津深江、都呂々,东南部亦有发现,现行开采即四处。元禄时上田傳右工門于“鷹之巢”首次发现,起初作砥石、砚材,后被认作天然单一瓷料。
耐火度依品质不同,约为赛格尔锥17—29(约1480–1650℃)。水簸会降低二氧化硅。北村彌一郎博士分析(水簸物):见五类配比(SiO₂ 75–81%,Al₂O₃ 12–16%,K₂O 1–4% 等)。
天草烧。上田六代傳兵衛得平贺鳩溪(平贺源内)指点,1762年延请山路幸右エ門自肥前传技;高濱庄屋傳五右エ門初烧瓷。1771年平贺至下津深江,向代官楫斐十太夫上《改良方案》。旨在集匠、合中荷审美,使日本瓷胜于进口,并低调推行以利国家;未获许可。
其后天草石供全国,年产称五千万斤;上田松彦采高濱等三处,木山道彦采都呂々;高濱以轨道运石。上品石制成“叭詰”,表皮红锈剥除为“磨き”;普通石粉碎呈黄土色,烧后青白。
三河内瓷。今村如猿以天草石配網代土,完成纯白三河内烧。關於網代土权利之争,1880年由长崎内海忠胜裁决。
如猿卒。1717年3月9日今村正景(如猿)卒,享年83;其雕刻“太白观音”(5寸5分)为名作。今村世系略述,至第十代正方之后,女婿廣一正勝经营海运,宗家制瓷止于十代。
【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]
天草石礦。天草瓷石由石英英安岩風化而成,主見於西北海岸之高濱、小田床、下津深江、都呂々,東南部亦有,現行開採即四處。元祿時上田傳右工門於「鷹之巢」初見,先作砥石、硯材,後認為天然單一瓷料。
耐火度隨品質而異,約為賽格爾錐17—29(約1480–1650℃)。水簸使二氧化矽下降。北村彌一郎博士所測(水簸物)見五類配比(SiO₂ 75–81%、Al₂O₃ 12–16%、K₂O 1–4% 等)。
天草燒。上田六代傳兵衛受平賀鳩溪(平賀源內)指授,1762年延請山路幸右エ門自肥前傳技;高濱庄屋傳五右エ門初燒瓷。1771年平賀至下津深江,向代官楫斐十太夫呈《改良方案》,主張集匠、合中荷審美,使日本瓷勝於舶來,並低調推進以利國家;未蒙允准。
其後天草石供全國,年產稱五千萬斤;上田松彥采高濱等三處,木山道彥采都呂々;高濱以軌道運石。上品石製為「叭詰」,紅鏽皮剝除為「磨き」;普通石粉碎黃土色,燒後青白。
三河內瓷。今村如猿以天草石配網代土,成純白三河內燒。關於網代土權利之爭,1880年由長崎內海忠勝裁決。
如猿卒。1717年3月9日今村正景(如猿)卒,享年83;其雕刻「太白觀音」(五寸五分)稱名作。今村世系略述,至第十代正方之後,婿廣一正勝營海運,宗家制瓷止於十代。

