【原文】[Original text]
猫山
東彼杵郡の日宇は、元松浦常の日宇出羽守勝の領地にて、後平戸松浦氏の支配地となり現在は佐世保市内に編入されてゐる。 此處の日宇驛より東方一里許り上手にて、二十戸程の農家疎らなる山間に、猫山焼の古窯趾がある。此地元藤原と稱せしなりしより、一名藤原焼と稱せられ今猶當時の窯具など散亂せるも、殘缺としては、間々擂鉢の破片を見るのみである。
此處は前述せし如く、元和八年(1622年)平戸より來りし巨開が、東の浦にて陶土を發見し次に此猫山に來つて試焼し、直に他へ轉せしさの口碑あるも、今此窯具などの焼成されし程度を見れば、或は十年位は營業せしものゝ如く、想ふに巨關去りし後、他の韓人平戸より來つて開窯し、そして後年には甕類や擂鉢等を焼きしものであらう。なほ此處の墓地に至れば、韓人墓とて小石を積みし無縁墓五六基あるも事蹟は詳でない。
猫山の古窯品
猫山の農家を漁りて、此の古窯品平戸系 三河内窯大口水甕や、同地色に白の波刷毛目を施せし、徑尺口程の高臺附水鉢などがある。其外飴釉むら掛にて肩部に結晶を顕はせし八寸の尻太徳利あるが前記の諸陶とは技術上別種の感あるも、或は元祿年間木原の工人來つて製造せりの説に、該當せるものなるかは不明である。
佐々市之瀬
北松浦郡の佐々村は、元松浦黨の佐々右馬助存の領地にて、後代平戸松浦氏の支配地となり、佐々刑部拵の采邑であつた。そして松浦豊久の五男五郎稠が拵の繼嗣となってゐる。此處の市の瀬と稱するところは、戸數八十戶斗りの農村にて、當時天草石を原料として、磁器及靑磁等を焼きしである。
福本新左エ門
宝暦元年(1751年)三河內の福本彌次右工門の子孫にて、次男系の、新左工門といへる者、子喜臓と共に此地吉丸(市の瀬鴨川免の總稱)に開窯して、染附物の磁器を製造した。而して此新左工門と共に、三河内より此地へ轉居せし同業者に、椎原孝兵衛、福元勝左工門、横石丈左工門、福本九兵衛の四人ありて、五間登を築窯せしも、幾許もなく郷里へ退去して、殘留せしは新左工門一家のみであった。佐々福本家の略系左の如くである。
佐々福本略系
福本新左工門 安中 宝暦亥年吉丸皿山収立引越 天明六年九月11日卒
仁左工門 安道 始喜蔵 文化五成二月十一日役人席 被仰付 文政六年九月十四日卒
新右エ門 安布 始小助 文化五辰五月従靜山公棟(藩主松浦清)焼物御用被仰付爲御吹聽 御直書富士御畫 十七枚拜領 文化八迄焼物職止メ 文政十二年七月十四日卒四十九才
仁助 天保四年十二月卒
新右工門 安春 始忠六 石炭口銃方爲御合方銀二貫目宛頂戴 文化十二御引塲
同年十二月於御勘定塲石炭山見計役彼仰付 切米三石上下扶持小者被下置
天保七石炭堀方又切米日並出勤扶持頂戴 嘉永三成二月二日當役被仰付 門御免
嫡子一人ノ外編元ト改姓被仰付 文人三年八月四日卒四十九才
新造 安孝 始忠太郎
芳二郎 大里氏へ養子
嘉六 大曲氏へ養子
忠治郎 福元氏
林一郎 早世
新一郎 早世
邸治 通稱 大祿 明治二十二年生 現在宮崎縣東臼杵郡富高町寄留
:付勤見計場-嘉―小-譽五早世福元氏一財 六 福元氏一
民吉の向附皿
三河内編に記載せし、尾張瀬戸の加藤民吉が、此地に潜入して福本仁左工門より磁器施釉法の傅習を受け、愛に始めて彼が目的を達せし處にて、今佐々村長久家竹一郎が、民吉製の陶器を藏してゐる、それは褐色地に暗緑釉を施せる所謂織部にて、徑五寸位の子持柏葉形向附皿なるが、細工も相當に製作されてゐる。(五枚の内一枚破損)、そして其容器の蓋裏に左の由緒書が記されてある。
向附皿の箱書
此懷き柏向附は尾洲瀬戸の産民吉といふ者佐々市の瀬において焼し也妙泉寺大柱和尚の恩賜也民吉は三河内市の瀬に滞在し陶器を修練して歸國の上尾州にて燒出し世に瀬戸ものゝひろまりしば此人也
妙泉寺
此文中にある妙泉寺といへるは、佐々村宇木場さ稱する處にありし舊寺にて、此處の東光寺(曹洞禪寺)の末寺であつた。そして維新の際妙泉寺は廢宇となりしものにて、此の品は其當時民吉が世話に成りし禮物であらう。又三河内市のとあるは、三河内と市の瀬の意味に解す可きであり、陶器とあるは勿論磁器のことである。
向附製作考
次に此市の瀬鴨川は、最初は陶器を焼きしかも知れねど、當時磁器のみを製造せしなるに、如何にして陶器を製作せしかとの疑問がある、若し還元焰を酸化焰に替へて素焼窯にて上げさせば、猶他に多く此種の遺品が見出されねばならぬてふ議論が生じて来る。蓋し當時に於ける民吉の境遇より考察すれば、彼が正しく尾張者發表するが如き陶器を焼きたるや否や、又其頃の彼が心境に黒物など焼くが如き餘格ありしやも一考に價する。
故に若し然らずせば、彼が歸國後自作して、世話になりし東光寺の和尚に贈りしを、それが末寺なる妙泉寺の手に渡り、そして後年に至つて市の瀬にて製作されしものと合点せしにはあらざるか、蓋し彼地よりの贈物としても民吉が自作品として稀品なることの価値に於いては、何等の變りはない。
三河内焼に就て
偖三河内に於ける特製品中には、前述せし如く青花の外籠目の如き透彫があり造花の如き繊細なる技工がある。明治十八九年頃瀬戸の加藤源三郎が蟲籠とし、四角や六角物に龜甲及七寶繋ぎ等の透彫器を製作して盛んに輸出時代があつた。蓋し之は一時珍器としてもてはやされしのみにて、永遠的の生命はなかつた。而して之等の技巧も今や器械的應用を工夫して、非常なる低價にて製作さるゝ時代来らずとせぬ。又彼の造花技巧の如きに於いても、一部の好事者に供する、手技に過ぎないものである。
購買品には切なる需要に因るものと、単なる好奇心に因るものがあり、而して前者は永續的なるも、後者は一時的の現象として、購買の範囲も少なるを以て、従つて小量の供給に甘んずるの外ない。故に其特種の技能を大衆的なる日用品に應用し得可くんば、生産額をして大いに増大せしむるに至るは當然である。此地由来特技に富む彼の明治初年頃盛んに製作輸出せし三番叟猿の如きも、推賞すべき其一種たるを失はぬ。
而して吾人が三河内焼の特長として敬服するものに、薄手細工のテクニックがある。若し此製作技能を普通向洋食器として、供給し得るまでに低價生産し得るに至らば、其需要たるや蓋し莫大なることを疑はぬ。然も三河内焼は美濃や硬質陶器などの珈琲器と違ひ、品質遙かに上乗なるを以て、たとひ多少の値張あるもなほ需要の餘地があるらしい。そして青花の艶麗と、赤繪の絢爛さを有する技能を應用し、貿易品の如き大衆向製品を考案して、大量製産の域に進展せんことを希望に堪へないものである。
【現代語訳】[Modern Japanese translation]
日宇(現在は佐世保市)は、もとは松浦常の日宇出羽守勝の領地で、のちに平戸松浦氏の支配となった。日宇駅から東へ一里ほど、農家が二十戸ばかり点在する山間に「猫山焼」の古窯跡がある。ここは昔「藤原」と呼ばれたため「藤原焼」とも言い、当時の窯道具が散乱するが、遺物は主に擂鉢の破片だけである。伝承では元和八年(1622)に平戸から来た巨關が東の浦で陶土を見つけ、猫山で試し焼きをしてすぐ他へ移ったという。しかし窯道具の焼成具合からみると十年ほどは操業した可能性が高く、巨關の去った後に別の韓人が平戸から来て開窯し、のちには甕や擂鉢を焼いたのだろう。墓地には小石積みの無縁墓が五、六基あり、韓人墓と伝わるが詳らかでない。
猫山の古品としては、平戸系(三河内窯)の大口水甕、同じ生地色に白の波刷毛目を施した口径一尺ほどの高台付き水鉢などがある。ほかに、飴釉のむら掛けで肩部に結晶が出た八寸の尻太徳利が見られ、前者と技法が異なる印象もある。元禄年間に木原の工人が来て製作したという説に合うのかは不明である。
北松浦郡佐々村(のち平戸松浦氏支配、佐々刑部拵の采邑)にある「市の瀬」は、八十戸ほどの農村で、当時は天草石を原料に磁器や青磁を焼いていた。宝暦元年(1751)、三河内の福本彌次右工門の後裔で次男筋の福本新左工門が、子の喜蔵とともに吉丸(市の瀬鴨川免の総称)に開窯し、染付磁器を作った。同行して三河内から移った椎原孝兵衛・福元勝左工門・横石丈左工門・福本九兵衛の四人は五間登りを築いたが、ほどなく帰郷し、新左工門一家のみが残った(系譜は原文の通り)。
『三河内編』に記したとおり、尾張瀬戸の加藤民吉はこの地に潜入して福本仁左工門から施釉法を学び、ここで初めて目的を達した。佐々村の長久家竹一郎氏所蔵に、民吉作と伝える器がある。褐色胎に暗緑釉を掛けた所謂織部で、径五寸ほどの「子持柏葉形」の向附皿(五客のうち一客破損)で、細工もまずまず。箱蓋裏には「尾洲瀬戸の民吉が佐々市の瀬で焼いた。妙泉寺大柱和尚の恩賜。民吉は三河内・市の瀬に滞在して修練し、帰国後に尾州で焼き、瀬戸ものの隆盛はこの人の功」と記す。
妙泉寺は佐々村宇木場にあった旧寺で、東光寺(曹洞)の末寺。維新で廃寺となり、この器は民吉が世話になった返礼とみられる。文中の「三河内市の」は三河内と市の瀬の意で、「陶器」は実際には磁器を指す。
ただし市の瀬鴨川は最初こそ陶器を焼いたかもしれないが、当時は磁器専業である。もし本当に当地で陶器を焼いたなら、還元焔を酸化焔に替えて素焼窯で上げた痕跡がもっと残るはずだ。民吉の置かれた事情からすれば、尾張で発表したような陶器をここで焼いたのかは疑問で、むしろ帰国後に自作して、世話になった東光寺の和尚へ贈ったものが末寺の妙泉寺に伝わり、のちに「市の瀬で製作」と混同された可能性もある。いずれにせよ、贈答の来歴にかかわらず、民吉自作の稀品である価値は変わらない。
三河内焼の特製には、青花のほか、籠目の透彫や造花のように繊細な技がある。明治18・19年頃、瀬戸の加藤源三郎が虫籠風に四角・六角の器体へ亀甲や七宝繋ぎの透彫を施し、輸出が盛況だったが、流行の一過性にとどまり永続はしなかった。こうした技巧は機械応用でさらに低廉に作られる時代が来るだろうし、造花的技巧も一部好事家向けの手技にすぎない。需要には必需と好奇があり、後者は短命で市場も狭い。ゆえに特種技能を大衆的な日用品へ応用できれば、生産は大きく伸びる。明治初年に輸出で人気を博した「三番叟猿」などは今なお称賛に値する。とりわけ三河内焼の薄手細工は特筆すべき強みで、これを普及価格で洋食器に展開できれば需要は莫大だろう。美濃や硬質陶器の珈琲器と異なり品質は一段上で、多少高価でも余地がある。青花の艶と赤絵の華やかさを活かし、大衆向けの輸出製品を設計して量産化へ進むことを強く望む。
【英語訳】[English translation]
Hiu—now within Sasebo City—was once the fief of Hiu Dewanokami Masaru of the Matsuura line and later under the Hirado Matsuura. About one ri east of Hiu Station, among roughly twenty scattered farmhouses in the hills, lie the old kiln remains of “Nekoyama ware,” also called “Fujiwara ware” after the locale’s former name. Kiln tools still litter the ground, though surviving sherds are mostly mortars. Tradition says that in Genna 8 (1622) the Korean potter Kyōkan came from Hirado, found clay at Higashi-no-Ura, test-fired at Nekoyama, and soon moved on. Yet the firing state of the implements suggests operations lasted perhaps a decade; likely, after Kyōkan left, other Koreans from Hirado opened a kiln and later fired jars and mortars. In the cemetery are five or six anonymous pebble mounds remembered as Korean graves, with no clear record.
Old pieces attributed to Nekoyama include large-mouthed water jars of the Hirado–Mikawachi line and a high-footed basin about one shaku across, on the same body with white wave-brush decoration. There is also an eight-sun, globular-tailed bottle with uneven amber glaze and shoulder crystallization—technically distinct from the former group and perhaps made by Kihara workmen in the Genroku era, though uncertain.
At Saza village’s “Ichi-no-se” (later under Hirado Matsuura; a fief of Saza Gyōbu-koshirae), around eighty households used Amakusa stone to fire porcelain and celadon. In Hōreki 1 (1751), Fukumoto Shinzaemon—of the second son’s line from Mikawachi’s Fukumoto Yajirōemon—opened a kiln at Yoshimaru (the Ichi-no-se Kamogawa district) with his son Kizō, producing blue-and-white porcelain. Four colleagues from Mikawachi—Shiihara Kōbee, Fukumoto (Fukugen) Katsuzaemon, Yokoishi Jōzaemon, and Fukumoto Kyūbee—built a five-chamber climbing kiln but soon returned home, leaving only Shinzaemon’s family (see the family register in the original).
As noted in the Mikawachi section, Katō Minki from Owari Seto slipped into the area and learned glazing from Fukumoto Nizaemon, achieving his aim here for the first time. The Nagaku family’s Takeichirō in Saza owns a piece attributed to Minki: a small serving dish of so-called Oribe—brown body with dark green glaze, “komochi kashiwaba” leaf shape, about five sun across (one of five is broken)—soundly crafted. The lid inscription reads that “Minki of Seto in Owari fired this katamochi kashiwa dish at Saza Ichi-no-se; it was bestowed by the abbot Daichū of Myōsen-ji. Minki stayed at Mikawachi and Ichi-no-se to train, then, returning to Owari, produced wares that spread ‘Seto-mono’ nationwide.” Myōsen-ji stood at Ukiba in Saza as a subsidiary of Tōkō-ji (Sōtō Zen) and was abolished at the Restoration; the piece was likely a return gift for the abbot’s help. “Mikawachi-Ichi-no-se” is the intended sense of “Mikawachi-shi-no,” and “tōki (pottery)” here means porcelain.
One question remains: Ichi-no-se Kamogawa may have started with pottery, but in the period concerned it made only porcelain. If Minki truly fired earthenware there by switching from reduction to oxidation in a bisque kiln, more examples should survive. Considering his circumstances, he may not have fired such pottery on site; rather, he could have made it after returning home and gifted it to the abbot of Tōkō-ji, from whom it passed to the subsidiary Myōsen-ji, later being conflated with local manufacture. Either way, as a Minki original the piece remains a rarity of equal value.
Mikawachi’s specialties include, besides blue-and-white, basket-mesh openwork and delicately modeled “art-flower” pieces. Around 1885–86, Seto’s Katō Genzaburō made “insect-cage” style openwork—square and hexagonal bodies with tortoiseshell or shippō-link patterns—for export, but the vogue was short-lived. Such techniques will eventually be mechanized at very low cost, and the flower-modeling caters mainly to connoisseurs. Enduring demand arises from necessity, not curiosity; the latter is small and fleeting. If these special skills are applied to mass-use daily wares, production can expand greatly. The early-Meiji export “Sanbasō monkeys,” for example, still merit praise. Above all, Mikawachi’s ultra-thin throwing is a standout strength: if made affordable for ordinary Western tableware, demand would be immense. Compared with coffee wares from Mino or hard-paste bodies, Mikawachi quality is notably higher; even at somewhat higher prices, room remains. Harness the brilliance of blue-and-white and the opulence of overglaze red to devise popular export lines and move toward true mass production.
【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]
日宇(今属佐世保市)旧为松浦常系日宇出羽守胜之领地,后归平户松浦氏。自日宇站向东约一里,山间有二十余户人家,遗存“猫山烧”古窑址,因旧地名“藤原”亦称“藤原烧”。地上散见窑具,出土多为擂钵残片。传说元和八年(1622)巨關自平户来,在东之浦得黏土,至猫山试烧即迁他处;然从窑具火候看,或经营十年之久,盖其后又有韩人自平户来开窑,晚期烧缸与擂钵。墓地有五六座小石堆无主墓,传为韩人墓,事迹未详。
猫山旧物有平户系(三河内窑)大口水缸,同胎白色波刷毛目之口径一尺高足水盂;另有飴釉不匀、肩部结晶之八寸尻太徳利,技法或异,是否为元禄时木原工匠所制未可知。
北松浦郡佐々村“市之瀬”有八十余户,以天草石为原料烧制瓷与青瓷。宝历元年(1751)三河内福本彌次右工門之后裔、次男系福本新左工门与子喜藏于吉丸(市之瀬鴨川免)开窑,制染付瓷;同来之椎原孝兵卫、福元胜左工门、横石丈左工门、福本九兵卫筑五间登窑,不久返乡,仅新左工门家留(系谱如原文)。
尾张瀬户加藤民吉潜至此地,受福本仁左工门传授施釉,始成其志。今佐々村长久家竹一郎藏一件传为民吉作之器:褐胎暗绿釉所谓织部,径约五寸“子持柏叶形”向附(五件之一缺),工亦精。箱盖书称:尾洲瀬户民吉在佐々市之瀬所烧,妙泉寺大柱和尚所赐;民吉寓三河内・市之瀬修练,归国后于尾州烧造,“瀬户物”之弘扬此人所致。妙泉寺在佐々村宇木场,为曹洞宗东光寺末寺,维新时废;此物盖为报答所受照拂之礼。文中“三河内市の”当解作“三河内与市之瀬”,“陶器”实指瓷器。
至于制作问题:市之瀬鴨川彼时专事瓷器。若确在当地以氧化焰上于素烧窑烧成陶器,应见更多遗品。考民吉处境,未必在此烧陶,或系归国后自作,赠东光寺和尚,再转至末寺妙泉寺,后与在市之瀬制作相混。然其为民吉自作之珍品,价值无损。
三河内烧特长有青花、籠目透雕与仿造花等精技。明治十八九年间,瀬户加藤源三郎制“虫笼”式透雕器(方形、六角、龟甲与七宝绞)畅销出口,然不过一时风尚。此类技法终将机加工低价化,造花亦多供好事者。需求有必需与好奇之分,后者短暂且量小;若能将特技应用于大众日用品,产能自可大增。明治初年外销盛名之“三番叟猿”仍可称道。尤以薄胎细作为三河内烧之绝技,若能平价化为洋餐具,需求必巨。其质较美浓与硬质陶咖啡具为上,虽价稍高仍有市场。宜发挥青花之艳与赤绘之华,设计面向大众之外销品,迈向量产。
【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditional from Japanese]
日宇(今屬佐世保市)舊為松浦常系日宇出羽守勝之領地,後歸平戶松浦氏。自日宇驛東行一里許,山間散居二十餘戶,有「貓山燒」古窯址,因舊名「藤原」亦稱「藤原燒」。地上遺有窯具,遺片多為擂鉢。傳云元和八年(1622)巨關自平戶來,於東之浦得土,至貓山試燒即徙;然以窯具火候觀之,或營十年,蓋其後復有韓人自平戶來開窯,晚期燒缸及擂鉢。墓地有五六座小石堆之無緣墓,傳為韓人墓,事蹟未詳。
古品如平戶系(三河內窯)大口水甕、同胎白色波刷毛目之口徑一尺高足水盂;另有飴釉不勻、肩出結晶之八寸尻太德利,技法或異,是否元祿時木原工匠所製未可知。
北松浦郡佐々村「市之瀨」凡八十戶,當時以天草石為料燒瓷與青瓷。寶曆元年(1751)三河內福本彌次右工門之後、次男系福本新左工門與子喜藏於吉丸(市之瀨鴨川免)開窯,製染付瓷;同至者椎原孝兵衛、福元勝左工門、横石丈左工門、福本九兵衛築五間登窯,不久返鄉,惟新左工門家留(系譜如原文)。
尾張瀨戶加藤民吉潛至是地,受福本仁左工門授以施釉,始遂其志。今佐々村長久家竹一郎藏一器,相傳民吉作:褐胎暗綠釉之所謂織部,徑五寸「子持柏葉形」向附(一缺),工亦精。箱題云:尾洲瀨戶民吉於佐々市之瀨所燒,妙泉寺大柱和尚所賜;民吉寓三河內・市之瀨修練,歸國後於尾州燒造,「瀨戶物」之弘傳由之。妙泉寺在佐々村宇木場,為曹洞宗東光寺末寺,維新時廢;此器蓋為酬謝照拂之禮。文中「三河內市の」當解作「三河內與市之瀨」,「陶器」實指瓷器。
製作考:市之瀨鴨川彼時專事瓷器。若實於當地以氧化焰上於素燒窯燒陶,遺物當更繁。按民吉境遇,或未於此燒陶,乃歸國後自作,贈東光寺和尚,轉入末寺妙泉寺,後與「市之瀨製作」混傳。然其為民吉自作之珍品,價值不減。
三河內燒之長,除青花外,有籠目透雕與仿造花等精技。明治十八九年,瀨戶加藤源三郎製「蟲籠」式透雕(方、六角、龜甲與七寶繫),外銷極盛,然屬一時風尚。此等技終將機械低價化,造花亦多供好事者。需有必需與好奇,後者短命且量小;若能將特技應用於大眾日用品,產量自增。明治初年外銷名品「三番叟猿」猶可稱道。尤以薄胎細作為絕技,若可平價化為洋餐具,需求當鉅。其質較美濃與硬質陶咖啡具為上,雖價稍高仍有市。宜發揮青花之艷與赤繪之爛,設計大眾向外銷品,以進量產。
【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]
日宇(今属佐世保市)旧为松浦家领,后属平户松浦。日宇站东约一里,有“猫山烧”古窑址,亦称“藤原烧”。地面留有窑具,多见擂钵残片。传称元和八年(1622)朝鲜陶工巨關自平户来,在东之浦取土,于猫山试烧后离去;但从窑具火候判断,窑或运作约十年,可能后续有他韩人来烧缸与擂钵。墓地存五六座小石堆,被称为韩人墓。
旧器包括平户—三河内系大口水缸、同胎白波刷的高足水盂(径约一尺),以及八寸飴釉、肩部结晶的“尻太”徳利;后者或为元禄期木原工匠所制,尚未可证。
佐々村“市之瀬”约八十户,以天草石烧瓷与青瓷。宝历元年(1751)福本新左工门与子喜藏在吉丸开窑制染付;同来四人筑五室登窑后返乡,仅新左工门家留。
加藤民吉在此向福本仁左工门学施釉,初成所志。佐々长久家藏其作:褐胎暗绿釉“子持柏叶形”向附(径五寸),工致;箱书称在市之瀬所烧,为妙泉寺大柱和尚所赐;民吉曾寓三河内与市之瀬,归尾州后烧造,使“瀬户物”广传。妙泉寺为东光寺末寺,维新时废。文中“陶器”实指瓷器。
就制作而论,市之瀬当时专事瓷器;若真在当地改用氧化焰烧成陶器,应有更多遗存。更可能为民吉归国后自作,赠东光寺住持,后转至妙泉寺,遂与“市之瀬制作”混淆。其作为民吉自作之珍品,价值不变。
三河内烧专长有青花、籠目透雕与细致塑花。约1885–86年瀬户加藤源三郎制“虫笼”式透雕外销盛行,但昙花一现;此类技巧终会被机械低价化,塑花多为雅玩。应将特技用于大众日用品以扩产。明治初年的“三番叟猿”仍可称道。尤以超薄成形为强项;若能平价化为西式餐具,需求巨大。与美浓或硬质陶咖啡具相比,三河内品质更高,虽价高仍有市场;宜利用青花与赤绘之美,开发大众外销线并推进量产。
【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]
日宇(今屬佐世保市)舊為松浦家領,後歸平戶松浦。日宇站東約一里有「貓山燒」古窯址,亦稱「藤原燒」。地面遺存窯具,多為擂鉢殘片。相傳元和八年(1622)朝鮮陶工巨關自平戶來,於東之浦取土,在貓山試燒後離去;然就窯具火候推測,窯或運行約十年,疑其後有他韓人續燒缸與擂鉢。墓地存五六座小石堆,被稱為韓人墓。
舊器有平戶—三河內系大口水缸、同胎白波刷之高足水盂(徑約一尺),及八寸飴釉肩現結晶之「尻太」德利;後者或為元祿期木原工匠所作,未可定。
佐々村「市之瀨」約八十戶,以天草石燒瓷與青瓷。寶曆元年(1751)福本新左工門與子喜藏於吉丸開窯製染付;同來四人築五室登窯後返鄉,惟新左工門家留。
加藤民吉於此向福本仁左工門學施釉而初成所志。佐々長久家藏其作:褐胎暗綠釉「子持柏葉形」向附(徑五寸),工整;箱書稱在市之瀨所燒,為妙泉寺大柱和尚所賜;民吉曾寓三河內與市之瀨,歸尾州後燒造,使「瀨戶物」廣傳。妙泉寺為東光寺末寺,維新時廢。「陶器」於此實指瓷器。
製作考:市之瀨當時專事瓷器;若真於當地以氧化焰燒成陶器,遺存當更繁。更可能為民吉歸國後自作,贈東光寺住持,轉至妙泉寺,遂與「市之瀨製作」混淆。其為民吉自作之珍品,價值不變。
三河內燒之所長,除青花外,有籠目透雕與精緻塑花。約1885–86年瀨戶加藤源三郎造「蟲籠」式透雕外銷盛行,然曇花一現;此類技巧終將機械低價化,塑花多為雅玩。宜將特技應用於大眾日用品以拓產。明治初年外銷名作「三番叟猿」仍可稱道。尤以超薄成形為強項;若能平價化為西式餐具,需求龐大。較之美濃或硬質陶咖啡具,三河內品質更高,雖價稍高仍有市場;宜運用青花之華與赤繪之豔,開發大眾化外銷線並推進量產。

