【原文】[Original text]
松唐子繪
三河内藩窯の製品模様なる、松唐子繪については、當時他の民窯に於いて應用するこ禁せられ、専ら藩主の自用又は献納贈進の器に畫かれたものであつた。就中七人唐子繪を最上し、次が五人唐子繪、次に三人唐子繪と等別せしは、茶器などの應用であらう。又籠目の如き緻密な透彫の技巧があり。或は盛上及び青磁の如き又は螢手に彩色極めて精巧なる物も此處の名品であつた。
リンボウ
三河内焼には、又染附の輪廓模様にリンボウとする一種があり、それは高麗の高の字を篆書風に便化されしものである。又此處の製品は、有田よりも稍低火度にて焼成さるを以て硬度は少し劣れるも、其純白さに於いては天下無双にて、加ふるに有田物の如く微窪の生することなく、多くの生地面を現はすを以て、模様に於いても頗る瀟洒であり、従つて赤物よりは、染附の方が得意とされてゐる。
三河内青花の色
而して上繪附の際、蚯蚓嵌の發生する缺点も、今は殆んど改良されたのである。蓋し本窯焼成後異彩料の發色が、有田焼と比較して稻損色あるは、其地質の相違に起因するものか、故に有田焼に、拾五圓程度の呉洲を使用せしと、同等の發色を望まんには、三河内燒にては二拾圓程度の呉洲を使用せざれば、不可能であるといはれてゐる。
三河内焼製法の特技
三河内燒の製技中には、窯出しせる素焼物を、冷却後白布にて空拭を行ひそして附着せる微粉を除くと共に、地肌を滑らかにする技法があり。又生杯の製品に吳洲汁を吸収せしめて、焼成後疽染痕を見せざる技法等がある是等は天草と網代との調土に於いて而已なし得る製技なるか、有田の原料にては不可能であらう。
三河内に於いては、如此精巧なる白磁を製造せるも、木原及江永の二山は未だ舊來の陶器のみを製作し、正徳以後天草石を使用せしも、藩は三河内の外網代の使用を許さなかつたのである。而して又網代の一等土は天草の上石よりも高價であつた。(明治四十三年頃相場天草上等千斤入園に對し網代上等千斤拾であつた)
天草と網代調合割合
而して此調合割合は、上手物には天草四分に網代一分、中手物には天草三分に網代一分、中下物には天草二分に網代一分、下手物には天草と網代と五分宛の割合であつた。蓋し双方とも、何れも其等別の種類を調合せしこは勿論である。而して此白磁製作の創始より、何處の山々も、悉く之に改めし見るは早計にて縦一部の轉業者ありとしても、舊來の陶器製造は、矢張継続されつゝありしは勿論である。然るに磁器の安價製作が日用品として行はるに及んで、従来の黒物は之に壓倒され、途に悉く磁器へ轉業せしものと見る可きであらう。
三河内焼の一子相傳
寛永より寛曆年間に涉り諸國諸山より、或は六部や商人などに変装して、三河内へ入込み、磁器の製法を探知せんとするの徒頻りなるより、當山は一層秘密を厳守すべしとの藩命下り、窯焼は長男の外、決して其製法を傅授すべからざることゝ成った。尤も三河内焼特技の染附が、完美的頂点に達せしは、今より百四十除年前の寛政年間(1789-1801年)よりといはれてゐる。
三河内藩窯品の取締
藩用の製品中不完全の品は、販賣は勿論私に使用するさへ許されず、凡べて悉く破砕して、土中に埋没されたのである。それは多くの不合格皿を拾數枚積重ねて、上より一撃を加へたものであった。蓋し當時は斬罪の仕置でさへ、太刀取役の手心次第にて一命を助かりし咄さへある。故に下重ねの幾枚かは命拾ひして御目こぼしとなり、よく土葬を免かれては御役人の勝手口から、長持などに藏れたのがありしかも計られない。
大柳山の伐木騒ぎ
享保十年十月九日(1725年)大村領の者三四百人、平戸領なる下波佐見堺の大柳山に来りて、製陶燃料を伐木するを以て、頻りに之を制すれども立ち去らず、依つて平戸領よりも、亦大勢大村領地の山林を伐木せしに翌十日は彼又大勢にて押寄せ來るより、平戸方よりも亦四百人を繰出して之を制し、漸く双方とも引取ったことがある。
今村履歴書
享保十八年取調の今村履歴書に左の如きものがある。
三之亟伜三代目
今村彌次兵衛(後に如猿と改名)
右焼物細工色々燒立御上へ差上候御用に相成爲御褒美則別帳之通格祿等被仰付其後品々御繪圖被仰付出來仕指上江戸にも被召連候由
切米拾石御馬廻格米拾俵御合力
四代目 今村彌兵衛(此者如猿より先に死去)
一御施行拾石貳人扶持上釜壹間外に新田知行二拾石(之は如代に土地御免被遊貞享三年に如猿代に聞知行と相成)
五代目 同彌次兵衛
一御宛行右に同(是は三ヶ皿山代官役兼被仰付)
右新田知行貳拾石之定三代目の弟伊助へ四石四代目之方次郎兵衛右庄次郎右同幾右工門右同彌次右工門之三石宛〆拾六石配分残る四石彌次兵衙知行に相成今に子孫持傳
享保十八年癸丑八月四日取調
六代目 今村彌次兵衛正芳
サンハウケ
寛政三年六月二十六日(1791年)今村彌次兵衛正芳より、藩主壹岐守清(二十八代)へ皿山沿革に闘する書き物を呈供せしが其文書の中に左の如き記事がある。
中略 焼物釜の神をニムネ明神と唱へて山神を祭る寛文十二年此頃は高麗より來りし老女(中里娶女)一人残り居て女として年々祭事を行ひたりしが老女後に曰く我死せば此宮に火を掛く可し煙天に登り朝鮮の方に立行かば此祭を止め新に山神の宮を建て祭るべし若し煙登らず地につきて消えなば永く此宮を祭るべしとなり後年老女死後火を掛けたるも煙登らずして消えしかば不思議なりとて永祭りとす享保の頃釜上覆ひ大火に及び宮左右の大松焼け失せたるにより後災を恐れて今の山に遷宮す今の宮山をサンハウケするは高麗語なるべしニムネ明神は高麗の焼物釜の神なり山の神を祭るといふ云々
田中尚俊
寛政年間(1789-1801年)田中與兵衛向俊は、藩用器の染附に、先きに記述せし彼の松唐子繪を創案した。尚俊は、藩の御用畫師法橋尚景の舎弟にて、山内長兵衛豊英の衣鉢を継ぎし者である。
一子相傳の法規を解く
前に定められたる一子相傳の法規は、後年に至り、徒らに次男以下の遊食者を生するの弊ありとなし、享和年間里見要左工門の三皿山支配役の時に於いて、藩主へ解禁の願書を出することゝなり、其許可を得て、茲に次男以下の支族にも、其製法を傳授せしめ得るこになったのである。
津金胤臣
文化四年(1807年)尾張の加藤民吉が、瀬戸に於いて磁器を完成せし逸事は、三河内陶史に特記すべき關係あるを以て、其顛末を抄録せんに、茲に尾張國熱田新田の開墾奉行にて、津金左工門胤臣といへる博識卓見の士があつた。寛政十二年(1800年)新田の開墾地を巡視中、鍬遣ひ頗る拙なる一團の人夫あるに、素性を問へば、元瀬戸の陶家の者なる由答へしにより其中にて重立てる加藤吉左工門を呼んで仔細を糺したのである。
【現代語訳】[Modern Japanese translation]
松唐子繪。三河内藩窯の意匠である「松唐子繪」は、当時は民窯での使用を禁じられ、藩主の自用品や献納・贈答の器にのみ描かれた。格付けは七人唐子を最上、次いで五人、三人の順で、主に茶器に用いられたと思われる。籠目のような緻密な透かし彫り、盛上や青磁風、螢手にきわめて精巧な彩色を施した名品も多い。
リンボウ。三河内焼には、染付の輪郭模様に「リンボウ」と呼ぶ型があり、高麗の「高」の字を篆書風に崩したものという。製品は有田よりやや低火度で焼成されるため硬さではやや劣るが、純白度は抜群で、微小なたわみや凹みが生じにくく地肌の面がよく現れるため、意匠もたいへん瀟洒である。ゆえに赤絵よりも染付を得意とした。
三河内青花の色。上絵付の際に出る「蚯蚓嵌(みみずばめ)」の欠点も、いまはほぼ改良された。ただし本焼き後の異なる顔料の発色は、有田に比べやや劣ることがあり、土の性質の差が原因とみられる。このため有田で十五円程度の呉洲を用いたときと同等の発色を望むなら、三河内では二十円程度の呉洲を使わねば難しいとされた。
製法上の特技。三河内では、素焼きの窯出し後に白布で空拭きして微粉を取り、素地をなめらかに整える。また生掛けの杯に呉洲汁を吸わせ、焼成後に染み跡を出さない工夫もある。これらは天草と網代を調合した土ゆえに可能で、有田の原料では困難とされた。
三河内が高度な白磁を作る一方、木原・江永の二山はなお旧来の陶器のみを製作し、正徳以後は天草石を用いたものの、藩は三河内以外に網代の使用を許さなかった。しかも網代の上等土は天草上石より高価で、(明治四十三年ごろ、天草上等は千斤につき一円、網代上等は千斤につき十円)とされた。
天草と網代の調合。上手物は天草四に網代一、中手物は天草三に網代一、中下物は天草二に網代一、下手物は天草と網代を五分ずつ。双方とも品位別の土を組み合わせるのは言うまでもない。白磁の創始後も、すべての窯が一斉に転じたわけではなく、旧来の陶器も継続された。しかし磁器が安価な日用品として広まるにつれ、従来の黒物は圧倒され、多くが磁器へ転業していった。
一子相伝。寛永から寛暦の頃、各地から六部や商人に身をやつして三河内へ入り、磁器の製法を探ろうとする者が相次いだため、藩は秘匿をいっそう厳守するよう命じ、窯業の伝授は長男以外に許さない掟とした。三河内の染付が完美の頂点に達したのは、今から約一四〇年前の寛政年間(1789–1801)といわれる。
藩窯品の取締。藩用製品で不完全なものは販売はもちろん私用も禁じ、すべて破砕して土中に埋めた。不合格の皿を何枚も重ね、上から一撃で割るやり方である。当時、斬罪ですら執行人の手心で命拾いする例があったように、下に重なった数枚は難を逃れ、役人の勝手口から長持に忍ばせて出たものもあったという。
大柳山の伐木騒動。享保十年(1725)十月九日、 大村領の者三〜四百人が平戸領・下波佐見境の大柳山で製陶用の薪木を伐採。制止しても退かないため、平戸側も大村領の山林を伐り返した。翌十日には彼らも大勢で押し寄せ、平戸方も四百人を繰り出して対抗し、ようやく双方引き取った。
今村履歴書。享保十八年の調書には次のとおり記される。三代目・今村彌次兵衛(のち如猿)は焼物をさまざまに作り、御用を務めた褒美として格禄ほかを拝領、のちに図案の下命を受け、江戸召連の由。切米十石・御馬廻格・米十俵の御合力。四代目今村彌兵衛(如猿より先に没)には施行十石・二人扶持・上釜一間、新田知行二十石(のち如猿代に聞知行)。五代目同彌次兵衛は三皿山代官役を兼ねて同様の宛行。新田知行二十石のうち伊助ほか親族に配分し、残り四石を知行として継承。六代目は今村彌次兵衛正芳。
サンハウケ。寛政三年(1791)今村正芳が藩主壹岐守清に提出した皿山沿革書には、窯の神を「ニムネ明神」と唱え山神を祀ること、かつて高麗から来た老女(中里娶女)が祭祀を司り、死後に宮へ火を掛け、煙が天に登り朝鮮の方へ立てば祭を改め、登らず地で消えれば永く当宮を祀れ、と遺したことが記される。のち火を掛けたが煙は昇らず、永祭とされた。享保の頃の大火で社の両側の大松が焼け、災を恐れて今の山に遷宮。この山を「サンハウケ」と称するのは高麗語で、ニムネ明神は高麗の窯神である、と記す。
田中尚俊。寛政年間、田中與兵衛尚俊が藩用器の染付に「松唐子繪」を創案。尚俊は御用絵師・法橋尚景の弟で、山内長兵衛豊英の流儀を継いだ。
一子相伝の解禁。長子相伝の掟は、のちに次男以下の遊食を生む弊があるとされ、享和年間、里見要左工門(三皿山支配役)の時に解禁の嘆願が出され許可。以後、次男以下の支族にも製法伝授が可能となった。
津金胤臣。文化四年(1807)尾張の加藤民吉が瀬戸で磁器を完成させた件は三河内陶史にも関わる。端緒は、寛政十二年(1800)熱田新田開墾奉行・津金左工門胤臣が現地巡視中、鍬使いの拙い人夫らの素性をただすと元瀬戸の陶工で、中心人物の加藤吉左工門を呼び出して詳しく質したことに始まる。
【英語訳】[English translation]
Matsu-karako painting. The “Matsu-karako-e” motif of the Mikawachi domain kilns was forbidden to private kilns and was painted exclusively on vessels for the lord’s own use or for presentation. Grades were set by the number of karako (Chinese boys): seven the highest, then five, then three—likely on tea wares. Masterly pieces included finely pierced basket-weave (kagome), raised decoration and celadon-like work, and exquisitely colored hotaru-de.
“Rinbō.” Mikawachi also had a sometsuke (blue-and-white) outline pattern called “Rinbō,” a seal-script stylization of the 高 in 高麗. Firing at slightly lower temperatures than Arita made the ware a touch softer, yet its snow-white body was unrivaled; it showed few minute depressions, left ample bare ground, and thus looked particularly refined. Accordingly, underglaze blue was preferred over red enamel.
Hue of Mikawachi blue. The defect called earthworm-trail (蚯蚓嵌) in overpainting has been largely corrected. Still, post-firing color development of certain pigments tends to be weaker than Arita’s, likely because of differences in the body. Hence, to match Arita’s color using, say, 15-yen “呉洲,” Mikawachi needed a 20-yen grade.
Technical hallmarks. After bisque firing, pieces were dry-wiped with white cloth to remove dust and smooth the skin. Another trick let green cobalt solution (呉洲汁) be absorbed into raw cups so no blotchy stains appeared after firing. These were possible because of the Amakusa–Ajiro blend; with Arita’s raw materials they were deemed impracticable.
While Mikawachi produced such refined porcelain, Kihara and Enaga still made traditional earthenware. Even after Shōtoku they used Amakusa stone, yet the domain forbade Ajiro outside Mikawachi. Ajiro’s top clay also cost more than top-grade Amakusa (around 1910: roughly 1 yen per 1,000 kin for Amakusa vs. 10 yen for Ajiro).
Amakusa–Ajiro ratios. For top wares the blend was Amakusa 4 : Ajiro 1; for medium 3 : 1; for medium-low 2 : 1; for low 1 : 1. Each class used matching grades of both clays. Not every kiln switched at once; traditional pottery continued. But as inexpensive porcelain spread into daily use, blackwares were overwhelmed and many shops converted to porcelain.
One-heir transmission. From Kan’ei into the Kanreki era, spies disguised as pilgrims or merchants tried to steal the secrets, so the domain ordered stricter secrecy: kiln methods were to be handed only to the eldest son. Mikawachi sometsuke reached its consummate peak in the Kansei era (1789–1801).
Domain controls. Imperfect official wares could neither be sold nor privately used; all were smashed and buried—stacks of faulty plates struck in one blow from above. As with a death sentence sometimes stayed by an executioner’s mercy, a few plates at the bottom survived and, it is said, slipped out in chests through officials’ back doors.
The Oyanagi logging fracas. On October 9, 1725, 300–400 men from Ōmura entered Oyanagi-yama on the Shimohasami border (Hirado side) to cut fuelwood for kilns. Restraint failed; Hirado men retaliated by cutting in Ōmura woods. Next day both sides mustered large forces; Hirado sent 400, checked them, and both finally withdrew.
The Imamura record. A Kyōhō 18 (1733) register notes: the 3rd-generation Imamura Yajibei (later Nyoen) rendered kiln service, received ranks and stipends, designed patterns, and was summoned to Edo—cut rice 10 koku, mounted-guard status, 10 bales of rice aid; the 4th (Imamura Yahei, predeceased Nyoen) received 10 koku, two rations, one kiln bay, plus 20 koku of new fields (later confirmed to Nyoen); the 5th (Yajibei) likewise, serving also as magistrate over the three plate-mountains, distributing portions to kinsmen; the 6th was Imamura Yajibei Masayoshi.
“San-hauke.” In 1791 Imamura Masayoshi submitted a history of the plate-mountains to Lord Ikishinori Kiyoshi. It records worship of the kiln god “Nimune Myōjin” as a mountain deity, and that an old Korean woman (Nakazato megū) had long officiated. She said: after my death, set fire to this shrine; if the smoke rises toward Korea, end this rite and build a new shrine to the mountain god; if it does not rise and dies on the ground, continue worship here. After her death the smoke did not rise, so perpetual rites continued; a later great fire burned the flanking pines and the shrine was moved to today’s hill, called “San-hauke,” likely a Korean word. Nimune Myōjin is said to be the Korean kiln god.
Tanaka Naotoshi. In the Kansei era, Tanaka Yohei Naotoshi devised the “Matsu-karako-e” for official wares. He was younger brother of the court painter Hokkyo Naokage and heir to Yamauchi Chōbee Toyohide’s line.
Ending one-heir secrecy. The rule later drew criticism for idling younger sons. In Kyōwa, under Satomi Yōzaemon, administrator of the three plate-mountains, a petition to relax the rule was approved, allowing instruction of younger branches.
Tsugane Taneomi. In Bunka 4 (1807) Katō Minge of Owari completed porcelain at Seto—an episode linked to Mikawachi. The prologue: in Kansei 12 (1800), Tsugane Saemon Taneomi, reclamation magistrate of Atsuta Shinden, noticed clumsy laborers; learning they were ex-Seto potters, he summoned their leader Katō Kichizaemon and inquired in detail.
【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]
松唐子绘。三河内藩窑的“松唐子绘”当时禁用于民窑,只用于藩主自用或献纳、馈赠之器。以唐子人数分级:七人最上,次五人、三人,多见于茶器。并有如“篭目”的细密透雕、盛上与仿青瓷、以至蛍手等极精巧的名作。
“リンボウ”。染付轮廓有一式样称“リンボウ”,据说取自“高丽”之“高”字的篆书化。三河内烧烧成温度略低于有田,硬度稍逊,但白度绝伦,少见微小凹陷,素地显露多,图样尤为潇洒,因此以染付胜于赤绘。
青花之色。上绘时的“蚯蚓嵌”缺陷已大致改良。然本烧后某些颜料的发色较有田略逊,或因土质不同。故要达有田用十五圆级“呉洲”之色,三河内需用二十圆级“呉洲”。
制法特技。素烧出窑后以白布干拭,除微粉、润素地;又令生坯之杯吸入“呉洲汁”,烧后无渗染痕。此皆赖天草与网代之调土所能,以有田原料难及。
当三河内制得精白之瓷时,木原、江永二山仍作旧陶。正德后虽用天草石,然藩不许三河内以外用网代。且网代上等土价高于天草上石(约明治四十三年:天草上等千斤一圆,网代上等千斤十圆)。
调合比例。上手物:天草4、网代1;中手物:天草3、网代1;中下物:天草2、网代1;下手物:天草与网代各5分。两土皆按品位相配。白瓷肇造后旧陶仍并行,然廉价瓷作日用品普及,黑物渐被压倒,多改业为瓷。
一子相传。因间者屡以六部、商人伪装探法,藩命严守秘传,仅许长子承业。三河内染付之至美,谓成于寛政年间(1789–1801)。
藩窑取缔。不合格品不许售卖与私用,悉数击碎埋土。积皿数枚,自上猛击。偶有下层漏网,自役人后门潜出之说。
大柳山伐木。享保十年(1725)大村领三四百人入平户领下波佐见界之大柳山伐薪;次日双方各集众,终各自退去。
今村履历。享保十八年记:三代今村彌次兵卫(后如猿)奉御用,受格禄与俵米等;四代今村彌兵卫先逝,原给施行十石、扶持等,新田二十石后改给如猿;五代亦同,并兼三皿山代官;六代为今村彌次兵卫正芳。
“サンハウケ”。寛政三年今村正芳呈文载:祭窑神“ニムネ明神”为山神,昔有自高丽来之老妇(中里娶女)司祭,遗言以烟向朝鲜与否定去留。后烟不升,遂永祭;享保时大火,迁今山。“サンハウケ”为高丽语,ニムネ明神为高丽窑神。
田中尚俊。寛政间田中與兵卫尚俊创“松唐子绘”染付;乃御用画师法桥尚景之弟,承山内长兵卫豊英之法。
解禁一子相传。因滋弊,于享和年间里见要左工门(支配三皿山)奏请解禁,得许,遂可传授于次男以下。
津金胤臣。文化四年(1807)尾张加藤民吉成就瀬户瓷。其缘起:寛政十二年,热田新田开垦奉行津金左工门胤臣巡视,知工人多为旧瀬户陶工,召加藤吉左工门细询。
【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditionalfrom Japanese]
松唐子繪。三河內藩窯之「松唐子繪」昔禁於民窯,專用於藩主自用與獻納贈進之器。以唐子數分等:七人最上,次五、次三,多見於茶器。兼有如「籠目」之細密透雕、盛上與仿青瓷、乃至螢手等極精巧名品。
「リンボウ」。染付輪廓有稱「リンボウ」者,據云取自「高麗」之「高」字篆書化。三河內燒燒成溫度略低於有田,硬度稍遜,然白度絕倫,少見微凹,素地外露,意匠尤為瀟灑,故以染付勝於赤繪。
青花之色。上繪之「蚯蚓嵌」缺陷今已大抵改良。然本燒後某些顏料發色較有田略遜,或因土質差異。故欲達有田以十五圓級「呉洲」之色,三河內須用二十圓級「呉洲」。
製法特技。素燒出窯後以白布乾拭,去微粉、潤素地;又令生坯之杯吸「呉洲汁」,燒後無滲染痕。此賴天草與網代之調土,有田原料難及。
三河內製精白瓷時,木原、江永二山仍造舊陶。正德後雖用天草石,藩不許三河內以外用網代。且網代上等土價高於天草上石(約明治四十三年:天草上等千斤一圓,網代上等千斤十圓)。
調合比例。上手物:天草4、網代1;中手物:3:1;中下物:2:1;下手物:1:1。兩土皆按品位相配。白瓷創始後舊陶仍並行,然廉價瓷成日用,黑物漸受壓,多改業為瓷。
一子相傳。以間者頻探秘法,藩命嚴守秘傳,惟長子得授。三河內染付之極致,謂成於寛政年間(1789–1801)。
藩窯取締。不合格品不得售與私用,悉擊碎埋土。疊皿自上猛擊,偶有下層漏網,自官人後門潛出之說。
大柳山伐木。享保十年(1725)大村領三四百人入平戶領下波佐見界之大柳山伐薪;翌日雙方各集眾,終各自退去。
今村履歷。享保十八年記:三代今村彌次兵衛(後如猿)奉御用,受格祿與俵米等;四代今村彌兵衛先逝,原給施行十石與扶持,新田二十石後改給如猿;五代亦同,兼三皿山代官;六代為今村彌次兵衛正芳。
「サンハウケ」。寛政三年今村正芳上書:祭窯神「ニムネ明神」為山神,昔有自高麗來之老女(中里娶女)司祭,遺言以煙向朝鮮與否定祭祀更替。後煙不升,遂為永祭;享保時大火,遷今山。「サンハウケ」疑為高麗語,ニムネ明神為高麗窯神。
田中尚俊。寛政間田中與兵衛尚俊創「松唐子繪」染付;乃御用畫師法橋尚景之弟,承山內長兵衛豊英之法。
解禁一子相傳。以生弊,享和年間里見要左工門(三皿山支配)奏請解禁得許,遂可傳授於次男以下。
津金胤臣。文化四年(1807)尾張加藤民吉成瀨戶瓷。其緣起:寛政十二年,熱田新田開墾奉行津金左工門胤臣巡視,知多為舊瀨戶陶工,召加藤吉左工門細訊。
【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]
松唐子绘。三河内藩窑的“松唐子绘”仅供藩主自用与进献,民窑禁用;以七、五、三唐子分级,多见茶器,并有篭目透雕、盛上、仿青瓷与蛍手等精作。
“Rinbō”。染付轮廓式样“リンボウ”源自“高”字篆化。三河内烧温度略低于有田,硬度稍弱,但白度绝伦、素地显露多,显得清雅,故以染付见长。
色调。上绘“蚯蚓嵌”已基本克服;然某些颜料发色较有田弱,需用更高价“呉洲”(如对比15圆 vs. 20圆级)。
技法。素烧后白布干拭;令生坯吸“呉洲汁”以免渗痕。赖天草×网代配土,有田土难行。
网代禁外用且更昂(约1910:天草上等千斤1圆,网代上等10圆)。
配比:上手 4:1;中手 3:1;中下 2:1;下手 1:1(天草:网代)。传统陶仍并行,后多改瓷。
秘传。为防探秘,限长子相传;巅峰在寛政(1789–1801)。
取缔。不合格官用品一律击碎埋葬,偶有漏网流出。
大柳山伐木。1725年大村与平户边伐薪冲突,次日两方集众后退。
今村档。记三代如猿受禄与役、四代先殁、五代兼三皿山代官、六代为正芳。
“サンハウケ”。记窑神“ニムネ明神”与高丽老妇遗言;烟不升,遂永祭;后迁社。“サンハウケ”或为高丽语。
田中尚俊。寛政时创“松唐子绘”,为法桥尚景之弟,承山内长兵卫派。
解禁。享和时准向次男以下传授。
津金胤臣。1800年津金左工门胤臣发觉前瀬户陶工,召加藤吉左工门详询;至1807年加藤民吉成就瀬户瓷。
【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]
松唐子繪。三河內藩窯之「松唐子繪」僅供藩主自用與進獻,民窯禁用;以七、五、三唐子分級,多見茶器,並有籠目透雕、盛上、仿青瓷與螢手等精作。
「Rinbō」。染付輪廓式樣源自「高」字篆化。三河內燒溫度略低於有田,硬度稍弱,然白度絕倫、素地外露,氣質清雅,故以染付見長。
色調。上繪「蚯蚓嵌」已大致克服;然部分顏料發色較有田弱,需用更高價「呉洲」(如十五圓對二十圓級)。
技法。素燒後白布乾拭;令生坯吸「呉洲汁」以免滲痕。賴天草×網代配土,有田土難行。
網代禁外用且更昂(約1910:天草上等千斤1圓,網代上等10圓)。
配比:上手 4:1;中手 3:1;中下 2:1;下手 1:1(天草:網代)。傳統陶仍並行,後多改瓷。
秘傳。為防探秘,限長子相傳;高峰在寛政(1789–1801)。
取締。不合格官用品一律擊碎掩埋,偶有漏網流出。
大柳山伐木。1725年大村與平戶邊伐薪衝突,翌日兩方集眾後退。
今村檔。記三代如猿受祿與役、四代先殁、五代兼三皿山代官、六代為正芳。
「サンハウケ」。記窯神「ニムネ明神」與高麗老婦遺言;煙不升,遂永祭;後遷社。「サンハウケ」或為高麗語。
田中尚俊。寛政時創「松唐子繪」,為法橋尚景之弟,承山內長兵衛派。
解禁。享和時准向次男以下傳授。
津金胤臣。1800年津金左工門胤臣發覺前瀨戶陶工,召加藤吉左工門詳詢;至1807年加藤民吉成就瀨戶瓷。

