【原文】[Original text]
池田安次郎
豫て和蘭人向の珈琲器につき、研究しつゝある池田安郎は、天保八年(1838年)に至り純白なる地質にして、紙の如き薄手物を製作することに成功したのである。
如猿を祀る
天保十三年(1843年)三月九日付を以て、藩主松浦煕は、左の書並に和歌二首を三皿山に興へたのである。
覺
其祖如猿昔年之余慶なる恩澤に浴する三皿山居住氏子と孫々に至る迄敢て之を忘るゝなかれ因て自今陶器滿足祈願所として如猿大明神と崇祭可致事
天保十三年壬寅三月九日 源熈
茲に於いて三河内山の東方潜石山林二百尺の高地をトし、祠を建て如猿大明神と崇むることゝなつたのである。
和歌二首
ひたふるに山さかへよどわかわさを二三九つくしていれつちまほる神
わけいりてたれもみよかし鬼神も
あはれとおもふことのはの道
三河内燒をして、網代と天草の調節に依り、今日の白磁に完成せしめしは、如猿の功績に帰す可きも、蓋し此今村父子と協力して、三河内陶業の繁榮に努力せし高麗媼の功績亦少くない、彼の椎の峯崩れの工人等も、皆此媼を便って此地に流れ來しといはれてゐる。そして後年の大川内藩窯崩れが、又三河内焼の進展に興かりしことも、見遁されぬ事柄であらう。
天保十四年(1844年)針尾島大崎の石を以て彌々如猿大明神の神祠を建設し三月九日(如猿の忌日)を以て毎年の例祭日と定め、爾來藩主より下されし覚書及短冊の歌二首を誦み上ぐることを例とするに至つた。そして此頃藩は御手當米と稱して米一千俵を三河内皿山庄屋に備へる事と成ったのである。
木原江永へ網代の使用を赦す
弘化三年(1847年)木原山の石丸彌一右工門、樋口頃一等は江永山の有志と計り、代官川淵莊兵衛へ出願して、網代土の使用を許可さるゝことゝなつた。それには品種の差別を設け、上太白は三河内藩窯の外之を使用することを禁じ、次の上白以下を三河内の民窯に許し、下白の分を木原と江永の使用に許されたのである。蓋し維新後は、勿論此制度は消滅して、現時普通物食器の如きは、三山何れも判別し難きに至つたのである。
當時は三河内藩窯に使用さる、御用工八十八名窯燒手傳五十一名、赤繪屋六名にて、三河内山の戸數三百餘、それに木原山江永山を合して、三陶山の戸數五百除させられた。
三ツ岳番所
此頃三つ岳の網代土を採掘し、夜中船積して密かに他領の陶山へ販賣する者あるを見せしより、藩主松浦詮(三十一代)に上申して、此地方に番所を置くことに定め、斯くて安政三年十一月(1857年)御番宅建築係田中記太夫窯焼本服冶工門とが協力して、三つ岳番所が竣工した。之より採掘せし網代は、一旦早岐港津元に運搬して番所の倉庫に入れ、田中記太夫之を監督すること成った。
安政より萬延年間(1855-1861年)に涉り、時の代官白川常次郎は、只管風俗の矯正に努め、そして當山の發展に盡瘁せし一人であつた。元治元年(1864年)十月中里庄之助は、皿山代官を拝命した。翌慶應元年(1865-1868年)には稲本太郎が、平戸焼物産會所の業務を擔當した。
三河内赤繪の二度焼
此年金氏太三郎、今村常作、森利喜松等の工夫に依って、赤繪の二度附をを創始した。
朝廷へ平戸焼献上
慶應元年(1865年)八月四日藩主松浦詮は、朝廷へ年々奉献の品四種の内、本年は三河内燒並びに潮煮鮑を献上の旨、同十二月二十七日幕府御用番へ届書を提出し、翌二年五月二十日届の通り奉献したのである。
慶應元年(1865年)古川又藏御用細工人に採用され、同僚高橋太郎は、五合二人扶持を給せらるゝに至つた。又馬廻り橋本太平が、三河内代官許斐衛七の跡役を命ぜられたのである。
萬寳山商舗
明治四年(1871年)王政復古となるや、藩は當時の郡古川澄二(運吉)に、平戸焼物産會社一切の業務を譲り渡すことゝなり、澄二は福本榮太郎と圖りて個人經營となし、満寶山商舗と改めた。故に當時の製品には満寶山枝榮製、又は平戸産枝榮造の銘がある。
三河内の登窯改造
明治五年(1872年)頃より、従来の三十間乃至四十間の登窯を廢し、十五問以下五六間程度に改むることゝなつた。明治六年有田の深川榮左工門より博覧會出品物として、薄手珈琲器の注文があり、之に應せし森利喜松は、該器に六歌仙畫極彩色の赤繪を施して高評を博したのである。(其子宇三郎及舎弟榮四郎、共に陶畫の名手であつた)
明治六年皿山里長(明治二年より)たりし中里庄之助は、三つ岳陶土取締役となったのである。(そして明治八年に三河内山線代となつた)
豊島政治
明治七年前記古川澄二の甥に當り、桑木場觸の豪農にて元里正の職にありし豊島政治は、家政を弟菊職に委ねて自ら三河内に来り、前記満寶山商舗を一切引受くることゝ成った。
明治十七年豊島政治は、富田熊三郎と協力して代官屋敷に商店を開き、爾來東京、横濱、神戸長崎等の貿易に従事し。同年六月中里庄之助は、興産會社を組織して其取締と成ったのである。
口石の皇室献上品
明治二十二年五月口石丈之助は、其透彫製品を皇室に献上せんことを出願し十一月十四日附を以て、時の長崎知事日下義雄の許可を得るに至りしが、翌二十三年春に及んで献納を了したのである。
三河内焼の御買上
明治二十三年 明治天皇陛下佐世保鎮守府へ御臨幸の砌、御在所陳列品中なる今村克次郎出品の太白鶏の置物壹對が、御買上の光榮に浴したのである。
福本源七
明治二十三年福本源七は、東京淺草松浦伯邸內御用焼の擔任者となった。彼は今村良作門下の捻細工人にて、従良さ號し、福本家十一代の裔孫である。そして明治二十七年まで勤務したのである。
里見政七
明治二十五年里見政七は、三河内山窯焼總代に推選され、地渡山林及江上村土場(網代)並びに早岐港原土貯藏倉庫等、一切の監督をなすことゝ成った。此歳中里與茂作(茂右工門の傍系)松浦家御用焼を命ぜられた。
此頃より豊島政治は東奔西走して、全国主要の都市に、販賣を擴張する傍ら、三河内燒の向上發展に盡瘁した。故に三山の陶家は勿論工人に至るまで、皆此獎勵に浴するに至り、漸次内外人の稱揚するところとなり、需要頓に増加して、製造の規模を擴大するに至つた。
池田直之助
明治三十年松浦詮は、平戸鶴ヶ峯の本邸に築窯するや、其製陶主任として、池田直之助選まれて勤務したのである。
【現代語訳】[Modern Japanese translation]
池田安次郎。和蘭人向けの珈琲器を研究していた池田安郎は、天保八年(1838年)、雪のように白い素地で、紙のように薄い器の焼成に成功した。三河内の薄手珈琲器はここで大きく前進した。
如猿を祀る。天保十三年(1843年)三月九日、藩主松浦煕は三皿山に覚書と和歌二首を与え、祖・如猿への報恩を命じた。覚書の趣旨は「如猿の恩徳を代々忘れず、今後は陶器満足祈願所として如猿大明神を崇敬せよ」というもの(署名「源熈」)。これにより三河内山東方の潜石の高地(二百尺)に社を建て、如猿大明神として祀った。
和歌二首(大意)。「ひたすらに山よ栄えよ――土を練り焼き上げ、人を守る神よ」「分け入って誰も見よ――鬼神さえ心を動かす、言の葉の道」。いずれも窯の繁栄と技の道を言祝ぐ歌である。
三河内焼を白磁へ完成させた功は、網代と天草の調合を成し遂げた如猿に帰すべきだが、今村父子と協力し産業の基礎を築いた高麗媼の働きも大きい。椎の峯崩れの工人たちが彼女を頼って来住し、のちの大川内藩窯崩れも三河内焼の発展を後押しした。天保十四年(1844年)、針尾島大崎の石で本殿を築き、毎年三月九日(如猿の忌日)を例祭日と定め、藩主下賜の覚書と二首を朗唱するのを例とした。あわせて「御手当米」として米一千俵を皿山庄屋に備え置いた。
木原・江永への網代土の許可。弘化三年(1847年)、木原山の石丸彌一右工門・樋口頃一らが江永山の有志とともに代官川淵莊兵衛へ願い出て、網代土使用の許可を得た。区分は、最上の「上太白」は三河内藩窯のみ、次位の「上白」以下は三河内の民窯へ、「下白」は木原・江永で使用可とした。維新後に制度は廃れ、日常食器では三山の製品を見分けにくくなった。当時、三河内藩窯の御用工88名・窯焼手伝51名・赤絵屋6名、三河内山の戸数は300余、木原・江永を合わせて三陶山計約500戸であった。
三ツ岳番所。網代土を夜間に積み出し密売する者が現れたため、松浦詮(三十一代)に上申して番所設置が決まり、安政三年(1857年)十一月に三つ岳番所が竣工。採掘土は一旦早岐港津元の倉へ入れ、田中記太夫が監督した。安政から万延(1855–1861)にかけ代官白川常次郎は風紀の是正と山の発展に尽力。元治元年(1864)十月には中里庄之助が皿山代官を拝命、慶應元年には稲本太郎が平戸焼物産會所の業務を担った。
三河内赤絵の二度焼。同年、金氏太三郎・今村常作・森利喜松らの工夫で、赤絵の二度付け焼成が始まった。
朝廷への平戸焼献上。慶應元年(1865)八月四日、松浦詮は年々の奉献四種のうち本年は三河内焼と潮煮鮑を献上すると幕府御用番に届出、翌二年五月二十日、その通り奉献した。同年、古川又藏が御用細工人に採用され、高橋太郎に五合二人扶持が与えられ、馬廻り橋本太平が三河内代官許斐衛七の跡を継いだ。
萬寳山商舗。明治四年(1871)王政復古後、藩は平戸焼物産會社の業務を郡の古川澄二(運吉)へ譲渡。澄二は福本榮太郎と図って私営とし「満寶山商舗」と改称。当時の作品に「満寶山枝榮製」「平戸産枝榮造」の銘が見える。
登窯の改造。明治五年頃から従来の三十〜四十間の登窯を廃し、十五間以下、五〜六間規模へと改めた。明治六年、有田の深川榮左工門から博覧会向け薄手珈琲器の注文があり、森利喜松が六歌仙図の極彩赤絵で高評を博す(子の宇三郎、弟の榮四郎も名手)。同年、中里庄之助は三つ岳陶土取締役となり、明治八年に三河内山線代となった。
豊島政治。明治七年、古川澄二の甥で桑木場觸の豪農・元里正の豊島政治が、家政を弟菊職に任せ自ら三河内に入り、満寶山商舗を一切引き受けた。明治十七年には富田熊三郎と協力して代官屋敷に商店を開き、東京・横濱・神戸・長崎の交易に従事。同年六月、中里庄之助は興産會社を組織し取締となった。
口石の皇室献上品。明治二十二年、口石丈之助が透かし彫の献上を出願し、十一月十四日付で長崎知事日下義雄の許可を得、翌春に献納を了した。
三河内焼の御買上。明治二十三年、明治天皇の佐世保鎮守府御臨幸の折、今村克次郎の太白鶏置物一対が御買上の栄に浴した。
福本源七。明治二十三年、福本源七が東京浅草の松浦伯邸内御用焼を担当(号・従良さ、福本家十一代の裔)。明治二十七年まで勤仕。
里見政七。明治二十五年、三河内山窯焼総代に推され、地渡山林・江上村土場(網代)・早岐港原土倉庫など一切を監督。同年、中里與茂作が松浦家御用焼を命ぜられた。以後、豊島政治は全国で販路を拡げ、品質向上と発展に尽瘁。三山の陶家と工人がその奨励に浴し、内外で称揚されて需要が急増、生産規模も拡大した。
池田直之助。明治三十年、松浦詮が平戸鶴ヶ峯本邸に築窯し、製陶主任に池田直之助を任じた。
【英語訳】[English translation]
Ikeda Anjirō. Studying coffee service for Dutch clients, Ikeda Anrō succeeded in Tenpō 8 (1838) in firing wafer-thin pieces with a snow-white body—an advance that propelled Mikawachi’s thin coffee wares.
Enshrining Nyoen. On March 9, Tenpō 13 (1843), Lord Matsuura Hiroshī granted a memorandum and two waka to the Sansarayama, ordering perpetual remembrance of the founder Nyoen and establishing the “Great Deity Nyoen” as a shrine for prayers for perfect ware. A sanctuary was built on a 200-shaku height at Senjoku (to the east of Mikawachi) and Nyoen was deified.
Two waka (sense). “May the mountain ever flourish—the god who guards those who knead earth and fire the clay.” “Enter and behold—the path of words that even demons find moving.” Both bless the prosperity of the kilns and the way of craft.
Credit and continuities. Completing Mikawachi’s white porcelain by balancing Ajiro and Amakusa clays is chiefly Nyoen’s merit, yet the Korean “old woman” (Kōrai-ōna) who labored with the Imamura lineage also played a major role; craftsmen from the Shi no Mine collapse gathered around her. The later fall of the Okawachi domain kilns likewise spurred Mikawachi’s development. In Tenpō 14 (1844) a permanent shrine of Ohsaki (Hario-jima) stone was erected; the annual festival was set to March 9 (Nyoen’s obit), and the memorandum and two waka were recited each year. The domain also deposited 1,000 bales of rice as “allowance rice” with the Sarayama headman.
Ajiro clay for Kihara and Enaga. In Kōka 3 (1847), Ishimaru Yaichirōemon and Higuchi Koroichi of Kihara petitioned with Enaga notables; Magistrate Kawabuchi Sōbee granted limited use of Ajiro: top “Jō-Taehaku” reserved for the Mikawachi domain kiln; the next “Jō-haku” and below for Mikawachi private kilns; “Ge-haku” for Kihara and Enaga. After the Restoration the system vanished and common tableware became hard to tell by district. Then: 88 official craftsmen, 51 kiln helpers, 6 overglaze painters at the domain kiln; ~300 households in Mikawachi, ~500 across the three mountains with Kihara and Enaga.
Mitsudake guard post. To curb clandestine night shipments of Ajiro, Lord Matsuura Akira (31st) approved a checkpoint; in Ansei 3 (1857) the Mitsudake guard post was completed under Tanaka Kidayū and potter Moto Fukuyaemon. Ajiro mined was first stored at Tsumoto, Haiki Port, under Tanaka’s oversight. From Ansei to Man’en (1855–61), Magistrate Shirakawa Tsunejirō reformed morals and fostered the craft. In Genji 1 (1864) Nakazato Shōnosuke became Sarayama Daikan; in Keiō 1 Inamoto Tarō managed the Hirado Trade Office.
Double-firing for red enamel. That year, thanks to Kaneshi Tazaburō, Imamura Tsunesaku, and Mori Rikimatsu, two-stage firing for aka-e was introduced.
Offerings to the Court. On Aug 4, Keiō 1 (1865), Lord Matsuura Akira reported that Mikawachi ware and simmered abalone would be among the four annual offerings; on May 20 the next year they were duly presented. Furukawa Matazō became an official craftsman; his colleague Takahashi Tarō received “five gō, two shares” rations; retainer Hashimoto Taihei succeeded as Mikawachi Daikan.
Manpōzan Shop. In Meiji 4 (1871), after the Restoration, the domain transferred the Hirado Products Company to Furukawa Sumiji (Unkichi). With Fukumoto Eitarō he privatized it as Manpōzan Shōho; pieces of the time bear marks such as “Manpōzan Eie-sei” or “Hirado-san Eie-zō.”
Reworking the climbing kilns. From Meiji 5 (1872) the 30–40-ken noborigama were replaced by smaller 5–6-ken, ≤15-ken sets. In Meiji 6, Fukagawa Eizaemon of Arita ordered thin coffee sets for an exposition; Mori Rikimatsu decorated them with brilliantly colored Six Immortals, winning high praise (his son Usaburō and brother Eishirō were also noted painters). That year Nakazato Shōnosuke became Mitsudake clay controller (then, in Meiji 8, Mikawachi mountain line head).
Toyoshima Masatsugu. In Meiji 7 he—nephew of Furukawa Sumiji, a wealthy farmer and former village head—took over Manpōzan Shōho himself. In Meiji 17 he and Tomita Kumasaburō opened a shop in the former Daikan residence and traded with Tokyo, Yokohama, Kōbe, and Nagasaki; in June Nakazato organized the Kōsan Company and became its director.
Imperial presentation by Kuchiishi. In Meiji 22, Kuchiishi Jōnosuke sought to present pierced work to the Imperial Household; Governor Kusaka Yoshio approved (Nov 14), and the offering was made in spring Meiji 23.
Imperial purchase. In Meiji 23, during the Emperor’s visit to Sasebo, a pair of “Taibai Rooster” figures by Imamura Katsujiro on display were purchased.
Fukumoto Genshichi. In Meiji 23 he became the official kiln hand for Count Matsuura’s Asakusa residence in Tokyo (art name “Jū-Rasa”), a descendant of the 11th Fukumoto line; he served until Meiji 27.
Satomi Masashichi. In Meiji 25 he was chosen chief representative of Mikawachi kilns, supervising land and forest grants, the Ajiro yard at Egami, and the raw-clay warehouse at Haiki. That year Nakazato Yomosaku (a side line of Moroemon) was commissioned for Matsuura house wares. From this time Toyoshima’s tireless marketing raised standing at home and abroad; demand surged and production expanded.
Ikeda Naonosuke. In Meiji 30 Lord Matsuura Akira built a kiln at his Hirado Tsurugamine residence and appointed Ikeda Naonosuke as chief of production.
【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]
池田安次郎。为面向荷兰人的咖啡器所作研究,池田安郎于天保八年(1838)成功烧成素地纯白、如纸般薄的器物,三河内薄胎咖啡器由此精进。
祭祀如猿。天保十三年(1843)三月九日,藩主松浦煕向三皿山下达觉书并赐二首和歌,命后世永记祖如猿之恩,建立“如猿大明神”为“陶器圆满祈愿所”。遂于三河内山东侧潜石高地(二百尺)起社而祀。
和歌二首(意旨):祝山常盛,守护和土与火之神;入山共观,连鬼神亦为“言之道”所感。皆寓祈窑业兴隆、技艺长进。
功绩与脉络。三河内由网代与天草调合成白瓷,首功属如猿;而与今村父子同心奠基之“高丽媼”亦功不可没。椎之峯崩落的工人赖其来居,后之大川内藩窑崩亦推助发展。天保十四年以針尾島大崎石建本殿,定每年三月九日为例祭,朗诵觉书与二歌,并以“御手当米”一千俵贮于皿山庄屋。
木原・江永获准用网代。弘化三年(1847),木原山石丸彌一右工門、樋口頃一等与江永山人士联名,请代官川淵莊兵衛准用网代土:最上“上太白”限三河内藩窑;次位“上白”以下许三河内民窑;“下白”给木原与江永。维新后制度废弛,日用器已难分三山。时有御用工88、窑助51、赤绘屋6;三河内山约300户,合木原江永三陶山约500户。
三ツ岳番所。因夜间偷运网代外售,松浦詮(第三十一代)准设番所;安政三年(1857)十一月竣工。所采网代先运早岐港津元入库,由田中記太夫监管。安政至万延,代官白川常次郎整肃风纪、振兴陶山。元治元年(1864)十月中里庄之助任皿山代官;慶應元年稲本太郎掌平戸焼物産會所。
三河内赤绘二度烧。当年金氏太三郎、今村常作、森利喜松等创二次上釉烧成法。
向朝廷献平户烧。慶應元年(1865)八月四日,松浦詮呈报本年四种年奉中有三河内焼与潮煮鲍;翌年五月二十日奉献如报。古川又藏任御用细工,高桥太郎给“五合二人扶持”,桥本太平继三河内代官許斐衛七之职。
萬寳山商铺。明治四年(1871)王政复古后,藩将平户焼物産會社转与古川澄二(運吉),与福本榮太郎改为私营,名“満寶山商舗”,时作见“満寶山枝榮製”“平戸産枝榮造”款。
登窑改造。明治五年前后废三十〜四十间之大登窑,改为十五间以下、五六间级。明治六年有田深川榮左工門订薄胎咖啡器,森利喜松绘六歌仙极彩赤绘而誉隆(子宇三郎、弟榮四郎皆名手)。同年中里庄之助为三ツ岳陶土取缔,明治八年任三河内山线代。
豊島政治。明治七年,其为古川澄二侄、桑木場觸豪农前里正,亲赴三河内接掌満寶山商舗。明治十七年与富田熊三郎开店于代官宅,通商京滨神长;六月中里庄之助组“興産會社”任取缔。
口石之皇室献上。明治二十二年口石丈之助请献透雕,十一月十四日得长崎知事日下義雄许可,翌春献纳。
御买上。明治二十三年明治天皇临幸佐世保鎮守府,今村克次郎作“太白鸡”一对蒙御买上。
福本源七。明治二十三年任东京浅草松浦伯邸御用烧(号従良さ,福本十一代裔),至明治二十七年。
里見政七。明治二十五年任三河内山窑烧总代,监地渡山林、江上土场(网代)、早岐港原土仓等。同年中里與茂作奉松浦家御用。自此豊島政治拓展全国销路,提振品质,内外称誉、需求遽增,生产扩张。
池田直之助。明治三十年松浦詮于平户鶴ヶ峯本邸築窑,任其为制陶主任。
【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditionalfrom Japanese]
池田安次郎。為荷蘭向咖啡器之研究,池田安郎於天保八年(1838)成功燒成素地純白、如紙之薄胎器,三河內薄胎咖啡器由是精進。
祭祀如猿。天保十三年(1843)三月九日,藩主松浦煕頒覺書與二首和歌於三皿山,命永祀祖如猿,立「如猿大明神」為「陶器圓滿祈願所」。於三河內山東之潛石高地(二百尺)建社奉祀。
和歌二首(大意):祝山常榮,守護和土與火之神;入山共觀,連鬼神亦為「言之道」所感。皆祈窯業興隆、技藝津梁。
功績與脈絡。三河內以網代與天草之調合成就白瓷,首功屬如猿;而與今村父子協力奠基之「高麗媼」亦居大功。椎之峯崩落之工人依其而來,後之大川內藩窯崩亦推進其發展。天保十四年以針尾島大崎石建本殿,定每年三月九日為例祭,誦覺書與二歌,並備「御手當米」一千俵於皿山庄屋。
木原・江永准用網代。弘化三年(1847)木原山石丸彌一右工門、樋口頃一等與江永山人士連名,請准用網代土:最上「上太白」限三河內藩窯;次位「上白」以下許三河內民窯;「下白」給木原與江永。維新後制度廢弛,日用器已難分三山。時有御用工88、窯助51、赤繪屋6;三河內山約300戶,合木原江永計三陶山約500戶。
三ツ岳番所。因夜間偷運網代外售,松浦詮(第三十一代)准設番所;安政三年(1857)十一月落成。所采網代先運早岐港津元入庫,由田中記太夫監督。安政至萬延,代官白川常次郎整肅風俗、振興陶山。元治元年(1864)十月中里庄之助任皿山代官;慶應元年稻本太郎掌平戶燒物產會所。
三河內赤繪二度燒。是年金氏太三郎、今村常作、森利喜松等創二次上彩燒成。
奉獻平戶燒於朝廷。慶應元年(1865)八月四日,松浦詮呈報本年年奉四種中有三河內燒與潮煮鮑;翌年五月二十日奉獻如報。古川又藏任御用細工,高橋太郎給「五合二人扶持」,橋本太平繼三河內代官許斐衛七。
萬寳山商舖。明治四年(1871)王政復古後,藩以平戶燒物產會社讓與古川澄二(運吉),與福本榮太郎改為私營「滿寶山商舖」,其作見「滿寶山枝榮製」「平戶產枝榮造」款識。
登窯改造。明治五年前後廢三十〜四十間之大登窯,改十五間以下、五六間級。明治六年有田深川榮左工門訂薄胎咖啡器,森利喜松繪六歌仙極彩赤繪而譽隆(子宇三郎、弟榮四郎亦名手)。同年中里庄之助為三ツ岳陶土取締,明治八年任三河內山線代。
豐島政治。明治七年,其為古川澄二之甥、桑木場觸豪農前里正,親赴三河內接掌滿寶山商舖。明治十七年與富田熊三郎於代官宅設店,通商東京、橫濱、神戶、長崎;六月中里庄之助組「興產會社」為其取締。
口石獻於皇室。明治二十二年口石丈之助請獻透雕,十一月十四日獲長崎知事日下義雄之許,可,翌春獻納。
御買上。明治二十三年明治天皇臨幸佐世保鎮守府,今村克次郎作「太白雞」一對蒙御買上。
福本源七。明治二十三年任東京淺草松浦伯邸內御用燒(號従良さ,福本十一代裔),至明治二十七年。
里見政七。明治二十五年為三河內山窯燒總代,監地渡山林、江上土場(網代)、早岐港原土庫等。同年中里與茂作奉松浦家御用。自是豐島政治拓展全國銷路、提振品質,內外稱譽,需用驟增,生產擴大。
池田直之助。明治三十年松浦詮於平戶鶴ヶ峯本邸築窯,任其制陶主任。
【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]
池田安次郎。天保八年(1838),池田安郎烧成雪白薄胎咖啡器,推动三河内薄胎器发展。
祭如猿。天保十三年(1843)三月九日,松浦煕命在三皿山奉祀“如猿大明神”,建社于三河内东之潜石高地,并以此为“陶器圆满祈愿所”,每年例祭诵读觉书与二首和歌。
要旨。白瓷之成主要归功如猿,亦赖“高丽媼”等先贤;椎之峯与大川内藩窑之变迁亦助发展。天保十四年以針尾島大崎石筑祠,另置“御手当米”一千俵。
准用网代土。弘化三年(1847)限定放开:上太白仅属藩窑;上白以下给三河内民窑;下白给木原、江永。维新后废止。其时官工88、窑助51、赤绘6;三河内约300户,三山合约500户。
三ツ岳番所。安政三年(1857)建番所以禁夜盗外运;采土先贮早岐港,由田中記太夫监管。元治元年中里庄之助任皿山代官;慶應元年稻本太郎理平户贸易所。
赤绘二度烧。同年由金氏太三郎、今村常作、森利喜松创行。
朝贡与人事。慶應元年(1865)献三河内烧与潮煮鲍;古川又藏任御用,高桥太郎给粮,桥本太平继任代官。
萬寳山商舗。明治四年(1871)改私营并更名;时代款识“満寶山枝榮製”等。
登窑改革。明治五年起改小型;明治六年森利喜松承有田订单以六歌仙赤绘获誉;中里庄之助掌三ツ岳土。
豊島政治。明治七年接掌商铺;明治十七年开店通商京滨神长;中里庄之助组兴产会社。
献上与御买上。明治二十二年口石丈之助透雕献帝;二十三年今村克次郎“太白鸡”御买上。福本源七任东京松浦伯邸御用至明治二十七年。
总代与扩张。明治二十五年里見政七任总代,监诸场所;豊島政治全国拓销,需求大增,生产扩展。
池田直之助。明治三十年任平户鶴ヶ峯本邸窑之主任。
【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]
池田安次郎。天保八年(1838),池田安郎燒成雪白薄胎咖啡器,推動三河內薄胎器發展。
祀如猿。天保十三年(1843)三月九日,松浦煕命於三皿山奉祀「如猿大明神」,於三河內東之潛石高地建社,為「陶器圓滿祈願所」,例祭誦覺書與二和歌。
要旨。白瓷之成主歸如猿,亦賴「高麗媼」等;椎之峯與大川內藩窯興替亦助其進。天保十四年以針尾島大崎石築祠,並置「御手當米」千俵。
准用網代土。弘化三年(1847)限度開放:上太白僅屬藩窯;上白以下與三河內民窯;下白給木原、江永。維新後廢止。時官工88、窯助51、赤繪6;三河內約300戶,三山合約500戶。
三ツ岳番所。安政三年(1857)設番所以禁夜盜外運;採土先貯早岐港,由田中記太夫監。元治元年中里庄之助任皿山代官;慶應元年稻本太郎理平戶貿易所。
赤繪二度燒。是年金氏太三郎、今村常作、森利喜松創行。
朝貢與人事。慶應元年(1865)獻三河內燒與潮煮鮑;古川又藏為御用,高橋太郎給糧,橋本太平繼代官。
萬寳山商舖。明治四年(1871)改私營更名;時見款「滿寶山枝榮製」等。
登窯改革。明治五年起改小型;明治六年森利喜松承有田訂單以六歌仙赤繪受譽;中里庄之助掌三ツ岳土。
豐島政治。明治七年接掌商舖;明治十七年開店通商京濱神長;中里庄之助組興產會社。
獻上與御買上。明治二十二年口石丈之助透雕獻帝;二十三年今村克次郎「太白雞」御買上。福本源七任東京松浦伯邸御用至明治二十七年。
總代與擴張。明治二十五年里見政七任總代,監諸場域;豐島政治全國拓銷,需求驟增,生產擴展。
池田直之助。明治三十年任平戶鶴ヶ峯本邸窯之主任。

