楽解説(3) 一入(いちにゅう)
一入の用いた胎土は、長次郎以来の聚楽土〔じゅらくつち:京都・聚楽周辺で産した粗めの陶土〕のほか白土〔注:可塑性が高く発色が明るい陶土〕、さらには備前土〔びぜんつち:耐火度が高く鉄分に富む岡山系の土〕を混ぜ合わせる配合で、狙いに応じて土味を調整したと考えられます。また黒楽に現れる朱釉〔しゅゆう:赤~朱色の発色を示す釉景〕は一種の窯変〔ようへん:焼成中の予期せぬ化学変化による景色〕で、釉中の鉄分が漂泊して発色したものとみられ、目跡〔めあと:焼成時の支え跡〕—すなわち五徳目〔ごとくめ:三点支持の跡〕は一入期から三個がほぼ通例となります。
ただし伝来の「一入作」には注意が要り、先代・覚入(かくにゅう)の言に従えば、一入の庶子・一元(いちげん)やその子・弥兵衛(やへえ)による玉水焼〔たまみずやき:南山城の玉水で興った一門系統の窯〕初期の作に、一見して一入に酷似する朱釉の呈発例が少なくありません。実見比較では、釉調だけでなく作行きや土味にも差が読み取れるものの、厳密区別は容易ではなく、世上には玉水系を一入と見なした例が意外に多いのです。外側全面が鮮烈な朱で均一に焼き上がる作は玉水に多く、黒釉地に斑に朱が浮き、かつ内外とも朱の呈発が認められるものは一入の典型といえます。
一入作では総釉〔そうゆう:全面に釉を掛ける〕が圧倒的に多く、土見せ在印〔どみせざいいん:高台内に土肌を見せて印を捺す〕は少数で珍重されます。印の上に釉が流れて印影が潰れた潰し印、無印の作も相応に存在し、判別には高台の作りが要で、小振りで強い丸みをもたせた高台は一入の大きな識別点です。箱や由緒の文字に頼るより、まず高台と口造り・土味・釉景を優先するのが鑑識の基本でしょう。
一入の頃から、共箱〔ともばこ:作者自署・捺印のある元箱〕の蓋表に「吉左衛門」あるいは「一入」と署名・捺印する作法が整い、生涯を通じて一種の印のみを用いました。しかし道入(どうにゅう)印と酷似するため、印上に釉が掛かった潰し印で作調が道入風の作に対し、後世、千家の宗匠が誤って「ノンコウ(道入)作」と書付した例が見られます。逆に道入作「小鷹(こだか)」を一入と誤記した箱も伝わり、箱書〔はこがき:蓋裏の銘・由緒書き〕の判定は『宗入文書』に記録されている系譜情報や実物の様式審査と併せて慎重を要します。
年譜をたどると、寛文二年(1662)二十四歳の折に玉水村出身の妾との間に一元(玉水焼初代)が生まれ、寛文五年(1665)には雁金屋三右衛門の子・平四郎(のち宗入/そうにゅう)を養子に迎えます。元禄四年(1691)秋、五十二歳で剃髪して隠居し「一入」と号し、元禄九年(1696)一月二十二日に五十七歳で歿、法名は体門院一入日悟居士と伝わります。これらは『宗入文書』や家伝の記録に見え、箱書・花押と合わせて年紀比定の拠り所となっています。
道入の代から楽家は伊勢の御師〔おんし:伊勢参詣者を世話し布教・案内を担う神職的役〕との関わりがあり、一入も庶子一元・養子宗入と伊勢山田(いせやまだ)に寓居して焼造したと伝えられます。宗旦四天王の一人で伊勢山田の御師・杉木普斎(すぎき ふさい)の招請による動向と推測され、この地方制作は玉水系の形成や流通の回路にも影響したでしょう。こうした動静は『日本楽家伝来』などに記され、工房の地理的広がりを示しています。
住居の移転にも事情があり、道入期に油小路(あぶらのこうじ)界隈にあった楽家は、一入の時に経済的理由から妻の実家である蒔絵師・熊谷宗閑(くまがい そうかん)のもと、猪熊元誓願寺下ルへ移住し、晩年に現在の油小路へ戻りました。なお妻は老年に「妙入(みょうにゅう)」と号して作陶し、その作は妙入焼と称されたと伝わります。地縁・姻戚のネットワークが、楽家の制作と販路を下支えした点は見落とせません。
宗入は一入の養子として家を継いだ人物で、実父は京都・油小路二条上ルの雁金屋三右衛門であり、三右衛門は光琳・乾山の父・尾形宗謙の弟に当たるため、京都町人の上層に属する出自でした。寛文四年(1664)生まれ、二歳で養子となり、元禄四年に一入隠居ののち二十七歳で代を譲られ吉左衛門を称したと伝えられますが、『宗入文書』に「元禄元年(1688)すでに吉左衛門を称す」と読める箇所もあり、早期から襲名が内定していた可能性が指摘されます(『宗入文書』に記録されている)。
一入の実子たる一元の存在は、宗入にとっても楽家にとっても相続上の火種でした。玉水焼六代・涼行斎弥兵衛の述べる『日本楽家伝来』には、一元が豊臣秀吉賜与の銀の楽印や家伝の秘書を持ち去った旨が記されますが、他方、楽家に伝わる一入の遺言書(楽美術館蔵)には、一元が母と別宅に住み六歳頃に充分な手当を得て家を出たのち、飢饉に際して一時手伝い、晩年に再び出された経緯が記録されています。やがて一元は母の出自地・南山城玉水(京都府綴喜郡井手町玉水)に一家を構え、玉水焼を創始したのでしょう。
宗入は宝永五年(1708)四十五歳で剃髪・隠居し、不審庵の随流斎宗左(ずいりゅうさい そうさ)の「宗」の字を、覚々斎(かくかくさい)原叟から賜って「宗入」と号したとの伝えがあります。ただし不審庵では利休以来「宗」の字を代々用するため、この由緒は伝説性が濃く、覚々斎からの「麁閑亭(そかんてい)」の号拝受も含め、史料批判が必要です。享保元年(1716)九月三日歿、五十三歳、法名は梅室院宗入日馨居士とされ(『宗入文書』に記録されている)、この頃には三千家が大名に仕えて経済が安定し、密接な関係にある楽家の境遇も次第に持ち直したと推測されます。
『任土斎秘書』写本には「一入までは貧者にて宅も方々に住す」と記され、『本阿弥行状記』には道入の清貧が語られます。もし宗入期に家運が上向いたとすれば、養子縁組の経済基盤だけでなく、宗旦の窮乏期を過ぎて三千家が諸侯の庇護を得た時代背景の反映と見るのが妥当でしょう。いずれにせよ、一入と宗入が連名で系譜覚書『宗入文書』を記し、それが長らく秘されてきたのち、十四代・吉左衛門(覚入)の英断で公開された事実は大きく、長次郎焼の作者比定に関わる基礎資料として決定的意義を持ちます(『宗入文書』に記録されている)。
要約(300〜500字)
一入は聚楽土に白土・備前土を配し、黒楽に朱の窯変を呈する独自の釉景を示したが、玉水焼初期の一元・弥兵衛作が一入に酷似し、伝来品の比定には高台や土味・釉の精査が不可欠となる。総釉が主で土見せ在印は稀、丸みの強い小振り高台が鑑識点で、共箱の署名・捺印制度も整う一方、箱書の誤記・誤付も少なくない。年譜上は1662年に一元をもうけ、1665年に宗入を養子とし、1691年に隠居して「一入」と号、1696年歿。宗入は上層町人の出で家を継ぎ、伊勢の御師や杉木普斎との縁で地方制作も展開、経済は三千家の安定と連動して持ち直す。系譜覚書『宗入文書』の公開(覚入の英断)は、長次郎焼作者の比定に決定的手掛かりを与えた。
【関連用語】
- 聚楽土:京都・聚楽周辺の土。鉄分を含み黒楽・赤楽に適する土味。
- 白土:白色系の陶土。発色を明るくし、釉の景を際立たせる。
- 備前土:岡山系の耐火度の高い土。鉄分が多く締まりのある胎を生む。
- 窯変:焼成中の化学変化で生じる偶然性の景色。
- 朱釉:赤〜朱の発色を示す釉景。黒地に斑に現れる一入の典型が知られる。
- 目跡/五徳目:焼成支持具の痕跡。三点支持の三個痕が通例。
- 総釉・土見せ在印:全面施釉と、高台内に土肌を見せ印を捺す作法。
- 潰し印・無印:釉が流れて印影が潰れた状態/印がない作。
- 共箱・箱書:作者署名・捺印の元箱/蓋裏等の由緒・銘記載。
- 玉水焼:南山城・玉水で一元らが始めた楽系の手捏ね茶陶。
- 一元(いちげん):一入の庶子。玉水焼初代とされる。
- 弥兵衛(やへえ):一元の子。玉水焼の後継。
- 宗入(そうにゅう):一入の養子、のちの楽吉左衛門。家を継承。
- 御師(おんし):伊勢参詣を世話する神職的役。流通・販路に影響。
- 杉木普斎:宗旦四天王の一人。伊勢山田の御師で楽家に関与。
- 『宗入文書』:楽家系譜の覚書。作者比定の基礎資料(〜に記録されている)。
- 『日本楽家伝来』:玉水系の伝承や印紛失譚を伝える記録(〜に記録されている)。
- 『任土斎秘書』:一入までの貧窮や住替を記す写本(〜に記録されている)。
- 『本阿弥行状記』:光悦・道入周辺の言行を残す記録(〜に記録されている)。

