桃山後期から江戸初期の唐津焼の展開は、美濃陶芸と軌を一にして侘茶(わびちゃ)〔注:簡素・幽玄を尊ぶ茶の湯の様式〕の盛行が国産茶陶への需要を押し上げ、量産化を促した帰結とみられ、その端緒を大きく押し広げたのが文禄・慶長役でした。
文禄元年、豊臣秀吉の名護屋城滞陣に際し、古田織部重然が新作茶陶への旺盛な意欲を携えて在陣した事実は、唐津における茶陶焼造へ強い刺激を与えたと推し量られ、さらに波多氏滅亡後に唐津藩主となった寺沢志摩守広高(てらざわ しまのかみ ひろたか)が美濃出身で利休門下、織部とは同門に当たること、天正十九年秋には名護屋城の普請奉行を務めた経歴も、織部好み〔注:造形の奇想と大胆な意匠を尊ぶ志向〕の量産体制を後押ししたと考えられます。
唐津は信楽・伊賀・備前などの焼締陶と異なり、施釉陶(せゆうとう)〔注:釉薬を施す陶器〕であるうえ、鉄絵(てつえ)による下絵付を主要技法としたため、美濃の志野・織部に通う作風が自然に生まれやすい条件がそろい、茶陶としての展開に適した技術基盤を備えていました。
文禄以前に開かれていた岸岳諸窯は、例外を除けば日用雑器が中心だったと推定されるものの、歳遣船(さいけんせん)貿易を通じて波多氏ら松浦党が朝鮮から高麗茶碗を請来・流通させた事実に照らせば、十六世紀中葉に窯が稼働していた場合には高麗茶碗風の倣作が唐津で始まっていた可能性は高く、渡来陶工を擁した唐津はまさに倣造の最適地でした。
その後、文禄・慶長役を経て織部好みの生産が広がる一方、井戸(いど)や熊川(こもがい)に似た、いわゆる奥高麗または近縁の形式の茶碗が数多く焼かれ、今日伝わる遺品群は当時の多様な志向と市場の厚みを雄弁に語っています。
要約(其の四|300〜500字)
桃山後期~江戸前期、侘茶の隆盛により国産茶陶需要が拡大し、唐津でも量産化が進む。文禄・慶長役期の名護屋城滞陣に古田織部が関与し、さらに美濃出身で利休門下の寺沢広高が唐津藩主となったことで、織部好みの制作環境が整備・推進された。唐津は施釉・鉄絵を基盤とし、美濃様式と親和的な技術条件を有していたうえ、歳遣船貿易や渡来陶工の存在から高麗茶碗風の倣作も早くから得意とした。戦役後は織部系と並行して、井戸・熊川に通う奥高麗系の茶碗も大量に焼成され、現存作は当時の多元的展開を示す一次史料となっている。
【関連用語】
- 侘茶:簡素・静謐を旨とする茶の湯美意識
- 織部好み:古田織部にちなむ大胆・奇趣の茶陶様式
- 寺沢志摩守広高:美濃出身の唐津藩主。利休門下
- 名護屋城普請奉行:名護屋城築造の実務責任者
- 施釉陶:釉薬を施した焼物の総称
- 鉄絵:酸化鉄を含む顔料で描く下絵付
- 井戸・熊川:高麗茶碗の代表的類型
- 奥高麗:井戸系に近い上手の高麗茶碗群
- 歳遣船貿易:中世~近世初頭の日朝間の公式交易船制度

