柿右衛門邸の碑文~樋口利三郎

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【原文】[Original text]

柿右衛門邸の碑文
 酒井田邸内に初代柿右工門の胸碑があり、其碑銘の中に左の文がある。

酒井田柿右工門陶碑銘
窮通之無端猶環也、生而窮、死而大通者、吾於酒井田柿右衛門見之。肥前陶器吳洲燒、邃創始於天正年間云、肥前國曲川村南河原之地爲根基矣。元和三年柿右衛門受南京燒之傳於豐公之臣高原五郎七尋察陶器之脆弱而不便日用、發見磁石乎有田泉山是爲我邦磁器之濫觴焉。於是製磁之業大擴焉正保三年企圖錦彩磁器之創製丹精鍊心神苦而發明焉、其名夙與所製錦彩磁器爲所世人之稱讚美舉也、偶會人之來請通好於我邦、一見驚其精巧與銫美購焉而歸矣。是實係乎外國貿易之嚆矢經世十一、至於澁之助、當地交通貿易之法、外於開、而殖產興業之道、內於通。明治十八年當於東京上野有繭絲織物陶磁器共進會之舉、追賞柿右衛門之功勞、賜金參拾圓。嗚呼窮通之無端猶環也、柿右工門所苦心焦思、發輝乎數百年之後者、是非生而窮、死而大通者乎。我澁之助、感泣追慕、不自禁抛賞金建石傳永久之無窮
明治十九年四月 淡水福地源六撰並書
酒井田姓十一世之孫澁之助建之
 右の文中呉洲焼とは、化粧陶器に呉須の染附を飾せるものの如く、それが果して天正年間より南川原にて製作せしや煽る怪しく、而して元和三年(1617年)柿右工門が、五郎七に磁器製法を授かりしとは従来の歴史に比して十年程早きゆえに、彼が二十二才の未熟なる青柿時代となる。就中柿右工門が泉山の磁石を發見して、日本の磁器を創製せしなどは余りに捏造過ぎる。蓋し該碑は後年某官吏が初代柿右工門の徳を頌する余り臆測的に作りしものならんも、斯くては李参平碑を建設せし多数の有志にも相濟まずさして、現代柿右工門が之を撤廃せしは賢明な處置であつた。

柿右衛門劇の出演
 大正元年頃名優片岡仁左工門(十一代松島屋)は、竹柴琴二創作の柿右工門劇を明治座に於いて出演し、大喝采を博したのである。此時在京の西松浦郡出身有志、藤山雷太、森永太一郎、松尾寬三、松尾廣吉等は、此際引幕を贈呈すべく協議を纏め、青木徳一郎(佐賀市出身の日本銀行員)が藤田春吉(西松浦郡大山村出身)と共に之が斡旋の勞を執り、執行弘道(佐賀市出身の美術家)の考案に成る、大壺圖案の優美なる引幕を、仁左工門へ贈ったのである。
 其後仁左工門は帝國劇場に於いて、又柿右工門劇を出演するに當り、柿右工門は此時上京して製品を販売するや大いに仁左工門丈の宣傳に負ふところありしといはれてゐる。

柿右衛門會社
 大正十四年四月福岡縣人小畑秀吉は、十二代柿右工門に對し資金を提出して、二萬五千圓の柿右工門燒合會社を設立し、同山の邊り丸山に洋風の工場を建築して、南川原本邸の工場と協同經營することゝなった。そして此年には京都に於いて、仁左エ門一座の柿右工門劇興行に困り、大いに宣傳に努め、秀吉は絹地の引幕を仁左エ門に贈呈した(仁左工門は昭和九年十月十六日卒す 七十八才)

御成婚奉祝品
 之より先き大正十三年六月五日皇太子殿下御成婚奉祝品として、佐賀縣より柿右工門謹製の、高足尺口の御菓子器を献上した。

御即位奉祝品
 昭和三年十月御即位御大典奉祝品として、佐賀縣より柿右工門謹製の太白麒麟の置物を献上した。該品は高さ一尺六寸にて、二宮錠太郎が護作せしものである。

柿右衛門會社の分離
 昭和三年十二月柿右工門は、豫備陸軍中將堀田正一の後援を得ることにより、合資會社鮮退を申込みしを以て 小畑秀吉と分離することゝ成った。依つて是れまで使用しつゝあり角幅の商標は、法理上前會社の所有権に移り、之より柿右工門は自邸工場のみにて製造することゝなり、今柿右工門作の銘を用ひてゐる。

柿右衛門古製品
 柿右工門の製品は初代より三代まで、又六代の後見澁右工門作等に優品多しといはれてゐる。現今の遺品は其何れの作品なるか不明にして只その作風と匂ひに依って鑑定する外はない。製品には赤繪五艘船繪の八寸皿、同内龍鳳丸外は岩梅に尾長鳥模様の八角形八寸の丼同真垣梅畫桔梗形三寸の皿、同竹に虎畫八形角七寸の深丼、同真垣櫻尾長鳥嗇桔梗縁八寸丼、同岩梅鳳凰畫桔梗淵浮彫(錆花)八寸丼、同丸紋底龍畫桔梗縁六寸丼に緑紅を施したのがある。
 又十方浮出模様に、赤釉丸紋畫桔梗ぶら緑の縁紅井があり、隅込縁の六寸角皿に錦附稻妻割内九紋龍地文詰にて、外は簡潔なる枯木水禽を描きしものがある、或は錦八角形五寸の水指や、梅鳳凰畫の青磁六角皿に縁紅を施せしものがあり、染附古代鷹畫外青海波詰の墨弾きにて三つ足附桔梗形七寸の菓子器がある。其外錦雲龍畫の長角皿、同南天繪蓋附四方形の手焙があり、又染附臺附六角の火鉢に、割内眞山水繪、外鹿子地猫の呉洲色美事なる逸品等がある。
 之等の圖案を概略すれば、梅と菊の外草花類頗る多く、中にも竹、棕櫚、楓、柏、松、桜等を重なるものとし。動物には尾長鳥をはじめ、龍、鳳凰、鹿、虎、鷹、及人物山水等があり。就中吳洲及赤繪具にて、柴垣が巧に使用されてゐることは色鍋島と圖案の共通が窺はれ、或は和蘭と盛んに取引せし關係上、該地の玻璃器や陶器、又は更紗模様などを、巧に日本化せし圖案がある。

南川原の名陶家
 南川原山には、古来より名陶家少からざりしことは、今其遺品に依って知らるるも、由来此處も有田と同じく自家の製品に、一定の作銘を用ひしもの稀なるを以て、今に及んでは誰人の作品なるか知るよしがない。而して此無銘の逸品は、多く柿右工門作なるべして片付らるゝ風がある。

中野徳兵衛
 當時宗藩の御用品を製せしものに中野徳兵衛といへる名陶家ありて、染附の鉢類などに其優品が残されてゐる。彼は初代柿右工門と同時代にて、寛文元年七月二十一日卒去し、墓碑は下南川原共同墓地にあり、其後裔者に有田白川町に居住する中野久一がある。

徳永常光
 徳永常光は、元武雄藩の武士なりしが、先代より此地に移住して磁器を製し、抜群の名陶家とて、屢宗藩の御用品を製作し大窯焼であつた。然るに或時藩用の日限物を製作して、漸く窯へ積入を了せしところ、密かに窯の器の全部へ砂を振り掛け置きしものありて、燒上げし器物悉く用を成さす、再び之を製するには余日なき申譯と、憤怒の極、彼れ遂に屠腹して相果てたのである。時に寛文十二年(1672年)十月二十四日である。

常光の碑
 今下南川原共同墓地に、約一間角に臺石を積める多寶塔式の宏大なる彼の墓碑があり施主には土肥源左エ門尉とある。此事件は同業者中彼を炻める者の所業と見られ、或は柿右工門に關係あるが如き説をなすものあるも、二代柿右工門は六年以前に卒去し、三代柿右工門は同年の十月十四日則ち常光が自殺せる十日以前に卒去してゐる。

樋口利三郎
 後代の名陶家として、上南川原の樋口利三郎があつた。其製品は前記の如く樋口の窯とて、近年多くの優品が登掘されてゐる。彼れ資性剛膽且機略に富み、曾て此地方の利け者であつた。其頃有田泉山の磁石分配上につき内山(有田)外山(有田外陶山)の悶着生じ、結局内山よりは、泉山の石一塊たりとも、外山へは搬出させまじき氣勢を示すに至った。外山窯焼は大いに之と抗議すべく結束し、其代表者として黒牟田の梶原忠蔵と此利三郎が、談判の街に當ることゝ成った。


【現代語訳】[Modern Japanese translation]

柿右衛門邸の碑文とその評価

 酒井田邸には初代柿右工門の胸像碑があり、碑文には「呉須染付が天正期に南川原で始まり、元和三年に柿右衛門が高原五郎七から南京焼を伝授、泉山の磁石を発見し日本の磁器を開いた」と記す。しかし天正期起源や元和三年伝授は年代が合わず、泉山発見を柿右衛門に帰すのも作り話に過ぎる。初代を顕彰するあまり事実と乖離したため、現代の柿右衛門が撤去したのは妥当であった。

舞台と宣伝

 大正元年頃、片岡仁左工門が竹柴琴二作『柿右工門』を明治座で上演し大評判。西松浦郡出身の藤山雷太・森永太一郎・松尾寛三・松尾廣吉らが引幕を寄贈し、青木徳一郎・藤田春吉が周旋、執行弘道が意匠を担った。のち帝国劇場でも上演され、柿右工門は上京して販路拡大に成功した。

柿右衛門会社の設立と離別

 大正十四年、福岡の小畑秀吉が12代柿右工門と出資し資本金二万五千円の会社を設立。丸山に洋式工場を建て本邸工場と協業、京都での公演と連動した宣伝も実施。のち昭和三年、堀田正一の後援で合資から離脱し小畑と分離。角福商標は法理上旧会社に移り、以後は「柿右工門作」の銘で自邸工場のみで製作した。

御慶事の献上品

 大正十三年六月五日、皇太子御成婚に高足の御菓子器を佐賀県として奉献。昭和三年の御即位大典には太白麒麟の置物(一尺六寸、二宮錠太郎護作)を献上。

古製品の特徴

 初代〜三代、また六代後見の澁右工門作に名品が多い。現存品は無銘が多く、作風と気配で見きわめる他ない。赤絵の五艘船、龍鳳丸、岩梅に尾長鳥、竹に虎、真垣桜、鳳凰浮彫、丸紋底龍文など多彩。十方浮出に赤釉丸紋、稲妻割と九紋龍を配した角皿、青磁六角に縁紅、古代鷹文・青海波の菓子器、雲龍の長角皿、南天図の手焙、六角火鉢の山水図など、意匠は柴垣・更紗・ガラス器意匠の和風化も見られる。

南川原の名工たち

 南川原は無銘の逸品が多く、安易に柿右工門作へ帰す風潮がある。宗藩御用の中野徳兵衛(寛文元年没)は染付鉢に優作を残す。徳永常光は武雄出の武士から転じ大窯を率い御用を担ったが、妨害で期限に間に合わず憤死(寛文十二年十月二十四日)。墓は下南川原の多宝塔式で、施主は土肥源左工門尉。柿右工門関与説もあるが、二代は既に没し三代も同年十月十四日に逝去しており、時系列上成り立たない。

樋口利三郎と泉山石争議

 上南川原の樋口利三郎は剛胆で機略に富む名工。泉山の原料配分で内山・外山が対立した際、外山側の代表として黒牟田の梶原忠蔵と並び交渉の先頭に立った。


【英語訳】[English translation]

The Kakiemon house stele and its critique

At the Sakaida residence stood a bust-stele of the first Kakiemon. Its inscription claims: Gosu underglaze blue began at Minamigawara in Tenshō; in Genna 3 (1617) Kakiemon learned “Nanking ware” from Takahara Gorōshichi, discovered porcelain stone at Izumiyama, and founded Japanese porcelain. These dates conflict with established history, and crediting the discovery to Kakiemon is fabrication. Likely penned by an overzealous official, the stele was rightly removed by the present Kakiemon out of respect for historical accuracy.

Stage drama and publicity

Around 1912, the star Kataoka Nizaemon staged Takeshiba Kinji’s play “Kakiemon” at the Meijiza to great acclaim. Tokyo-based patrons from Nishimatsuura—Fujiyama Raita, Morinaga Taichirō, Matsuo Kanzō, Matsuo Hirokichi—presented a curtain; Aoki Tokuichirō and Fujita Harukichi arranged it; the artist Shigyō Kōdō designed a grand jar motif. Later at the Imperial Theatre the play aided Kakiemon’s sales during his Tokyo visits.

Company, separation, and trademark

In 1925 Obata Hideyoshi (Fukuoka) funded the 12th Kakiemon to found a ¥25,000 joint company, building a Western-style plant at Maruyama to co-operate with the home kiln; promotional tie-ins accompanied Kyoto performances. In 1928 Kakiemon, backed by Lt. Gen. Hotta Masakazu (reserve), withdrew from the partnership; the square-Fuku trademark legally stayed with the former company, and production continued solely at the home kiln under the mark “Work of Kakiemon.”

Imperial gifts

For the Crown Prince’s wedding (June 5, 1924) Saga Prefecture presented a high-stem confectionery dish by Kakiemon. For the 1928 enthronement, a white-ground kirin figure (1 shaku 6 sun; made under Ninomiya Jōtarō) was dedicated.

Hallmarks of early works

Masterpieces are attributed to the 1st–3rd Kakiemon and to Shibue-mon as guardian of the 6th. Most are unsigned; attribution relies on style and aura. Motifs include five ships, dragon-phoenix, rock-plum with long-tailed birds, bamboo with tiger, cherry fences, phoenix in relief, roundel dragons, etc. Designs skillfully adapt hedge patterns, chintz, and glassware motifs from Dutch trade into Japanese idioms.

Noted Minamigawara potters

Many superb unsigned wares in Minamigawara are too readily labeled “Kakiemon.” Nakano Tokubei (d. 1661) left fine blue-and-white bowls. Tokunaga Tsunemitsu, a former Takeo retainer, led a major kiln for domain commissions but, after sabotage ruined a deadline firing, killed himself (Oct 24, 1672). His grand pagoda-style grave, endowed by Dohi Genzāemon, stands at Shimo-Minamigawara. Rumors tying Kakiemon to the incident collapse chronologically.

Higuchi Risaburō and the Izumiyama stone dispute

Later, Higuchi Risaburō of Kami-Minamigawara—bold and resourceful—became a key figure. When allocation of Izumiyama stone pitted “inner” Arita against “outer” hills, he joined Kuromuta’s Kajiwara Chūzō to lead negotiations on behalf of the outer kilns.


【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]

邸内碑文与史实检讨

 酒井田宅中有初代柿右工门胸像碑,碑文称“天正期南川原即始作呉须染付,元和三年柿右卫门从高原五郎七传南京烧,并在泉山发现磁石、开日本瓷器先河”。然其纪年与史实不合,将泉山之发现归于柿右卫门亦属附会。此碑多为过度颂德之臆说,后代柿右卫门将其撤除,实为妥当。

戏剧与宣传

 大正元年前后,片冈仁左工门在明治座上演竹柴琴二作《柿右工门》,大获好评。藤山雷太、森永太一郎、松尾寬三、松尾廣吉等捐赠帷幕,青木徳一郎与藤田春吉经办,執行弘道设计。其后帝国剧场再演,柿右卫门趁机入京推销,收效甚佳。

公司创设与分离

 大正十四年,小畑秀吉与十二代柿右工门创立资本二万五千圆之公司,丸山新建洋式工场并与本邸合营。昭和三年在堀田正一支持下脱离合资,与小畑分手;角福商标依法归前公司,柿右工门改以“柿右工门作”在自家工场生产。

御庆献纳

 大正十三年皇太子成婚,佐贺县奉献高足御菓子器;昭和三年御即位大典,又献太白麒麟置物(一尺六寸,二宮錠太郎监制)。

古作风貌

 名品多归初代至三代与澁右工门(为六代监护)。多无款,惟凭风格气息判断。题材广泛:五艘船、龙凤丸、岩梅与尾长鸟、竹虎、真垣樱、浮雕凤凰、丸纹龙等;并巧化柴垣、更纱与玻璃器纹样之洋意为和风。

名工列传与泉山之争

 南川原多无款佳作,动辄归柿右工门非稳妥。中野德兵卫(寛文元年卒)之染付器尤佳。德永常光由武士转为窑主,多次承制御用,因受人投砂破坏而负期,自刎殉事(1672年10月24日)。其塔式巨墓由土肥源左工门尉立。牵连柿右工门之说不合年序。上南川原之樋口利三郎胆识过人,于泉山石分配争端中与黑牟田梶原忠藏并肩为外山交涉代表。


【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditional from Japanese]

邸內碑文與史實檢討

 酒井田宅有初代柿右工門胸像碑,文稱「天正期南川原創作呉須染付,元和三年從高原五郎七得南京燒,復發現泉山磁石以開日本瓷器」。然年序不合,且將泉山之發見歸於柿右衛門屬過度揣測。後世撤碑,合宜。

戲劇與宣傳

 大正元年前後,片岡仁左工門於明治座演出竹柴琴二《柿右工門》,大受喝采。藤山雷太、森永太一郎、松尾寬三、松尾廣吉等捐幕,青木德一郎、藤田春吉周旋,執行弘道設計。帝劇再演時,柿右衛門上京售器,聲名大振。

公司與分離

 大正十四年小畑秀吉與十二代創立合資公司(資本二萬五千圓),丸山建洋式工場與本邸合營。昭和三年在堀田正一支援下退夥,角福商標歸前公司,自此以「柿右工門作」專於自家工場製造。

御慶獻納

 大正十三年皇太子成婚奉獻高足御菓子器;昭和三年御即位奉獻太白麒麟(一尺六寸,二宮錠太郎護作)。

古作特色

 名品多見於初至三代及澁右工門(護六代)。多無款,唯憑風格辨識。圖樣有五艘船、龍鳳丸、岩梅與尾長鳥、竹虎、真垣櫻、鳳凰浮雕、丸紋龍等,並巧化更紗與玻璃器紋樣為和風。

名工與泉山石爭

 南川原無款佳品甚多,不宜一概歸柿右工門。中野德兵衛(寬文元年卒)之染付尤精。德永常光承製御用,遭人投砂致毀,因限期難繼而自刎(1672年10月24日)。墓為多寶塔式,施主土肥源左工門尉。牽連柿右工門之說乖年序。樋口利三郎膽略過人,泉山分配紛爭時與黑牟田梶原忠藏共為外山代表。


【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]

碑文、戏剧与商标(英译直译)

 碑称柿右卫门自1617年起开日本瓷器,属失实,后被撤。1912年前后《柿右工门》舞台剧助推销售。1925年与小畑秀吉设公司,1928年分离,角福商标归旧公司,改署“柿右工门作”。为皇室庆典献纳器物。早期名品多无款,凭风格判别;题材含船、龙凤、岩梅、竹虎等,并吸收和兰贸易图样。德永常光遭破坏后自尽;樋口利三郎在泉山石配给争议中为外山发声。


【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]

碑文、戲劇與商標(英譯直譯)

 碑文將日本瓷器之創開歸於柿右衛門,與史實不合,後被撤除。1912年前後舞台劇《柿右工門》帶動銷路。1925年與小畑秀吉設公司,1928年分離,角福商標歸舊公司,改署「柿右工門作」。屢為皇室慶典進獻。早期名品多無款,憑風格辨識;題材含舟、龍鳳、岩梅、竹虎等,並吸納和蘭貿易紋樣。德永常光遇妨害自刎;樋口利三郎於泉山石分配之爭代表外山交涉。