【原文】[Original text]
鬼子嶽窯
持は前記小次郎官者の子孫を招き、鬼子嶽城下の山中なる飯洞甕(北波多村鮎歸)に於て開窯せしめしとの説があり、又此折韓土の陶工渡來せしさの口碑あるも詳でない。そして後年此飯洞甕にありし一部の陶工を古椎(南波多村椎の峯の舊名)に分窯せしめしより、此地方の民間に普く陶器の使用擴まりしといはれてゐる。
割竹式の窯
此鬼子嶽山中の古窯は、既に久し以前より世に知られしが、武雄の古窯家金原京一及び唐津の中里太郎右工門等が踏査に因って喧伸され、昭和六年十一月廿五日東京工政會理事倉橋藤治郎は前記の京一等と共に此處の飯洞、帆柱、皿屋の各古窯趾を探見中、此飯洞甕と桐木盤が約七百年以前築造され朝鮮北方系に属する割竹式窯なることを考證して、學界に大なるセンセーションを巻き起きしめたのである。
割竹とは丸竹を折半せし如き蒲鉾形にて、飯洞甕には完全に長さ五十四尺の窯があり、そこよ二拾間許りを隔てし桐木盤の窯趾は六十尺位なるが、何れも共内部を五六室に仕切られてある。
想ふに此傾斜面に築ける長窯内の仕切なるものが後には丸窯を連織せる登窯となりしものにて、斯道の窯式研究上貴重なる材料であらう。
貝高臺と焼ハマ
此古窯の製品中に貝高臺焼なるものがある、それは小形の浅蜊や蜆等を五、六個位ハマ(耐火土製の焼臺)の上に並べ、共上に器物を載せて焼きしものにて、焼成器の高臺には顯はならざるも、糸切底には獅子貝の痕などが印花的に現はれてゐる。そしてハマにも共貝痕が顯然たるは勿論である。
籾殻敷の解
又高臺に籾殻の痕跡あるものは、當時は現代の如く皿板(生造りの器を載せる板)を得ること易からざりしゆへに、平坦なる地面を應用せしものらしく、同時に共地面の濕気と器物の乾燥を調節するため籾殻を敷き擴け、其上に生造りの器を載せしものにて、決して籾殻を敷きて焼きしものにあらずといはれてゐる。
而して此處の製品の質頗る堅緻なるもの多く、何れも釉薬が施されてゐる。仁治三年(六百九十三年前)彼の加藤春慶が瀨戸に來つて開窯せる同時代、或は其以前に於いて、斯の如き優秀なる陶器を製作しは、本邦中他に比類あらざる可く唐津焼の製作が如何に古くより發達せしかするものである。
飯洞甕及桐木盤窯の次には帆柱窯(北波多村)が築造され、次に三矢谷(相知村上佐里)平松(同)大谷(同下佐里)皿屋窯(北波多村徳須惠)等が開窯されしものゝ如く、之等を総括して鬼子嶽窯いふのである。又稗田焼と稱させらるゝは皿屋窯のことにて三矢谷は又道納屋谷とも書かれてゐる。
飯洞甕
飯洞の古窯品には、濃茶色の施釉物が多く焼かれてゐるが、中には其上に鐵釉や白釉にて青海波を文飾なし、又縁部には種々の模様を彫刻せし破片がある。或は同釉にて玉縁造りの片口があり、天龍寺の薄青瓷や七官手の皿茶碗がある。又均窯風の海鼠釉は此處を最古の製窯とすべく、或は灰色胎土に同色の薄釉を施し、それに鐵猫にて繪刷毛を文飾せし茶碗や皿等あるが、何れも高臺無釉である。
蓋し薄黄釉朝顔形の大茶碗の如き、稀に高臺施釉のものが見出さるるのは後代作にあらざるかを思はしむ。此處の飯洞といへる地名は、後代に於いて専ら飯胴甕(大なる水甕)や壺の如き物を焼きしさころにあらざるか、各製陶地の工場を壺屋と稱するは此の所以にて、有田地方にては工場の轆轤所を今に車壺としてゐる。
帆柱
帆柱窯の殘缺には、黒き胎土に淡綠施釉があり、白釉や青茶釉にて茶碗の裏を糸切にしたのがある。又均窯風の窯變を顯せしもの多く、或は薄瑠璃の如き色相物もあるが、何れの釉面にも微細なダブル貫入が生じてゐる。稀には永年風雨に晒されて白き被覆物が發生しゐるものあるは地質が脆弱にして土器に近いためであらう。
三矢谷
三矢谷窯は、昭和九年五月二十二日、唐津の古舘九一、中里太郎右工門等が繪唐津を發見せしところにて、従來此處は無文手のみの製窯とされしところ、此際唐津焼の大宗なる繪唐津の而かも顔料の發色麗々たる古雅な破片が続々として發掘された。そして従来の繪唐津に見る能はざる蝦の圖や、草花の書など珍とすべきものがあり何れも朝鮮文化の粋を持つデザインが巧妙に發揮されてゐたのである。
稗田皿屋
稗田皿屋の古窯品には朝鮮唐津式の失透性が重に製作され、唐津焼中にて最卓越なる製品が焼かれてる。中にも粉引手や均窯海鼠又は唐津青瓷の沓鉢などの逸品がある。此處は波多の重臣中村安藝守利度の舘ありし處にて、今合力(元高力)の姓ある者此地に渡来せし韓人の後裔と稱せらる。
茲に波多持が鬼子嶽築城の頃、即ち後鳥羽天皇の文治年間(1185-1190)に於いて、筑後國の住人草野二郎太輔永源氏黨となり上松浦大村(玉島村)の鬼ヶ城に居住した。そも鬼ヶ城は古代朝鮮式土城にて、上肥前の基肄城に次ぐ最古の築城と稱せらるゝものである。草野氏の系圖左の如し。(草野系圖参照)
別説には高木貞永の三男永經が、筑後國草野鄉(三井郡)に住して草野を氏となし、長寛二年(1164年)同國吉木竹井坂(山本郡)に移り、頼朝に属して戦功ありしより三千町を領して筑後の守護職となった。
草野經永
それより五代草野七郎經永(贈從四位)こそ彼文永弘安の役に於いて、松浦黨と共に大に外寇を破って勇名を馳せし者にて、彼は文永十二年(1275年)より上松浦の鏡神社の大宮司として世襲することなり。兄永兼の子孫が代々鬼ヶ城に居住したのである。
山瀬焼
濱崎村の山中に山瀬燒と稱する古唐津焼がある。其古窯品には飴釉や灰色釉に、鐡釉にて草の如きものや結び鳥など文せる皿があり。又薄黄色釉にて角なぶりにせし石交ぜの深茶碗等がある。或は罅出しの白釉や、同手の黄瀬戸釉小皿又は均窯海鼠の大茶碗等何れも無釉高臺に縮緬皺が生じてゐる。就中空色釉小皿の無釉高臺が、指先の押ゑぐりにて而かも楕円形に成つてゐるところ雅致なるものがあり、そして多く炻器程度に焼かれてゐる。 又一見鐡器に髣髴たる黒釉の、高さ五、六寸ありて口細の壺を胴より半栽せるが如き無恰好な炻器があり、所謂うずくまると稱する形であらう。
此地相知驛より二里半の山奥にて行人稀なるころ、今其沿革を詳にせざるも城主草野氏が、小次郎官者の支族を招きて此處に開窯せしめしといはれてゐる。
鬼子嶽城は波多泰に及んで勢威大に振ひ、文明年間には壹岐國を併有するに至った。
鬼子嶽城の後継争闘
それより五代下野守盛卒去するや、世嗣すべき男子なかりしかば、未亡人眞法女(多久頼母の女にて松浦興信の姪)は、外戚なる肥前高來の城主有馬義直の子藤童丸を擁立せんとせしところ、重臣日高大和守在秀(有浦一千石)は之に反對し、盛の舎弟壹岐龜高の城志摩守隆の遺子三人中より繼かしめんとし、茲に波多家の御家騒動が起るに至った。
大和を毒殺す
天文十三年(1544年)未亡人は、酒燕にことよせて主謀者大和を毒殺したのである。永禄七年(1564年)十二月二十九日大和の男甲斐守方秀は、鬼子嶽城の厩舎に火を放ちて一味に合圖し未亡人を殺さんした、眞法女は遁れて佐嘉の龍造寺剛忠(家兼入道)に縋り、方秀は平戸の松浦隆信に頼りしかば、隆信は同十二年十二月廿七日三百騎を帥みて兵船星加まで来りしも、生憎暴風にして進むことが出来なかつた。
此時剛忠の孫龍造寺隆信は、未亡人の為に鬼子嶽城を攻落し、方秀は敗れて壹岐へ遁走した。之より甲斐は女を松浦隆信の四男信實に妻はせて好みを重ねしより、壹岐は事實上平戸に併領さるゝに至ったのである。
【現代語訳】[Modern Japanese translation]
鬼子嶽窯について。持は、前に述べた小次郎官者の子孫を招いて、鬼子嶽城下の山中にある飯洞甕(北波多村鮎歸)で窯を開かせたという説がある。また、このとき朝鮮から陶工が渡来したという口伝もあるが、詳しい事情はわからない。のちに飯洞甕にいた陶工の一部を古椎(南波多村椎の峯の旧名)に分窯させたことで、この地方では民家の間にも陶器の使用が広く普及したといわれる。
割竹式の窯について。鬼子嶽山中の古窯は以前から知られていたが、武雄の古窯家・金原京一や唐津の中里太郎右工門らの踏査で注目され、昭和六年十一月二十五日、東京工政会理事の倉橋藤治郎が金原らとともに飯洞・帆柱・皿屋の各古窯跡を調べ、飯洞甕と桐木盤の窯が約七百年前に築かれ、朝鮮北方系に属する「割竹式窯」であることを考証し、学界に大きな反響を巻き起こした。割竹式とは、丸竹を割ったような蒲鉾形の断面をもつ窯で、飯洞甕には長さ五十四尺の完形の窯があり、そこから二十間ほど離れた桐木盤の窯跡は六十尺ほどで、いずれも内部が五、六室に仕切られている。斜面に築いたこの長窯の内部仕切りは、のちに丸窯を連ねた登り窯へと展開したものであり、窯形研究上きわめて貴重な資料であろう。
貝高台と焼ハマについて。この古窯の製品には「貝高台焼」と呼ばれるものがある。小ぶりの浅蜊や蜆などを五、六個ほど耐火土製の焼台(ハマ)の上に並べ、その上に器物を載せて焼いたもので、器の高台自体には痕は出ないが、糸切りの底には獅子貝の跡などが印花のように現れる。ハマにも貝の痕跡がはっきり残るのはもちろんである。
籾殻敷についての解釈。高台に籾殻の痕があるものは、当時は現代のように皿板(生地を載せる板)が容易に得られなかったため、平らな地面を利用し、地面の湿気と器の乾燥を調節する目的で籾殻を敷き広げ、その上に生地を載せたものとされる。決して籾殻を敷いたまま焼成したのではないという。
この地の製品はきわめて緻密で堅牢なものが多く、いずれも釉薬が施されている。仁治三年(六百九十三年前)に加藤春慶が瀬戸に来て開窯した同時代、あるいはそれ以前の段階で、すでにこのような優れた陶器を作っていたことは、他に比類がなく、唐津焼の発達がいかに古くから進んでいたかを示す。飯洞甕・桐木盤ののちには帆柱窯(北波多村)が築かれ、さらに三矢谷(相知村上佐里)・平松(同)・大谷(同下佐里)・皿屋窯(北波多村徳須惠)などが開かれた。これらを総称して鬼子嶽窯という。また稗田焼と呼ばれるのは皿屋窯のことで、三矢谷は道納屋谷とも書かれる。
飯洞甕の古窯品は、濃い茶色の釉の器が多く、鉄釉や白釉で青海波文を施したものや、縁にさまざまな文様を彫った破片が見られる。同じ釉で玉縁づくりの片口、天龍寺の薄青磁や七官手の皿・茶碗もある。均窯風の海鼠釉の作品は、ここを最古の製作地と見なすに足るものがあり、灰色の胎土に同系色の薄釉を施し、鉄絵で刷毛描きを加えた茶碗や皿などもあるが、いずれも高台は無釉である。薄黄釉の朝顔形の大茶碗のように、まれに高台に釉がかかるものが見つかるのは、後代の作ではないかと思わせる。地名の「飯洞」は、のちの時代に主として飯胴甕(大きな水甕)や壺などを焼いたことから生じたのではないか。各産地で工房を「壺屋」と呼ぶのもそのためで、有田地方では今も轆轤場を「車壺」と称している。
帆柱窯の遺品には、黒い胎土に淡い緑釉を施したもの、白釉や青茶釉で高台を糸切りに仕上げた茶碗などがあり、均窯風の窯変を示すものも多い。薄瑠璃のような色調のものもあり、いずれの釉面にも微細な二重の貫入が生じている。長年の風雨で白い被膜が生じたものがあるのは、素地が脆く土器に近いためであろう。
三矢谷窯では、昭和九年五月二十二日、唐津の古舘九一・中里太郎右工門らが繪唐津を発見した。従来ここは無文手のみの産地とされていたが、このとき繪唐津の、しかも顔料発色の美しい古雅な破片が次々と出土した。従来の繪唐津に見られなかった海老の図や草花の筆致など珍しいものがあり、いずれも朝鮮文化の粋を汲むデザインが巧みに発揮されていた。
稗田皿屋の古窯品は、朝鮮唐津風の失透性の釉が主に作られ、唐津焼の中でも最も優れた製品が焼かれている。粉引手、均窯の海鼠釉、あるいは唐津青磁の沓鉢など逸品がある。ここは波多の重臣・中村安藝守利度の館があった場所で、今の「合力」(もと「高力」)姓の人びとは、この地に渡来した韓人の後裔と伝えられる。なお、波多持が鬼子嶽に築城した頃、すなわち後鳥羽天皇の文治年間(1185–1190)に、筑後国の住人・草野二郎太輔永が源氏方となって上松浦大村(玉島村)の鬼ヶ城に住んだ。鬼ヶ城は古代朝鮮式の土城で、上肥前の基肄城に次ぐ最古の築城と称される(草野系図参照)。
別説では、高木貞永の三男・永經が筑後国草野郷(三井郡)に住して草野を氏とし、長寛二年(1164)に同国吉木竹井坂(山本郡)へ移り、頼朝に属して戦功を立て、三千町を領して筑後の守護職となったという。
草野經永(贈従四位)は、文永・弘安の役で松浦党とともに外寇を大いに破って名を上げ、文永十二年(1275)から上松浦の鏡神社の大宮司を世襲した。兄・永兼の子孫が代々鬼ヶ城に居住した。
山瀬焼について。濱崎村の山中に山瀬焼と呼ばれる古唐津がある。古窯品には、飴釉や灰色釉に、鉄釉で草のようなものや結び鳥を描いた皿があり、薄黄色釉で角面取りを施した石交じりの深茶碗などもある。ひびの目立つ白釉、同系の黄瀬戸釉の小皿、均窯・海鼠釉の大茶碗など、いずれも無釉の高台に縮緬皺が生じている。なかでも空色釉の小皿の無釉高台が、指で押しえぐったように楕円形になっているところは雅趣があり、多くは炻器程度の焼成である。また、見た目が鉄器に似た黒釉で、高さ五、六寸、口の細い壺を胴で半ばに切り詰めたような不格好な炻器があり、いわゆる「うずくまる」と称する形であろう。ここは相知駅から二里半の山奥で往来の少ない地で、その沿革は詳らかでないが、城主・草野氏が小次郎官者の支族を招いて開窯させたと伝えられる。鬼子嶽城は波多泰の時代に勢威を大いに振るい、文明年間には壹岐国をも併有するに至った。
鬼子嶽城の後継をめぐる争い。五代の下野守・盛が死去し、男子の後継がいなかったため、未亡人の眞法女(多久頼母の娘で松浦興信の姪)は、外戚である肥前高來の城主・有馬義直の子・藤童丸を擁立しようとした。これに対して重臣・日高大和守在秀(有浦一千石)が反対し、盛の弟・壹岐龜高の城志摩守・隆の遺子三人のうちから継がせようとして、波多家の御家騒動が起こった。
天文十三年(1544年)、未亡人は酒宴にかこつけて首謀者の大和を毒殺した。永禄七年(1564年)十二月二十九日、大和の子・甲斐守方秀は、鬼子嶽城の厩舎に放火して一味に合図し、未亡人を殺害しようとした。眞法女は逃れて佐嘉の龍造寺剛忠(家兼入道)を頼り、方秀は平戸の松浦隆信に援助を求めた。隆信は同十二年十二月二十七日、三百騎を率いて兵船で星加まで来たが、あいにくの暴風で進軍できなかった。このとき剛忠の孫・龍造寺隆信が未亡人のために鬼子嶽城を攻め落とし、方秀は敗れて壹岐へ逃走した。以後、甲斐は娘を松浦隆信の四男・信實に嫁がせて縁戚を重ね、壹岐は事実上平戸に併領されるに至った。
【英語訳】[English translation]
On the Onikozake kilns: It is said that Mochi invited the descendants of Kojirō Kanja and had them open a kiln at Iibora-game (Ayugae in Kita-Hata-mura) in the mountains below Onikozake Castle. There is also oral tradition that Korean potters came at that time, though details are unclear. Later, some of the Iibora-game potters were sent to a branch kiln at Koshi (the old name of Shii-no-mine in Minami-Hata-mura). From then on, the use of pottery is said to have spread widely among local households.
On split-bamboo–type kilns. The ancient kilns in the Onikozake mountains had long been known, but surveys by Kanehara Keiichi of Takeo and Nakazato Tarōemon of Karatsu brought them to prominence. On November 25, 1931, Kurahashi Tōjirō, a director of the Tokyo Kōseikai, together with Kanehara and others, inspected the old kiln sites at Iibora, Hobashira, and Saraya. They demonstrated that the Iibora-game and Kirigiban kilns were built about seven hundred years earlier and belong to the northern Korean lineage of “waritake-shiki” (split-bamboo) kilns, causing a major stir in academic circles. “Split-bamboo” refers to a half-cylinder, kamaboko-like profile. At Iibora-game there is a complete kiln 54 shaku in length, while the Kirigiban kiln ruin, about twenty ken away, measures around 60 shaku; both are internally divided into five or six chambers. These partitions in long kilns built on slopes likely evolved into the later noborigama formed by linking round chambers, making them invaluable for the study of kiln typology.
Shell-set supports and firing pads (hama). Among the products of these old kilns are pieces known as “kai-kōdai-yaki.” Small clams such as asari and shijimi were placed—five or six at a time—on refractory firing pads (hama), and vessels were set upon them for firing. The high foot (kōdai) bears no marks, but on string-cut bases the impressions of shishigai shells appear like stamped decoration; corresponding shell marks also remain plainly on the hama.
On bedding with rice husks. Traces of rice husks on footrings indicate that, since boards for carrying greenware (saraita) were not easily available at the time, potters used flat ground instead, spreading rice husks to regulate ground moisture and the drying of the wares, then setting the greenware atop them. It is held that they did not fire the pieces with the husks in place.
The wares here are notably hard and dense, and they are all glazed. In Ninji 3 (693 years prior), when Katō Shunkei came to Seto to open kilns—or even earlier—such excellent pottery was already being made, unparalleled elsewhere in the country and attesting to how early Karatsu ware had developed. After the Iibora-game and Kirigiban kilns came Hobashira (Kita-Hata-mura), then Miyatanidani (Kamizari, Ochi-mura), Hiramatsu (same), Ōtani (Shimozari, same), and the Saraya kiln (Tokusue, Kita-Hata-mura). Taken together, these are called the Onikozake kilns. “Hieda ware” refers to Saraya; Miyatanidani is also written Michinaya-dani.
Iibora-game. Many old Iibora pieces are dark-brown glazed wares. Among the sherds are ones decorated with seigaiha (wave) patterns painted in iron glaze or white glaze, and fragments with carved rim motifs. There are also spouted bowls with bead rims in the same glaze, pale celadons of Tenryū-ji taste, and Shichikan-de plates and bowls. The Jun-ware–style namako (sea-cucumber) glaze suggests this site as an early center; there are also bowls and plates of gray bodies with thin gray glazes, decorated with iron-painted brushwork, all with unglazed footrings. The rare large morning-glory–shaped bowls in pale-yellow glaze with glazed footrings may be later works. The place name “Iibora” likely arose in later times from the production of large water jars (meshi-dō-game) and jars; workshops in pottery districts are called “tsuboya” for this reason, and in the Arita area the throwing shed is still called “kuratsubo.”
Hobashira. Among the remains are pieces with black bodies and pale-green glazes, bowls in white or bluish-brown glazes with string-cut bases, and many examples showing Jun-style kiln changes; some are of a pale lapis hue. Fine double crazing is present on all glaze surfaces. In rare cases a white accretion has formed after long exposure to weathering, likely because the fabric is friable and close to earthenware.
Miyatanidani. On May 22, 1934, at the Miyatanidani kiln, Furutachi Kyūichi and Nakazato Tarōemon of Karatsu discovered e-Karatsu sherds. Formerly this site was thought to produce only undecorated wares, but highly refined e-Karatsu fragments with brilliantly developed pigments were unearthed in succession. Notably, designs not seen in conventional e-Karatsu—such as shrimp motifs and brushwork of grasses and flowers—appeared, skillfully expressing designs imbued with the essence of Korean culture.
Hieda Saraya. Old Saraya pieces mainly exhibit opacified, Chōsen-Karatsu–type glazes, and the finest works within Karatsu were fired here. Masterpieces include kohiki ware, Jun-style namako pieces, and Karatsu celadon kutsubachi (shoe-shaped bowls). This was the site of the residence of Hata’s senior retainer Nakamura Aki-no-kami Toshitake; those bearing the surname Gōriki (formerly Kōriki) are said to be descendants of Koreans who came here. Around the time Hata Mochi built Onikozake Castle—namely during Emperor Gotoba’s Bunji era (1185–1190)—Kusano Jirō no Taifu Naga became a Genji adherent and resided at Onigajō in Ōmura (Tamashima-mura), Upper Matsura. Onigajō is an ancient Korean-style earthen fortress, regarded as the oldest construction after Kii Castle in Upper Hizen (see the Kusano genealogy).
Another account says that Takagi Sadanaga’s third son, Nagatsune, lived in Kusano-go (Mii-gun), Chikugo Province, took the surname Kusano, moved in Chōkan 2 (1164) to Yoshiki Takeisaka (Yamamoto-gun) in the same province, rendered service under Yoritomo, and, rewarded with three thousand chō, became military governor of Chikugo.
Kusano Tsunenaga (posthumously Junior Fourth Rank), the fifth generation, won renown by crushing the Mongol invaders during the Bun’ei and Kōan campaigns alongside the Matsura faction, and from Bun’ei 12 (1275) onward, his house inherited the office of chief priest (Ōmiya no kami) of Kagami Shrine in Upper Matsura. The descendants of his elder brother, Nagakane, dwelt at Onigajō for generations.
Yamase ware. In the mountains of Hamasaki-mura there is old Karatsu known as Yamase-yaki. Among its old pieces are plates in amber and gray glazes painted in iron with grasses and “musubi-dori” motifs, deep stone-tempered bowls in pale-yellow glaze with chamfered corners, crackled white-glazed wares, small dishes with yellow Seto–type glazes, and large bowls with Jun-style namako glazes. In all, unglazed footrings show “chirimen” wrinkling. Especially tasteful are small sky-blue–glazed dishes whose unglazed footrings are pressed into an oval by a fingertip. Most are fired to a stoneware hardness. There is also an ungainly stoneware piece—black-glazed, five or six sun tall, with a narrow mouth—resembling a jar cut in half across the belly, the so-called “uzukumaru” form. Situated two and a half ri into the mountains from Auchi Station and little traveled, the site’s history is unclear, but it is said that the lord Kusano invited a branch of Kojirō Kanja’s line to open a kiln here. Onikozake Castle flourished in Hata Yasu’s time, and by the Bunmei era it held Iki Province as well.
Succession strife at Onikozake Castle. When the fifth lord, Shimotsuke-no-kami Mori, died without a male heir, his widow, Mahōjo (daughter of Taku no Tayu and niece of Matsuura Okishin), sought to install Fujidōmaru, son of Arima Yoshinao, lord of Takaku in Hizen, as an in-law heir. Senior retainer Hidaka Yamato-no-kami Arihide (of Ariura, 1,000 koku) opposed this and tried to select one of the three sons of Mori’s brother, Iki Kametaka’s chōjō, Shima-no-kami Takashi, as successor, provoking a family disturbance within the Hata house.
Poisoning of Yamato. In Tenbun 13 (1544), the widow used a drinking banquet as pretext to poison the ringleader, Yamato. On December 29, Eiroku 7 (1564), Yamato’s son, Kai-no-kami Katahide, set fire to the stables of Onikozake Castle to signal his confederates and attempted to kill the widow. Mahōjo escaped and sought aid from Ryūzōji Gōchū (the monk Iekane) of Saga; Katahide turned to Matsuura Takanobu of Hirado. Takanobu, on December 27 of the same year (Eiroku 12), led 300 horsemen by warship to Hoshika, but storm winds prevented further advance. At this time Ryūzōji Takanobu, Gōchū’s grandson, captured Onikozake Castle on the widow’s behalf; Katahide was defeated and fled to Iki. Thereafter, Kai married his daughter to Matsuura Takanobu’s fourth son, Nobuzane, strengthening ties, and Iki came effectively under Hirado’s joint control.
【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]
關於鬼子嶽窯:相傳持邀請先前所述的小次郎官者的後裔,在鬼子嶽城下山中的飯洞甕(北波多村鮎歸)開窯;亦有口傳稱當時有朝鮮陶工渡來,但細節不明。其後將飯洞甕的一部分陶工分往古椎(南波多村椎之峯的舊名)設窯,由此本地方的民間也廣泛使用陶器。
關於割竹式窯:鬼子嶽山中的古窯早已為人所知;武雄的古窯家金原京一與唐津的中里太郎右工門等實地調查,使之更受矚目。昭和六年十一月二十五日,東京工政會理事倉橋藤治郎與金原等人勘察飯洞、帆柱、皿屋諸古窯跡,考證飯洞甕與桐木盤約於七百年前築造,屬於朝鮮北方系的「割竹式窯」,在學界引起巨大反響。「割竹式」即斷面如蒲鉾的半圓筒形。飯洞甕現存長五十四尺之完形窯,距其二十間許的桐木盤窯跡長約六十尺,皆在窯內分隔為五、六室。斜坡上築造之長窯的室隔,後來演變為相連的圓窯——登窯,對窯制研究極為珍貴。
關於貝高台與「燒ハマ」:古窯製品中有「貝高台燒」。先將小蛤、蜆等五六枚置於耐火土製的燒台(ハマ)上,再把器物置其上燒成;器物的高台本身不留痕,但在以線切底部可見獅子貝等印痕,如同印花;燒台上亦清晰可見貝痕。
關於鋪籾殼之解釋:高台留有籾殼痕者,係因當時難以取得載生坯之皿板,似以平地代之,為調節地面濕氣與坯體乾燥而鋪籾殼,將生坯置於其上,並非以籾殼墊著入窯燒成。
此地製品多堅緻且皆施釉。於仁治三年(六百九十三年前)加藤春慶來瀨戶開窯之同時期,或更早,即已製作出如斯優良之陶器,國內罕有匹敵,足證唐津燒自古即已發達。飯洞甕、桐木盤之後,有帆柱窯(北波多村),繼而三矢谷(相知村上佐里)・平松(同)・大谷(同下佐里)・皿屋窯(北波多村德須惠)相繼開窯,統稱鬼子嶽窯。所謂稗田燒即皿屋窯,三矢谷亦作道納屋谷。
飯洞甕古窯品多為濃茶釉器,其中有以鐵釉或白釉飾青海波者,亦有在口縁雕多樣紋樣之片。尚有同釉之玉緣片口、天龍寺風薄青磁、七官手皿茶碗。均窯風之海鼠釉可視為此處最早之製作;亦見灰色胎土覆同色薄釉,以鐵繪刷毛描之碗皿,皆高台無釉。少見之薄黃釉朝顏形大茶碗帶高台施釉者,或為後代之作。地名「飯洞」蓋由後世專燒飯胴甕(水甕)與壺而來;各地工房稱「壺屋」亦因此,在有田今仍稱轆轤所為「車壺」。
帆柱窯遺品有黑胎淡綠釉、以白釉或青茶釉作碗底線切者,均窯風窯變者多,亦有近薄琉璃之色相;釉面皆生細微雙重貫入。偶有歷經風雨生成白色被膜者,蓋素地脆弱近土器故。
三矢谷窯於昭和九年五月二十二日,由古舘九一、中里太郎右工門等發見繪唐津。此地向被視為僅產無文手,此次卻連續出土發色絢麗、古雅之繪唐津片。有傳統繪唐津所未見之蝦圖與草花筆意,盡顯蘊含朝鮮文化精粹之設計。
稗田皿屋古窯品以朝鮮唐津風之失透釉為主,燒出唐津中最為卓越之作。其間有粉引手、均窯海鼠、唐津青磁之沓鉢等逸品。此處曾為波多重臣中村安藝守利度之館,今姓「合力」(舊作「高力」)者,傳為當年渡來韓人之後。又於波多持築鬼子嶽城之際,即後鳥羽天皇文治年間(1185–1190),筑後國人草野二郎太輔永投源氏陣,居上松浦大村(玉島村)鬼ヶ城。鬼ヶ城為古代朝鮮式土城,被稱為繼上肥前之基肄城之最古築城(草野系圖參照)。
別說稱,高木貞永三子永經居筑後國草野鄉(三井郡)而姓草野,長寬二年(1164)遷同國吉木竹井坂(山本郡),歸屬頼朝有戰功,受領三千町,任筑後守護。
草野經永(贈從四位)於文永・弘安之役與松浦黨大破外寇而著名,自文永十二年(1275)起世襲上松浦鏡神社大宮司。其兄永兼之子孫世居鬼ヶ城。
關於山瀬燒:濱崎村山中有古唐津山瀬燒。其古窯品有飴釉、灰釉,以鐵繪草與結び鳥之皿;亦有薄黃釉、角面取之石混深茶碗。另見「裂痕顯著」之白釉、同手黃瀬戸釉小皿、均窯海鼠大茶碗等,皆無釉高台生縮緬皺。尤有空色釉小皿之無釉高台,以指壓而成楕圓,頗具雅趣,多數燒成至炻器程度。另有一見似鐵器之黑釉,五六寸高、口細,如自胴半截之不整炻器,即所謂「うずくまる」形。此地在相知驛山奧二里半,人跡罕至,沿革未詳,相傳城主草野氏曾招小次郎官者之支族開窯。鬼子嶽城於波多泰時勢威大振,至文明年間並有壹岐國。
關於鬼子嶽城的後繼爭鬥:五代下野守盛卒,無男子嗣;其遺孀眞法女(多久頼母之女、松浦興信之外甥女)欲擁外戚、肥前高來城主有馬義直之子藤童丸為嗣。重臣日高大和守在秀(有浦一千石)反對,欲自盛之弟壹岐龜高之城志摩守隆三遺子中擇嗣,遂起波多家騷動。
天文十三年(1544)未亡人因酒宴毒殺主謀大和。永祿七年(1564)十二月二十九日,大和之子甲斐守方秀縱火於鬼子嶽城厩舍為合圖,擬殺未亡人。眞法女遁至佐嘉依龍造寺剛忠(家兼入道),方秀託於平戶松浦隆信。隆信同十二年十二月二十七日率三百騎乘兵船至星加,奈遇暴風不得進。時剛忠之孫龍造寺隆信為未亡人攻落鬼子嶽城,方秀敗走壹岐。其後甲斐以女嫁松浦隆信四子信實而締好,壹岐遂實質上併入平戶之下。
【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditionalfrom Japanese]
關於鬼子嶽窯:相傳持邀請前述小次郎官者之後裔,於鬼子嶽城下山中的飯洞甕(北波多村鮎歸)開窯;亦有口傳稱當時有朝鮮陶工渡來,然細節未明。其後將飯洞甕部分陶工分往古椎(南波多村椎之峯舊名)設窯,因而本地民間對陶器之使用廣為普及。
關於割竹式窯:鬼子嶽山中之古窯早為人知;武雄古窯家金原京一與唐津中里太郎右工門等踏查,使其更受矚目。昭和六年十一月二十五日,東京工政會理事倉橋藤治郎與金原等勘察飯洞、帆柱、皿屋諸古窯跡,考證飯洞甕及桐木盤約於七百年前築成,屬朝鮮北方系之「割竹式窯」,在學界引發巨大迴響。「割竹式」即斷面似蒲鉾之半圓筒形。飯洞甕存長五十四尺之完形窯,距其二十間之桐木盤窯址長約六十尺,皆於窯內分隔為五、六室。斜坡上之長窯室隔,後演變為相連圓窯——登窯,為窯制研究之珍貴資料。
關於貝高臺與「燒ハマ」:古窯製品中有「貝高臺燒」。先置小蛤、蜆等五六枚於耐火土製燒臺(ハマ)上,再置器物其上燒成;器之高臺本無痕,然線切底可見獅子貝等印痕,若印花;燒臺亦可見清晰之貝痕。
關於鋪籾殼之說:高臺留籾殼痕者,因當時難得皿板(載生坯之板),似以平地代之,且為調節地面濕氣與坯體乾燥而鋪籾殼,置生坯其上,並非鋪籾殼入窯燒成。
此地製品多堅緻且皆施釉。於仁治三年(六百九十三年前)加藤春慶來瀨戶開窯之同時期,或更早,即已能製作如此優良之陶器,國內罕見其匹,足證唐津燒自古即已發達。飯洞甕、桐木盤之後,築帆柱窯(北波多村),繼而三矢谷(相知村上佐里)、平松(同)、大谷(同下佐里)、皿屋窯(北波多村德須惠)相繼開窯,總稱鬼子嶽窯。所謂稗田燒即皿屋窯;三矢谷亦作道納屋谷。
飯洞甕之古窯品多為濃茶釉器,其中有以鐵釉或白釉飾青海波者,亦有口緣雕多樣紋樣之片。並見同釉玉緣片口、天龍寺風薄青磁、七官手之皿茶碗。均窯風海鼠釉可視為此地最早之製作;亦見灰色胎覆同色薄釉,以鐵繪刷毛描之碗皿,皆高臺無釉。偶見薄黃釉朝顏形大茶碗之高臺施釉者,或為後代之作。地名「飯洞」蓋由後世專燒飯胴甕(水甕)與壺而來;各地工房稱「壺屋」亦因之,有田今仍稱轆轤所為「車壺」。
帆柱窯遺品有黑胎淡綠釉、以白釉或青茶釉作碗底線切者,均窯風窯變多見,亦有近薄琉璃之色相;釉面皆生細微雙重貫入。偶見歷風雨而生白色被膜者,蓋素地脆弱近土器故。
三矢谷窯於昭和九年五月二十二日,由古舘九一、中里太郎右工門等發現繪唐津。此地向被視為僅產無文手,此次卻連續出土發色華美、古雅之繪唐津片。並有傳統繪唐津所未見之蝦圖與草花筆意,妙現蘊含朝鮮文化精華之設計。
稗田皿屋古窯品以朝鮮唐津風之失透釉為主,燒出唐津中最為卓越之作。其間有粉引手、均窯海鼠、唐津青磁之沓鉢等逸品。此處為波多重臣中村安藝守利度之館所在,今姓「合力」(舊作「高力」)者,傳為渡來韓人之後。又於波多持築鬼子嶽城時,即後鳥羽天皇文治年間(1185–1190),筑後國人草野二郎太輔永歸源氏,居上松浦大村(玉島村)鬼ヶ城。鬼ヶ城為古代朝鮮式土城,被稱為繼上肥前之基肄城之最古築城(草野系圖參照)。
別說指高木貞永三子永經居筑後國草野鄉(三井郡)而姓草野,長寬二年(1164)遷同國吉木竹井坂(山本郡),歸頼朝陣有戰功,受領三千町,任筑後守護。
草野經永(贈從四位)於文永・弘安之役與松浦黨破外寇而著名,自文永十二年(1275)起世襲上松浦鏡神社大宮司。其兄永兼之子孫世居鬼ヶ城。
關於山瀬燒:濱崎村山中有古唐津山瀬燒。其古窯品有飴釉、灰釉,以鐵繪草與結び鳥之皿;亦有薄黃釉、角面取之石混深茶碗。又見裂紋顯著之白釉、同手黃瀨戶釉小皿、均窯海鼠大茶碗等,皆無釉高臺生縮緬皺。尤有空色釉小皿之無釉高臺,以指壓成楕圓,頗具雅趣,多燒至炻器程度。另有黑釉器似鐵器,五六寸高、口細,如自胴半截之不整炻器,即所謂「うずくまる」形。此地距相知驛山奧二里半,人跡罕至,沿革未詳;相傳城主草野氏曾招小次郎官者支族開窯。鬼子嶽城於波多泰時勢威大振,至文明年間並有壹岐國。
鬼子嶽城後繼爭鬥:五代下野守盛卒,無男嗣;其遺孀眞法女(多久頼母之女、松浦興信之外甥女)欲擁外戚、肥前高來城主有馬義直之子藤童丸為嗣。重臣日高大和守在秀(有浦一千石)反對,欲自盛之弟壹岐龜高之城志摩守隆三遺子擇嗣,於是波多家內訌起。
天文十三年(1544)遺孀籍酒宴之機毒殺主謀大和。永祿七年(1564)十二月二十九日,大和之子甲斐守方秀縱火鬼子嶽城厩舍為合圖,謀殺遺孀。眞法女逃依佐嘉龍造寺剛忠(家兼入道),方秀託平戶松浦隆信。隆信同十二年十二月二十七日率三百騎乘兵船至星加,惟遇暴風不得前。時剛忠之孫龍造寺隆信為遺孀攻陷鬼子嶽城,方秀敗走壹岐。其後甲斐以女妻松浦隆信四子信實以締好,壹岐遂實際併入平戶之下。
【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]
关于鬼子嶽诸窑:据说持邀请小次郎官者的后裔,在鬼子嶽城下的山中饭洞甕(北波多村鲇归)开窑;也有口传称当时有韩人陶工渡来,细节不详。其后又把饭洞甕部分陶工分往古椎(南波多村椎之峯旧名)设分窑,自此当地民家间陶器使用广为普及。
割竹式窑:鬼子嶽山区古窑久已闻名,然由武雄的金原京一与唐津的中里太郎右工门等踏查而更受关注。1931年11月25日,东京工政会理事仓桥藤治郎与金原等勘察饭洞、帆柱、皿屋诸古窑址,证实饭洞甕与桐木盘建于约七百年前,属朝鲜北方系“割竹式窑”,在学界引起轰动。“割竹式”指半圆筒蒲鉾形断面。饭洞甕存完整窑身长54尺,距其约二十间之桐木盘窑址约60尺,二者均分为五六室。此类斜坡长窑的室隔,后演进为联结圆室的登窑,堪为窑制研究的珍贵资料。
贝高台与“烧ハマ”:古窑产有“贝高台烧”。以五六枚小蛤、蜆置于耐火土制“ハマ”上,器物置其上烧成;高台本身无痕,但线切底呈现狮子贝等印痕,ハマ亦留有清晰贝痕。
铺糙米壳之解:高台见糙米壳痕者,因当时难得托板(皿板),多就平地铺糙米壳以调地气与干燥,将生坯置其上;并非连糙米壳入窑烧成。
此地器物坚致且皆施釉。至仁治三年(距今六百九十三年)加藤春庆来瀬户开窑之时,抑或更早,已能制优良陶器,国内罕匹,由此可见唐津烧之发达甚早。饭洞甕、桐木盘之后,有帆柱(北波多村),继而三矢谷(相知村上佐里)、平松(同)、大谷(同下佐里)、皿屋(北波多村德须惠)等窑,统称鬼子嶽窑。“稗田烧”即皿屋窑,三矢谷亦作道纳屋谷。
饭洞甕:多见深褐釉器,亦有以铁釉或白釉绘青海波,或在口沿雕刻各式纹样之片。同釉之玉缘片口、天龙寺风淡青磁、七官手之皿碗亦存。均窑风海鼠釉或可据此处为早期中心;又见灰胎覆同色薄釉,以铁绘刷毛描之碗盘,皆高台无釉。少数薄黄釉朝颜形大碗之高台上釉,或为后世之作。“饭洞”或因后期主烧大水甕、壶而得名;各地工坊称“壶屋”亦因此,在有田今仍称车床为“车壶”。
帆柱:遗物有黑胎淡绿釉、白釉或青褐釉碗底线切者,多见均窑风窑变,亦有浅琉璃色者;诸釉面皆现细密“双重开片”。少数经年风雨生白色被膜者,盖素地脆弱近陶器之故。
三矢谷:1934年5月22日,古馆九一与中里太郎右工门于此发现绘唐津。本址原被视作仅产素器,然连续出土颜料发色绚丽、古雅之绘唐津片,其中有传统未见之虾图与草花笔意,尽显朝鲜文化精髓之设计。
稗田皿屋:旧作多为失透、朝鲜唐津风釉,烧成唐津中最杰之品;其间有粉引、均窑海鼠、唐津青瓷之沓钵等逸品。此处为波多重臣中村安艺守利度之馆址,今姓“合力”(旧作“高力”)者,传为渡来韩人之后。波多持筑鬼子嶽城之时,即后鸟羽天皇文治年间(1185–1190),筑后国人草野二郎太辅永归源氏,居上松浦大村(玉岛村)鬼ヶ城。鬼ヶ城为古代朝鲜式土城,被称为上肥前基肄城之后最古之筑城(草野系图参照)。
别说谓高木贞永三子永经居筑后国草野乡(三井郡)而姓草野,长宽二年(1164)迁同国吉木竹井坂(山本郡),属赖朝有功,受封三千町,任筑后守护。
草野经永(赠从四位)于文永、弘安之役与松浦党共破外寇而著名,自文永十二年(1275)起,世袭上松浦镜神社大宫司。其兄永兼之子孙世居鬼ヶ城。
山瀬烧:滨崎村山区有古唐津山瀬烧。其旧作有琥珀、灰釉盘,以铁绘草及“结鸟”之纹;亦有浅黄釉、角面取之石混深碗。又见裂纹显著之白釉、黄瀬户釉小盘、均窑海鼠釉大碗等,皆高台无釉并生“绉纹”。尤以天蓝釉小盘之无釉高台,指压成椭圆,颇具雅趣;多烧至炻器硬度。另有黑釉器似铁器,五六寸高、口细,如自腹半截之不整炻器,即所谓“うずくまる”形。此地距相知站山奥二里半,人迹稀少,沿革未详;传城主草野氏曾邀小次郎官者支族开窑。鬼子嶽城于波多泰时势大,至文明年间并有壹岐国。
鬼子嶽城继承纷争:第五代下野守盛卒无男嗣,遗孀真法女(多久赖母之女、松浦兴信之外甥女)拟立外戚、肥前高来城主有马义直之子藤童丸。重臣日高大和守在秀(有浦一千石)反对,欲自盛弟壹岐龟高之城志摩守隆三遗子中择嗣,遂起波多家内乱。
毒杀大和:天文十三年(1544),遗孀借酒宴毒杀主谋大和。永禄七年(1564)十二月二十九日,大和之子甲斐守方秀纵火鬼子嶽城厩舍为合图,图杀遗孀。真法女逃赴佐嘉依龙造寺刚忠(家兼入道),方秀求援于平户松浦隆信。隆信同十二年十二月二十七日率三百骑以兵船至星加,暴风所阻未进。此时刚忠之孙龙造寺隆信为遗孀攻克鬼子嶽城,方秀败走壹岐。其后甲斐以女嫁松浦隆信四子信实以联姻,壹岐遂事实上并归平户。
【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]
相傳,波多家之持招來前述小次郎官者的後裔,命其於鬼子嶽城下山中之飯洞甕(北波多村鮎歸)開窯;亦有口碑稱此時並有韓土陶工渡來,然其詳未明。其後,將飯洞甕部分陶工分派至古椎(南波多村椎之峯之舊稱)另設分窯,自是當地民間使用陶器漸次普及。
關於割竹式窯:鬼子嶽山中的古窯早為人知,後經武雄之古窯家金原京一與唐津之中里太郎右工門踏查而益著。昭和六年十一月二十五日,東京工政會理事倉橋藤治郎與京一等同往探視飯洞、帆柱、皿屋諸古窯址,考證飯洞甕與桐木盤為約七百年前所築,屬朝鮮北方系的割竹式窯,遂在學界引起轟動。所謂「割竹」,即形似將圓竹縱劈之半,呈蒲鉾狀拱形。飯洞甕留有全長約54尺之窯址,相隔約20間之桐木盤窯址長約60尺;二窯內部皆分隔為五、六室。推測此等建於斜坡之長窯內隔間形式,後來演變為圓窯相連的登窯,對窯制之系譜研究甚為珍貴。
關於「貝高臺」與「焼ハマ」:古窯製品中有稱為「貝高臺燒」者,乃先將小型蛤蜊、蜆等五、六枚置於「ハマ」(耐火土製之窯具墊座)上,再將器物置於其上燒成。其痕跡高臺未必可見,然於線切底常如印花般顯出獅子貝等之殼紋;諸「ハマ」本身亦留有貝痕。
關於籾殼痕:高臺見有稻殼痕者,蓋因當時未易得若今之皿板(承載生坯之板),乃就近利用平坦地面,為調節地面濕氣與器坯乾燥,在地上遍鋪稻殼而後置坯,並非以稻殼入窯燒成。
此處出土器物多質地堅緻,且大抵皆施釉。與仁治三年彼加藤春慶來瀨戶開窯之時代同前後,甚至或更早,即能燒造斯等優品,可見唐津燒之發達源遠而他處罕匹。繼飯洞甕、桐木盤而起者,有帆柱窯(北波多村),又有三矢谷(相知村上佐里)、平松(同)、大谷(同下佐里)、皿屋窯(北波多村徳須惠)等,總稱「鬼子嶽窯」。所謂「稗田燒」即皿屋窯,三矢谷亦見作「道納屋谷」。
飯洞甕之古窯品,多為濃茶色施釉物;其間或見以鐵釉、白釉飾青海波,或於器緣刻飾諸紋片段;亦有同釉之玉緣造片口,並見天龍寺系薄青瓷、七官手之皿與茶碗。均窯風之海鼠釉或可視作最古之製例;又有灰色胎上施同色薄釉,以鐵繪刷描之茶碗與皿,然多為高臺無釉。至於薄黃釉朝顏形大茶碗,偶見高臺施釉者,或屬後作。至名「飯洞」,疑緣後世此地多燒飯胴甕(水甕)與壺之類;各地製陶之工房稱「壺屋」由此可見;有田地方至今仍稱轆轤所為「車壺」。
帆柱窯之遺物,見黑胎施淡綠釉,亦有白釉、青茶釉之茶碗,底作線切。常見呈均窯風窯變者,或見近薄琉璃之色;惟諸釉面多生細密之雙重貫入。少數因長年風雨侵蝕而生白色被覆層,蓋其地質脆弱,近於土器所致。
三矢谷窯:昭和九年五月二十二日,唐津之古舘九一、中里太郎右工門於此發現繪唐津。原以為此地唯產無文手,乃接連出土色料發色瑰麗而古雅之繪唐津片段,且見舊未所見之蝦圖、草花書寫等珍品,韓文化精粹之設計在此獲巧妙展現。
稗田皿屋之古窯品,多作朝鮮唐津式之失透釉,為唐津燒中最為卓越者;尤見粉引手、均窯海鼠,以及唐津青瓷之沓鉢等逸品。此處昔為波多重臣中村安藝守利度之館;今姓「合力」(舊作「高力」)者,傳為當時渡來韓人之後裔。
又記:波多持築鬼子嶽城之頃,即後鳥羽天皇文治年間(1185–1190),筑後國人草野二郎太輔永投源氏黨,居上松浦大村(玉島村)之鬼ヶ城。鬼ヶ城為古代朝鮮式土城,稱上肥前僅次於基肄城之最古築城。另說高木貞永之三子永經居筑後國草野鄉(三井郡)而姓草野;長寛二年(1164)遷同國吉木竹井坂(山本郡),屬頼朝麾下立戰功,領三千町,為筑後守護。
草野經永(贈從四位)於文永・弘安之役與松浦黨共破外寇而著勇名;自文永十二年(1275)起世襲為上松浦鏡神社之大宮司。其兄永兼之後裔世居鬼ヶ城。
山瀬燒:濱崎村山中有古唐津之山瀬燒。其古品見飴釉、灰色釉,並以鐵釉繪草樣、結鳥之皿;亦有薄黃釉、作角揉樣之石混深茶碗;或見有裂紋之白釉、小皿之黃瀨戶釉,及均窯海鼠之大茶碗。諸器多為無釉高臺,生縮緬皺。其中特見空色釉小皿,高臺無釉,指壓掏挖成橢圓,頗具雅致,多數燒至炻器程度。又有黑釉壺,高約五、六寸、口收細,形如自胴部斷為一半,略不整,似所稱「うずくまる」之式;黑釉之質,乍看幾疑鐵器。此地在相知驛之山奧約二里半,昔日行人稀少,沿革未詳,傳為城主草野氏招小次郎官者支族於此開窯。鬼子嶽城至波多泰時勢威大振,至文明年間並有壹岐國。
鬼子嶽城之後継爭鬥:其後五代,下野守盛卒而無男嗣,遺孀眞法女(多久頼母之女、松浦興信之姪)欲擁外戚肥前高來城主有馬義直之子藤童丸為嗣;重臣日高大和守在秀(有浦一千石)反對,主張自盛之舍弟壹岐龜高之城志摩守隆所遺三子中擇一承家,於是波多家內訌起。
大和之毒殺:天文十三年(1544),遺孀借宴設酒而毒殺主謀者大和。永祿七年(1564)十二月二十九日,大和之子甲斐守方秀縱火焚鬼子嶽城厩為合圖,圖弑遺孀。眞法女遁赴佐嘉依龍造寺剛忠(家兼入道),方秀則依平戶松浦隆信。隆信於同十二年十二月二十七日率騎三百乘兵船至星加,適遇暴風不得進。時剛忠之孫龍造寺隆信為遺孀攻陷鬼子嶽城,方秀敗走壹岐。其後,甲斐守方秀以該女子嫁與松浦隆信第四子信實以締好,由此壹岐事實上為平戶所並領。

