【原文】[Original text]
畑島の窯の谷
畑島は元波多の家臣畑島主膳之政(四百石)の采邑にて、此處の古窯趾は鬼塚驛より一里西方の山麓なる水車小屋の右手より分け入る窯の谷といふ山林である。朽葉を漁れば窯具の中より稀に見出すものに、白琺瑯釉小氷裂の破片があり、或は鼠色胎土に青味灰色が施釉され、それに白釉のむらある茶碗にて、何れも無釉高臺尻の小さきものである。
鉢冠り地蔵尊
此處より南三四丁に三拾戸斗りの畑島村落があり、そこの冠り地蔵尊といへるは此地方には名高き由にて、御本体はもげたる御鼻をセメントにて整形され玉へるが、昔より霊現いやちこなりといはれてゐる。此一坪位の御堂の屋根の中央に冠されてあるは、鐵色焼稀にて徑尺五寸位の深鉢を伏せし形なるが上絞りにて頂上は擬實珠に成てゐる。そして鉢の両面には卍が浮彫され實暦八年(1758年)の刻字があり、前記窯の谷の製品と稱せられてゐる。
次の片草、佐次郎、善德等の古窯趾は、何れも今西松浦郡に編入されし大川村なるが、此地方は殊に古窯趾多きなるを以て、別に一括して記述せんに、主驛大川野の宿は伊萬里より三里餘を隔てし要地にて現今北鐵の開通驛である。
大川野遊
元松浦黨の一家大川野遊の領地(千五百八十石)にて川西の日在城に居住し、別に含弟峰五郎彼が(平戸松浦及伊万里氏の祖)川西なる峰の舘に住居した。
而して遊の子孫鶴田、田代、河原を氏となして此地方に蟠居し、其外波多氏の旗下には南源三郎保道(大川野南の舘四百石)原善四郎源佐(大川野三百石)峰丹後守但(川西峰の舘三百石)峰五郎八通(下鄉百五十石)田代日向守林(龜井の館三百石)赤木治部太夫彥秀(川原三百石)鶴田龜壽丸(山口)等ありしも、就中日在城主鶴田因幡守勝(五百石)及舎弟河原の邑主河原之允高(二百石)最勇名があつた。 系圖左の如くである。
(鶴田河原系圖参照)
割出地返納
降つて唐津の領主水野越前守忠邦の時、領内の全部を實地概測せしところ、總祿高より一万八千石の餘剰を割出せしを以て、此地味豊饒なる大川野地方を幕府へ返納すること成った。依つて之より此處は江戸の直轄地となり、其後肥前の島原及對馬、薩摩又は豊後國日田(代官塩谷大四郎正義「天保七年九月八日卒六十八才贈正五位」來任支配した)等の臨時支配に轉々された。蓋しそれは前記の領内に於いて異常の不作ありし時に、其食祿補充として支配せしめたのである。而して此地方の製陶地は皆眉山の麓を巡り開せるは、其原料粘土の探收關係に基けるも地元なる各邑主がそれの保護を奥へしは勿論であらう。
立川の本谷
大川村の立川は、大川野宿より二拾町を隔てし山間にて、城野と兩部にて戸數八十戸の村落である。元波多の家臣淵田祐四郎秀里(三百石)の邑地にて、奥地へ十町餘を上れば西本谷といへる所に窯趾の破片がある。それは青色釉や灰色釉などの茶碗に、黒或は薄黒にて種々の文飾を施したのがあり、又羊羹色釉や栗色釉の茶碗に白の波刷毛目を施せしものがある。或は海鼠地釉に小さき豹点のあるものや、灰色釉に飴釉に刷毛目を施せしものや、又片口の如きに鶯色釉を掛けし殘缺などがあり、そして此處にて後年器を焼きそれには染附網繪の碗などあるも、何處の原料を用ひしかは不明である。
盛家の墳墓
立川は有名なる古戦場にて、天正十三年十一月廿三日鶴田勝を日在城に攻めて戦死せし、龍造寺播摩守盛家(元犬塚鎮家)及び其子三郎四郎蒲家等の墳墓がある。そこは川岸の楊の樹下に高さ二尺二三寸巾入寸位の自然石にて、正面の上部に九輪が一つ刻まれてあり、碑前には粗樫造りの木刀が三個供へてある。
平資盛の末葉
又此處には平資盛の後胤にて小松菜といへる者があり、代々古き系圖を藏せし由にて共譜に依れば、資盛の後胤天正中松浦山形に来り(今山形に小松重藏などあるは此系統にあらざるか)慶長年間川原に移りて陶器を焼き、次に元和年中椎の峯に来り、享保の頃又立川に轉して製陶せして記載されてゐる。其系譜の寫しなるもの左の如くである。
小松系譜
小松三位中將資盛五代孫
小松安左工門春盛 小松安太郎秀盛
武雄後藤家ェ五百石ニテ被召出
小松重之允景盛 小松盛之允 小松盛右工門 小松源吾右工門 小松彌八郎爲盛 小松重太郎盛 小松勘三郎 小松重左工門 小松勘太郎 小松杢兵衛 小松助之允 小松主馬之亟祐盛
天正年中後藤家改革ニ付浪人卜相成松浦郡山形邊ニ罷在其砌類燒ニテ系圖並武具燒失仕候其後慶長年中ヨリ武士ヲ止メ川原村ニテ竈焼相成渡世仕候
小松源太右工門 小松源之允
元和年中椎峯山移ル小松彌吾右工門 小松助右工門
寶永年中椎峯沒落ニ付住所不定
享保年中ヨリ立川村ニ住居相極竈燒仕候
小松榮八
明和五年マデ竈燒仕候得共其後相止申候
小松彌四郎 小松勘助 小松桂藏
水野和泉守(忠光)樣御代
文化十一年戊ノ九月系圖御調御座候節覺書寫シ指上申候
文政改元 寅八月十八日 知寫之
田代の筒江
一時藩窯なりし大川村の田代焼さ稱するは、今の東田代部の筒江(田代より七八丁手前にて大川野より半里餘戸數三十戸)にて製造されしものにて、此處は元波多の家臣田代大炊助保(鶴田氏傍系筒江の舘に住す、五百石)の采邑である。古窯趾は川向ひの山裾にて下部は今水田成つてゐる。
筒江の殘缺には、赤胎土へ薄く灰色を施釉し其上に黒釉を流せしものや又同地に灰色釉を施し八つ目積にて焼きし物等何れも大皿である。或は樺色地にて無釉光澤なしの壺や飴釉をかけし同物があり。又赤地鐵色焼縮に縄紋浮出を廻せし水鉢などがある。其外茶碗や皿などあるも全体に大物が多く、そして比較的高臺が小さく出来てゐる。
善徳
次の川原村落なる川原は、戸數四十万あり、此地方が河原之允高の栄邑である。配地長野の善徳窯は戸数十戸許りある井手口にて、此處の堤の横を上れば板谷の口に古窯があり、残缺には灰色釉の丸茶碗に縁と高臺際に鐡筋を繞らし、そして其内に同釉にて二三線を描きなぐりしもの多く稀に黄白釉にて筋なしの丸茶碗もある。
片草と佐次郎
次の梅坂(提の川に同名異地石器質製陶)や片草の古窯も亦長野の一村落にて片草は専間に焼きしものの如く、此處の黒粘土を採って既に二十年以前まで製造せし遺窯があり又後年磁器を焼きしもの如くである。佐次郎窯の跡も此亦邊りにて、此處の製品石器中には葉茶壺にて最巧みに焼かれしものがあり、それは鐵色地にて高さ三尺肩に三方結び環付なる實用的の優品である。
神谷
神谷窯(瓶屋にあらず川原の一村落にて戸數十二三戸)の跡は今水田に開拓されてあるが、殘缺には飴釉の上に種々の繪唐津を文せる四寸皿や、赤地に白化粧を施し又同地無釉の上に薄墨にて竹を書きしものがあり。或は又芦の葉を描きし大皿や、灰色釉に淡き墨繪の竹を描ける突底の深鉢などがある。
一若の阿蘭陀墓
此窯趾の横なる一若といへる山裾の雑林をわけ入れば、一樹の桁の下に古く埋めし石碑の殘缺があり之が即ち阿蘭陀墓である。
今より四百年以前に於いて、蘭人二人此一君に來りて一種の陶器を製作した。それは全く呂宋系統の物にて従来の唐津焼とは全く其種類を異にせしものといはれてゐる。而して此蘭人はそも唐津へ渡せし者か又平戸へ上陸せし者か、或は長崎よりせし者か全く不明である。
【現代語訳】[Modern Japanese translation]
畑島は、かつて波多家の家臣・畑島主膳之政(四百石)の領地で、古窯跡は鬼塚駅から西へ一里、山裾の水車小屋の右手から入る「窯の谷」と呼ぶ山林にある。落ち葉の下を探ると、窯道具の間からときに白琺瑯釉の細かな貫入片や、鼠色の胎に青みがかった灰釉を掛け、ところどころ白釉がむらに残る茶碗の破片が見つかる。いずれも高台は無釉で、小ぶりな作りである。
ここから南へ三、四丁ほどの場所に三十戸ほどの畑島の集落があり、「鉢冠り地蔵尊」と呼ばれる像でこの地方に名高い。ご本体は欠けた鼻をセメントで整えてあるが、昔から霊験あらたかと伝えられる。お堂(約一坪)の屋根中央に載る「冠」は、鉄色に焼けた口径一尺五寸ほどの深鉢を伏せた形で、上部は絞り、頂点は擬宝珠になっている。鉢の両面には卍の浮彫と「實暦八年(1758)」の刻みがあり、前述の窯の谷の製品とされる。
続く片草・佐次郎・善徳などの古窯跡はいずれも、現在は西松浦郡に編入された大川村に属する。古窯跡がとくに多い地域なので一括して述べると、主駅の大川野の宿は伊萬里から三里余の要地で、現在は北鐵の開通駅である。
かつて松浦党の一家・大川野遊の領地(千五百八十石)で、川西の日在城に居し、従弟の峰五郎(平戸松浦および伊万里氏の祖)は川西の峰の館に住んだ。遊の子孫は鶴田・田代・河原を氏としてこの地に根を張り、波多氏旗下にも、南源三郎保道(大川野南の館四百石)・原善四郎源佐(大川野三百石)・峰丹後守但(川西峰の館三百石)・峰五郎八通(下郷百五十石)・田代日向守林(龜井の館三百石)・赤木治部太夫彥秀(川原三百石)・鶴田龜壽丸(山口)らがいた。なかでも日在城主・鶴田因幡守勝(五百石)と、弟で川原の邑主・河原之允高(二百石)が勇名を馳せた(系図参照)。
のちに唐津領主・水野越前守忠邦の時、領内を実測したところ、石高に一万八千石の余剰が見つかり、この豊かな大川野地方を幕府へ返納することになった。以後ここは江戸の直轄地となり、その後は肥前の島原や対馬、薩摩、豊後国日田(代官・塩谷大四郎正義。天保七年九月八日没、六十八歳、正五位追贈)などの臨時支配に転々と付された。これは、領内に異常な凶作があった際の食禄補填のための配転である。当地の製陶地がいずれも眉山の麓に開かれたのは、原料粘土の採取事情によるもので、地元の各邑主がこれを保護したのは言うまでもない。
大川村の立川は大川野宿から二十町の山間で、城野と合わせて戸数八十戸の村落。元は波多家臣・淵田祐四郎秀里(三百石)の領地で、さらに奥へ十町余登る西本谷に窯跡の破片がある。青釉・灰釉の茶碗に黒または薄黒で多様な文様を描いたもの、羊羹色釉や栗色釉の茶碗に白の波刷毛目を施したもの、海鼠地釉に小さな豹点の出たもの、灰釉地に飴釉の刷毛目を掛けたもの、片口のような器に鶯色釉を掛けた残欠などが見られる。後年には器物も焼かれ、染付の網絵の碗もあるが、どこの原料を使ったかは不明である。
立川は古戦場としても知られ、天正十三年十一月二十三日、鶴田勝を日在城に攻めて戦死した龍造寺播摩守盛家(元・犬塚鎮家)と、その子の三郎・四郎・蒲家らの墳墓がある。川岸のヤナギの下に、高さ二尺二、三寸、幅一尺余の自然石で、正面上部に九輪が一つ刻まれ、前には粗樫造りの木刀が三本供えてある。
また、ここには平資盛の後裔と称する「小松菜」という者がおり、代々古い系図を所蔵したという。系譜によれば、資盛の後胤は天正中に松浦山形へ来住(いま山形に小松重藏がいるのはこの系統か)し、慶長年間に川原へ移って陶器を焼き、元和年中に椎の峯へ、享保頃に再び立川へ移って製陶したとある(小松系譜写し参照)。
一時の藩窯であった大川村の「田代焼」と称されるものは、現在の東田代の筒江(田代から七、八丁手前。大川野から半里余、戸数三十戸)で作られ、ここは元・波多家臣の田代大炊助保(鶴田氏傍系。筒江の館に住す、五百石)の領地である。古窯跡は川向こうの山裾で、下部はいま水田になっている。筒江の残欠には、赤胎に薄い灰釉を掛けその上に黒釉を流したもの、同じく灰釉で「八つ目積」に焼いた大皿、樺色地で無釉・艶のない壺や、飴釉の同形、赤地の鉄色に焼き締め、縄文の浮出しを巡らせた水鉢などがある。茶碗や皿もあるが、全体に大物が多く、高台は比較的小さい。
次の川原は戸数四十戸ほどの村落で、河原之允高の栄邑。配地・長野の善徳窯は戸数十戸ほどの井手口にあり、堤沿いに上れば板谷の口に古窯がある。残欠には、灰釉の丸茶碗で、縁と高台際に鉄筋を巡らせ、その内側に同釉で二、三本の線を走らせたものが多く、まれに黄白釉で筋のない丸茶碗もある。
梅坂(提の川に同名・異地で石器質の製陶)や片草の古窯も長野の村落に属し、片草は専ら焼成を担ったようで、この地の黒粘土を用い、二十年ほど前まで製造していた遺窯がある。のちに磁器も焼いたらしい。佐次郎窯の跡もこの近辺で、石器質の製品のうち「葉茶壺」に最も巧みな作があり、鉄色地、高さ三尺、肩に三方結びの環が付く、実用性に富む優品である。
神谷窯(瓶屋ではなく、川原の一村落。戸数十二、三戸)の跡地は、今は水田に開かれている。残欠には、飴釉地にさまざまな絵唐津文を施した四寸皿、赤地に白化粧、また無釉の赤地に薄墨で竹を描いたもの、葦の葉を描く大皿、灰釉に淡墨の竹を描いた突底の深鉢などがある。
この窯跡の横、山裾の雑木林「一若」に分け入ると、木の枝の下に古い石碑の破片が埋まっており、いわゆる阿蘭陀墓である。今から四百年前、蘭人二人がこの地に来て、一種の陶器を作った。呂宋系統の作で、従来の唐津焼とは種類をまったく異にしたという。彼らが唐津に渡ったのか、平戸に上陸したのか、あるいは長崎から来たのか、その来歴は全く不明である。
【英語訳】[English translation]
Hatashima was once the fief (400 koku) of Hatashima Shuzennokami, a retainer of the Hata clan. Its old kiln site lies in the forest called “Kiln Valley,” entered to the right of a watermill at the foot of the hills one ri west of Onizuka Station. Sifting the leaf litter, one occasionally finds fragments among kiln furniture: white-enamel–glazed sherds with fine crackle, or tea bowls on a mouse-gray body with bluish-gray glaze mottled by patches of white glaze. All have small, unglazed feet.
Three to four chō south stands the hamlet of Hatashima with some thirty households, famed for the “Bowl-Crowned Jizō.” The statue’s broken nose has been restored with cement, yet it has long been regarded as efficacious. At the center of the one-tsubo shrine roof sits its “crown”: an iron-colored, rare firing—a deep bowl about 1 shaku 5 sun across, inverted, necked toward the top and finished with a mock gibōshi finial. On both faces a manji is raised in relief with the inscription “Jitsureki 8 (1758),” and the piece is held to be a product of the Kiln Valley mentioned above.
The next old kiln sites—Katakusa, Saji rō, and Zentoku—are all in Ōkawa-mura, now incorporated into Nishimatsuura-gun. Because old kiln remains are especially numerous here, we treat them together. The main post town, Ōkawano-no-Shuku, lies a little over three ri from Imari and now serves as a Karatsu Railway stop.
This was once the domain (1,580 koku) of a Matsuura-party house, Ōkawano Asobi, residing at Nichizai Castle in Kawanishi; his cousin Minegorō (ancestor of the Hirado Matsuura and Imari families) lived at the Mine manor in Kawanishi. Their descendants took the surnames Tsuruta, Tashiro, and Kawahara and settled throughout the district. Under the Hata banner also served Minami Genzaburō Yasumichi (400 koku, Ōkawano-Minami manor), Hara Zenshirō Gensa (300 koku, Ōkawano), Mine Tango-no-Kami Tadashi (300 koku, Mine manor in Kawanishi), Minegorō Yatsudō (150 koku, Shimogō), Tashiro Hyūga-no-Kami Hayashi (300 koku, Kamei manor), Akagi Jibudayū Hikoshu (300 koku, Kawahara), and Tsuruta Kamejumaru (Yamaguchi). Most renowned were Tsuruta Inaba-no-Kami Masaru (500 koku), lord of Nichizai Castle, and his younger brother Kawahara-no-son Kawahara no Jōn-taka (200 koku) (see genealogy).
Later, under Karatsu lord Mizuno Echizen-no-Kami Tadakuni, an actual survey found an overage of 18,000 koku in the domain’s assessed yield. The fertile Ōkawano area was therefore returned to the shogunate and thereafter became Edo’s direct holding, later temporarily administered by Shimabara and Tsushima in Hizen, Satsuma, or Hita in Bungo (by Daikan Shioya Daishirō Masayoshi, d. Tenpō 7/9/8, age 68, later Senior Fifth Rank)—a rotation used to make up stipends during years of poor harvest. All pottery sites here ring the foot of Mt. Mayuyama, reflecting clay procurement; local lords naturally protected them.
Tatekawa in Ōkawa-mura lies twenty chō from the post town, a mountain settlement of about eighty households including Jōno. Formerly the fief of Hata retainer Fuchida Yūshirō Hidesato (300 koku), it has sherds further up, ten-odd chō into the interior, at a place called Nishi-Hondani. Finds include tea bowls in blue or gray glaze painted in black or gray-black with varied designs; chestnut- and yokan-colored glazes brushed with white wave combing; sea-cucumber-ground glaze with fine leopard-spot specks; gray glaze over which amber glaze is brushed; and fragments like spouted bowls with nightingale-green glaze. Later, vessels such as bowls with net-pattern underglaze blue were fired here as well, though the source of the materials is unknown.
Tatekawa is also a noted old battlefield: on 23rd day of 11th month, Tenshō 13, Ryūzōji Harima-no-Kami Morie (formerly Inuzuka Shizuie) fell attacking Tsuruta Masaru at Nichizai Castle; his tomb and those of his sons Saburō, Shirō, and Kabaie remain. Under a willow by the river stands a natural stone (height about 2 shaku, 2–3 sun; width a little over 1 shaku) carved with a single nine-ring motif; before it lie three rough oak wooden swords.
There was also a man called Komatsuna, claiming descent from Taira no Sukemori, who preserved an old genealogy. According to it, Sukemori’s descendant came to Matsuura Yamagata during Tenshō, moved to Kawahara in Keichō to fire pottery, then to Shii-no-Mine in Genna, and around Kyōhō back to Tatekawa to continue pottery (see copy of the Komatsu lineage).
“Tashiro ware,” once a clan kiln of Ōkawa-mura, was in fact made at Tsutsue in Higashi-Tashiro (seven or eight chō before Tashiro; a little over half a ri from Ōkawano; about 30 households), the fief of Hata retainer Tashiro Ōkisu-no-Kami Tamotsu (a Tsuruta collateral, resident at the Tsutsue manor, 500 koku). The old kiln site lies at the foot of the hills across the river, its lower part now paddy fields. Debris includes large plates: red body thinly glazed gray, over which black glaze was run; also gray-glazed plates stacked on “yatsume-zumi” setters. There are jar forms in kahakuiro (birch-bark) unglazed matte, and the same in amber glaze; also red-bodied, iron-tightened basins with raised rope décor. While bowls and plates occur, large forms predominate, with comparatively small feet.
Kawahara is a village of about forty households, the flourishing seat of Kawahara no Jōn-taka. In its assigned district Nagano, the Zentoku kiln sits at Ideguchi (about ten households). Climbing by the levee brings one to an old kiln at Itadani-no-Kuchi; sherds include gray-glazed round tea bowls banded with iron lines at the rim and foot, with two or three swiftly drawn lines inside in the same glaze; rarely, plain yellow-white–glazed round bowls.
The old kilns of Umezaka (a different place of the same name in Tei-no-Kawa with stoneware production) and Katakusa also belong to Nagano hamlets. Katakusa seems to have specialized in firing, using local black clay; remains show production continued until about twenty years ago, and later porcelain was also made. The Saji rō kiln nearby yielded among its stoneware the finest “leaf-tea jars”: iron-toned, three shaku tall, practical jars with triple tied rings on the shoulder.
The Kamiya kiln (not a “bottle-shop” but a hamlet in Kawahara, 12–13 households) has been reclaimed as paddy fields, but sherds remain: four-sun dishes in amber glaze with various E-Karatsu designs; red-bodied pieces with white slip, and red unglazed pieces ink-painted with bamboo; also large dishes with reed leaves; and deep, flat-bottomed bowls in gray glaze painted with pale-ink bamboo.
In the scrub forest called “Ichijaku” beside the kiln site, under a branch lies a buried fragmentary stone—an “Oranda (Dutch) grave.” Some four centuries ago two Dutchmen came to this place and made a kind of pottery entirely of the Luzon type, said to be wholly different from conventional Karatsu ware. Whether they came via Karatsu, landed at Hirado, or came from Nagasaki is unknown.
【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]
畑島过去是波多家的家臣畑島主膳之政(四百石)的采邑。古窑址在鬼塚站西一里处的山脚,从水车小屋右侧进入的“窑之谷”林地中。拣拾落叶时,偶见窑具间的碎片:有白珐琅釉细裂纹片,也有鼠色胎施青灰釉、其上留有白釉斑驳的茶碗残片,均为无釉小高台。
向南三四丁有约三十户的畑岛聚落,以“戴钵地藏尊”闻名。佛体折鼻以水泥修补,自古称灵验。约一坪的小堂屋脊中央所“加冠”的,是一只铁色烧成、口径约一尺五寸的深钵倒覆而成,颈部内收,顶部作拟宝珠。钵两面浮雕卍字,并刻“實暦八年(1758)”,被认为出自前述窑之谷。
其后的片草、佐次郎、善德等古窑址,均属今已并入西松浦郡的大川村。此地古窑尤多,故合并叙述。主驿大川野之宿距伊萬里三里余,今为北铁通车之站。
此地昔为松浦党一家“大川野遊”的领地(1580石),居川西日在城,従弟峰五郎(平户松浦及伊萬里氏之祖)居川西峰之馆。其后裔分姓鶴田、田代、河原而遍居。波多氏旗下亦有南源三郎保道、原善四郎源佐、峰丹後守但、峰五郎八通、田代日向守林、赤木治部太夫彥秀、鶴田龜壽丸等,其中以日在城主鶴田因幡守勝(五百石)与其弟、川原邑主河原之允高(二百石)最著名(系图参)。
后在唐津领主水野越前守忠邦时,实测领内,较石高多出一万八千石,遂将丰饶之大川野地交还幕府。自此为江户直辖,后又转属肥前之岛原、对马、萨摩,或丰后国日田(代官塩谷大四郎正義,天保七年九月八日卒,六十八岁,赠正五位)等临时支配。此乃遇凶年以补食禄之措置。当地诸陶地环拱眉山之麓,出于采粘土之便,且为各邑主所保护。
大川村立川在大川野宿外二十町之山间,与城野合计约八十户。旧为波多家臣淵田祐四郎秀里(三百石)之地。再上奥十余町之西本谷有窑址碎片:青釉、灰釉茶碗上以黑或灰黑绘多样纹饰;羊羹色、栗色釉茶碗施白色“波刷毛目”;海鼠地釉现细小“豹点”;灰釉地上以飴釉刷描;又有似片口之器施鶯色釉等。后年亦烧器物,见有染付网绘之碗,但原料来源不详。
立川亦为古战场:天正十三年十一月二十三日,龍造寺播摩守盛家(元犬塚鎮家)攻鶴田勝于日在城而战死,其与子三郎、四郎、蒲家之墓尚存。墓在河畔柳下,自然石高二尺二三寸、宽一尺余,正上雕一枚九轮,前供粗樫木刀三把。
此处另有自称平資盛后裔之人“小松菜”,世藏旧系图。按谱,后裔天正中来松浦山形(今山形之小松重藏或属其系),慶長年间徙川原烧陶,元和年间至椎の峯,享保时又转居立川而制陶(有小松系谱抄本)。
曾为藩窑之“大川村田代烧”,实为今东田代之筒江所造(距田代七八丁,离大川野半里余,约三十户),原为波多家臣田代大炊助保(鶴田氏傍系,居筒江之馆,五百石)之采邑。古窑址在对岸山麓,下部今为稻田。残片有:赤胎薄施灰釉上又淌黑釉之大皿;灰釉大皿以“八つ目積”装匣烧成;樺色地无釉哑光之壶及其飴釉本;赤地铁色紧烧、水鉢环绕浮起绳纹等。整体大件偏多,高台较小。
川原为约四十户之村,乃河原之允高之盛邑。配地长野之善德窑在井手口(约十户)。沿堤上行至板谷之口有古窑:灰釉圆茶碗,于缘与高台际绕铁线,其内再以同釉划二三线者居多,偶见黄白釉而无线之圆碗。
梅坂(提の川同名异地、石器质制陶)与片草之古窑亦属长野。片草似专事烧成,采本地黑粘土,遗窑至二十年前尚制;后似亦烧瓷。佐次郎窑迹亦在近旁,其石器中有“叶茶壶”烧成尤巧,铁色地,高三尺,肩系三方结环,实用佳器。
神谷窑(非“瓶铺”,乃川原一村,十二三户)旧址今开为稻田。残片有:飴釉地绘各式绘唐津之四寸皿;赤地施白化妆,或赤地无釉上以淡墨写竹;并有绘芦叶之大皿、灰釉地淡墨绘竹之突底深钵。
窑址旁山麓杂林“一若”中,枝下埋有古碑残块,即“阿兰陀墓”。四百年前有二荷兰人来此制一类陶器,完全属吕宋系,迥异于既有唐津烧。其由唐津、平户或长崎而来,已不可考。
【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditionalfrom Japanese]
畑島昔為波多家家臣畑島主膳之政(四百石)之采邑。古窯址在鬼塚站西一里之山腳,自水車小屋右側入之「窯之谷」林地。拈落葉可得窯具間碎片:白琺瑯釉細裂片,或鼠色胎施青灰釉、其上留白釉斑駁之茶碗殘片,皆無釉小高臺。
南行三四丁有約三十戶之畑島聚落,以「戴鉢地藏尊」著名。佛體折鼻以水泥修補,自古稱靈驗。約一坪小堂屋脊中央所「加冠」者,乃鐵色燒成、口徑約一尺五寸之深鉢倒覆而成,頸部內收,頂作擬寶珠。鉢兩面浮雕卍字,並刻「實暦八年(1758)」,相傳為前述窯之谷之製。
其後片草・佐次郎・善德等古窯址,皆屬今編入西松浦郡之大川村。此地古窯尤多,故合而述之。主驛大川野之宿去伊萬里三里餘,今為北鐵通車之站。
昔為松浦黨一家「大川野遊」之領(1580石),居川西日在城;從弟峰五郎(平戶松浦及伊萬里氏之祖)居川西峰之館。其裔分姓鶴田、田代、河原而散處。波多旗下亦有南源三郎保道、原善四郎源佐、峰丹後守但、峰五郎八通、田代日向守林、赤木治部太夫彥秀、鶴田龜壽丸等,其中以日在城主鶴田因幡守勝(五百石)與弟、川原邑主河原之允高(二百石)最著(系圖參)。
後值唐津領主水野越前守忠邦,實測領內,較石高多出一萬八千石,乃以膏腴之大川野地奉還幕府。自是為江戶直轄,繼而轉隸肥前之島原、對馬、薩摩,或豐後國日田(代官塩谷大四郎正義,天保七年九月八日卒,六十八歲,贈正五位)等臨時支配。此蓋遇凶歲補食祿之方也。當地諸陶地環眉山之麓,係取粘土之便,且蒙各邑主保護。
大川村立川在大川野宿外二十町之山間,與城野合計約八十戶。舊為波多家臣淵田祐四郎秀里(三百石)之地。更上十餘町至西本谷,有窯址殘片:青釉、灰釉茶碗上以黑或灰黑繪紋;羊羹色、栗色釉茶碗施白「波刷毛目」;海鼠地釉見細小「豹點」;灰釉地上以飴釉刷描;亦有似片口之器施鶯色釉等。後年亦燒器物,有染付網繪之碗,然原料不詳。
立川亦為古戰場:天正十三年十一月二十三日,龍造寺播摩守盛家(元犬塚鎮家)攻鶴田勝於日在城而戰沒,其與子三郎、四郎、蒲家之墓尙存。墓在河畔柳下,自然石高二尺二三寸、寬一尺餘,正上刻一九輪,前陳粗樫木刀三。
此地又有自稱平資盛後裔之人「小松菜」,世藏古系圖。據譜,後裔天正中來松浦山形(今山形之小松重藏或屬其系),慶長中徙川原燒陶,元和中至椎の峯,享保時復轉立川制陶(有小松系譜抄)。
曾為藩窯之「大川村田代燒」,實在今東田代筒江(去田代七八丁,離大川野半里餘,約三十戶)所造,為波多家臣田代大炊助保(鶴田氏傍系,居筒江之館,五百石)之采邑。古窯址在對岸山麓,下部今為水田。殘片有:赤胎薄施灰釉上復流黑釉之大皿;灰釉大皿以「八つ目積」裝燒;樺色地無釉啞光之壺及其飴釉本;赤地鐵色緊燒,環繞繩紋浮起之水鉢等。整體大件居多,高臺較小。
川原為約四十戶之村,乃河原之允高之盛邑。配地長野之善德窯在井手口(約十戶);沿堤上至板谷之口有古窯:灰釉圓茶碗於緣與高臺際繞鐵線,其內以同釉疾劃二三線者居多;偶見黃白釉無線之圓碗。
梅坂(提の川同名異地,石器質製陶)與片草之古窯亦屬長野。片草似專司燒成,採本地黑粘土,遺窯至二十年前尚製;後疑亦燒瓷。佐次郎窯跡亦在近旁,其石器中「葉茶壺」尤精,鐵色地,高三尺,肩系三方結環,實用佳器。
神谷窯(非瓶舖,乃川原一村,十二三戶)舊址今闢為水田。殘片有:飴釉地繪諸式繪唐津之四寸皿;赤地施白化妝,或赤地無釉上以淡墨寫竹;并有繪蘆葉之大皿、灰釉地淡墨竹之突底深鉢。
窯址旁「一若」之雜林內,枝下埋有古碑殘塊,即「阿蘭陀墓」。四百年前有二荷蘭人至此製一類陶器,全屬呂宋系,迥異既有唐津燒。其由唐津、平戶或長崎而來,已不可考。
【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]
畑岛曾为波多家家臣畑岛主膳之政(400石)的领地。古窑址在鬼塚站以西一里、山脚水车小屋右侧进入的“窑谷”。落叶间可见窑具与碎片:白珐琅釉细裂纹,或鼠灰胎施蓝灰釉并杂有白釉斑的茶碗残片,皆小型无釉高台。
南行三四丁有约三十户的畑岛村,以“戴钵地藏尊”闻名。佛像折鼻以水泥修补,素称灵验。小堂屋脊中央加冠之物,是一只铁色深钵倒覆(口径约一尺五寸),颈部内收,顶部作拟宝珠。两面浮雕卍并刻“實暦八年(1758)”,据说出自前述窑谷。
其后之片草、佐次郎、善德等古窑址,属今并入西松浦郡的大川村;因古窑繁多,合并述之。主驿大川野之宿距伊萬里三里余,今为唐津铁路车站。
昔为松浦党一家“大川野遊”之领(1,580石),居川西日在城;其従弟峰五郎(平户松浦与伊萬里氏之祖)居川西峰之馆。后裔分姓鶴田、田代、河原。波多旗下亦有南源三郎保道等多人,其中以日在城主鶴田因幡守勝(500石)与其弟、川原邑主河原之允高(200石)最著(系谱参)。
后于唐津藩主水野越前守忠邦时实测,发现高出1.8万石,乃以肥饶之大川野地上交幕府。此后为江户直辖,后又临时隶属肥前岛原、对马、萨摩或丰后日田(代官塩谷大四郎正義,天保七年卒,享年68,赠正五位)。当地诸陶地环绕眉山之麓,反映取粘土之便,且受邑主保护。
大川村立川距宿二十町,为与城野合计约八十户之山村,旧为波多家臣淵田祐四郎秀里(300石)的地。更上十余町至西本谷,见青/灰釉茶碗以黑或灰黑绘纹、栗/羊羹釉茶碗施白“波刷毛目”、海鼠地釉现微细“豹点”、灰釉地刷飴釉,以及似片口者施鶯色釉等。其后亦烧染付网绘碗,材料来源不详。
立川亦是古战场:天正13年11月23日,龍造寺播摩守盛家(原犬塚鎮家)攻鶴田勝于日在城时战死;其与子三郎、四郎、蒲家之墓尚在柳下河畔,自然石刻九轮,前置三柄粗橡木刀。
另有自称平資盛后裔“小松菜”,世藏系谱:天正中居松浦山形,慶長徙川原烧陶,元和移椎の峯,至享保转立川制陶(见系谱抄)。
“田代烧”(曾为藩窑)实出东田代筒江(距田代7–8丁、离大川野半里余,约30户),为田代大炊助保(鶴田氏旁系,居筒江之馆,500石)采邑。对岸山麓之古窑址下部今为稻田。残件有:赤胎薄灰釉上淌黑釉之大盘;灰釉大盘以“八目垫”装匣烧;樺色地无釉哑光或飴釉之壶;赤地铁色紧烧、缠绕绳纹水钵。总体以大件为多,足较小。
川原村约四十户,为河原之允高之盛邑。配地长野之善德窑在井手口(约十户);沿堤上行至板谷口见古窑:灰釉圆碗,缘与足际绕铁线,内以同釉速划二三线者居多;偶见黄白釉素面圆碗。
梅坂(提の川同名异地之石器产)与片草之古窑亦属长野。片草似专司烧成,采本地黑粘土,遗窑至二十年前尚作;后疑亦烧瓷。佐次郎窑所产石器中,“叶茶壶”尤精:铁色地,高三尺,肩具三方结环,实用佳器。
神谷窑(非“瓶铺”,乃川原一村,12–13户)旧址今为稻田。残片有:飴釉地绘多种绘唐津之四寸盘;红胎施白化妆,或素红胎上以淡墨写竹;亦有芦叶大盘、灰釉淡墨竹图之突底深钵。
窑址旁“ 一若 ”杂林中枝下埋有古碑残块,即“荷兰墓”。约四百年前两荷兰人至此制吕宋系陶器,迥异于唐津烧;其经由唐津、平户或长崎而来,不可考。
【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]
畑島昔為波多家家臣畑島主膳之政(400石)之領。古窯址在鬼塚站西一里、山腳水車小屋右側入之「窯谷」。落葉間見窯具與殘片:白琺瑯釉細裂,或鼠灰胎施藍灰釉並雜白釉斑之茶碗殘片,皆小型無釉高臺。
南行三四丁有約三十戶之畑島村,以「戴鉢地藏尊」著稱。佛像折鼻以水泥修補,素稱靈驗。小堂屋脊中央加冠者,乃鐵色深鉢倒覆(口徑約一尺五寸),頸部內收,頂作擬寶珠。兩面浮雕卍並刻「實暦八年(1758)」,據傳出自前述窯谷。
其後之片草、佐次郎、善德等古窯址,屬今併入西松浦郡之大川村;以古窯繁多,故合述之。主驛大川野之宿去伊萬里三里餘,今為唐津鐵路之站。
昔為松浦黨一家「大川野遊」之領(1,580石),居川西日在城;其從弟峰五郎(平戶松浦與伊萬里氏之祖)居川西峰之館。其後裔分姓鶴田、田代、河原。波多旗下亦有南源三郎保道等,其中以日在城主鶴田因幡守勝(500石)與其弟、川原邑主河原之允高(200石)最為著名(系譜參)。
後於唐津藩主水野越前守忠邦時實測,發現超出1.8萬石,乃以膏腴之大川野地上納幕府。其後為江戶直轄,復臨時隸屬肥前島原、對馬、薩摩或豐後日田(代官塩谷大四郎正義,天保七年卒,享年68,贈正五位)。當地諸陶地環眉山之麓,反映取粘土之便,並受邑主保護。
大川村立川距宿二十町,與城野合計約八十戶之山村,舊為波多家臣淵田祐四郎秀里(300石)之地。更上十餘町至西本谷,見青/灰釉茶碗以黑或灰黑繪紋、栗/羊羹釉茶碗施白「波刷毛目」、海鼠地釉現微細「豹點」、灰釉地刷飴釉,以及似片口者施鶯色釉等。其後亦燒染付網繪碗,材料來源不詳。
立川亦為古戰場:天正十三年十一月二十三日,龍造寺播摩守盛家(原犬塚鎮家)攻鶴田勝於日在城時戰殁;其與子三郎、四郎、蒲家之墓尚在柳下河畔,自然石刻九輪,前置三柄粗橡木刀。
另有自稱平資盛後裔「小松菜」,世藏系譜:天正中居松浦山形,慶長徙川原燒陶,元和移椎の峯,享保轉立川制陶(見系譜抄)。
「田代燒」(曾為藩窯)實出東田代筒江(距田代七八丁、離大川野半里餘,約三十戶),為田代大炊助保(鶴田氏旁系,居筒江之館,500石)采邑。對岸山麓之古窯址下部今為稻田。殘件有:赤胎薄灰釉上淌黑釉之大盤;灰釉大盤以「八目墊」裝匣燒;樺色地無釉啞光或飴釉之壺;赤地鐵色緊燒、纏繞繩紋之水鉢。整體以大件為多,足較小。
川原村約四十戶,為河原之允高之盛邑。配地長野之善德窯在井手口(約十戶);沿堤上行至板谷口見古窯:灰釉圓碗,緣與足際繞鐵線,內以同釉速劃二三線者居多;偶見黃白釉素面圓碗。
梅坂(提の川同名異地之石器產)與片草之古窯亦屬長野。片草似專司燒成,採本地黑粘土,遺窯至二十年前尚作;後疑亦燒瓷。佐次郎窯所產石器中,「葉茶壺」尤精:鐵色地,高三尺,肩具三方結環,實用佳器。
神谷窯(非「瓶舖」,乃川原一村,12–13戶)舊址今為稻田。殘片有:飴釉地繪多種繪唐津之四寸盤;紅胎施白化妝,或素紅胎上以淡墨寫竹;亦有蘆葉大盤、灰釉淡墨竹圖之突底深鉢。
窯址旁「一若」雜林中枝下埋有古碑殘塊,即「荷蘭墓」。約四百年前兩荷蘭人至此製呂宋系陶器,迥異於唐津燒;其經由唐津、平戶或長崎而來,不可考。

