肥前瓦の條~堅高の陶業奨勵

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【原文】[Original text]

肥前瓦の條
 肥前丸の條には、天正十九年名護屋天守瓦注文に預り、小川惣右工門小城郡江津にて之を焼き、文祿元年正月名護屋城普請奉行蒔田十之助より天守閣普請の総代を命ぜられ、其竣工の速かなりし賞として、九州九ヶ國家造を進達すべき旨秀吉の朱印を授かりして記せられてある。

直茂の天守造營
 斯くの如く各自家の誇張的記鎌多種にして、後世史家の取捨を迷はす材料たる而巳である。蓋し名護屋城普請に就いては、鍋島直茂のことは相違なきもの如く、直茂公譜に左の如き記録がある。そして之は天正十九年ならんと推考されてゐる。

一太閤今度御下向付御居舘ノ爲波多三河守親ノ領内上松浦ノ内奈古屋於一城ヲ築カセラル依之直茂公ョリ蓮池城天守ヲ献ゼラレケリ其上大手ノ櫓ヲ立ラル三間=十三間也奉行石井生札(義元)、甲斐彌左工門、納富市右工門也此時自殿下直茂公エル書二日
就奈古屋御在陣御用爲可相叶甲斐彌左工門石井生札納富市右工門付置切々懸物並竹木普請道具 夫稀等申付候儀無尽期造作共殊入念候奉行等聊無油斷候彼是悅思召候尙石田杢(三成の兄正澄)木下半介(吉隆)可申也
七月十一日 御朱印
鍋島加賀守どのへ

範丘
 或説には鍋島直茂最初歸陣の折、釜山の陶工範丘及其族十餘人を連來りしを、秀吉命じ白鷺山に止め茶器を焼かしむることゝなり、家永彦三郎は其取締りに任せられた。之より彼は範丘に師事して頗る造詣するところありしも、蓋し當時製せし茶器は多く範丘の手に成りしものにて後年稗田皿屋に於て白紋雲鶴を焼きしも亦範丘であるといはれてゐる。

白崎山
 然るに白鷺山さは名護屋村ではなく、村の神集島の山名にて、名護屋城を隔つること二里、唐津より二里の小島である。(其頃夥しく白鷺の棲息せしも後年伐木せしより筑前姫島方面へ移棲した)而して別に白崎山あることが解せられて、普讀上の誤字なりしことを発見したのである。
 白崎山は名護屋城より六、七丁を隔てし山中にて、當時蒲生飛彈守氏郷が陣であつた。其處に白き陶土を産出し、往時は唐津焼の原料に加用されしいはれてゐる。斯くて一部の韓人を此處に收容し、其他は佐志村唐房に別製陶せしめしその説もある。

名護屋城内の御用陶師
 平戸説に依れば戦役中秀吉は、松浦鎮信に命じて巧みなる陶匠を求めしより、彼は咸鏡道熊川の陶工從次貫なる者を名護屋城内の窯場に送りしとあるも、之を事實と認じるには大いに研究の地がある。其外渡來の韓人にして、此際名護屋城内にて茶器を作りし者陸積として敷へらるゝも、多くは自家の祖先を粉飾せんとする一種の手段と見る外なく、甚信を描き難い。
 如何に寛濶なる秀吉とて、當時戦役中に於いて陶工の身分としても、交戰國の異鄉人を城内住込ませしとは思はれず、況んや彼の鬼子嶽崩れの殘黨に對しても未だ用心の必要があり、さなきだに彼は十餘萬の大軍を以て、名護屋城外數里の周圍を取卷かせ警戒頗る厳重なりしこさを考ふべきであらう。

尊階来る
 慶長三年加藤清正に従ひて唐津に上陸せし韓土の陶工中尊階(釜山海の領主尊盆の子ともいふ)は、暫く此地に止まりて唐津焼を研究せしといはれてゐる。(それは切木村の小次郎官者窯にあらざるか)而して彼は一旦故山に還り、慶長五年再び渡来して細川忠興に聘せられ、豊前に於いて上野焼を創始せしは前記の如くである。

廣高唐津を領す
 波多家落後唐津を領せし寺澤忠次郎廣高は、始めて志摩守に任せられた。彼は秀吉の侍臣にて父は尾張の人藤左工門廣正と稱し、始め織田信長に仕へ後秀吉に従ひて越中守と稱した。廣高性剛毅又頗る才幹あり、朝鮮の役に従ふこと前後七ヶ年抜群の戦功があつた。然るに一夜鬼子嶽城が焼失(波多の浪士が放火せしさの噂あり)せるより、彼は徳居(今の北波多村徳須惠)の西北田中村に城を築いて之に居住した。

舞鶴城築營
 其うち名護屋城を解き崩して其材料を得るに及び、慶長七年(1602年)よ唐津の満島山を卜して此處に工を起し、七ヶ年を経て舞鶴城が完成された。此地玉島 松浦の二川中に注ぐがあり、港内水深くして高島 大島、鳥島の配置盆景を見るが如く、陸には佐用姫が領巾振山を扣へ、仰げば東天高き雲表に浮岳を望み、俯すれば銀波除ろに寄せる虹の松原を眺むその景勝實に天下に冠絶す。爾來士民此城下に蝟集して商家櫛比し、博多の豪商神谷宗湛(平四郎貞清寛永十二年卒八十五才)の如きも此處に來つ朝鮮、支那、呂宋、選羅、安南諸國と通商するに至り、昭和七年には市制を布くに至つたのである。

鬼子嶽の殘黨
 其頃鬼子嶽の殘黨は、多く流浪四散して或者は鍋島氏に仕へ、又は領内の村々に庄屋となり、中には町人や陶工となりし者も少からざりしが如く、廣高此浪士に對して頗る寛容であつた。而て鬼子嶽城火災が縦令彼等浪士の所行としても、情として無理ならずさなして其檢挙を止めして傳へらるゝが如き其の一例にして、之より士民大いに歸服せしと言はれてゐる。

李敬来る
 廣高又當時對馬にありし韓土の陶工李敬(字は夕光)及同地の陶工七兵衛を召し、特に朝鮮より取寄せし陶料の坏土を以て、椎の峯に於いて茶器を焼かしめしが、其際不出来の器は悉く之を土中に埋め、完全なる成器五十六小を撰みしものである。

火斗り焼
 之を火斗りの絶品として愛好者の珍重措かざるものである。李敬歸化して坂本助八稱し、後年長門の古萩を創始せしことは前記の如くである。
 而して廣高が陶器を焼くに、其胎土や釉薬原料を韓土より運搬せしは、頗る賛事に似たるが如きも、戦役當時の事情に徹すれば決して其然らざる所以が見出さるゝ、それは前に述べたる如く玄洋歸航の安定を保持せん爲に、重量代りとして搭載せしものにて、一面には此時代陶器といへば朝鮮を主とせる因習観念が、彼國にのみ世に類なき原料あるが如き特種の尊重心も亦取寄せの一因と見る可く、殊に良粘土に乏しき戸の中野は勿論然る可くも、彼の薩摩の古帖佐にも此火斗りといへるものあるは又同じ理由であらう。

廣高加禄
 慶長五年八月關ヶ原役に於いて、東軍に属せし廣高は其殊勳に依り、肥前國天草島の四萬石、筑前國怡土郡(今の糸島郡)にて二萬八千三百六十石を加増され本領八萬二千四百十六石を合せて十五萬七百七十六石を領有するに至つた。

藩窯の移轉
 廣高又韓土の陶工にて歸化せる彌作其子藤右工門及太左工門の三人を召し、城下西の濱唐堀に開窯せしめ、何れも二人扶持を給し唐津焼の窯御用とせしが、後之を佐志村唐房に移し、次に稗田の藩窯となり、轉じて田代の筒江(西松浦郡大川村)に變り、慶長八年大川原(同郡南波多村)に移し、元和元年椎の峯に定めし稱せらる。
 廣高は寛永十年四月十一日(1633年)七十一才にて卒去した。之より先き長子式部少輔忠晴元和八年四月朔日二十三才にて早世しかば、子兵庫頭堅高二代を嗣く事となった。

堅高の陶業奨勵
 而して彼は鬼子嶽崩れの陶工を奬勵して地方に開窯せしめしより、斯業再び物興するに至り、己れ又唐堀の窯趾を修築して幕府へ進献の器を焼きしものにて、之が即ち坊主町の藩窯である。
 此慶長時代(1596-1615年)創業せしと見る可き鬼子嶽系の古窯には、松浦村(西松浦郡)藤の川内の阿房の谷及び茅の谷、同村提の川の勝人、大川村(同郡)の梅坂、同村の焼山上窯 焼山下窯等がある。


【現代語訳】[Modern Japanese translation]

「肥前丸の條」には、天正十九年に名護屋城の天守に使う瓦の注文を受け、小川惣右工門が小城郡江津で焼いたこと、さらに文禄元年正月、名護屋城普請奉行の蒔田十之助から天守閣普請の総代を命じられ、工事が早く仕上がった賞として、秀吉の朱印で「九州九ヶ國家造を進達すべき」旨を許された、と記されている。

こうした記録には誇張も多く、後世の史家を迷わせる材料になっている。しかし名護屋城普請について鍋島直茂が関わったことは確かで、直茂公譜には次のような趣旨の記録がある(天正十九年頃のことと推測される)。――太閤が下向して御居館のために上松浦の奈古屋に城を築かせるにあたり、直茂は蓮池城の天守を献じ、さらに大手の櫓(三間×十三間)を建てた。奉行は石井生札(義元)、甲斐彌左工門、納富市右工門。殿下から直茂へ、「奈古屋在陣中の御用が滞りなく運ぶよう、甲斐彌左工門・石井生札・納富市右工門を付け置き、竹木・普請道具その他を手抜かりなく準備せよ。奉行ら油断なきよう。石田杢(正澄)・木下半介(吉隆)にも申し伝える」との朱印が七月十一日付で与えられた。

一説では、鍋島直茂が最初に帰陣した際、釜山の陶工・範丘とその一族十数人を伴い、秀吉の命で白鷺山に留めて茶器を焼かせ、家永彦三郎が取り締まりを任されたという。家永は範丘に学び造詣を深めたが、当時の茶器の多くは範丘の手になるもので、のちに稗田皿屋で白い文様の雲鶴を焼いたのも範丘であったと伝える。

ただし「白鷺山」は名護屋村の山ではなく、村の神集島の山名で、名護屋城・唐津からそれぞれ二里の小島を指す。のちに別に「白崎山」があることがわかり、読み誤りであったと判明した。白崎山は名護屋城から六、七丁の山中で、当時は蒲生飛彈守氏郷の陣。そこで白い陶土が産し、唐津焼の原料に用いられたという。一部の韓人はここに収容し、他は佐志村唐房で別に製陶させたとする説もある。

名護屋城内の御用陶師については、平戸側の説に「秀吉が松浦鎮信に命じ、咸鏡道熊川の陶工・從次貫を名護屋城内の窯場に送った」とあるが、事実とみなすには検討を要する。他にも渡来の韓人が城内で茶器を作ったという話は多いが、多くは自家の祖先を飾るための作り話と見たほうがよく、信頼しがたい。当時はいかに寛大な秀吉でも、戦時下に交戦国の異郷人を城内に住まわせたとは考えにくい。まして「鬼子嶽崩れ」の残党への警戒も必要で、十数万の軍勢で名護屋城外を数里にわたり取り巻くほど警備は厳重であったことを思うべきである。

慶長三年、加藤清正に従って唐津に上陸した韓土の陶工のうち尊階(釜山海の領主・尊盆の子ともいう)は、しばらく当地にとどまり唐津焼を研究した(切木村の小次郎官者窯か)。いったん帰国ののち慶長五年に再渡来し、細川忠興に聘され豊前で上野焼を創始した。

波多家が没落すると、寺澤忠次郎廣高が唐津を領し、はじめ志摩守に任ぜられた。廣高は秀吉の侍臣で、父は尾張の人・藤左工門廣正。織田信長に仕え、のち秀吉に従い越中守を称した。剛毅で才幹に富み、朝鮮の役で前後七年の抜群の戦功があった。一夜、鬼子嶽城が焼失(波多浪士の放火との噂)したため、德居(北波多村徳須惠)の西北・田中村に城を築いて居住した。

その後、名護屋城を解体して資材を得、慶長七年(1602)に唐津の満島山に着工、七年を経て舞鶴城が完成した。玉島・松浦の二川が流れ込み、深い港の内には高島・大島・鳥島が配され、陸には領巾振山、遠く浮岳、足元には虹の松原――景勝は天下一と称された。以後、城下に人々が集まり商家が軒を連ね、博多の豪商・神谷宗湛も来住して朝鮮・支那・呂宋・暹羅・安南と通商、昭和七年には市制がしかれた。

当時、鬼子嶽の残党は多くが流浪し、鍋島氏に仕えたり、村々の庄屋・町人・陶工になった。廣高はこれら浪士に寛容で、仮に城火災が彼らの所業であっても強硬な検挙を控え、これにより士民が帰服したと伝える。

また廣高は、對馬にいた韓土の陶工・李敬(字・夕光)と七兵衛を召し、朝鮮から取り寄せた陶料の坏土で椎の峯に茶器を焼かせ、不出来は土中に埋め、良品五十六点のみを選んだ。これらは「火斗り」の絶品として珍重された。李敬は帰化して坂本助八と称し、のち長門で古萩を創始した。

廣高が胎土や釉薬の原料を韓土から運ばせたのは、一見奇異だが、当時の情勢からすれば玄界灘の復航安定のための「重し」として積載した面もあり、同時に「陶器といえば朝鮮」という観念から朝鮮の原料を殊に尊んだことも取り寄せの理由であろう。良質の粘土に乏しい戸の中野のみならず、薩摩の古帖佐に「火斗り」と呼ばれるものがあるのも同じ事情によると思われる。

慶長五年の関ヶ原役で東軍に属した廣高は、戦功により肥前天草島四万石、筑前怡土郡二万八千三百六十石を加増され、本領八万二千四百十六石と合わせ十五万七百七十六石を領した。

さらに廣高は、韓土からの帰化陶工・彌作、その子・藤右工門・太左工門を召して城下西の濱・唐堀に開窯させ、いずれも二人扶持を与えて唐津焼の御用窯とした。のち佐志村唐房に移し、次いで稗田の藩窯、さらに田代の筒江へ、慶長八年に大川原へ、元和元年に椎の峯へと移転したと伝える。廣高は寛永十年四月十一日(1633)七十一歳で没し、先に長子・忠晴が若死にしたため、兵庫頭堅高が二代を継いだ。

堅高は鬼子嶽崩れの陶工を奨励して各地に開窯させ、産業は再び興った。自らも唐堀の窯跡を修築して幕府献上の器を焼き、これが坊主町の藩窯である。慶長期(1596–1615)に創業したと見られる鬼子嶽系の古窯には、松浦村・藤の川内の阿房の谷・茅の谷、同村・提の川の勝人、大川村の梅坂、同村の焼山上窯・焼山下窯などがある。


【英語訳】[English translation]

In the “Hizen-maru entry,” it is recorded that in 天正十九年 the order for tiles for the Nagoya Castle keep was accepted and fired at 江津 in 小城郡 by 小川惣右工門; in 文禄元年正月, 蒔田十之助, the overseer of the Nagoya works, appointed them general superintendent for the keep construction, and—because of the project’s speedy completion—Hideyoshi granted, by vermilion-sealed patent, authorization “to advance 九州九ヶ國家造.”

Such family records often contain exaggeration and easily mislead later historians. Still, regarding the Nagoya works, 鍋島直茂’s involvement is unquestioned; his genealogy preserves an entry (thought to date to 天正十九年) stating in essence: when the Taikō came down and ordered a castle at 奈古屋 in 上松浦 for his residence, 直茂 offered the keep of 蓮池城 and erected the main gate turret (three ken by thirteen ken). The commissioners were 石井生札(義元), 甲斐彌左工門, and 納富市右工門. A letter under Hideyoshi’s seal dated the 11th day of the 7th month instructs 直茂 to keep 甲斐彌左工門, 石井生札, and 納富市右工門 attached to the Nagoya camp, to furnish timber and tools without negligence, and notes 石田杢(正澄) and 木下半介(吉隆) as contacts.

One account says that when 鍋島直茂 first returned from the campaign he brought the potter 範丘 from 釜山 with a dozen kin; by Hideyoshi’s order they remained at 白鷺山 to fire tea wares, with 家永彦三郎 as overseer. 家永 studied under 範丘 and deepened his mastery; many tea utensils of the time are ascribed to 範丘, who later at 稗田皿屋 fired white-decorated 雲鶴 motifs.

However, “白鷺山” is not a hill of 名護屋村 but the name of a hill on 神集島, a small islet two ri from both 名護屋城 and 唐津. Later it was realized that “白崎山” was intended—a reading mistake. 白崎山, six or seven chō from 名護屋城 (then 蒲生飛彈守氏郷’s camp), yielded white clay long used as a raw material for 唐津焼. Some Korean artisans were lodged there, others worked separately at 佐志村唐房.

As for “official potters inside 名護屋城,” the 平戸 account claims that on Hideyoshi’s command 松浦鎮信 sent the craftsman 從次貫 from 咸鏡道熊川 to the castle kilns. This and similar tales of Korean potters making tea wares inside the fortress require caution: they often serve to embellish family lineages. Even the broad-minded Hideyoshi, in wartime, is unlikely to have quartered enemy-country artisans inside the citadel—especially while vigilance against the “鬼子嶽崩れ” remnants remained high and tens of thousands encircled the outer zones of 名護屋城 under strict guard.

In 慶長三年 the Korean potter 尊階 (said to be son of 釜山海’s lord 尊盆), landing with 加藤清正, stayed awhile to study 唐津焼—perhaps at 切木村の小次郎官者窯—returned home, then in 慶長五年 came again, was engaged by 細川忠興, and founded 上野焼 in 豊前.

After the fall of the 波多 house, 寺澤忠次郎廣高 took 唐津 and was first appointed 志摩守. A retainer of Hideyoshi, son of 尾張’s 藤左工門廣正, he had served 織田信長 and later Hideyoshi as 越中守. Resolute and able, he distinguished himself over seven years in the Korean campaigns. When 鬼子嶽城 burned one night (rumored arson by 波多 rōnin), he built a new fort at 田中村 northwest of 德居(徳須惠) and settled there.

He later dismantled 名護屋城 for materials and, beginning in 慶長七年(1602), raised 舞鶴城 on 満島山; after seven years it was complete. With 玉島 and 松浦 rivers flowing in, deep waters and the placement of 高島, 大島, and 鳥島 framed the harbor; on land rose 領巾振山, afar 浮岳, and below 虹の松原—scenery famed as matchless. Townspeople gathered; merchants lined the streets; even 神谷宗湛 came and traded with 朝鮮, 支那, 呂宋, 暹羅, and 安南. 市制 followed in 昭和七年.

At the time, the “鬼子嶽” remnants dispersed—some served 鍋島氏, some became village headmen, townsmen, or potters. 廣高 treated them with leniency; even if they had fired the castle, he stayed arrests, and people submitted to his rule.

He also summoned 李敬(字・夕光) and 七兵衛 from 對馬, used clay specially brought from 朝鮮, and at 椎の峯 fired tea wares—burying all rejects in the earth and selecting only fifty-six perfect pieces. These are cherished as supreme “火斗り” works. 李敬 later naturalized as 坂本助八 and founded 古萩 in 長門.

That 廣高 transported bodies and glaze materials from 朝鮮 may seem curious; yet as ballasting for stable homeward voyages across 玄界灘 and under the era’s habit of esteeming “Korea” as the ceramic standard, importing such raw materials made sense—no less in 戸の中野 or in 薩摩’s 古帖佐, where “火斗り” wares are likewise noted.

For service on the Eastern side at 関ヶ原 in 慶長五年八月, 廣高 received increases of 四万石 in 天草島 and 二万八千三百六十石 in 筑前怡土郡; with his original 八万二千四百十六石, his total reached 十五万七百七十六石.

He engaged the naturalized Korean potter 彌作 and his sons 藤右工門 and 太左工門, opened a kiln at 濱・唐堀 west of the castle, granted each a two-person stipend, and made it a 唐津焼御用窯. The domain kiln then moved to 佐志村唐房, later to 稗田, then 田代の筒江, in 慶長八年 to 大川原, and in 元和元年 to 椎の峯. 廣高 died on 寛永十年四月十一日(1633) aged seventy-one; his heir was 兵庫頭堅高 after the early death of 長子・忠晴. 堅高 encouraged “鬼子嶽崩れ” potters to found kilns locally; the craft revived. He rebuilt 唐堀’s kiln site to fire presentation wares for the shogunate—this was the 坊主町 domain kiln. Old kilns of the “鬼子嶽 line” begun in the 慶長 era include sites at 松浦村(西松浦郡)藤の川内の阿房の谷・茅の谷, 提の川の勝人, 大川村の梅坂, and its 焼山上窯・焼山下窯.


【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]

《肥前丸の條》记载:天正十九年,名护屋城天守所用瓦由小川惣右工门在小城郡江津烧造;文禄元年正月,名护屋城普请奉行蒔田十之助任命其为天守阁普请总代。因工程速成,秀吉以朱印许可其“进达九州九ヶ國家造”。

此类记载多有夸张,易使后世史家惑乱。然就名护屋城普请而言,确有鍋島直茂之事。直茂公谱载(推在天正十九年):太閤下向,于上松浦奈古屋筑城为御居馆,直茂献蓮池城天守,并建大手之橹(三间×十三间)。奉行为石井生札(義元)、甲斐彌左工门、納富市右工门。七月十一日之朱印令直茂:奈古屋在陣诸用务须周备,付置三名奉行,竹木与普请诸具勿懈,石田杢(正澄)、木下半介(吉隆)为所当达。

一说直茂初归阵时,携釜山陶工範丘及族十余人,奉命留白鷺山烧茶器,家永彦三郎总其事。家永师事範丘学艺精进;当时茶器多出範丘之手,后在稗田皿屋所烧白纹雲鶴亦其作。

然“白鷺山”非名护屋村之山,乃村中神集岛之名,距名护屋城与唐津各二里。后知应作“白崎山”,乃读误。白崎山去名护屋城六七町,当时为蒲生飛彈守氏郷之陣,出产白陶土,旧为唐津烧原料。部分韩人安置于此,余者于佐志村唐房另行制陶之说亦存。

关于“名护屋城内御用陶师”,平户说称:秀吉命松浦鎮信,遣咸镜道熊川陶工從次貫入城窑烧造。然此及诸多“韩人于城内制茶器”之传,多为粉饰祖先之术,可信不足。战时即使宽宏如秀吉,亦难令交战国之工人入居城内;况对“鬼子嶽崩れ”余党仍须严备,十余万军围城数里以警戒,可知其谨严。

慶長三年,韩土陶工尊階随加藤清正登岸于唐津,暂留研习唐津烧(或在切木村小次郎官者窑)。后返国,慶長五年再渡,受細川忠興延聘,于豊前创上野焼。

波多家没后,寺澤忠次郎廣高领唐津,初任志摩守。廣高为秀吉侍臣,父藤左工门廣正(尾张人),先仕織田信長,后从秀吉称越中守。性刚毅而多才,于朝鲜之役前后七年战功卓著。因鬼子嶽城一夜焚毁(传为波多浪士放火),乃于德居(徳須惠)西北之田中村筑城居之。

后拆名护屋城取材,慶長七年(1602)卜唐津満島山起工,七年而成舞鶴城。两川(玉島、松浦)入海,港深岛列(高島、大島、鳥島),陆有領巾振山,远望浮岳,近瞰虹之松原,景胜甲天下。由是市肆云集,博多豪商神谷宗湛亦来,通商朝鮮、支那、呂宋、暹羅、安南;至昭和七年施行市制。

时“鬼子嶽”余党多散处,或仕鍋島氏,或为庄屋、町人、陶工。廣高宽待之,虽或涉城火,亦止严捕,因而士民归服。

廣高又召對馬韩土陶工李敬(字夕光)与七兵衛,取朝鲜陶料于椎の峯烧茶器,不合者尽埋土中,仅择完器五十六件。其品为“火斗り”绝佳,见珍若宝。李敬后归化称坂本助八,创長門古萩。

廣高自韩土运胎土与釉料,似属奇事;然彼时为玄界灘返航稳重所需之“压舱”,且世俗崇尚“陶以朝鲜为上”,尊其原料,亦为取用之因。非独戸の中野,薩摩古帖佐亦有“火斗り”,理同此。

以慶長五年八月関ヶ原之功,廣高加増肥前天草島四万石、筑前怡土郡二万八千三百六十石,合本领八万二千四百十六石,总计十五万七百七十六石。

并召归化陶工彌作及其子藤右工门、太左工门,于城西濱唐堀开窑,给各二人扶持为唐津烧御用窑。后移至佐志村唐房,继为稗田藩窑,转田代筒江,慶長八年移大川原,元和元年定于椎の峯。廣高寛永十年四月十一日(1633)卒,七十一岁。先是长子忠晴早逝,兵庫頭堅高嗣二代。

堅高奖励“鬼子嶽崩れ”陶工于地方开窑,产业复振;自修唐堀窑址烧制幕府进献器,即坊主町藩窑。慶長期创出的“鬼子嶽系”古窑,有松浦村藤の川内之阿房の谷、茅の谷、提の川之勝人,大川村之梅坂及焼山上窑、焼山下窑等。


【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditionalfrom Japanese]

《肥前丸の條》記載:天正十九年,名護屋城天守所用瓦由小川惣右工門在小城郡江津燒造;文祿元年正月,名護屋城普請奉行蒔田十之助任命其為天守閣普請總代。因工程速成,秀吉以朱印許可其「進達九州九ヶ國家造」。

此類記載多有誇張,易誤後世史家。然就名護屋城普請而言,鍋島直茂之參與確實無疑。直茂公譜載(推在天正十九年):太閤下向,於上松浦奈古屋築城為御居館,直茂獻蓮池城天守,並建大手之櫓(三間×十三間)。奉行為石井生札(義元)、甲斐彌左工門、納富市右工門。七月十一日朱印令直茂:奈古屋在陣諸務務必周備,付置三奉行,竹木與普請諸具勿懈,並諭石田杢(正澄)、木下半介(吉隆)。

一說直茂初歸陣,攜釜山陶工範丘及族十餘人,奉命留白鷺山燒茶器,家永彦三郎總其事。家永師事範丘而造詣益深;時之茶器多出範丘,後於稗田皿屋所燒白紋雲鶴亦其作。

然「白鷺山」非名護屋村之山,乃村中神集島名,距名護屋城與唐津各二里。後知應作「白崎山」,屬讀誤。白崎山去名護屋城六、七町,時為蒲生飛彈守氏郷之陣,產白陶土,為唐津燒原料。一部分韓人安置於此,餘者於佐志村唐房別製之說亦有。

關於「名護屋城內御用陶師」,平戶說稱:秀吉命松浦鎮信,遣咸鏡道熊川陶工從次貫入城窯燒。然此及多種「韓人城內製茶器」之傳,多為粉飾家乘之術,信度不足。戰時即寬宏如秀吉,亦難令交戰國工匠宿於城內;況對「鬼子嶽崩れ」餘黨須嚴備,十餘萬軍圍城數里可見其警嚴。

慶長三年,韓土陶工尊階隨加藤清正登岸於唐津,暫留研習唐津燒(或在切木村小次郎官者窯)。既返國,慶長五年再渡,受細川忠興延聘,於豊前創上野燒。

波多家亡後,寺澤忠次郎廣高領唐津,初任志摩守。廣高為秀吉侍臣,父藤左工門廣正(尾張人),先事織田信長,後從秀吉稱越中守。剛毅多才,於朝鮮之役七年間戰功卓著。因鬼子嶽城一夜焚毀(傳為波多浪士縱火),乃於德居(德須惠)西北田中村築城而居。

既而解體名護屋城以取材,慶長七年(1602)卜唐津滿島山起工,七年成舞鶴城。二川(玉島、松浦)入海,港深島列(高島、大島、鳥島),陸有領巾振山,遠望浮岳,俯瞰虹之松原,景勝甲於天下。由是城下輻輳,商家櫛比;博多豪商神谷宗湛亦來,通商朝鮮、支那、呂宋、暹羅、安南;至昭和七年施行市制。

時「鬼子嶽」餘黨多散處,或事鍋島氏,或為莊屋、町人、陶工。廣高寬貸之,縱或涉城火亦止嚴捕,因而士民歸服。

廣高又召對馬韓土陶工李敬(字夕光)及七兵衛,取朝鮮陶料於椎之峯燒茶器,不合者悉埋土中,僅擇完器五十六件。其品為「火斗り」絕佳,為好事者所珍。李敬後歸化稱坂本助八,創長門古萩。

廣高自韓土運胎土與釉料,乍視殊異;然為玄界灘返航穩定之壓艙,且世俗崇「陶以朝鮮為上」,尊其原料,亦取之因。非唯戸之中野,薩摩古帖佐亦有「火斗り」,理同此。

以慶長五年八月關ヶ原之功,廣高加增肥前天草島四萬石、筑前怡土郡二萬八千三百六十石,合本領八萬二千四百十六石,總計十五萬七百七十六石。

並召歸化陶工彌作及其子藤右工門、太左工門,于城西濱唐堀開窯,給各二人扶持為唐津燒御用窯。後移佐志村唐房,繼為稗田藩窯,轉田代筒江,慶長八年移大川原,元和元年定於椎之峯。廣高寬永十年四月十一日(1633)卒,七十一歲。先是長子忠晴早世,兵庫頭堅高嗣二代。

堅高獎勵「鬼子嶽崩れ」陶工於地方開窯,斯業復振;自修唐堀窯址燒製幕府進獻器,即坊主町藩窯。慶長期創之「鬼子嶽系」古窯,見於松浦村藤之川內之阿房之谷、茅之谷,提之川之勝人,大川村之梅坂及燒山上窯、燒山下窯等。


【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]

《Hizen-maru》条目称:在天正十九年,名护屋城天守的瓦由小川惣右工门在小城郡江津烧造;文禄元年正月,蒔田十之助任命其为天守阁工程总代,因速成而获秀吉朱印,准其“进达九州九ヶ國家造”。

关于名护屋城普请,鍋島直茂确有其事:记载称太閤在上松浦奈古屋筑城为御居馆,直茂献蓮池城天守,并建大手橹(三间×十三间);奉行为石井生札(義元)、甲斐彌左工门、納富市右工门;七月十一日朱印令其备妥竹木与器具,不得懈怠,并与石田杢(正澄)、木下半介(吉隆)相应。

一说直茂携釜山陶工範丘及族人留白鷺山烧茶器,家永彦三郎总其事。家永从範丘学艺;当时多件茶器归範丘,后在稗田皿屋所烧白纹雲鶴亦其作。

“白鷺山”实非名护屋村山岭,而是神集岛之名;后知应为白崎山,近名护屋城,产白陶土,为唐津烧原料。部分韩人安置于此,余者于佐志村唐房制陶。

关于“名护屋城内御用陶师”的说法多需存疑:战时城内安置交战国工匠,并不合常理,且对“鬼子嶽崩れ”余党仍须严备。

慶長三年,尊階随加藤清正至唐津,暂留研习唐津烧(或在切木村小次郎官者窑),后返国;慶長五年再来,受細川忠興延聘于豊前创上野焼。

波多家败后,寺澤忠次郎廣高领唐津,建城于德居西北田中村。慶長七年(1602)起,拆名护屋城取材,七年成舞鶴城,城下繁荣,神谷宗湛亦来通商,至昭和七年施行市制。

“鬼子嶽”余党分散,廣高宽贷而人心归服。又召李敬(字夕光)与七兵衛,于椎の峯以朝鲜陶料烧茶器,淘汰仅留五十六件,称“火斗り”绝品;李敬后归化为坂本助八,创長門古萩。

自朝鲜运胎土与釉料,既为返航压舱,亦因时俗尊朝鲜陶为上。

以関ヶ原之功,廣高加増至十五万七百七十六石。又召彌作、藤右工门、太左工门开唐堀御用窑,继移佐志村唐房、稗田、田代筒江、慶長八年大川原、元和元年椎の峯。廣高寛永十年(1633)卒;兵庫頭堅高嗣位。其后奖励陶工、修唐堀窑为坊主町藩窑;“鬼子嶽系”古窑散见松浦村与大川村诸处。


【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]

《Hizen-maru》條目載:天正十九年,名護屋城天守之瓦由小川惣右工門於小城郡江津燒造;文祿元年正月,蒔田十之助任其為天守閣工程總代,因速成而受秀吉朱印,准其「進達九州九ヶ國家造」。

名護屋城普請事,鍋島直茂確有其功:記稱太閤於上松浦奈古屋築城為御居館,直茂獻蓮池城天守,並建大手橹(三間×十三間);奉行石井生札(義元)、甲斐彌左工門、納富市右工門;七月十一日朱印令其備竹木與器具,毋得懈怠,並與石田杢(正澄)、木下半介(吉隆)為應。

一說直茂攜釜山陶工範丘及族留白鷺山燒茶器,家永彦三郎總其事。家永師自範丘;時多件茶器歸範丘,後於稗田皿屋所燒白紋雲鶴亦其作。

「白鷺山」實非名護屋村之山,乃神集島名;後知應為白崎山,近名護屋城,產白陶土,為唐津燒原料。部分韓人安置於此,餘者於佐志村唐房製陶。

關於「名護屋城內御用陶師」之說多需存疑:戰時於城內安置交戰國工匠,理或難通,且對「鬼子嶽崩れ」餘黨仍須嚴備。

慶長三年,尊階隨加藤清正至唐津,暫留研習唐津燒(或在切木村小次郎官者窯),後返國;慶長五年再來,受細川忠興延聘於豊前創上野燒。

波多家覆後,寺澤忠次郎廣高領唐津,築城於德居西北田中村。自慶長七年(1602)拆名護屋城取材,七年成舞鶴城,城下繁盛,神谷宗湛亦至通商,至昭和七年施行市制。

「鬼子嶽」餘黨分散,廣高寬貸,人心歸服。又召李敬(字夕光)與七兵衛,於椎之峯以朝鮮陶料燒茶器,僅擇五十六件完器,稱「火斗り」絕品;李敬後歸化為坂本助八,創長門古萩。

自朝鮮運胎土與釉料,既為返航壓艙,亦因時俗尊朝鮮陶。

以關ヶ原之功,廣高加增至十五萬七百七十六石。復召彌作、藤右工門、太左工門開唐堀御用窯,旋移佐志村唐房、稗田、田代筒江、慶長八年大川原、元和元年椎之峯。廣高寬永十年(1633)卒;兵庫頭堅高嗣位。其後獎勵陶工、修唐堀窯為坊主町藩窯;「鬼子嶽系」古窯散見於松浦村與大川村諸處。