【原文】[Original text]
瀬戸の陶家制度
是より先延實年間(1673-1681年)、尾張藩主徳川光友は、瀬戸焼の原料祖母の土を、藩の御用窯の外一切使用を禁じ、又陶家には一戸に陶鈞一挺の制限を命じたるを以て、戸主にあらざる其他の一家は、何れも鋤鍬を執って、百姓或は土方人足となる者多く、吉左工門も次男民吉の爲に就業の道を計るといふのであつた。
胤臣は豫て支那傳來の原書に依り、南京石焼の口傅を考へてゐたる折から、翌年吉左工門父子を瀬戸に遣はし彼の宗家なる庄屋加藤唐左エ門高景と協力して、白磁製作の研究に没頭せしめたのである。唐左工門も亦嘗て肥前大川内山の副島勇七が、藩窯を逃亡しりし際に、加藤久米八重裕、同忠次景信等に磁器製法を傳へし當時より、同じ希望を抱懐せしも、要するに之に資すべき原料を得なかった。
瀬戸の磁器試焼
之より彼等は胤臣か原書に基づき、知多郡缺村の原料を吟味して、刻苦奮勵數十回の試焼の末、漸く似寄りの酒盃四五個を焼成して胤臣に示したのである。胤臣大いに喜び、彌々熱田新田の古堤に築窯せんとするに當り、斯くては瀬戸の本業(従来の陶器)に大影響すべき異論起り此間に立ちて當惑せしは唐左工門であつた。
新製の制度を作る
従来の陶家が、此事業を瀬戸の死活問題となすや、代官水野權又之に同意し、制度を楯にして大いに反對したのである。
唐左工門は此間に斡旋し、藩老速水甲斐守の裁断を仰ぐに至り、結局此事業を瀬戸にて営業す可く請願するに及んで、胤臣も赤之を諾し、舊来の制へ更に新工夫を加へて、今度の事業を新製と稱し、乃ち次男以下の営業と定めたのである。
瀬戸の本焼失敗
斯くて享和二年十一月(1802年)瀬戸に於いて、初火入をなせしところ、結果は甚だ不完全であつた。そして翌十二月十九日胤臣は七十五才を以て卒去したのである。(昭和三年十一月十一日正五位を贈られた)之より彌々有田行の人選となり、吉左門の子民吉が、挺身肥前へ下り藩制の警戒厳しき線内に潜入して、必ず其秘法を習得して踊るべきことを誓ひ、同四年二月廿二日(1804年)瀬戸を出立せしが、彼の行動は頗る用意周到であつた。
民吉の高濱入り
民吉は最初肥後國天草島なる高濱に上陸し、東向寺の住職天中を便りて、白磁原料の磯山を視察した。蓋し天中は元尾張國愛知群菱野村の生れなるを以て、情を明かして之を頼みしかば、天中諾して此地の陶家上田原作の手傳に周旋した。民吉は勤勞大いに努むること半歳に及びしも、磁器の施釉法のみは秘して洩さなかつたのである。
民吉の三河内入り
或日民吉は、長崎の諏訪祭を見たして詐りて此地を去り、天中の添書を携へて、平戸領佐世保村の西方寺(今の市内八幡町)に投しは、文化二年(1805年)であつた。西方寺之を折尾瀬村の薬王寺に託して三河内の窯焼今村幾右工門(今村傍系)方の職人として住込ませたのである。然るに或時人別調ありて他國人を一切此地に滞在せしむ可からずの布告に會ひ民吉は去つて王寺の寺男さなつたのである。
民吉の江永入り
其内彼は江永山の女を娶り、稍郷土人との交誼を結ぶに至り、同年此地の窯焼久右衛門方に住込みしも、當時の江永は未だ網代の使用を許されず、三河内の白磁とは、大分距離ある作風に失望し、再び三河内へ入る可く機会を窺ふうち、本場の有田は此處より一里程の道程なるを以て、彼は傅手を得て有田へ潜入した。
民吉の有田入り
彼は泉山の築窯師堤惣左工門の宅に寄偶したのである。そして親しく丸窯の構造其還元の焚き方等を見學中、怪まるゝこと有りて、急ぎ藥王寺に帰ったのである。
民吉の佐々入り
然るに此處にても亦身邊の危険を感することゝ成り、妻女の親の注意に依り同年十二月二十八日妻と共に出奔して、佐々村(北松浦郡)市の瀬鴨川の窯焼福本仁左工門方に身を寄せたのである。仁左工門は民吉の精を愛し、胸襟を開きて之に釉薬其他の製法を精しく傳授せしより、今は全く其目的を達したるを以て、彼は妻女に意を含めて、文化四年(1807年)正月七日此地を出發した。
歸途の天草行
歸途長崎より再び天草に上陸し東向寺を訪ね、又上田方に立寄りて、先きに詐はり去りし罪を謝し、且己れの素姓を明かせしかば、原作大いに之を諒とし、自家秘傳の赤繪附法を傳授せしといはれてゐる。之より民吉は肥後國八代の高田窯なる、柳本勝右工門の工場を一覧して、同年六月十八日瀬戸に儲着したのである。
藥王寺追放
此出奔後民吉を匿ひし罪に依り薬王寺第十三世の住職雄山泰賢は、國法に従ひ傘一本を持つて追放に處せられたのである。民吉製磁の法を得て歸鄉するや、瀬戸は勿論熱田奉行津金元七胤貞(胤臣の男)の喜び察すべきであつた。
之より従来の本業は、新製の為に歴倒されて、磁器の全盛を極め今や、愛知、岐阜兩縣雨の製産額は全額の七〇%近くを占むるに至ったのである。此功に依って加藤唐左工門高景と、同吉左工門景遠は共に三人扶持を給せられたのである。
民吉贈位
加藤民吉保堅は、文化七年(1810年)七月四日五十三才にて卒去し、昭和三年十一月十一日には従五位を贈られたのである。斯業の門下には壊仙堂川本治兵衛や、加藤新七の如きがあり、後年には山居川本半助や、陶玉園加藤五助の如き名陶家が輩出するに至った。
其後美濃の市の倉へも亦、三河内の工人往きて今日の酒盃専門の盛業を起すに貢献し、會津焼の如きも、一時此三河内風の染附を摸擬して、頗る盛價を揚げしさいはれてゐる。
三河内の和蘭貿易
文政十三年天保元年(1831年)と改まり、間もなく一朱銀不通となりしより、引替の爲め長崎に赴きたる三河内の中里利助と古川類藏は始めて和蘭人に三河焼賣込の約束を締結した。之より類藏の兄正作(中里家より岐し甚右工門の後裔である)及び大野慶助、大野甚藏等は蘭人の嗜好にすべく改作し、そして平戸焼の海外貿易先行したのである。
此時蘭人が珈琲器を要することを知り、今村槌太郎正文(巨關より八代)は藩主松浦熙(二十九代)に上申して盛んに該器を製作した。
平戸焼物産會所
藩主は又長崎に平戸物産會所を設けて貿易を開始すること成った。そして此薄手珈琲器製作の創始者は、池田安次郎、高橋平助 中里丑太郎、古川正作等といはれてゐる。
甲子夜話の一節
天保五年(1835年)藩主松浦熙が前藩主淸に物語りし甲子夜話第三篇十一巻を抜粋するに左の如きものがある。
(後年清の執筆)
中略 予安永八年(1779年)に在國の間平戸を出て領邑の巡見して早岐に至りかの山里に往きこの今村氏宅に憩山家なれも其居も見苦しからず座舗も手廣なるに軒下は切目線にして向ふは自然の芝生を築山の如くとりなし樹木も其奥に竪繞れり芝山の中ほどに小祠あり共前に小き鳥居を竪つ之に額を掛けたり書して曰く熊川明神と予左右をして問ふ是れ如何なる神ぞ答ふ某が氏神なり又問ふ氏神とは何神答ふ某は元高麗の人法印(十七代鎮信)彼地御歸陣の時御供にて此地に来る因て即ち高麗の神を招して此宅の鎮主とす且つ氏神なり予特に思へらく熊川とは高麗の地名熊川ならんと思ひ氏神と云ふも宜なぞ又小祠のあたりを視るに梅の古木の枝を交へ横たはりたるに瓢箪に紐を付て下げたるあり予之を問ふに山雀來りて之に宿るをこれら等珍しき事を思ひたるに近頃肥州の物語りにかねて咄給ひし三河内の今村が宅十八熊川の祠を去々年か尋ねて候へば彼の祠も今は亡く額はもとより無き答へし肥州捜索もありしが彼邊の田今里長の輩も皆知らすとて止みぬとかや固より虚談を云ふ可きにあらず然るを今斯の如きは實に歎くべきならずや顧みるに安永より既に五十六年桑田のも變も信に誣ならずや尚昔を懐はゞ後の圖に據て求むべし又今村が祖を尋ぬるに朝鮮熊川人巨關と稱せしと然るときは熊川正しく今村氏が生國嘗て氏神と云也余が巡麗の頃は彌次兵衛と云ひしが其子楚八(七代)其子槌太郎(八代)とて今は彌次が孫なりと聞く浮雲流水世の有様悲に堪たり接ずるに懲此祿に熊川郡は慶尚道の東海の地釜山浦と遠からす信に法印公の昔想ひはかるべし云々
【現代語訳】[Modern Japanese translation]
延宝期、尾張藩主徳川光友は瀬戸焼の原料「祖母の土」を御用窯以外で禁じ、各陶家に陶鈞一挺の制限を課した。戸主でない家は農や土方に転じ、加藤吉左工門も次男・民吉の働き口を探ることになった。
津金胤臣は支那伝来の原書で南京石焼の伝承を研究し、吉左工門父子を瀬戸に招いて加藤唐左工門高景と協力、白磁の研究に没頭させたが、根本の原料が乏しかった。
彼らは胤臣の原書をもとに知多郡缺村の土を試し、数十回の試焼で酒盃を数個焼成。胤臣は喜び、熱田新田の古堤で築窯を図ったが、「瀬戸の本業」を脅かすと反対が起こり、唐左工門が周旋。藩老速水甲斐守の裁断で新事業は瀬戸で営業とし、旧制に工夫を加え「新製」と称し、次男以下の営業と定めた。
享和二年(1802)瀬戸で初火入れは不首尾。翌12月19日、胤臣は七十五歳で没(のち正五位)。やがて有田派遣が決まり、民吉は秘法習得を誓い、文化四年(1804)2月22日瀬戸を出立。まず天草高濱に渡り東向寺・天中を頼って磯山の原料を視察、上田原作に周旋され半年働くも施釉法は得られず。
民吉は「諏訪祭見物」を口実に去り、天中の添書で西方寺を経て折尾瀬の薬王寺に託され、三河内の今村幾右工門のもとに住み込む。やがて他国人禁泊の触れで寺男となるが、江永山の女を娶って縁を得、江永の久右衛門方に入った。しかし当時の江永は網代不許可で作風は三河内の白磁に及ばず、機を見て本場の有田へ潜入、泉山の築窯師堤惣左工門宅で丸窯や還元焚きを見学した。
身辺の危険を察し、文化二年暮れに妻と出奔して佐々村の福本仁左工門に身を寄せ、釉薬ほかの技法を伝授される。目的を果たし文化四年正月七日発、帰途ふたたび天草で東向寺・上田方に詫びて素性を明かすと、赤絵付の秘法も授けられた。八代の高田窯を見て六月十八日に瀬戸へ帰還。
薬王寺は民吉匿いの罪で住職雄山泰賢が一本の傘で追放に処せられた。民吉の帰郷で「新製」は隆盛し、磁器が瀬戸の主流に。やがて愛知・岐阜両県の生産は全国の約七割を占めるに至る。功により加藤唐左工門高景・吉左工門景遠はともに三人扶持。民吉保堅は文化七年(1810)没、昭和三年に従五位。門下から壊仙堂川本治兵衛、加藤新七、のち山居川本半助、陶玉園加藤五助ら名工が輩出した。
のち美濃・市の倉にも三河内の工人が赴き酒盃の盛業を支え、會津焼も一時三河内風の染付を模して高値を博した。文政十三年天保元年(1831)、通貨不通で長崎へ向かった中里利助・古川類藏が初めて和蘭人との売込を約し、古川正作・大野慶助・大野甚藏らが嗜好に合わせて改作、平戸焼の海外貿易が先行した。今村槌太郎正文(八代)は藩主松浦熙に奏して珈琲器を量産、藩は長崎に平戸物産會所を設け、薄手珈琲器の創始は池田安次郎・高橋平助・中里丑太郎・古川正作らと伝える。
『甲子夜話』には、安永八年に松浦淸が今村宅で熊川明神を祀る小祠を見た記があり、祖・巨關が朝鮮熊川の人で、氏神を宅の鎮主とした由。のち祠は失われ、歳月の移ろいを嘆じ、熊川郡が慶尚道東海の地で釜山浦に近いことを記す。
【英語訳】[English translation]
During 延宝, 徳川光友 banned use of “祖母の土” for any but domain kilns and limited each 瀬戸 potter household to one 陶鈞. Non–heads of household turned to farming or day labor; 加藤吉左工門 sought a path for his second son 民吉. 津金胤臣, studying a Chinese source on 南京石焼, summoned the father and son to 瀬戸 to work with 加藤唐左工門高景 on white porcelain research, but suitable raw materials were lacking.
Guided by 胤臣’s text, they tested clay from 知多郡缺村; after dozens of trials they produced a few sake cups. Plans to build a kiln on 熱田新田’s old embankment met opposition as a threat to “瀬戸’s main line.” With 唐左工門 mediating, 藩老速水甲斐守 ruled the enterprise could operate at 瀬戸 as “新製”—a line reserved for younger sons under a revised system.
In 享和二 (1802) the first firing failed; on 12/19 胤臣 died (later awarded 正五位). 民吉 set out to learn the secrets, departing 2/22 文化四 (1804). He landed at 天草高濱, relied on 東向寺 天中, inspected 磯山, and worked under 上田原作 for half a year, yet glazing methods were withheld. He slipped away with a “諏訪祭” pretext to 平戸領西方寺, thence to 折尾瀬 薬王寺, lodging with 今村幾右工門. A ban on outsiders forced him to serve as temple hand.
He married a woman of 江永山, entered 久右衛門’s kiln, but 江永 was barred from using 網代 and lagged behind 三河内. He infiltrated 有田, observed 丸窯 and reduction firing at 泉山’s 堤惣左工門. Sensing danger, he fled with his wife to 佐々村, where 福本仁左工門 taught him glazes and other techniques. On 1/7 文化四 (1807) he left, revisited 天草 to apologize at 東向寺 and 上田’s, disclosed his identity, and was taught the family 赤絵付. After viewing 高田窯 at 八代 he reached 瀬戸 on 6/18.
薬王寺’s abbot 雄山泰賢 was exiled for sheltering him. With 民吉’s return, 新製 flourished; porcelain overtook the old trade, and 愛知・岐阜 came to produce ~70% nationally. 加藤唐左工門高景 and 吉左工門景遠 received 三人扶持. 加藤民吉保堅 died 文化七 (1810), later awarded 従五位. His school produced 壊仙堂川本治兵衛, 加藤新七, later 山居川本半助, 陶玉園加藤五助.
Mikawachi artisans later aided 美濃 市の倉 (sake cups), and 會津焼 briefly imitated the 三河内-style sometsuke. In 文政十三/天保元 (1831), 中里利助 and 古川類藏 secured the first sale of 三河焼 to Dutch traders at 長崎; 古川正作, 大野慶助, 大野甚藏 adapted designs, leading 平戸焼 exports. 今村槌太郎正文 (8th) petitioned 松浦熙 to produce coffee wares. The domain opened the 平戸物産會所 at 長崎; thin coffee sets are credited to 池田安次郎, 高橋平助, 中里丑太郎, 古川正作.
『甲子夜話』 records 松浦淸’s 1779 visit to 今村’s home: a small shrine to 熊川明神 (their 氏神), recalling ancestor 巨關 of 朝鮮熊川; later the shrine vanished—an emblem of change—while noting 熊川郡 in 慶尚道 near 釜山浦.
【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]
延宝期,徳川光友禁止御用窑以外使用“祖母之土”,并限每户仅一挺陶鈞。非户主多改业为农与脚夫;加藤吉左工门为次子民吉谋出路。
津金胤臣据中传原书研南京石烧,召吉左工门父子与加藤唐左工门高景协作攻白瓷,然原料不足。试用知多郡缺村之土,数十次试烧方得酒盃数只;热田新田筑窑惹“本业”之争,经速水甲斐守裁断定为“新製”,作为次子以下之营业。
享和二年首烧失利,翌月胤臣卒。民吉誓取秘法,文化四年启程:先至天草高濱依東向寺天中、上田原作,半年仍不得施釉;转赴西方寺—薬王寺—今村幾右工门,遇禁留外人,改作寺丁。娶江永山女后入久右卫门窑,因江永禁用網代且技不及三河内,遂潜入有田,在堤惣左工门处观丸窑与还元焚。感危即与妻奔佐々村,福本仁左工门授以釉药诸法。
文化四年正月离佐々,归途再到天草向東向寺与上田谢罪并明素性,得赤绘付秘法;视八代高田窑,六月十八日归瀬戸。薬王寺住持雄山泰賢以匿民吉被逐。民吉归来,新製兴盛,磁器压倒旧业,爱知・岐阜产量占全国近七成;加藤唐左工门高景、吉左工门景遠赐三人扶持。民吉文化七年卒,昭和三年追赠従五位,门下与后进名工辈出。
其后三河内工人助美濃市之仓成酒盃名郷,会津烧亦曾仿三河内染付而贵。1831年中里利助与古川類藏首与和兰人约售三河烧;古川正作、大野慶助等就嗜好改作,平戸烧先行海外。今村槌太郎正文请松浦熙制咖啡器,藩设长崎平戸物産会所;薄胎咖啡器之肇作传为池田安次郎、高橋平助、中里丑太郎、古川正作等。『甲子夜話』亦记1779年松浦淸访今村宅见熊川明神小祠,追述祖巨關出自朝鲜熊川,后祠亡而叹世变。
【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditionalfrom Japanese]
延寶期,徳川光友禁御用窯外用「祖母之土」,並限每戶僅一挺陶鈞。非戶主多改為農與腳夫;加藤吉左工門為次子民吉謀職。
津金胤臣據中傳原書研南京石燒,召吉左工門父子與加藤唐左工門高景攻白瓷,然原料不足。試用知多郡缺村之土,數十次試燒得酒盃數只;熱田新田築窯惹「本業」之爭,由速水甲斐守裁為「新製」,定為次子以下之營業。
享和二年初燒失利,翌月胤臣卒。民吉誓取秘法,文化四年啟程:先至天草高濱依東向寺天中、上田原作,半年仍不得施釉;轉赴西方寺—藥王寺—今村幾右工門,遇禁留外人,改為寺丁。娶江永山女入久右衛門窯,因江永禁用網代且技不及三河內,遂潛入有田,於堤惣左工門處觀丸窯與還元焚。覺危,攜妻奔佐々村,福本仁左工門授以釉藥諸法。
文化四年正月離佐々,歸途復到天草向東向寺與上田謝罪並明素性,得赤繪付秘法;觀八代高田窯,六月十八日歸瀨戶。藥王寺住持雄山泰賢以匿民吉被逐。民吉歸來,新製興盛,磁器壓倒舊業,愛知・岐阜產量占全國近七成;加藤唐左工門高景、吉左工門景遠賜三人扶持。民吉文化七年卒,昭和三年追贈従五位;門下與後進名工並出。
其後三河內工人助美濃市之倉成酒盃之鄉,會津燒亦曾仿三河內染付而昂。1831年中里利助與古川類藏首與和蘭人約售三河燒;古川正作、大野慶助等隨嗜好改作,平戶燒先行海外。今村槌太郎正文請松浦熙製咖啡器,藩於長崎設平戶物產會所;薄胎咖啡器肇作傳為池田安次郎、高橋平助、中里丑太郎、古川正作等。『甲子夜話』亦記1779年松浦淸訪今村宅見熊川明神小祠,述祖巨關出自朝鮮熊川,後祠亡而歎世變。
【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]
延宝时,徳川光友禁“祖母之土”供非御用窑并限一户一陶鈞;加藤吉左工门为次子民吉另谋出路。津金胤臣依中籍研南京石烧,联合加藤唐左工门高景攻白瓷。试用知多郡缺村土得杯数只,裁定为“新製”,专属次子以下。1802年首烧败、胤臣卒。民吉1804年出发:天草高濱—東向寺—上田原作半年未得釉;转至西方寺—薬王寺—今村幾右工门,后为外人禁留改作寺丁;娶江永女入久右卫门窑,不及三河内,遂入有田观堤惣左工门丸窑。觉险奔佐々,福本仁左工门尽授釉法。1807年归途再至天草谢罪并得赤绘付,观八代高田窑,六月返瀬戸。薬王寺住持因匿之被放。新製兴起,爱知・岐阜产量占全国近七成;高景与景遠授三人扶持。民吉1810年卒,1928年授従五位。其后名工辈出;美濃市之仓与会津烧受其风。1831年中里利助、古川類藏首售三河烧予荷兰商,平戸烧外销先行;今村槌太郎正文奏制咖啡器,藩设长崎平戸物产会所。『甲子夜话』记1779年松浦淸访今村宅见熊川明神小祠,祖巨關自朝鲜熊川来,后祠亡。
【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]
延寶時,徳川光友禁「祖母之土」於非御用窯並限一戶一陶鈞;加藤吉左工門為次子民吉覓途。津金胤臣據中籍研南京石燒,與加藤唐左工門高景共攻白瓷。試用知多郡缺村之土得杯數只,裁為「新製」,屬次子以下。1802年首燒敗、胤臣卒。民吉1804年出發:天草高濱—東向寺—上田原作半年不得釉;轉至西方寺—藥王寺—今村幾右工門,遇禁留外人作寺丁;娶江永女入久右衛門窯,不及三河內,遂入有田觀堤惣左工門丸窯。覺險奔佐々,福本仁左工門授釉法。1807年歸途中再至天草謝過得赤繪付,視八代高田窯,六月返瀨戶。藥王寺住持以匿之被逐。新製興起,愛知・岐阜產量占全國近七成;高景與景遠授三人扶持。民吉1810年卒,1928年贈従五位。其後名工並出;美濃市之倉與會津燒受其風。1831年中里利助、古川類藏首售三河燒於荷蘭商,平戶燒外銷先行;今村槌太郎正文奏製咖啡器,藩設長崎平戶物產會所。『甲子夜話』記1779年松浦淸訪今村宅見熊川明神小祠,祖巨關自朝鮮熊川來,後祠亡。

