【原文】[Original text]
折尾瀬と三河内
三河内山は木原山、江永山と共に、東彼杵郡折尾瀬村の一村落である。而して折尾瀬の地は、往年彼杵の莊なる速來の一部であつた。當時の速來とは今の針尾、早岐、廣田、折尾瀬四ヶ村の總稱にて、此四ヶ村は其頃武雄の後藤貴明の領地なりしを、元亀二年(1571年)松浦隆信に分輿せことは前述の次第である。
却説今村父子は三河内に来り、此地が頗る製陶に適することを知り、高麗媼とも面談して親しく其陶技を見しが、三之亟は倩ら自己が技術の未熟なるを感じ、只管陶技の勉學に志したのである。
其頃斯道の名匠高原五郎七が、唐津領椎の峯にゐる由を聞傳へ、兼ては彼地の陶業を視察すべく、椎の峯へ旅立つたのである。
椎の峰見學
然るに五郎七は、此時既に南川原の柿右工門に招聘されし後なりしかば、三之亟は暫らく椎の峯に滞在して、技術見學の傍ら、親しく諸國の浪人や工人と交際した。中にも陶技に於ける福本彌次右工門や、繪畫に於ける京都の浪士山内長兵衛及び丹波笹山の浪士前田德左工門等の人々があつた。此時媒介する者ありて、三之亟は徳左エ門の女を娶り、連れて南川原に来り五郎七を訪ねたのである。
南川原に五郎七を訪ふ
彼は五郎七が支配せる工場に来り、親しく其技法を習はんと欲せしも、當時有田の製法に則り、始めて南京白磁の製作に成功せ五郎七は、容易く此製法を洩らすべき様子がない。彼は殊更釉薬部に注意せんが、此調製部の手傳ひとして、悉く女のみ使用しつゝあるのを見て、三之亟茲に思いつき、己が妻をば此釉薬部の手傳ひに雇はるゝことに成功したのである。
釉薬の秘法を探ぐる
尤も三之亟が妻は、嚮に椎の峯に於いて、五郎七とは相識の間柄とて、止を得ず納得せしものと察せらる。斯くて妻は釉薬の各材料を持ち運ぶ前に、先づ其總分量を見計り置き、次に使用せし残量を掃き運ぶに當り、其前後の差を算定して、概念的に此調合分量を覚る事が出来た。(或は釉土灰を調合所の二階に運べる前に、水を量り置き、使用の後土灰の残りを密に持蹄らしめて、計算せしさいふ説もある)既に目的を達したる三之亟夫妻は、忙だしく此處を立去ったのが寛永六年(1629年)であつた。
網代土發見
斯くて三之亟は、直ちに之を試みることを憚りし而已ならず、之に資す可き適當の原料を見出さなかった。是より彼は變名して、肥前の各山を巡視するうち、針尾島(江上村三つ岳)の網代土を発見した。蓋し之は権常寺の寺男某が江上に渡りし際、何心なく拾ひ歸りしを、三之亟一見して其良質ならざるやを認め、数度試焼してより、自ら三つ岳の産地を調査せしといはれてゐる。之はアルカリ質に富める長石類にて、最初は是を製磁の主料に試みしも、後には釉薬の原料となりしものである。
網代分析表
網代土上等水飛物分析表
珪酸70.94
礬土17.98
酸化第二鐵1.00
石炭0.83
苦土0.63
加里5.08
曹達3.50
灼熱減量3.50
同土中等水飛物分析表
珪酸70.93
礬土18.22
酸化第二鐵0.75
石炭0.86
苦土0.41
加里5.63
曹達3.18
如猿生る
三之亟は、又佐嘉領内の各山を見學有田より武内の黒牟田(内田は既に有田へ移博後)を経て、須古に来る途上、此地籾岡山に於いて、一子を繋げしは寛永十二年(1635年)にて、之が後の如猿である。その頃大村領の中尾山に磁石が發見され、既に製作されゐる由を聞傳へ、最初三の股に滞在せしも後中尾山の近傍に轉じたのである。
三之亟の歸山
其頃高原五郎七も、有田岩谷川内の藩窯を、遂電せし後さて憚りもなく、三之亟は此中尾山に於いて、磁器の製作を試みるに至った。蓋しそれは例の薄鼠色を帯びしものに相違ない。此事平戸藩の知るところとなり、翌十三年隆信は、藩士志方平之丞を遣はして歸國を命せしより、彼は事業を門人小柳吉右工門に譲りて三河内へ歸山したのである。
三河内の製磁
之より三之亟は、嚮に發見せし網代土を主料として、磁器及青磁を製作することに成功し、大いに隆信の賞讃を得、後年平戸に於ける南蛮貿易上、非常に珍重さるゝに至つた。
長葉山の藩窯
同十四年隆信は三河内の字九山(東山)に別荘を新築し、長葉山に於いて藩用の製陶所を設くることゝ成るや。三之亟が椎の峯にて相識の陶家福本彌次右工門及び山内長兵衛、舅前田徳左エ門の三人を招聘し、三之亟を共主任して、専ら之に當らしむることゝ成った。
此時三之亟が、彌次右工門及び徳左工門名宛にて送りし招聘状は、三月十四日の日附にて、今なほ福本家に保存されてゐる。扨此建設に、頭梁三之亟の外連名せるは、畫師山内長兵衛豊英、同前田徳左エ門、窯燒方中里茂右工門、同福本彌次右工門、同口石長右工門、同金氏太左衛門、同藤本治左工門等にて、何れも各二人扶持の外に、出勤扶持を興へられしが、此外に三之亟家來沖田久兵衛の名も加へられたのである。
此時隆信は、三之亟へ廣正の太刀一口並に相木場の知行所を興へ、長兵衛、徳左工門其他へもそれぞれ知行所を興へたのである。
小山田佐平
此年又三之亟は唐津椎の峯の陶工にて、既に領内吉の元に開窯せる小山田佐平を聘し、之を藩主に推擧せしが彼また若干の扶持を給せらるゝことゝなった。
福本彌次右エ門
福本彌右衛門は、元鬼子嶽崩れより椎の峯にありしが、彼が三河内へ轉せしより五十年後の元祿年間に於いて、唐津藩主が藩用の陶家太左工門へ福本の姓を興へしは、断絶せ椎の峯の福本姓を再興せしめして見る可きであらう。彌次右工門の略系左の如くである。
三河内の福本略系
福本彌次右工門 初代
彌右工門 二代始蝌一
久之亟 三代
喜右エ門 四代
斧石工門 五代
喜右エ門 六
貞兵衛 七代
梅之助 八代
徳五郎 江永小栗喜左エ門養子卯平五代,祖也
脇右エ門 九代
喜太郎 十代
源七 十一代
牛石
前記の如く三河内の陶業は、長葉山を最古とし、次は今の三河内驛前の牛石(又坂井手)古窯地と稱せらる。此方面は伊萬里系の原明窯より吉の元地方へ分窯せる流れの如く、其殘缺なる飴釉や灰色釉溝縁の小皿など、全く共通のものである。中には薄青瓷の縁反小皿や、四つ目積の丸小皿があり、又黒天目の茶碗がある。又大皿や片口等も焼いてある。
三河内山の方面は、吉の田小谷、相木場、上登杉林、潜石等へ分布されてゐる。此内杉林へは、椎の峯崩れが入込みしとの説がある。
潜石
潜石の古窯品には、薄紫釉に白刷毛目を廻はせし蛇の目積の茶碗などがある。斯くて三河内の黒物(陶器)も茲に劃期時代をつくり、彌々白磁製作に轉向する趨勢さなつた。
出島居留地埋築
寛永十一年(1634年)幕府は、長崎奉行に命じて内外人の同居を禁する共に、市内の豪商二十五人の出資に補助を興へ、江戸町の海面に總坪數三千九百六十九坪の扇形の築地を設定し、同十三年竣工と共に、葡萄牙の貿易商のみを限りて此處に移住せしめ、之を南蠻屋敷と稱し、關門を設けて猥りに出入することを禁せしが、同年又其他の葡人及西班牙人、又は混血兒等二百八十七人に禁壓を加へて、之を馮港に追放した。
松平信綱来る
寛永十五年(1638年)島原に於ける耶蘇切支丹の亂は、久しく平和に安眠せる幕府をして、長夜の夢を破らしめしが、然も其征服にいたくも手古摺りし軍監松平伊豆守信綱は、平戸商舘長ニコラス・クークバッケルに命じて、蘭船ド・ライプ號にて出征せしめ、その有する彼が新鋭の武器を使用せしめたのである。亂漸く鎮定し、信綱は戸田左門氏鐵と共に、歸途中平戸を視察して滞留四日に及びしが、其際葡人や蘭人等の石造倉庫を見て其堅牢なるに驚き、次いでバッケルがスナッパン(石火矢)の試發を検分して、再び此威力に感嘆した。
【現代語訳】[Modern Japanese translation]
折尾瀬と三河内。三河内山は木原山・江永山とともに、東彼杵郡折尾瀬村に属する集落である。折尾瀬は、かつて彼杵の莊のうち速來の一部で、当時の速來とは現在の針尾・早岐・廣田・折尾瀬の四村を総称した。これら四村はもとは武雄の後藤貴明の所領だったが、元亀二年(1571年)に松浦隆信へ分与されたことは前に述べたとおりである。
今村父子が三河内に来て、この地が製陶に非常に適していると知り、高麗媼にも会って直接その技を見学した。三之亟は自らの未熟を痛感し、ひたすら陶技の研鑽に専念することを決意した。そのころ名匠・高原五郎七が唐津領の椎の峯にいると聞き、同地の陶業を視察するため椎の峯へ向かった。
椎の峯見学。ところが五郎七はすでに南川原の柿右工門に招かれており、三之亟はしばらく椎の峯に滞在して技術を見学しつつ、諸国の浪人や工人と交流した。陶技では福本彌次右工門、絵画では京都の浪士・山内長兵衛や丹波笹山の浪士・前田德左工門らがいた。この折、仲介者があって三之亟は徳左エ門の娘を娶り、妻とともに南川原に赴いて五郎七を訪ねた。
南川原にて。三之亟は五郎七が率いる工房で直接技法を学びたかったが、五郎七は有田の製法に則って南京白磁の製作に初めて成功したばかりで、容易に製法を漏らす気配はない。とりわけ釉薬部に注意を向けると、調合の手伝いに女性だけが用いられている。ここで三之亟は着想し、妻を釉薬部の手伝いとして雇ってもらうことに成功した。
釉薬の秘伝を探る。三之亟の妻は、以前から椎の峯で五郎七と面識があり、やむなく承知したのだろう。妻は材料を運ぶ前に総量を見積もり、使用後に残量を掃き集める際、その差を計算して概ねの配合比を把握した(あるいは、釉土灰を調合所二階に運ぶ前に水量を測り、使用後の残りを密かに持ち帰って算定したともいう)。目的を果たした三之亟夫妻は、寛永六年(1629年)に急いでこの地を去った。
網代土の発見。三之亟はすぐに製作へ踏み切らなかった。適切な原料が見つからなかったからである。そこで名を変えて肥前各地の山を巡り、針尾島(江上村三つ岳)で網代土を発見した。権常寺の寺男が江上で何気なく拾って持ち帰った土を、三之亟が一目で良質と見抜き、試し焼きを重ねたのち自ら三つ岳の産地を調べたという。網代土はアルカリ分に富む長石質で、当初は胎土に試用したが、のちに主として釉薬原料となった。
網代土(上等・中等)の水簸物分析値:
上等 珪酸70.94/礬土17.98/酸化第二鉄1.00/石灰0.83/苦土0.63/加里5.08/曹達3.50/灼熱減量3.50
中等 珪酸70.93/礬土18.22/酸化第二鉄0.75/石灰0.86/苦土0.41/加里5.63/曹達3.18
如猿の誕生。三之亟は佐嘉領内の山々を見学し、有田から武内の黒牟田(内田はすでに有田へ移住後)を経て須古へ向かう途中、籾岡山で一子が生まれた。寛永十二年(1635年)のことで、後の如猿である。折しも大村領の中尾山で磁石が見つかり製作が始まっていると聞き、最初は三の股に滞在したが、のちに中尾山近くへ移った。
三之亟の帰山。このころ高原五郎七も有田・岩谷川内の藩窯の役目を終え、三之亟は中尾山で磁器の製作を試みた。おそらく例の薄鼠色を帯びた品である。これが平戸藩に知られ、翌十三年、隆信は藩士・志方平之丞を遣わして帰国を命じた。三之亟は事業を門人・小柳吉右工門に譲り、三河内へ戻った。
三河内での製磁。以後、発見済みの網代土を主原料として磁器・青磁の製作に成功し、隆信の厚い賞賛を受けた。後年、平戸における南蛮貿易でも大いに珍重されるようになった。
長葉山の藩窯。同十四年、隆信は三河内の字九山(東山)に別荘を新築し、長葉山に藩用の製陶所を設けた。三之亟は椎の峯で親しかった福本彌次右工門・山内長兵衛、そして舅の前田徳左エ門の三人を招聘し、自らとともに主任として任じられた。三月十四日付の招聘状は、今も福本家に保存されている。
建設には、頭梁・三之亟のほか、画師山内長兵衛豊英、前田徳左エ門、窯焼方の中里茂右工門・福本彌次右工門・口石長右工門・金氏太左衛門・藤本治左工門らが名を連ね、いずれも二人扶持に加えて出勤扶持を与えられた。三之亟の家来・沖田久兵衛の名も加えられている。隆信は三之亟に廣正の太刀一口と相木場の知行所を与え、長兵衛・徳左工門ほかにもそれぞれ知行を与えた。
小山田佐平。この年、三之亟は唐津・椎の峯の陶工で、すでに領内・吉の元に開窯していた小山田佐平を招き、藩主に推挙した。彼にも扶持が与えられた。
福本彌次右エ門。福本彌右衛門は「鬼子嶽崩れ」後に椎の峯にいたが、三河内へ移ってから五十年後の元禄年間、唐津藩主が藩用陶家・太左工門に福本姓を与え、絶えていた椎の峯の福本姓を再興したという。彌次右工門の略系は次のとおり。
三河内の福本略系:
福本彌次右工門(初代)/彌右工門(二代・始蝌一)/久之亟(三代)/喜右エ門(四代)/斧石工門(五代)/喜右エ門(六代)/貞兵衛(七代)/梅之助(八代)/徳五郎(江永・小栗喜左エ門の養子。卯平五代の祖)/脇右エ門(九代)/喜太郎(十代)/源七(十一代)
牛石。三河内の陶業は最古が長葉山で、次いで現在の三河内駅前・牛石(坂井手)古窯地が挙げられる。この一帯は伊萬里系の原明窯から吉の元方面へ分かれた流れとみられ、飴釉や灰色釉で溝縁をもつ小皿などに共通性がある。薄青瓷の縁反小皿、四つ目積の丸小皿、黒天目の茶碗のほか、大皿や片口も焼かれている。三河内山の窯場は吉の田小谷・相木場・上登杉林・潜石などに分布し、このうち杉林には椎の峯崩れが入り込んだという説がある。
潜石。潜石の古窯品には、薄紫釉に白い刷毛目を巡らせ、蛇の目積で焼いた茶碗などがある。こうして三河内の黒物(陶器)は一つの画期をつくり、やがて白磁生産へと大きく舵を切っていった。
出島居留地の造成。寛永十一年(1634年)、幕府は長崎奉行に内外人の同居を禁じさせ、町の豪商二十五人の出資に補助を加えて江戸町沖の海面に総坪数三千九百六十九坪の扇形の築地「出島」を築造した。寛永十三年の竣工とともに、葡萄牙の貿易商のみを移住させて南蠻屋敷と称し、関門を設けて出入りを厳禁した。同年、他の葡人・西班牙人や混血児二百八十七人にも弾圧を加え、馮港へ追放した。
松平信綱来訪。寛永十五年(1638年)、島原の耶蘇切支丹の乱は長く安穏だった幕府を揺るがせた。征討に手こずった軍監・松平伊豆守信綱は、平戸商館長ニコラス・クークバッケルに命じ、蘭船ド・ライプ號で出動させ新鋭の武器を用いさせた。乱がようやく鎮定すると、信綱は戸田左門氏鐵とともに帰途に平戸を視察し四日間滞在。葡人・蘭人の石造倉庫の堅牢さに驚き、続いてバッケルのスナッパン(石火矢)の試射を検分して、その威力に改めて感嘆した。
【英語訳】[English translation]
Orioze and Mikawachi. Mikawachi-yama, together with Kihara-yama and Enaga-yama, formed a settlement within Orioze Village of Higashisonogi District. Orioze had once been part of Sonegi no Shō, specifically the section called Hayaki. “Hayaki” then collectively referred to today’s Hario, Haiki, Hirota, and Orioze. These four villages had been the domain of Goto Takaaki of Takeo, but in Genki 2 (1571) they were partially granted to Matsura Takatoshi, as noted earlier.
Imamura father and son came to Mikawachi, recognized the land’s great suitability for pottery, and met the “Korean Matron” (Kōrai-ōna), observing her craft firsthand. Feeling his own shortcomings, Sannojo resolved to devote himself to study. Hearing that the master Takahara Goroshichi was at Shii no Mine in the Karatsu domain, he set out to inspect the industry there.
Study at Shii no Mine. By then, Goroshichi had been invited to Nankawara by Kakiuemon, so Sannojo stayed in Shii no Mine for a time, observing techniques and associating with rōnin and artisans. Among them were Fukumoto Yajiemon in ceramics, and in painting the Kyoto rōnin Yamauchi Chōbee and Tanba-Sasayama rōnin Maeda Tokuzāemon. Through an intermediary Sannojo married Tokuzāemon’s daughter, and with his wife visited Goroshichi in Nankawara.
Visiting Goroshichi at Nankawara. Wishing to learn directly at the workshop under Goroshichi, Sannojo found that the master—who had just achieved the first successful “Nanjing” white porcelain following Arita methods—showed no sign of divulging the process. Noticing that only women served as assistants in the glaze section, Sannojo conceived a plan and succeeded in having his own wife hired there.
Searching out the glaze secret. Previously acquainted with Goroshichi at Shii no Mine, Sannojo’s wife agreed, albeit reluctantly. Before materials were carried, she estimated their total amounts; after use, when sweeping up the remnants, she calculated the difference and grasped the approximate ratio of the mixture (another account says she measured the water before carrying the ash-clay upstairs, then secretly took the leftovers after use to compute it). Having achieved their aim, the couple left in Kan’ei 6 (1629).
Discovery of Ajiro clay. Sannojo did not immediately attempt production because he lacked suitable raw materials. Traveling under an assumed name through Hizen’s mountains, he discovered Ajiro clay at Mitsudake on Hario Island (Egami Village). A temple servant from Gonjōji had casually picked up some at Egami; at a glance Sannojo recognized its quality, ran several test firings, and then surveyed the deposit himself. Rich in alkali, this feldspathic material was first tried as a body clay but later became a glaze ingredient.
Analyses of Ajiro (water-floated fractions):
Superior: SiO₂ 70.94 / Al₂O₃ 17.98 / Fe₂O₃ 1.00 / CaO 0.83 / MgO 0.63 / K₂O 5.08 / Na₂O 3.50 / Loss on ignition 3.50
Medium: SiO₂ 70.93 / Al₂O₃ 18.22 / Fe₂O₃ 0.75 / CaO 0.86 / MgO 0.41 / K₂O 5.63 / Na₂O 3.18
Birth of Nyoen. Touring mountains in the Saga domain, Sannojo went from Arita via Takeuchi’s Kuromuta (Uchida had already moved to Arita) toward Suko; en route at Momio-ka-yama in Kan’ei 12 (1635), a child was born—later known as Nyoen. Around then, magnet-stone deposits had been found at Nakaoyama in the Omura domain and production had begun; Sannojo stayed first at San-no-mata, then moved near Nakaoyama.
Sannojo returns. Around this time, Takahara Goroshichi had finished his duties at the domain kiln of Iwaya-gawauchi in Arita. Sannojo attempted porcelain production at Nakaoyama—likely the familiar pale gray ware. The Hirado domain learned of it, and in the following year (the 13th), Ryūshin sent the retainer Shikata Heinoshō to order his return. Sannojo handed the enterprise to his disciple Koyanagi Kichiemon and went back to Mikawachi.
Porcelain in Mikawachi. Using the previously found Ajiro clay as the main ingredient, he succeeded in producing porcelain and celadon, winning high praise from Ryūshin. In later years these wares were highly prized in Hirado’s Nanban trade.
The domain kiln at Nagabaya. In that same 14th year, Ryūshin built a villa at Ku-yama (Higashiyama) in Mikawachi and set up an official pottery at Nagabaya. Sannojo invited three acquaintances from Shii no Mine—Fukumoto Yajiemon, Yamauchi Chōbee, and his father-in-law Maeda Tokuzāemon—and served jointly as chief. The invitation, dated the 14th day of the 3rd month, is still preserved at the Fukumoto household.
Those listed alongside head carpenter Sannojo included the painter Yamauchi Chōbee Toyohide, Maeda Tokuzāemon, kilnmen Nakasato Morie-mon, Fukumoto Yajiemon, Kuchiishi Chōuemon, Kan-shi Tazaemon, and Fujimoto Jizaemon. Each received two persons’ stipends plus attendance rations; Sannojo’s retainer Okita Kyūbee was also named. Ryūshin granted Sannojo a sword by Hiromasa and a stipend land at Aikoba, and likewise granted fiefs to Chōbee, Tokuzāemon, and others.
Koyamada Sahei. That year Sannojo also engaged the potter Koyamada Sahei of Karatsu’s Shii no Mine, who had already opened a kiln at Yoshi-no-moto in the domain, recommended him to the lord, and he too was given a stipend.
Fukumoto Yajiemon. Fukumoto Yayemon had been at Shii no Mine after the “Onikodake collapse.” Fifty years later, in the Genroku era, the Karatsu lord revived the Fukumoto surname by granting it to the official potter Tazaemon—thus restoring the lapsed Fukumoto line at Shii no Mine. A brief lineage of Fukumoto in Mikawachi follows.
Fukumoto lineage in Mikawachi:
Fukumoto Yajiemon (1st) → Yayemon (2nd, Shisōichi) → Hisanojō (3rd) → Kiyoe-mon (4th) → Onoishi-kōmon (5th) → Kiyoe-mon (6th) → Sadabee (7th) → Umenosuke (8th) → Tokugorō (adopted by Enaga Oguri Kizaemon; ancestor of Uhira’s 5th) → Wakiue-mon (9th) → Kitarō (10th) → Genshichi (11th)
Ushi-ishi. As noted, the earliest Mikawachi industry centered on Nagabaya; next came the old kiln site of Ushi-ishi (also Sakaide) before today’s Mikawachi Station. This area appears to have branched from the Imari-line Genamei kilns toward Yoshi-no-moto, sharing features such as small dishes with amber or gray glazes and grooved rims. There are also small flared-edge dishes in pale celadon, round dishes stacked four-by pattern, black tenmoku tea bowls, as well as large plates and katakuchi pouring bowls. Kilns in the Mikawachi-yama area spread to Yoshinota-Kodani, Aikoba, Kamatonobori-Sugibayashi, and Hisokuiwa; of these, some say rifts from Shii no Mine entered Sugibayashi.
Hisokuiwa. Old wares from Hisokuiwa include bowls with a pale violet glaze and white brushed slip, fired in the “snake-eye stacking” style. Thus Mikawachi’s blackwares marked a turning point and steadily shifted toward white porcelain production.
Construction of the Dejima settlement. In Kan’ei 11 (1634) the shogunate ordered the Nagasaki bugyō to forbid mixed residence of Japanese and foreigners, subsidized investments by twenty-five wealthy townsmen, and built a fan-shaped reclaimed island of 3,969 tsubo off Edomachi. Completed in Kan’ei 13, it housed only Portuguese traders as the “Nanban Residence,” with gates controlling access; that same year restrictions expelled 287 other Portuguese, Spaniards, and mixed-blood people to Fungang.
Visit of Matsudaira Nobutsuna. In Kan’ei 15 (1638) the Shimabara Christian uprising jolted the long-peaceful shogunate. Struggling in suppression, the inspector Matsudaira Izu-no-kami Nobutsuna ordered the Hirado chief factor Nicolaes Couckebacker to sortie aboard the Dutch ship Do-Raipu-gō and employ its modern weapons. After pacification, Nobutsuna, with Toda Samon Ujitetsu, inspected Hirado for four days, marveled at the sturdy stone warehouses of the Portuguese and Dutch, and, after witnessing Bakker’s test of the snaphance (stone-fire gun), again admired its power.
【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]
折尾瀬与三河内。三河内山与木原山、江永山同属东彼杵郡折尾瀬村。折尾瀬昔为彼杵之庄的速來一部,“速來”当时总称今之針尾、早岐、廣田、折尾瀬四村。四村原属武雄后藤貴明,元龟二年(1571)分授松浦隆信。
今村父子至三河内,见其地甚宜制陶,并拜会高丽媼观其技。三之亟自觉未熟,决心专心研习。闻名匠高原五郎七在唐津领椎之峯,遂往视察。留椎之峯期间,与诸国浪人、工人往来;有陶技之福本彌次右工門,绘事之山内长兵卫与前田德左工門。媒合之下,娶德左エ門之女,偕赴南川原谒五郎七。
于南川原,五郎七方率工房,按有田法首成南京白瓷,秘不示人。三之亟察釉药部仅用女子为佐,乃令其妻入其所为助。妻先量材料总量,后计使用之差额,约得配比(或先量水,再密携余料而算)。寛永六年(1629)遂离去。
网代土之发现。以原料未备,三之亟未即施作。化名巡行肥前诸山,于針尾岛(江上村三つ岳)得网代土。传権常寺寺丁偶拾其土而归,三之亟一见知其良,数试烧后自勘其矿。网代土富碱性长石,初试作胎,后主用于釉。
水簸分析(上等/中等):
上等 SiO₂ 70.94/Al₂O₃ 17.98/Fe₂O₃ 1.00/CaO 0.83/MgO 0.63/K₂O 5.08/Na₂O 3.50/灼减 3.50
中等 SiO₂ 70.93/Al₂O₃ 18.22/Fe₂O₃ 0.75/CaO 0.86/MgO 0.41/K₂O 5.63/Na₂O 3.18
如猿诞生。游历佐嘉领诸山,自有田经武内黑牟田至須古途中,于籾岡山生一子(寛永十二年,1635),即后之如猿。时大村领中尾山发现磁石并已制作品,先寓三之股,继移近中尾山。
归三河内。彼时高原五郎七亦毕有田岩谷川内藩窑之任。三之亟于中尾山试作磁器,似为淡灰色之类。事为平户藩所知,翌十三年隆信遣志方平之丞召还,遂以业让门人小柳吉右工門而归三河内。
三河内制磁。以网代土为主料,成磁器与青瓷,获隆信嘉奖,后于平户南蛮贸易中甚被珍视。
长葉山藩窑。同十四年,隆信于字九山(東山)建别庄,于长葉山设官窑。三之亟聘福本彌次右工門、山内长兵卫及舅前田德左エ門,同任主任。三月十四日之聘书今存福本家。共事者尚有山内长兵卫豊英、前田德左エ門、中里茂右工門、福本彌次右工門、口石长右工門、金氏太左卫门、藤本治左工門等,给二人扶持并出勤扶持;家来沖田久兵卫亦列名。隆信赐三之亟廣正太刀一口及相木场知行,并赐诸人以知行。
小山田佐平。是年又聘唐津椎之峯陶工、已于领内吉之元开窑者小山田佐平,荐之于藩主,亦给扶持。
福本彌次右エ門。其人“鬼子嶽崩れ”后在椎之峯;五十年后元禄间,唐津藩主赐藩用陶家太左工門以福本姓,复椎之峯福本之名。其略系如下:福本彌次右工門—彌右工門—久之亟—喜右エ門—斧石工門—喜右エ門—貞兵卫—梅之助—徳五郎(江永小栗喜左エ門养子,卯平五代祖)—脇右エ門—喜太郎—源七。
牛石。最古为长葉山,次为今三河内站前牛石(坂井手)古窑。其系出自伊萬里系原明窑分流至吉之元,一见共通之飴釉、灰釉沟缘小皿;亦有淡青瓷反缘小皿、四目积丸小皿、黑天目茶碗及大皿、片口。三河内山诸窑分布于吉之田小谷、相木场、上登杉林、潜石等,杉林或有椎之峯崩れ入込之说。
潜石。其古窑品有淡紫釉配白刷毛目、蛇之目积之茶碗。由是三河内黑物开新局,渐转向白瓷生产。
出岛营建。寛永十一年(1634),幕府令长崎奉行禁内外人同居,助市中豪商二十五人出资,于江户町外海面筑扇形填海地共3,969坪,寛永十三年成,限葡萄牙商居之,称南蛮屋敷,设关门严禁出入。同年又压禁并逐葡人、西班牙人及混血等二百八十七人至馮港。
松平信綱来访。寛永十五年(1638)岛原耶稣切支丹之乱震动幕府。军监松平伊豆守信綱因征讨艰难,令平户商馆长ニコラス・クークバッケル乘蘭船ド・ライプ號出征,用其新式武器。乱平后,与戸田左門氏鐵视察平户四日,见葡人与蘭人石造仓库之坚固而惊,复检视其“スナッパン”(石火矢)试射,再叹其威力。
【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditionalfrom Japanese]
折尾瀨與三河內。三河內山與木原山、江永山同屬東彼杵郡折尾瀨村。折尾瀨昔為彼杵之莊之速來一部,「速來」當時總稱今之針尾、早岐、廣田、折尾瀨四村。四村本為武雄後藤貴明所領,元龜二年(1571)分授松浦隆信。
今村父子至三河內,見其地宜於製陶,並拜會高麗媼觀其技。三之亟自知未熟,決意專心研鑽。聞名匠高原五郎七在唐津領椎之峯,遂往視察。留椎之峯時,與諸國浪人、工人交遊;有陶技之福本彌次右工門,繪事之山內長兵衛與前田德左工門。媒介之下,娶德左エ門之女,偕赴南川原謁見五郎七。
於南川原,五郎七適率工房,依有田法初成南京白磁,秘不示人。三之亟見釉藥部僅用女子為佐,乃令妻入其中為助手。妻先量材料總量,後計使用差額,約得配方(或先量水,復密取餘料而算)。寛永六年(1629)遂離去。
網代土發見。以原料未備,三之亟未即製作。化名巡行肥前諸山,於針尾島(江上村三つ岳)得網代土。傳権常寺寺丁偶拾其土而歸,三之亟一見識其良,數試燒後自勘其產地。網代土富鹼性長石,初試為胎,後主用於釉。
水簸分析(上等/中等):
上等 SiO₂ 70.94/Al₂O₃ 17.98/Fe₂O₃ 1.00/CaO 0.83/MgO 0.63/K₂O 5.08/Na₂O 3.50/灼減 3.50
中等 SiO₂ 70.93/Al₂O₃ 18.22/Fe₂O₃ 0.75/CaO 0.86/MgO 0.41/K₂O 5.63/Na₂O 3.18
如猿誕生。遊歷佐嘉領諸山,自有田經武內黑牟田至須古途中,於籾岡山生一子(寛永十二年,1635),即後之如猿。時大村領中尾山發見磁石且已製作,先寓三之股,繼移近中尾山。
歸三河內。是時高原五郎七亦畢有田岩谷川內藩窯之任。三之亟於中尾山試作磁器,疑為淡灰色之類。平戶藩聞之,翌十三年隆信遣志方平之丞召還,遂以業讓門人小柳吉右工門而返三河內。
三河內製磁。以網代土為主料,成磁器與青瓷,獲隆信嘉獎,後於平戶南蠻貿易中甚受珍視。
長葉山藩窯。同十四年,隆信於字九山(東山)建別莊,於長葉山設官窯。三之亟聘福本彌次右工門、山內長兵衛及舅前田德左エ門,同任主任。三月十四日之聘書今存福本家。參與者尚有山內長兵衛豊英、前田德左エ門、中里茂右工門、福本彌次右工門、口石長右工門、金氏太左衛門、藤本治左工門等,給二人扶持並出勤扶持;家來沖田久兵衛亦列名。隆信賜三之亟廣正太刀一口及相木場知行,並賜諸人以知行。
小山田佐平。是年又聘唐津椎之峯陶工、已於領內吉之元開窯者小山田佐平,薦諸藩主,亦給扶持。
福本彌次右エ門。其人「鬼子嶽崩れ」後在椎之峯;五十年後元祿間,唐津藩主賜藩用陶家太左工門以福本姓,復椎之峯福本之名。其略系如下:福本彌次右工門—彌右工門—久之亟—喜右エ門—斧石工門—喜右エ門—貞兵衛—梅之助—德五郎(江永小栗喜左エ門養子,卯平五代之祖)—脇右エ門—喜太郎—源七。
牛石。最古為長葉山,次為今三河內驛前牛石(坂井手)古窯。其系自伊萬里系原明窯分流至吉之元,見有共通之飴釉、灰釉溝緣小皿;亦有淡青瓷反緣小皿、四目積圓小皿、黑天目茶碗,及大皿、片口。三河內山諸窯分布於吉之田小谷、相木場、上登杉林、潛石等,杉林或有椎之峯崩れ入込之說。
潛石。其古窯品有淡紫釉配白刷毛目、蛇之目積之茶碗。由是三河內黑物開一新局,漸轉白磁生產。
出島營建。寛永十一年(1634),幕府命長崎奉行禁內外人同居,助市中豪商二十五人出資,於江戶町外海面築扇形填海地共3,969坪,寛永十三年成,限葡萄牙商居之,稱南蠻屋敷,設關門嚴禁出入。同年又壓禁並逐葡人、西班牙人及混血等二百八十七人至馮港。
松平信綱來訪。寛永十五年(1638)島原耶穌切支丹之亂震撼幕府。軍監松平伊豆守信綱因征討艱難,令平戶商館長ニコラス・クークバッケル乘蘭船ド・ライプ號出征,用其新式武器。亂平後,與戶田左門氏鐵視察平戶四日,見葡、蘭石造倉庫之堅固而驚,復檢視「スナッパン」(石火矢)試射,再嘆其威力。
【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]
折尾瀬与三河内。三河内山与木原山、江永山同为东彼杵郡折尾瀬村的聚落。折尾瀬旧属彼杵之庄的“速來”。当时“速來”合称今之針尾、早岐、廣田、折尾瀬四村;元龟二年(1571),其地部分分授松浦隆信。
今村父子赴三河内,认其地宜陶,并拜会“高丽媼”,观其技。三之亟自觉不足,立志精进。闻名匠高原五郎七在唐津领椎之峯,遂往考察。逗留其间,与诸匠往来;如陶工福本彌次右工門,画师山内长兵卫、前田德左工門。经媒合,娶德左エ門之女,携妻至南川原谒五郎七。
南川原中,五郎七依有田法首制南京白瓷,秘不示人。三之亟见釉药房只用女工,乃令妻入内为佐;妻以“先量总量、后算余量差”的方法(或量水并取余料)揣得配方。寛永六年(1629)离去。
网代土。由于原料不备,未即试制。化名巡山,于針尾岛(三つ岳)得网代土;富碱性长石,初作胎,后主作釉。水簸分析(上等/中等):上等 SiO₂ 70.94/Al₂O₃ 17.98/Fe₂O₃ 1.00/CaO 0.83/MgO 0.63/K₂O 5.08/Na₂O 3.50/灼减3.50;中等 SiO₂ 70.93/Al₂O₃ 18.22/Fe₂O₃ 0.75/CaO 0.86/MgO 0.41/K₂O 5.63/Na₂O 3.18。
如猿。寛永十二年(1635)于籾岡山生子,如猿。时大村领中尾山发现磁石并制瓷,先寓三之股,后移近中尾山。其后,高原五郎七毕有田藩窑之任,三之亟在中尾山试制淡灰瓷;平户藩闻而召还,翌年由志方平之丞传命,业让小柳吉右工門,归三河内。
三河内制瓷。以网代土为主,成瓷与青瓷,获隆信褒奖,后在平户南蛮贸易中珍重。
长葉山官窑。第十四年于九山(東山)建别墅并设窑,召福本彌次右工門、山内长兵卫、前田德左エ門,与三之亟同任主任;三月十四日之聘书存福本家。并列名者给二人扶持与出勤扶持;沖田久兵卫亦在列。授三之亟廣正太刀与相木场知行,诸人亦各赐地。
小山田佐平。招自椎之峯、已在吉之元开窑者,荐于藩主,亦给扶持。
福本系。自福本彌次右工門起,至源七十一代;元禄间唐津藩主赐太左工門“福本”姓以复旧名。
牛石与潜石。长葉山最古,次为牛石(坂井手)古窑,见与伊万里系原明窑共通之飴釉、灰釉小皿;亦有淡青瓷反缘小皿、四目积丸皿、黑天目茶碗、大皿与片口。窑址分布于吉之田小谷、相木场、上登杉林、潜石;潜石出淡紫釉白刷毛目“蛇眼”堆烧茶碗。黑物遂成转折,转向白瓷。
出岛。寛永十一年(1634)建扇形填海地3,969坪,寛永十三年完,仅葡萄牙商居之称“南蛮屋敷”,严禁出入;同年逐葡、西等287人至馮港。
松平信綱。寛永十五年(1638)镇压岛原之乱,命平户商馆长ニコラス・クークバッケル乘“ド・ライプ號”出战用新武器;乱平后驻平户四日,叹石仓之坚与“スナッパン”之威。
【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]
折尾瀨與三河內。三河內山與木原山、江永山同屬東彼杵郡折尾瀨村。折尾瀨昔為彼杵之莊「速來」之一部;元龜二年(1571)其地部分分授松浦隆信。
今村父子赴三河內,拜會「高麗媼」而識其技。三之亟覺己不足,誓志研習;聞高原五郎七在椎之峯,遂往考察。與福本彌次右工門、山內長兵衛、前田德左工門等往來,且娶德左エ門之女,攜妻至南川原謁五郎七。
於南川原,五郎七依有田法首創南京白磁而秘之。三之亟見釉部唯用女工,令妻入職,以「先量總量、後算餘量」之法(或量水並取餘料)推得配方。寛永六年(1629)離去。
網代土。原料未備,未即試。化名巡山於針尾島(三つ岳)得網代土,富鹼性長石,初作胎,後用為釉。分析:上等 SiO₂ 70.94/Al₂O₃ 17.98/Fe₂O₃ 1.00/CaO 0.83/MgO 0.63/K₂O 5.08/Na₂O 3.50/灼減 3.50;中等 SiO₂ 70.93/Al₂O₃ 18.22/Fe₂O₃ 0.75/CaO 0.86/MgO 0.41/K₂O 5.63/Na₂O 3.18。
如猿。寛永十二年(1635)於籾岡山生子,如猿。時大村領中尾山產磁石且製作已行,先寓三之股,復移近中尾山。旋以中尾山試製淡灰瓷;平戶藩聞而召還,翌年由志方平之丞傳命,業讓小柳吉右工門而返三河內。
三河內制瓷。以網代土為主,成瓷與青瓷,受隆信獎許,後為平戶南蠻貿易所珍。
長葉山官窯。第十四年於九山(東山)建別墅並設窯,召福本彌次右工門、山內長兵衛、前田德左エ門,同任主任;三月十四日聘書藏於福本家。名單尚及山內長兵衛豊英、中里茂右工門、口石長右工門、金氏太左衛門、藤本治左工門等,給二人扶持與出勤扶持;沖田久兵衛亦列。賜三之亟廣正太刀與相木場知行,諸人亦受封。
小山田佐平。自椎之峯招至,已於吉之元開窯,薦之於藩主並給扶持。
福本系譜。由福本彌次右工門起,至源七十一代;元祿間唐津藩主以「福本」姓賜太左工門,復舊姓。
牛石與潛石。長葉山最古,其次牛石(坂井手)古窯,與伊萬里系原明窯同見飴釉、灰釉小皿;亦有淡青瓷反緣小皿、四目積圓皿、黑天目茶碗、大皿與片口。窯址散布吉之田小谷、相木場、上登杉林、潛石;潛石出淡紫釉白刷毛目蛇眼積茶碗。黑物由此轉折,趨向白磁。
出島。寛永十一年(1634)築扇形填海地3,969坪,寛永十三年成,專居葡萄牙商,稱南蠻屋敷,嚴禁出入;同年逐葡、西等287人至馮港。
松平信綱。寛永十五年(1638)討島原之亂,命平戶商館長ニコラス・クークバッケル乘「ド・ライプ號」用新武器;亂平後駐平戶四日,歎石倉之堅與「スナッパン」之威。

