長次郎解説(2)
長次郎(ちょうじろう)の茶碗が「宗易形(そうえきがた)」〔注:千宗易=千利休(せんの りきゅう)の好みに基づく意匠基準〕として天正十四年(1586)にはじめて茶の世界に現れたのか、あるいはそれ以前から利休やその周辺と関わりつつ制作していたのかは断定できません。とはいえ桃山期の茶会記を丹念に読むと、長次郎作の可能性をうかがわせる記述が津田宗及(つだ そうぎゅう)の『天王寺屋会記』〔注:堺の豪商・茶人の茶会記〕に三度見え、早期からの交渉を示唆します(『天王寺屋会記』に記録されている)。
具体的には、天正七年十月十七日の山上宗二(やまのうえ そうじ)茶会に記された「赤色之茶碗」、天正八年十二月九日の千宗易会に用いられた「ハタノソリタル茶碗」、天正十一年二月十三日に再び宗二が用いた「そり茶碗」で、なかでも「赤色之茶碗」は注目すべき記事です。もし唐物天目(からもの てんもく)〔注:宋・元・明の中国製天目茶碗〕であれば、当時の記述慣行から「唐物天目」と明記されるはずが、ここではあえて「赤色之茶碗」とのみ特記され、従来にない器種の登場が示唆されます(『天王寺屋会記』に記録されている)。
この頃に長次郎工房で赤茶碗が技術的に成立していた可能性は、「天正二春 依命 長次良 造之」と刻む唐獅子瓦(楽美術館蔵)により裏づけられます。そこに用いられた胎土(たいど)〔注:素地土〕や釉(うわぐすり)〔注:ガラス質被膜〕が、「白鷺」「無一物」「一文字」や「道成寺(どうじょうじ)」といった赤茶碗の用材と同質であるため、赤茶碗の製作は天正二年(1574)以降すでに可能だったと推定されるのです。
一方、「ハタノソリタル茶碗」や「そり茶碗」について、端反(はたぞ)り〔注:口縁が外へ反る形〕は高麗茶碗(こうらい ちゃわん)に頻出しますが、その場合は慣例として「高麗茶碗」と表記されます。ここでは形状のみを記す点が異色で、従来品とは異なる新作であった可能性が高く、とりわけ「道成寺」に通じる作行きを想起させます。また「道成寺」の姿が高麗茶碗・熊川(こもがい)に近いことを考えると、利休好みが確立する以前、長次郎焼は高麗様式を参照しつつ試作していた段階があったとも理解できます。
しかもそれらの器を用いたのが千利休と山上宗二であった事実は、両者と長次郎の関係が天正年間前期から始まり、相互理解を深めながら天正十四年の「宗易形ノ茶碗」制作へ至ったという筋立てを強く示します。すなわち「宗易形」は突如誕生したのではなく、試行と評価の積み重ねの帰結として立ち現れたとみるのが妥当でしょう。
ところで「宗易形」と明記された長次郎茶碗は、天正十四年十月十三日、奈良中坊の井上源吾(いのうえ げんご)の茶会一度のみで、その後は「今焼(いまやき)茶碗」または単に「焼茶碗」と呼ばれます。利休が切腹する天正十九年(1591)二月までの五年間に、津田宗及・神谷宗湛(かみや そうたん)・松屋久政(まつや ひさまさ)・松屋久好(ひさよし)らの茶会記によれば、「今焼茶碗」はおよそ五十回使用され、利休やその子・紹安(じょうあん/道安 どうあん)、嗣子・少庵(しょうあん)をはじめ約四十名が手にし、町衆階層に広く浸透しました(各茶会記に記録されている)。多くは利休の佗びの茶風〔注:簡素と真率を尊ぶ理念〕を慕う人々であったと推測されます。
その間の天正十七年(1589)ごろ、初代長次郎は没したと見られ、以後は宗慶(そうけい)・宗味(そうみ)・常慶(じょうけい)らが工房を継ぎ、彼らの作もまた「今焼茶碗」として用いられました。呼称は器種の継続性を示し、作者交替後も利休好みの制作方針が維持されたことを物語ります。
やがて慶長十三年(1608)二月二十五日、京都での千宗旦(せん の そうたん)茶会に用いられた茶碗は、松屋久重(ひさしげ)の茶会記に「今ヤキ」ではなく「シュ楽茶ワン」と記されます。「シュ楽」は「聚楽(じゅらく)」と読め、聚楽第(じゅらくだい)が既に破却されていた時期にもかかわらず「聚楽茶碗」と呼んだ事実は、「今焼」が一部で「聚楽焼(じゅらくやき)」と通称されていたことを示します。加えて宗旦の「聚楽黒茶ワン」は「楽」の印(いん)〔注:高台脇に捺す家印〕があったため、特にそう記した可能性も考えられます(各茶会記に記録されている)。
その後も「今焼茶碗」という名は寛文年間(1661–73)の『隔莫記(かくばくき)』にも見えつつ、並行して「シュ楽茶碗」という呼称も用いられました。吉左衛門常慶(きちざえもん じょうけい)以降、楽家は代々「楽」字印を捺す慣行を確立し、「聚楽焼」はさらに簡略に「楽焼(らくやき)」と称されるようになります。元和七年(1621)に没した織田有楽斎(おだ うらくさい)の書状(楽家伝来)宛名に「楽長二郎」の語が見えることからも、元和初年ころには「楽」を姓のように名乗る風も生じていたと推測されます。
さらに、吉左衛門常慶とその子・吉兵衛(きちべえ)=道入(どうにゅう)〔通称ノンコウ〕と親交の深かった本阿弥光悦(ほんあみ こうえつ, 1637年没)は、楽家の五幅暖簾に「楽焼御ちやわん屋」と揮毫したと伝えられ、そこに「楽焼」の語が明確に認められます。おそらく元和〜寛永(1615–43)頃には、公的には「楽焼」、親しい間柄では宗旦や光悦のように「茶わん屋」と呼ぶ用法が併存していたのでしょう。
以上のように、長次郎の手捏ね(てづくね)〔注:手びねりによる成形〕茶碗は当世の茶碗として高評を得、「今焼」「聚楽焼」と称され、江戸期に入ると工房は「楽焼御ちやわん屋」として家業体(かぎょうたい)を固めて現在に至ります。とりわけ長次郎工房の茶碗が志野・黄瀬戸・織部などの瀬戸系茶碗とともに時代の定番として多用された背景には、利休の直接的指導が大きく働いたと考えるべきでしょう。
ゆえに茶会記に見える「今焼茶碗」の中には、利休伝来として後世に伝わった器が少なからず含まれていたはずですが、多くは固有銘を記さず単に「今焼茶碗」とのみあるため、今日では特定が困難です。わずかに『天王寺屋会記』に載る、利休が晩年まで愛蔵した「木守(きまもり)」銘の赤茶碗一碗(関東大震災で焼失、現存は残片からの復元)と、天正十八年(1590)八月七日に千少庵(せん しょうあん)が用いた「クロヤキノ茶ワン」が、のちに伝わる「大クロ」に該当する可能性が示唆されます(『天王寺屋会記』に記録されている)。
おそらく利休存命中、長次郎の茶碗は利休を媒介に人々へ渡るのが常で、人々もまた利休経由で得ることに喜びを見いだしたのでしょう。しかしその慣行は後年、「近年新義ノ道具共用意シテ高直(値)ニ売ルマイス(売僧)ノ頂上トテ欺」と『多聞院日記(たもんいん にっき)』(当該記事あり)に辛辣に評され、思いもよらず利休切腹の罪状の一端をなしたとも伝わります(『多聞院日記』に記録されている)。
要約(300〜500字)
長次郎の「宗易形」は1586年に明記されますが、宗及『天王寺屋会記』の「赤色之茶碗」「ハタノソリタル茶碗」「そり茶碗」などから、利休・宗二との関係は天正前期に遡る可能性が高いと読めます。赤茶碗は天正二年の刻銘瓦にみる胎土・釉の一致から技術的成立が推測され、端反り形の記述は高麗様式参照の試作段階を示唆します。1586〜91年、「今焼茶碗」は町衆層まで広く用いられ、初代没後も宗慶・宗味・常慶が継承。17世紀初頭には「聚楽焼」→「楽焼」へ呼称が定着し、宗旦・光悦らの用例がそれを裏づけます。茶会記の多くは無銘記載のため比定は難しいものの、「木守」や「クロヤキノ茶ワン(=大クロか)」など利休伝来の可能性を示す記事が残り、同時に利休を介した流通慣行は『多聞院日記』で批判されるなど、時代の評価も交錯しました。
【関連用語】
- 宗易形:千宗易(利休)の好みに基づく茶碗意匠の基準。
- 今焼:天正期に新作和物茶碗を指した呼称。のちの楽焼を含む。
- 聚楽焼:聚楽第周辺に由来する通称。後に「楽焼」へ簡略化。
- 楽焼:楽家の手捏ね・低火度焼成の茶碗様式。家印「楽」を捺す。
- 唐物天目:中国伝来の天目茶碗。鉄釉系で黒~褐色の発色。
- 端反り:口縁が外側へ反る形状。高麗茶碗に多い意匠。
- 胎土:器体の素地土。発色・質感の基礎を決める要素。
- 釉:素地上のガラス質被膜。色調・光沢を与える。
- 道成寺:長次郎系の名高い赤茶碗銘。高麗熊川に近い姿。
- 熊川(こもがい):高麗茶碗の一型。端正な姿で知られる。
- 天王寺屋会記:津田宗及の茶会記。長次郎関連の早期記事を含む。
- 松屋会記:松屋家の茶会記。宗易形の初出記事を伝える。
- 隔莫記:寛文期の茶会記。今焼の呼称継続を記す。
- 多聞院日記:興福寺多聞院の記録。道具売買批判の記事で知られる。
- 楽の印:高台脇に捺される「楽」字印。真贋判定の一要素。
- 千宗旦:利休の孫。江戸初期茶の湯を主導した茶人。
- 吉左衛門常慶:楽家の名跡。楽焼の家業体制を整備。
- 道入(ノンコウ):楽家三代。作品と号で名高い。
- 本阿弥光悦:江戸初の芸術家。楽家と交流し「楽焼御ちやわん屋」と揮毫。
- 木守:利休愛蔵の赤茶碗銘。関東大震災で焼失し復元品が伝わる。
- 大クロ:利休ゆかりの黒茶碗銘。少庵・宗旦へと伝来した名品。

