長次郎解説(5)
山中道億(やまなか どうおく)は、利休(りきゅう)の孫・千宗旦(せん そうたん)について「不目利〔注:鑑識眼に欠ける意〕で取り違えが多い」と批判しましたが、たしかに宗旦は長次郎(ちょうじろう)に関して後世から責められても仕方のない振る舞いを残しました。というのも、利休切腹の時、宗旦は数え十四歳で、慶長十三年(1608)に松屋久重(まつや ひさしげ)を京都邸に招き「聚(じゅ)楽黒茶ワン」〔注:「聚楽焼(じゅらくやき)」の黒茶碗の意〕で茶会を催した頃には三十一歳であり、しかも「宗易形(そうえきがた)」〔注:千宗易=利休の好みに基づく器形基準〕が世に出た天正十四年(1586)にはすでに九歳で、幼少から祖父の側にいたなら千家周辺の出来事と長次郎工房〔注:複数の作手が働く制作体制〕の内情を実見し得た、唯一の証人たり得たからです。
ところが宗旦は筆まめな人物であったにもかかわらず、千家の過去や長次郎工房に関する記録を一切残さず、箱書には「長次郎 赤茶碗(太郎坊)」「長次郎 あか茶碗(二郎坊)」「長次郎焼 茶碗(俊寛)」など銘と自署(花押〔注:署名記号〕)を記すだけで、作者特定に繋がる情報は避けています。宗旦が十四歳から五十歳に至る間には大事件が相次ぎ、工房も吉左衛門常慶(きちざえもん じょうけい)〔注:楽家の柱となる作手〕が家長として確立するまで曲折がありましたが、宗旦も子の江岑宗左(こうしん そうさ)・仙叟宗室(せんそう そうしつ)・一翁宗守(いちおう そうしゅ)らも、作品と作者の対応関係を明らかにする手がかりを何も書き残しませんでした。結果として、千家では初代から常慶に至る作を一括して「長次郎」「長次郎焼」と極める慣習が成立し、後世に釈然としない余地を残したのです。
一方、慶長十三年(1608)の宗旦茶会に同席した松屋久重は、その茶会記に従来の「今焼(いまやき)茶碗」ではなく「聚楽黒茶ワン」と記しました(松屋家茶会記に記録されている)。これは千家と長次郎工房の密接さを踏まえると、当時から工房作を「聚楽焼=楽焼(らくやき)」と世に認識させる必然が生じていたことの暗示でしょう。三年前には徳川秀忠(とくがわ ひでただ)が二代将軍となり、のちに常慶が白楽香炉をその霊前に献じ、常慶常用の「楽」字印が秀忠拝領印と推測される事実と合わせれば、豊臣から徳川への政権移行期は、千家・楽家にとって看板と呼称の整理が求められる難所であったと考えられます。
今日一般に流布する楽焼系譜は「初代長次郎―二代常慶―三代引入(どうにゅう)=ノンコウ」と簡略ですが、楽家伝来の宗入(そうにゅう)〔注:のちの吉左衛門。一入の養子〕筆録による三通の古文書――①消息を記す『覚(おぼえ)』、②それに基づく『楽焼系図』、③法名(戒名)を年次配列した『覚』――の存在によって、一入(いちにゅう)以前の家系に新事実が示されます。文言は難渋ですが要点は、元祖「あめや(阿米也)」〔注:来朝陶工〕と、その妻と見える「比丘尼(ひくに)」の記載、長次郎に通い名「吉左衛門/庄左衛門」、法名「宗味(そうみ)」の伝、宗味の孫に関わる寺蔵資料、太閤(たいこう)秀吉から拝領の「楽之判(印)」が某寺(本文では素林寺と記す)に在ること、宗慶(そうけい)→吉左衛門(与次)の承継、吉兵衛=道入(どうにゅう)に「ノンコウ」の銘由来が千宗旦の花入に関わること、さらに「道楽(どうらく)」という別印の存在、などです(各文書に記録されている)。
これらの文書が宗入自筆と判断できるのは、第一の『覚』末尾に「元禄元年(1688)戊辰極月十七日書之」とあり、当時まだ剃髪前で「吉左衛門」を名乗っていた一入を「吉左衛門親」と記す点が決め手です。すなわち宗入は将来自らが「吉左衛門」を襲う前提で記したのであり、その後に作成された『楽焼系図』では「後法体名一入」と追記されているため、これは一入が落飾した元禄四年(1691)以後の筆録と判定できます。ゆえに『系図』は先の『覚』を底本に増補・整序したもので、表現の細部(「宗花」を「宗慶」と訂する等)に加筆・訂正が見られます。
では、なぜ元禄元年という時点で宗入・一入の周辺に系譜文書が整えられたのでしょうか。本文は明言しませんが、おそらく一入の庶子・一元(いちげん)〔注:のちに玉水焼(たまみずやき)を興す〕と、養子である宗入との家督をめぐる緊張が背景にあり、家の正統性を示す根拠資料として、起源(あめや)・印判(楽之印)・実在寺伝来(素林寺蔵)・通い名(吉左衛門/庄左衛門)・法名(宗味/道入)を体系的に束ね直す必要があったのだと推測されます。すなわち、工房的共同制作の記憶を「家」の歴史として編み直す作業が、まさにこの時期に進められたのです。
要約(300〜500字)
宗旦は祖父利休に最も近い世代で長次郎工房の実情を知り得たはずだが、作者特定に資する記録を残さず、箱書も銘と花押にとどめたため、後世「長次郎/長次郎焼」と一括極めが定着した。一方、1608年の松屋久重の茶会記に「聚楽黒茶ワン」と記された事例は、豊臣から徳川への転換期に、工房作を「聚楽焼=楽焼」と公的に位置づけ直す動きの表れと読める。宗入筆の『覚』『楽焼系図』『(法名の)覚』三文書は、元祖あめや・拝領印「楽之判」・通い名と法名・道入=ノンコウの銘由来など、家政と印判の正統性を束ねる内容を伝え、元禄期の家督問題(庶子一元と養子宗入の対立)を背景に作成・増補されたとみられる。これにより、工房的実態を「家」の歴史として再編する過程が可視化される。
【関連用語】
- 千宗旦:利休の孫。江戸初期の千家中興の祖。箱書や茶会で楽茶碗を用いた。
- 宗易形:千宗易(=利休)の好みを基準にした茶碗の器形・寸法。
- 聚楽焼/楽焼:聚楽第ゆかりの呼称から簡略化した楽家の茶陶。手捏ね・低火度焼成が特色。
- 吉左衛門常慶:楽家の重鎮。家長として体制を整備し「楽」字印を常用。
- 徳川秀忠:二代将軍。常慶の白楽香炉献納や拝領印伝承と関連づけられる。
- 松屋久重:奈良の町人・茶人。茶会記に「聚楽黒茶ワン」と記した。
- 宗入:一入の養子。元禄期に系譜文書を筆録し、家の正統性を整理。
- 一入:楽家の名跡。元禄四年に落飾。宗入筆資料で「吉左衛門親」とも記される。
- 道入(ノンコウ):楽家の名工。銘「ノンコウ」は宗旦の花入に由来と伝える。
- 太閤拝領印(楽之判):秀吉から拝領と伝わる「楽」字印。寺蔵伝来が記録される。

