楽解説(1)楽茶碗の成立と道入(どうにゅう)―長次郎から光悦へ

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楽茶碗の成立と道入(どうにゅう)―長次郎から光悦へ

桃山時代の天正年間(1573–1592)に京都で創始された長次郎(ちょうじろう)の楽茶碗〔注:京都・楽家に伝わる手捏ねの茶碗。黒楽・赤楽が代表〕は、日本の陶芸史に前例を持たない作風でした。ろくろを用いず手捏ね〔注:ろくろを使わず手で成形する技法〕で形づくられ、千利休(せん の りきゅう)が完成させた侘び茶〔注:質素・簡素を旨とする茶の湯〕の時期に、草の小座敷という小空間のための茶碗として利休の美意識に即して作られ、禅的理念〔注:無心・簡素を重んじる禅の思想〕を一椀の造形に凝縮しました。こうした明確な目的と哲学的思惟に支えられた茶碗は利休以前に例がなく、日本陶磁史に特筆すべき位置を占めます。

しかし長次郎の茶碗は、同時代の茶会記〔注:茶会の記録〕に見えるとおり、作者名よりも「宗易形(そうえきがた)」すなわち利休好みの茶碗として受容され、利休が愛好したがゆえに重用された側面が強かったと考えられます。そのため長次郎個人は相対的に没個性的に見え、多くの作例は細部に差異があれど基本造形が一定で、定型を忠実に踏まえます。利休形はのちの楽焼〔注:軟質の胎土を低火度で焼成する京都の茶陶〕に継承され、さらに手捏ね茶碗全般の祖形となりました。

手捏ねの楽茶碗に明確な作為(さくい)を示したのは本阿弥光悦(ほんあみ こうえつ)で、そこには織部好み〔注:古田織部(ふるた おりべ)に由来する自由奔放で大胆な趣向〕の影響が認められます。無作為を尊んだ利休の茶風〔注:その時代の茶の湯の美意識や流行〕に対し、織部は融通無礙(ゆうずうむげ)〔注:束縛なく自在であること〕な作為を肯定し、この嗜好は慶長年間(1596–1615)の時勢に広く普及しました。光悦もその時代精神の体現者であり、彼は助力者であった吉左衛門常慶(きちざえもん じょうけい)の子・吉兵衛(きちべえ)、すなわち後の道入(どうにゅう)に作風上の影響を与えます。

吉兵衛は楽家の出でありながら、父・常慶のように利休形を厳守するのではなく、光悦の作陶に通じる自由な変化を求めた作為的な茶碗を焼きました。いわば長次郎期の「家業としての定型」から脱し、個人作家としての茶碗師へと転じたのです。以後、楽家は家屋内の内窯焼成〔注:住居併設の小窯での焼成法〕によって個人作家性を保ち、また暖簾に「楽焼ちやわん師」と記された(光悦筆と伝える)とおり、千家(せんけ)と密接に結びついた特異な陶家として連綿と続きます。

このように千家の茶道と密着したがゆえか、近年まで楽茶碗は研究史上やや片隅に置かれがちでした。しかし近世陶磁を通観すれば、その存在は小さくなく、むしろ広い波及力を持ちます。楽家のほかに玉水焼(たまみずやき)〔注:京都伏見の手捏ね茶碗で知られる窯〕や大樋焼(おおひやき)〔注:加賀・金沢の茶陶〕が興り、光悦をはじめ千家の宗匠や多くの茶人が手ずさびの茶碗を作る動きは幕末・近代、そして今日まで盛んです。

ところが、長次郎・道入・光悦の作品は繰り返し紹介され成果も大きい一方、その後三百年の作風変遷を多作例で俯瞰する試みは意外に不足してきました。道入以後の一入(いちにゅう)・宗入(そうにゅう)は温雅さや重厚味を備え、凡庸ではありませんし、了入(りょうにゅう)は道入に迫る巧者でした。また玉水焼の元祖・一元(いちげん)もすぐれた手碗の持ち主で、楽茶碗を通じて各時代の茶風を読み解くことは頗る興味深いのです。

道入(通称ノンコウ)は慶長四年(1599)に常慶の長子として生まれ、若年期は「吉兵衛」と称しました。『本阿弥行状記』〔注:光悦の事績を伝える記録〕には「今の吉兵衛は至って楽の妙手なり」等の称揚が見え、千家宗匠の書付に「吉兵衛焼」とある茶碗も残ります。通称「ノンコウ」が一般化した経緯については、宗旦(そうたん)が伊勢・鈴鹿の能古茶屋(のこちゃや)で拵えた竹の二重切花入に「ノンカウ」と銘し吉兵衛に贈り、彼が愛玩したことに由来するとの伝承が伝わります。

吉兵衛の本格的な活躍は元和年間(1615–1624)以降で、元和四~五年頃に光悦が徳川家康から鷹峰(たかがみね)の地を拝領して作陶を始めた時期には、すでに十分な腕前で、父・常慶に代わって光悦を助けたと推測されます。こうして光悦の審美と現場の技が直結し、道入の基礎が固まりました。

寛永十二年(1635)に常慶が没した時、吉兵衛は三十七歳の充実期にあり、光悦の影響も受けつつ作振り・釉(ゆう)〔注:釉薬〕・焼成法〔注:焼き上げの方法〕を改良したとみられます。推測を許せば、元和中期以後にはすでに光沢の冴える黒楽が道入の手で焼かれており、常慶は隠居して実務は吉兵衛に移っていた可能性も高いでしょう。この時期の革新が、のちの楽の基調を形づくります。

道入の現存作を仔細に見ると、利休形を基調とした穏和な作、光悦の影響を受けた強い作為を示す作、古風の器形ながら釉調が従来の古楽と一変する作など、作域は多彩です。光悦の言う妙手ぶりは、総じて薄作りでのびやかにまとめ、見込(みこみ)〔注:碗内の底面から中央部〕を広く取り、口造り(くちづくり)〔注:口縁部の仕立て〕を薄く鋭く削り上げる点に顕著で、歴代でも抜群の技倆として後世に大きく影響しました。

また、腰の丸みや高台(こうだい)〔注:碗底の環状の台座〕の削り、口縁の抱え込ませ方に独特の手癖が認められ、鑑識上の要点となります。高台内に印(いん)〔注:銘印・作印〕を捺す作例が多く、印影を生かすため高台土見せ〔注:高台内部の土肌を露わにする意匠〕を積極的に用いたのも道入以後の特徴です。胎土は聚楽土(じゅらくつち)に加え白土(しろつち)も用い、白土使用は常慶期に遡ると見られます。光悦が「茶碗四分ほど、白土と赤土を持参されたい」と吉左衛門に宛てた書状が楽家に伝わり、この素材選択の実情を物語ります。


要約(300〜500字)
長次郎の楽茶碗は、手捏ねと侘び茶の理念を結びつけ、禅的美学を一椀に具現化した点で日本陶磁史に画期をなす。評価は当初「宗易形=利休好み」として受け取られ、定型の継承が重んじられたが、光悦が織部好みの自由精神を導入し、吉兵衛=道入へと連なって作為の幅が拡張した。楽家は内窯焼成と千家との結びつきから特異な個人作家性を保持し、玉水焼・大樋焼や茶人の手づくり茶碗へも波及する。道入は黒楽の光沢、薄作りの口造りや広い見込、高台土見せと印の活用などで革新を示し、その作域は利休形から大胆な変奏まで多様で、後代の一入・宗入・了入や周辺窯にも大きな影響を与えた。素材面でも聚楽土と白土を使い分け、光悦書状にそれが裏づけられる。


【関連用語】

  • 光悦(こうえつ):茶陶や楽茶碗を手がけた芸術家。本阿弥家の出で、織部好みの影響を受け自由な作風を示した。
  • 長次郎(ちょうじろう):初代楽家陶工。黒楽・赤楽の祖とされ、利休の侘び茶理念を体現した。
  • 織部(おりべ):古田織部に由来する美濃焼の様式。緑釉や大胆な造形、自由な意匠を特徴とする。
  • 大樋焼(おおひやき):加賀・金沢の茶陶。手捏ねの温かな質感と茶の湯に適う意匠で知られる。
  • 玉水焼(たまみずやき):京都伏見の茶陶。手捏ね茶碗を中心に、楽系の作風とも関連して展開した。