おさい塔の由来~彼杵地名の神話

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【原文】[Original text]

おさい塔の由来
 元亀三年(1572年)正月二十日有馬五郎は、唐船城にありて、有馬の家老有馬將監と氣脈を通じ、兵五千を以て密に飯盛城を奇襲すべく計畫した。然るに其末た發せざるうちに、同城にありし山本右京は、臨月なる妻のおさいを伴なひ、十二月二十九日の深夜雪降りしきる中を、五才の一子勝之助を負ひて、密に西の嶽の間道を越えるうち、おさいは難産に斃るゝ等の困苦えお経て、奇襲の企圖を親に告げしかば、飯盛勢は平戸の援兵と共に、先つ發して中途に五郎の軍を激へ、相踏原(今の一の坂邊より三本木邊りまで)に遭遇して大いに之を敗り、五郎は高來へ遁れ歸つたのである。

松浦父子龍造寺に降る
 之より隆信は、彌南進の羽を伸ばす可く企圖せる折、我力に除る強敵は目前に翼を擴け來った。それは佐嘉の龍造寺隆信であつた。天正二年(1574年)隆信は鍋島信生(直茂)を主將として、平戸を征服すべ進軍し来るや、松浦隆信は到底敵す可からざるを覺り、長子鎮信と内議して、途に龍造寺氏に降るに至った。

鎮信の朝鮮役従軍
 鎮信は、後年又豊臣氏に属し、文禄元年四月十二日(1593年)兵三千をみて戸を出帆し、一旦名護屋浦に集合して二十八日釜山に上陸した。之より小西行長の先鋒軍に加はりて、韓土に轉戦せんが、同二年正月七日平壌の敗戦となり、相神浦の松浦定(親の嗣子にて實は鎮信の末弟)等多く戰死したのである。
 最初出軍の割當は、三千人の定めなりしも、途上或は戦死し或は病歿し、共補充して追々と渡海せしを以て、最後歸陣の際までは、實に七千二百人の出陣者を数へられ、就中討死手負一千二百人と註せられしは、其他の諸藩も同様なる可如何に我出兵軍が苦戦せしかを察するに餘りある。

巨關、頓六等渡来
 慶長三年十二月(1598年)鎮信歸陣の際、連れ歸りし韓人にて、平戸に上陸せしもの百二十五人と稱せらる、蓋し彼等は、戰役中に渡來せし者の如きも詳でない。斯くて泰西の文化輸入にトップを切りし平戸藩は、又韓士の陶業を自領に扶植すべく試みたのであらう。尤も此内陶工と稱する者は、僅に十人に過ぎさりしといはれてゐる。

中野の御用窯
 此折韓人等は、平戸城下に町割をなして居住(今の高麗町)せしめしが、此内陶技の心得ある巨闘や頓六等を召して、城内に於いて試せしめ、次に此處より十三里を隔てし中野村の上椿坂(又紙漉)に於いて御用窯を開き、此處にて例の高麗風の刷毛目、粉吹手等を製作した。
就中斯技に長しは巨闘にて、彼は咸鏡道熊川の生れ、此時四十三才なりしが、後には平戸の藩籍に入り、今村彌次兵衛と改めたのである。
 彌次兵衛の創製には、どろけ釉なる中野焼の一種がありそして坏土は重に朝鮮より取寄せしものである。元來此地方良土に乏しき爲め、其後も屢彼國より輸入するの外なかつた。此不便を除くには、良土の探索が積年の宿望であつた。尤も此處の皿屋窯の磁器は、後年の開窯にかゝり、無論天草石を原料として焼きし物である。

蘭船と三浦按針
 慶長十四年五月三十日(1609年)阿蘭陀船ローデ・レーウ・メット・パイレン號及びフリフーン號の二艘平戸に入港し、英人 ウヰリヤム・アダムス(慶長五年六月泉州堺の濱に来りし、三浦按針、元和六年四月十四日平戸に於いて卒す、五十七才)の斡旋にて、家康の通商免許を受け、八月二十二日には領主鎮信の承諾を得て、彌々平戸商舘建設となりしものにて、藩老佐川主馬助信利(平戸松浦系圖参照)又大いに盡力せしものである。

巨關の陶土探見
 之より十四年を経て、元和八年(1622年)に至り、藩主隆信(久信の子にて鎮信の孫)の内命に依りて、今村彌次兵衛は陶土發見の爲め、領内の各地を踏査することなり、一千三之亟及家來久兵衛を連れて戸を出發し、諸處探索の末、早岐の権常寺、日宇の東の浦折尾瀬の三河内免なる吉のさ、相木場に於いて陶土を発見し、そして吉の元に住して、研究的に試焼せしと稱せらる。

納屋谷と稗田
 廣田の納屋の谷に於いて彌次兵衛父子が試燒せし説あるも、此處の上窯と下窯は、無論後年のものらしく。又早岐驛前面の山手なる稗田に於いて、蛇の目積せし磁器の皿、茶碗及煎茶々碗等を製作せしは、三之亟が創始せしとの説あるも詳でない。

三河内山
 平戸の陶業のみは既に南進して、彌々折尾瀬方面に展開するに至った。元來此折尾瀬製陶の起原は明ならざるも、彼の文禄三年(1595年)波多氏没落の際、鬼子嶽崩れの陶工が、此處の三河内なる長葉山(舊名鳴早山又早山)に来つて開窯せしと稱せらる。蓋し此處の發掘品中に、均窯風の海鼠釉ありて、それが鬼子嶽古窯の殘缺に髣髴たるためであらう。

長葉山の古窯品
 其外長葉山の古窯品には、天目釉、黒天目釉の茶碗にて、緑を白釉にて塗りしものがあり、或は鶯茶釉の縁淵小皿にて、小高臺の無釉物がある。又後代の製品には、碪青磁や、種々の染附磁器を焼いてゐる外、吳洲山水繪の氷裂出三寸五分の茶碗や、型打模様の重箱などが發掘されてゐる。

中里嬰女
 茲に又巨關乃ち今村彌次兵衛と、同じ咸鏡道熊川の生れにて、嬰といへる女あり、戦役の折我軍に捕へられて唐津に渡来した。或は歸陣の際松浦鎮信に從ひ來りしての説あるも確でない。而して彼が二十七八才の一婦人の身として、何故に捕はれしか、そこに推測すべき問題が生じて來る。
 當時彼の容姿が、若し端麗なりしすれば、我将士が長期の陣営に其憂鬱を散せんため、或は宿營に侍らせしにはあらざるか、それは敢て一軍の將にてはあらざる可きも、必ずしも臆測とのみ断すべきでない。而して平和克復でなく、戦争停止中の日本を指して、單身渡來せし丈にても、尋常一様の者にあらざりして見ねばならぬ。

別説の女
 然るに又別説に依れば、彼の名の嬰といへる字は、元来醜女の意義にて、其容貌に對する綽名なりにありて、前説とは正に反對である。そして彼は元釜山の神官の女に生れ、朝鮮役前既に唐津に渡来して、椎の峯の陶家中里茂兵衛に嫁せしも、夫死去せしを以て、十才なる一子茂右工門を連れ、元和八年年(1622年)鬼子嶽崩れの陶工を使りて、此地長葉山に來った、時に年五十六才と稱せらる。

高麗媼
 嬰女性豪健にして頗る陶技に熟し、一子茂右工門並びに多くの工人を督勵して、此地陶業の基礎を築きし主腦者であつた。寛永六年(1629年)一種の灰色焼を創製し、同十一年更に研究して、朱泥の逸品を製するに至った。彼老いて益々壯んに、又良く子弟を教養した。衆皆彼を呼ぶに高麗媼と稱したのである。

彼杵地名の神話
 抑三河内山の所在地たる彼杵の莊は、往古藤津の莊の地であつた。そのころ此處の虚空にあたり、怪しき物出現せしより、縣主は畏れかしこみて神樂を奏しけるに、天津空よ一個の杵忽然と降り來つた。其後僧行基彼の杵を以て彌陀の尊藏を作りて安置せしより、藤津の莊を割いで此處に彼杵の荘を分置し、彌陀の四十八願に因みて、彼杵四十八ヶ村を定め、其村々より四十八本の柱を寄進して伽藍を建立し、大安全寺大阿彌陀堂と稱するに至りし云々と、神話めき空事の傳説がある。


【現代語訳】[Modern Japanese translation]

おさい塔の由来。元亀三年(1572年)正月二十日、有馬五郎は唐船城で有馬將監と内通し、兵五千で飯盛城を奇襲する計画を立てた。しかし実行前に、同城の山本右京は臨月の妻おさいと、五歳の長子勝之助を連れ、十二月二十九日の深夜に降りしきる雪の中を密かに西の嶽の間道を越えた。途中、おさいは難産で倒れるなどの困難を経たが、右京が城主に計画を通報したため、飯盛方は平戸の援兵と共に先手を打って出撃し、相踏原(現在の一の坂辺から三本木付近)で有馬勢に遭遇して大勝し、有馬五郎は高來へ逃れ帰った。

松浦父子龍造寺に降る。これ以後、松浦隆信は南進を図ったが、目前には佐嘉の龍造寺隆信という強敵が勢力を広げていた。天正二年(1574年)、龍造寺隆信は鍋島信生(直茂)を主将として平戸攻略に進軍。松浦隆信は到底対抗できぬと悟り、長子鎮信と協議して道中で龍造寺氏に降った。

鎮信の朝鮮役従軍。鎮信は後に豊臣氏に属し、文禄元年四月十二日(1593年)兵三千を率いて平戸を出帆し、名護屋浦に集合したのち二十八日に釜山へ上陸した。以後は小西行長の先鋒として各地を転戦したが、同二年正月七日の平壌で敗れ、相神浦の松浦定(家の嗣子で実は鎮信の末弟)ら多くが戦死した。

当初の割当は三千人だったが、道中の戦死・病死で補充が重なり、帰陣までの総出陣者は実に七千二百人に達した。うち討死・負傷は一千二百人と記され、他藩も同様で、いかに苦戦であったかがうかがえる。

巨關・頓六らの渡来。慶長三年十二月(1598年)、鎮信の帰陣に伴って朝鮮人が渡来し、平戸に上陸した者は百二十五人といわれる。戦役中に来た者も含まれるらしいが詳らかではない。西洋文化の受入で先鞭をつけた平戸藩は、朝鮮の陶業も領内に根づかせようとしたのであろう。ただし、この中で陶工と呼べる者は十人ほどに過ぎなかったという。

中野の御用窯。この時、朝鮮人は平戸城下(今の高麗町)に区画して住まわせ、陶技の心得ある巨闘や頓六らを召して城内で試作させ、さらにそこから十三里離れた中野村上椿坂(紙漉とも)に御用窯を開き、高麗風の刷毛目や粉吹手を製作した。とりわけ腕が立ったのは巨闘で、咸鏡道熊川の出身、当時四十三歳。のちに平戸藩籍に入り今村彌次兵衛と改名した。

彌次兵衛は「どろけ釉」という中野焼の一種を創出し、胎土は主に朝鮮から取り寄せた。当地は良土に乏しく、その後もしばしば輸入に頼らざるを得なかったため、良土の探索は長年の悲願であった。なお、ここ皿屋窯の磁器は後年に開窯され、原料は当然ながら天草石である。

蘭船と三浦按針。慶長十四年五月三十日(1609年)、阿蘭陀船ローデ・レーウ・メット・パイレン號とフリフーン號の二艘が平戸に入港。ウヰリヤム・アダムス(三浦按針)の斡旋で家康から通商免許を受け、八月二十二日には領主鎮信の承諾も得て平戸商館の建設が決まった。藩老佐川主馬助信利も大いに尽力した。

巨關の陶土探見。十四年後の元和八年(1622年)、藩主隆信(久信の子、鎮信の孫)の内命により、今村彌次兵衛は陶土探索のため領内を踏査した。一千三之亟と家来久兵衛を伴い出発し、探索の末、早岐の権常寺、日宇の東の浦、折尾瀬の三河内免にある吉の元や相木場で陶土を発見し、吉の元に住んで試験焼成を行ったという。

納屋谷と稗田。廣田の納屋の谷で彌次兵衛父子が試焼したという説もあるが、ここの上窯・下窯はおそらく後年のもの。また早岐駅前の山手・稗田で、蛇の目積の磁器皿・茶碗・煎茶碗などを作ったのは三之亟の創始とも伝わるが詳しくは分からない。

三河内山。平戸の陶業は南へ進み、折尾瀬方面に展開した。折尾瀬製陶の起源は明らかでないが、文禄三年(1595年)波多氏没落の際、鬼子嶽崩れの陶工が三河内の長葉山(旧名鳴早山または早山)に来て開窯したと伝えられる。ここから出た発掘品に均窯風の海鼠釉があり、鬼子嶽古窯の残欠を思わせる。

長葉山の古窯品。ほかに天目釉・黒天目釉の茶碗で、緑地に白釉を塗ったもの、小高台の無釉の鶯茶釉の小皿などがある。後代の製品には砧青磁や各種の染付磁器のほか、吳洲山水絵の氷裂の三寸五分茶碗、型打模様の重箱などが出土している。

中里嬰女。巨關=今村彌次兵衛と同じく咸鏡道熊川の生まれで、嬰という女がいた。戦役の折に我軍に捕らえられて唐津へ渡来したとも、帰陣の際に松浦鎮信に従って来たとも言われるが確証はない。二十代後半の女性がなぜ捕えられたのかは推測の余地がある。当時、もし容姿端麗であれば、長い陣営生活の慰めとして宿営に侍らせたのではないかという説もあり、必ずしも荒唐無稽とは言い切れない。いずれにせよ和平回復ではなく戦争停止中の日本へ単身で渡来した点からしても、尋常一様の人物ではなかった。

別説の女。別の説では、「嬰」という字は本来「醜女」の意で、容貌に対する渾名だという。彼女は元釜山の神官の娘で、朝鮮役以前に既に唐津へ渡来して椎の峯の陶家・中里茂兵衛に嫁いだが、夫の死後、十歳の一子・茂右工門を連れ、元和八年(1622年)に鬼子嶽崩れの陶工を率いて長葉山に来た。時に五十六歳と伝える。

高麗媼。嬰女は精力的で陶技に熟達し、子の茂右工門と多くの工人を督励して当地の陶業の基礎を築いた中心人物であった。寛永六年(1629年)に灰色焼を創製し、同十一年には研究を進めて朱泥の逸品を作った。老いてますます盛んで、弟子の養成にも長け、人々は彼女を「高麗媼」と呼んだ。

彼杵地名の神話。三河内山の所在する彼杵の荘は、古くは藤津の荘の地であった。ある時、この地の虚空に怪異が現れ、県主が恐れかしこみ神楽を奏すると、天津空より杵が忽然と降った。のちに僧・行基がその杵で阿弥陀像を作って安置し、藤津の荘を分けてここに彼杵の荘を置き、阿弥陀の四十八願にならい四十八村を定め、各村から四十八本の柱を寄進して伽藍を建て、「大安全寺大阿弥陀堂」と称した、という神話的伝承がある。


【英語訳】[English translation]

Origin of the Osai Tower. On January 20, Genki 3 (1572), Arima 五郎, stationed at 唐船城, secretly colluded with the retainer Arima 將監 to plan a surprise attack on 飯盛城 with 5,000 troops. Before the plan was carried out, Yamamoto 右京 at the same castle took his wife Osai, who was at full term, and their five-year-old son 勝之助, and in the heavy snow of the late night of December 29 slipped over the bypath of 西の嶽. Osai collapsed in difficult childbirth along the way, but 右京 reported the scheme to the castle lord. The 飯盛 force, together with reinforcements from 平戸, marched out first, met Arima’s army at 相踏原 (from today’s 一の坂 area to 三本木), routed it, and 五郎 fled back to 高來.

Matsura father and son submit to Ryūzōji. After this, Matsura 隆信 sought to expand southward, yet the powerful foe Ryūzōji 隆信 of 佐嘉 spread his wings before them. In Tenshō 2 (1574), Ryūzōji 隆信 advanced to subdue 平戸 with Nabeshima 信生 (直茂) as commander. Realizing resistance was impossible, Matsura 隆信 consulted his eldest son 鎮信 and surrendered to the Ryūzōji on the road.

Shigenobu’s service in the Korean campaigns. Later belonging to the Toyotomi, 鎮信 sailed from 平戸 on April 12 of Bunroku 1 (1593) with 3,000 men, assembled at 名護屋浦, and landed at 釜山 on the 28th. Joining 小西行長’s vanguard, he fought across Korea, but on January 7 of the following year they were defeated at 平壌; many fell, including 松浦 定 of 相神浦 (the family heir and in fact 鎮信’s youngest brother).

The original quota was 3,000, but with deaths in battle and from illness and continual replacements crossing over, the total who served by the time of return reached 7,200. Of these, 1,200 were recorded as killed or wounded, similar to other domains, attesting to the severity of the fighting.

Arrival of Gokan, Tonroku, and others. In Keichō 3, twelfth month (1598), when 鎮信 returned from the campaigns, some 125 Koreans are said to have landed at 平戸; they may include those who had come during the war. Having led in importing Western culture, the 平戸 domain also tried to foster Korean pottery within its lands. Only about ten among them were regarded as potters.

The official kiln at Nakano. The Koreans were settled in blocks in the castle town (today’s 高麗町). Those versed in pottery, such as 巨闘 and 頓六, were summoned to test-fire within the castle, and then an official kiln was opened at 上椿坂 in 中野村, thirteen ri away, producing Korean-style 刷毛目 and 粉吹手. The most skilled was 巨闘, born in 熊川, 咸鏡道, then forty-three; he later entered the Matsura register as 今村彌次兵衛.

Among 彌次兵衛’s creations was a Nakano-yaki type with “どろけ釉,” and the clay body was chiefly procured from 朝鮮. Because the area lacked good clay, imports continued thereafter; finding quality clay had long been a cherished aim. The porcelain of 皿屋窯 was opened later and, of course, used 天草石 as its raw material.

Dutch ships and Miura Anjin. On May 30, Keichō 14 (1609), the Dutch ships Rode Leeuw met Pijlen and Griffioen entered 平戸. Through the mediation of William Adams (三浦按針), a trade license from 家康 was obtained; on August 22, with lord 鎮信’s consent, construction of the 平戸 factory was approved. The elder 佐川主馬助信利 also rendered great service.

Gokan’s clay survey. Fourteen years later, in Genna 8 (1622), by private order of the lord 隆信 (son of 久信 and grandson of 鎮信), 今村彌次兵衛 surveyed the domain for clay. Departing with 一千三之亟 and the retainer 久兵衛, he eventually found clay at 権常寺 in 早岐, at 東の浦 in 日宇, and in 三河内免 at 折尾瀬—places such as 吉の元 and 相木場—settling at 吉の元 to conduct test firings.

Nayadani and Hieda. There is a view that 彌次兵衛 and his son test-fired at 廣田の納屋の谷, though the upper and lower kilns there seem to be later. It is also said—though unclear—that at 稗田 on the hillside before 早岐駅 they produced porcelain plates, bowls, and sencha bowls stacked with “蛇の目,” initiated by 三之亟.

Mikawachi-yama. The 平戸 ceramic industry advanced southward and unfolded toward 折尾瀬. Though the origin of 折尾瀬 ceramics is unclear, it is said that at the fall of 波多氏 in Bunroku 3 (1595), potters from the collapse at 鬼子嶽 came to 長葉山 (formerly 鳴早山 or 早山) in 三河内 and opened kilns. Among excavations are sea-cucumber glazes in the style of 均窯, reminiscent of the old kilns at 鬼子嶽.

Old wares of 長葉山. Other finds include tea bowls with 天目釉 and black 天目釉, pieces with green ground overcoated in white glaze, and small-rimmed plates in 鶯茶釉 with small high footrings left unglazed. Later products include 砧青磁 and various 染付 porcelain, as well as three-sun-five-bu bowls with crackle and 吳洲 landscape painting, and molded-patterned tiered boxes.

Nakasato Eijo (嬰女). A woman named 嬰, from 熊川 in 咸鏡道 like 巨關=今村彌次兵衛, was taken to 唐津—some say captured during the war, others that she came with 松浦鎮信 on his return; the truth is uncertain. Why a woman in her late twenties was seized raises questions. If she was notably beautiful, some suggest she was kept near the camp to ease long campaign gloom—not necessarily by a general—and this cannot be dismissed outright. In any case, to come alone to Japan during a mere suspension of hostilities shows she was no ordinary person.

Another account of the woman. A different tradition says the graph 嬰 originally meant an “ugly woman,” a nickname for her looks, the opposite of the prior view. She is said to have been the daughter of a 神官 in 釜山, to have come to 唐津 before the campaigns, and to have married the potter 中里茂兵衛 at 椎の峯. After his death, with her ten-year-old son 茂右工門, she led potters from 鬼子嶽 in Genna 8 (1622) to 長葉山, being fifty-six at the time.

The “Korean Matron.” 嬰女 was robust and skilled in pottery, directing 茂右工門 and many workers to lay the foundations of the local industry. In Kan’ei 6 (1629) she created a gray-fired ware, and by Kan’ei 11 produced fine 朱泥 pieces. She grew more vigorous with age and was an able teacher; people called her 高麗媼.

Myth of the place-name 彼杵. The estate of 彼杵, where 三河内山 lies, was formerly part of 藤津. When a strange thing appeared in the sky, the local lord performed kagura, whereupon a pestle descended from the heavens. Later the monk 行基 used it to carve an image of Amitābha and enshrine it. The estate of 藤津 was divided to set 彼杵 here; following Amitābha’s forty-eight vows, forty-eight villages were designated, each donating a pillar to build the temple complex, called 大安全寺大阿彌陀堂—a legend with a mythic air.


【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]

「おさい塔」の由来。元龟三年(1572)正月二十日,有馬五郎在唐船城与有馬將監内通,计划以五千兵力奇袭飯盛城。未及实施,同城的山本右京携临产之妻おさい与五岁的长子勝之助,于十二月二十九日深夜大雪中秘密翻越西の嶽小路。途中おさい因难产倒毙,右京仍将密谋告知城主。于是飯盛方面与平戸援军先发制人,在相踏原(今一の坂至三本木一带)遭遇有馬军并大破之,有馬五郎遁归高來。

松浦父子降于龍造寺。其后松浦隆信谋求南进,然佐嘉的龍造寺隆信势力已逼近。天正二年(1574),龍造寺隆信以鍋島信生(直茂)为主将进军平戸。松浦隆信自知难敌,与长子鎮信商议后,于途中归降龍造寺氏。

鎮信从军朝鲜之役。其后鎮信隶属豊臣氏,文禄元年四月十二日(1593)率三千兵自平戸出航,于名護屋浦集结,二十八日登陆釜山,加入小西行長的先锋军转战各地。翌年正月七日平壤败北,相神浦的松浦定(家嗣,实为鎮信之末弟)等多人战死。起初定额三千人,然战死病故频仍、补充不断,至归阵时总出阵者达七千二百人,其中战死负伤一千二百人。他藩亦然,可见苦战之烈。

巨關、頓六等渡来。慶長三年十二月(1598),随鎮信归阵而来之朝鲜人据称有一百二十五人。平戸藩既率先引进西洋文化,亦欲在领内扶植朝鲜陶业。然而其中能称“陶工”者仅十人左右。

中野御用窑。其时将朝鲜人划区安置于平户城下(今高麗町),召擅陶技者如巨闘、頓六等在城内试作,继而在距此十三里之中野村上椿坂(又称纸漉)设御用窑,制作高丽风之刷毛目、粉吹手。尤以巨闘最精,出身咸鏡道熊川,时年四十三,后入平户藩籍,改名今村彌次兵衛。彌次兵衛创出称为“どろけ釉”的中野烧一型,胎土多自朝鲜取来。此地乏良土,此后亦屡赖进口,故勘觅良土为积年所望。此处皿屋窑之瓷器为后期开窑,原料当然为天草石。

荷兰船与三浦按針。慶長十四年五月三十日(1609),荷兰船“Rode Leeuw met Pijlen”与“Griffioen”入港平户,经ウヰリヤム・アダムス(三浦按針)斡旋获家康通商许可,八月二十二日得领主鎮信同意,兴建平户商馆,藩老佐川主馬助信利亦大力襄助。

巨關探土。十四年后之元和八年(1622),奉藩主隆信(久信之子、鎮信之孙)内命,今村彌次兵衛踏查领内寻陶土,与一千三之亟、家来久兵衛同行,终在早岐之権常寺、日宇之東の浦、折尾瀬之三河内免(吉の元、相木場等)得土,居于吉の元而试烧。

納屋谷与稗田。传彌次兵衛父子曾于廣田“納屋の谷”试烧,然其上窑、下窑似属后世。又传早岐駅前山手之稗田所制“蛇の目積”瓷盘、茶碗与煎茶碗等为三之亟所创,未详。

三河内山。平户陶业南进,扩展至折尾瀬。其起源未明,相传文禄三年(1595)波多氏没落时,“鬼子嶽崩れ”之陶工来三河内长葉山(旧名鳴早山或早山)开窑。发掘品有均窑风海鼠釉,似与鬼子嶽古窑残迹相呼应。

长葉山古窑品。并见天目釉、黑天目釉茶碗,绿地覆以白釉者,及鶯茶釉小缘小皿(小高台无釉)。后代制品有砧青磁、诸种染付瓷器、绘吳洲山水之冰裂三寸五分茶碗、及模印纹样之重箱等。

中里嬰女。与巨關=今村彌次兵衛同为咸鏡道熊川出身,有名“嬰”的女子。或称战时为我军所获而至唐津,或称随松浦鎮信归阵而来,未可定。其二十余岁何以被擒,众说纷纭;若其容貌端丽,或曾侍于营以解久屯之郁闷,未必尽属臆测。且在非和平恢复、仅停战之际单身来日,亦非寻常之人。

别说之女。另说“嬰”本义为“丑女”,乃对貌之绰号,与前说相反。云其为釜山神官之女,朝鲜役前已来唐津,嫁椎の峯陶家中里茂兵衛;夫卒后携十岁子茂右工門,于元和八年(1622)率“鬼子嶽崩れ”陶工至长葉山,时年五十六。

高丽媼。嬰女性健而精陶技,督励茂右工門与众工,奠定当地陶业之基。寛永六年(1629)创灰色烧,同十一年更进而制朱泥佳品。年高益壮,善育后进,人称“高麗媼”。

彼杵地名神话。三河内山所在之彼杵之荘,古属藤津之荘。昔虚空现异,縣主惶恐奏神乐,天津空忽降一杵。后僧行基以此杵作阿弥陀像而安置,遂分藤津之荘于此置彼杵之荘,因阿弥陀四十八愿,定彼杵四十八村,各献一柱建伽蓝,号“大安全寺大阿弥陀堂”。此皆带神话色彩之传说。


【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditional from Japanese]

「おさい塔」的由來。元龜三年(1572)正月二十日,有馬五郎在唐船城與有馬將監內通,計畫以五千兵力奇襲飯盛城。未及施行,同城之山本右京攜臨產之妻おさい與五歲長子勝之助,於十二月二十九日深夜大雪中祕密翻越西の嶽小徑。途中おさい因難產倒斃,右京仍將密謀告知城主。遂飯盛方與平戶援軍先發制人,於相踏原(今一の坂至三本木一帶)遭遇有馬軍而大破之,有馬五郎遁歸高來。

松浦父子降於龍造寺。其後松浦隆信謀求南進,然佐嘉之龍造寺隆信勢力已迫近。天正二年(1574),龍造寺隆信以鍋島信生(直茂)為主將進軍平戶。松浦隆信自知難敵,與長子鎮信議,於途中歸降龍造寺氏。

鎮信從軍朝鮮之役。鎮信後隸屬豐臣氏,文祿元年四月十二日(1593)率三千兵自平戶出航,於名護屋浦集結,二十八日登陸釜山,入小西行長之前鋒軍轉戰。翌年正月七日平壤敗北,相神浦之松浦定(家嗣,實為鎮信末弟)等多戰死。初定額三千,然戰死病故頻仍、補充不斷,至歸陣時總出陣者達七千二百,其討死負傷一千二百。他藩亦然,足見苦戰之甚。

巨關、頓六等渡來。慶長三年十二月(1598),隨鎮信歸陣而至之朝鮮人稱有一百二十五。平戶藩既率先引進西洋文化,亦欲於領內扶植朝鮮陶業;惟其中可稱「陶工」者僅十人左右。

中野御用窯。時將朝鮮人分區安置於平戶城下(今高麗町),召通陶技者如巨闘、頓六等於城內試作,復於距此十三里之中野村上椿坂(又稱紙漉)設御用窯,製作高麗風刷毛目、粉吹手。尤以巨闘最精,咸鏡道熊川人,年四十三,後入平戶藩籍,改名今村彌次兵衛。彌次兵衛創「どろけ釉」之中野燒一型,胎土多自朝鮮取來。此地乏良土,後亦屢仰賴進口,故勘覓良土為積年宿望。此處皿屋窯之瓷器為後年開窯,原料自為天草石。

荷蘭船與三浦按針。慶長十四年五月三十日(1609),荷蘭船“Rode Leeuw met Pijlen”與“Griffioen”入港平戶,經ウヰリヤム・アダムス(三浦按針)斡旋得家康通商許可,八月二十二日獲領主鎮信同意,興建平戶商館,藩老佐川主馬助信利亦大力襄助。

巨關探土。十四年後元和八年(1622),奉藩主隆信(久信之子、鎮信之孫)內命,今村彌次兵衛踏査領內覓陶土,與一千三之亟、家來久兵衛同行,終於早岐之権常寺、日宇之東の浦、折尾瀬之三河內免(吉の元、相木場等)得土,居吉の元試燒。

納屋谷與稗田。傳彌次兵衛父子曾於廣田「納屋之谷」試燒,然其上窯、下窯似屬後世。又傳早岐駅前山手之稗田所製「蛇の目積」瓷盤、茶碗與煎茶碗等為三之亟所創,未詳。

三河內山。平戶陶業南進,展至折尾瀬。其起源未明,傳文祿三年(1595)波多氏沒落時,「鬼子嶽崩れ」之陶工至三河內長葉山(舊名鳴早山或早山)開窯。發掘品有均窯風海鼠釉,與鬼子嶽古窯殘缺相彷彿。

長葉山古窯品。並見天目釉、黑天目釉茶碗,綠地覆以白釉者,及鶯茶釉小緣小皿(小高臺無釉)。後代製品有砧青磁、諸種染付瓷器、繪吳洲山水之冰裂三寸五分茶碗、與模印紋樣之重箱等。

中里嬰女。與巨關=今村彌次兵衛同為咸鏡道熊川出身,有名「嬰」之女。或稱戰時為我軍所獲至唐津,或稱隨松浦鎮信歸陣而來,未可定。其二十餘歲何以被擒,眾說紛紜;若其容貌端麗,或曾侍於營以解久屯之鬱,未必全屬臆測。且於非和平恢復、僅停戰之際單身來日,亦非尋常之人。

別說之女。又說「嬰」本義為「醜女」,乃其貌之綽號,與前說相反。云其為釜山神官之女,朝鮮役前已至唐津,嫁椎の峯陶家中里茂兵衛;夫卒後攜十歲子茂右工門,於元和八年(1622)率「鬼子嶽崩れ」陶工至長葉山,時年五十六。

高麗媼。嬰女性健而精於陶技,督勵茂右工門與眾工,奠定當地陶業之基。寛永六年(1629)創灰色燒,同十一年更進而製朱泥逸品。老而彌壯,善育門徒,人稱「高麗媼」。

彼杵地名神話。三河內山所在之彼杵之莊,古屬藤津之莊。昔虛空現異,縣主畏敬奏神樂,天津空忽降一杵。後僧行基以其杵作阿彌陀像而安置,遂分藤津之莊於此置彼杵之莊,因阿彌陀四十八願,定彼杵四十八村,各獻一柱建伽藍,號「大安全寺大阿彌陀堂」,皆具神話色彩之傳說。


【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]

“おさい塔”的起源。元龟三年(1572)1月20日,有馬五郎驻唐船城,与有馬將監密谋,以五千兵奇袭飯盛城。计划未行之际,山本右京携临产之妻Osai与五岁子勝之助,于12月29日深夜大雪中从西の嶽小道潜行。Osai途中难产倒毙,右京仍向城主告变。飯盛军与平戸援军先出击,在相踏原(今一の坂至三本木)击溃有馬军,五郎遁归高來。

松浦父子降龙造寺。其后松浦隆信图南进,而佐嘉之龍造寺隆信势张。天正二年(1574)以鍋島信生(直茂)为主将进攻平户。松浦隆信知不可敌,与子鎮信议,于途中降于龍造寺氏。

鎮信参与朝鲜之役。归属豊臣氏后,文禄元年(1593)4月12日率三千人自平户出航,集于名護屋浦,28日登釜山,入小西行長先锋军。翌年1月7日于平壤败退,相神浦之松浦定(家嗣,实为鎮信末弟)等多阵亡。定额本三千,因伤亡补充反复,归阵时实际出兵达七千二百,阵亡负伤一千二百。他藩亦然,战甚苦。

巨關、頓六等来日。慶長三年(1598)十二月随鎮信归者,约一百二十五名朝鲜人登陆平户,其中能称陶工者仅十人左右。平户藩既先导西洋文化输入,亦试图在领内培植朝鲜陶业。

中野御用窑。朝鲜人被安置于城下(今高麗町),召擅陶技者巨闘、頓六等于城内试烧,继而于离城十三里之中野村上椿坂设御用窑,制高丽风刷毛目、粉吹手。巨闘技最精,咸鏡道熊川人,四十三岁,后入藩籍改名今村彌次兵衛。其创“どろけ釉”之中野烧型,胎土多自朝鲜采来。当地土质贫,长赖进口;寻优质土为夙愿。皿屋窑瓷器为后期开窑,原料为天草石。

荷兰船与三浦按針。慶長十四年(1609)5月30日,荷船Rode Leeuw met Pijlen与Griffioen入平户港,三浦按針斡旋得家康通商许可,8月22日获領主鎮信同意,建平户商馆,佐川主馬助信利亦助力。

巨關探土。十四年后元和八年(1622),奉隆信(久信之子、鎮信之孙)命,今村彌次兵衛与一千三之亟、久兵衛踏查领内,于早岐権常寺、日宇東の浦、折尾瀬三河内免(吉の元、相木場等)得陶土,居吉の元试烧。

納屋谷与稗田。传彌次兵衛父子曾于廣田“納屋の谷”试烧,彼处上下两窑似属后世。又称早岐駅前山手稗田所制“蛇の目”堆烧瓷盘、茶碗与煎茶碗为三之亟创始,未详。

三河内山。平户陶业南展至折尾瀬。其起源未详;传文禄三年(1595)波多氏没落时,“鬼子嶽崩れ”陶工至三河内長葉山(旧名鳴早山/早山)开窑。出土均窑风海鼠釉,似鬼子嶽古窑遗痕。

長葉山古窑品。尚有天目釉、黑天目釉茶碗,绿地覆白釉者,鶯茶釉小盘(小高台无釉)。后世制砧青磁、诸染付瓷,绘吳洲山水之三寸五分冰裂茶碗,及模印纹重箱等。

中里嬰女。与今村彌次兵衛同乡之嬰女,或云战时被擒来唐津,或随松浦鎮信归来,未定。其年仅二十余何以被擒,众说纷纭;若相貌出众,或曾侍营以解久屯之郁,未必尽虚。停战期间独自来日,亦见其非常。

异说。另称“嬰”本义“丑女”,为外号;其为釜山神官之女,役前已至唐津,嫁中里茂兵衛;夫亡后携十岁子茂右工門,元和八年(1622)率“鬼子嶽崩れ”陶工至長葉山,时五十六。

“高丽媼”。嬰女精壮善陶,督茂右工門与众工,奠定当地陶业。寛永六年(1629)创灰色烧,十一年制朱泥佳作。老而弥健,善育徒众,人称“高麗媼”。

彼杵地名神话。彼杵之荘昔属藤津。空现异象,縣主奏神乐,天降一杵;僧行基以之雕阿弥陀并安置,遂析藤津置彼杵,仿四十八愿定四十八村,各献一柱建寺,号“大安全寺大阿弥陀堂”。为具神话色彩之传承。


【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]

「おさい塔」起源。元龜三年(1572)1月20日,有馬五郎駐唐船城,與有馬將監密謀,以五千兵奇襲飯盛城。計畫未施,山本右京攜臨產妻Osai與五歲子勝之助,於12月29日夜雪中由西の嶽小路潛行。Osai途中難產殞命,右京仍告變於城主。飯盛軍與平戶援軍先出擊,於相踏原(今一の坂至三本木)擊潰有馬軍,五郎遁歸高來。

松浦父子降龍造寺。其後松浦隆信圖南進,佐嘉之龍造寺隆信勢張。天正二年(1574)以鍋島信生(直茂)為主將攻平戶。松浦隆信知不可敵,與子鎮信議,途中降於龍造寺氏。

鎮信參與朝鮮之役。隸豐臣氏後,文祿元年(1593)4月12日率三千自平戶發航,集名護屋浦,28日登釜山,入小西行長之前鋒。翌年1月7日平壤敗,相神浦之松浦定(家嗣,實為鎮信末弟)等殞。原額三千,因傷亡補充往復,歸陣時實出兵達七千二百,戰歿負傷一千二百。他藩類同,戰況慘烈。

巨關、頓六等來日。慶長三年(1598)十二月隨鎮信歸者,約一百二十五名朝鮮人登陸平戶,其中稱陶工者僅十餘。平戶藩既引西洋文化為先,亦試於領內植入朝鮮陶業。

中野御用窯。朝鮮人安置城下(今高麗町),召通陶技者巨闘、頓六等於城內試燒,繼於距城十三里之中野村上椿坂設御用窯,製高麗風刷毛目、粉吹手。巨闘技最精,咸鏡道熊川人,年四十三,入藩籍改名今村彌次兵衛。其創「どろけ釉」之中野燒式樣,胎土多自朝鮮取。地乏良土,久賴輸入;覓良土為宿願。皿屋窯瓷器為後年開窯,以天草石為料。

荷蘭船與三浦按針。慶長十四年(1609)5月30日,荷船Rode Leeuw met Pijlen與Griffioen入平戶港,三浦按針斡旋得家康通商許,8月22日獲領主鎮信同意,建平戶商館,佐川主馬助信利亦盡力。

巨關探土。十四年後元和八年(1622),奉隆信(久信之子、鎮信之孫)密命,今村彌次兵衛與一千三之亟、久兵衛勘尋,於早岐権常寺、日宇東の浦、折尾瀬三河內免(吉の元、相木場等)得陶土,居吉の元試燒。

納屋谷與稗田。傳彌次兵衛父子嘗於廣田「納屋之谷」試燒,彼處上下窯疑屬後世。又傳早岐駅前山手稗田所作「蛇の目」堆燒瓷盤、茶碗與煎茶碗為三之亟所創,未詳。

三河內山。平戶陶業南展至折尾瀬。其起源未明;傳文祿三年(1595)波多氏沒落時,「鬼子嶽崩れ」陶工至三河內長葉山(舊名鳴早山/早山)開窯。出土均窯風海鼠釉,類鬼子嶽古窯遺痕。

長葉山古窯品。並見天目釉、黑天目釉茶碗,綠地覆白釉者,鶯茶釉小盤(小高台無釉)。後世製砧青磁、諸染付瓷,繪吳洲山水之三寸五分冰裂茶碗,及模印紋重箱等。

中里嬰女。與今村彌次兵衛同鄉之嬰女,或云戰時被擒來唐津,或隨松浦鎮信歸來,未定。其二十餘歲何以被擒,眾說紛紜;若貌美,或曾侍營解久屯之鬱,未必盡妄。停戰中獨自來日,亦見非常。

別說。又稱「嬰」本義「醜女」,為外號;其為釜山神官之女,役前至唐津,嫁中里茂兵衛;夫卒後攜十歲子茂右工門,元和八年(1622)率「鬼子嶽崩れ」陶工至長葉山,時五十六。

「高麗媼」。嬰女精壯善陶,督茂右工門與眾工,奠定陶業。寛永六年(1629)創灰色燒,十一年製朱泥佳品。老而彌健,善育徒眾,人稱「高麗媼」。

彼杵地名神話。彼杵之莊昔屬藤津。空現異象,縣主奏神樂,天降一杵;僧行基以之雕阿彌陀而安置,析藤津置彼杵,依四十八願定四十八村,各獻一柱建伽藍,號「大安全寺大阿彌陀堂」,具神話色彩之傳承。