諸種の禁令~天草石の使用發見

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【原文】[Original text]

諸種の禁令
 寛永十五年(1638年)五月二日幕府は令を下し、以後各藩にては商船とても五百石以上の巨船を造ることを禁じ、(嘉永六年九月十五日解禁さる)(1855年)同時に我邦人の外国への渡航、及び切支丹を厳禁した。寛永十六年(1639年)六月更に平戸、長崎に残留する外人血統の男女をジャガタラ(瓜哇、バタビヤ等にて其後此徒より情緒纏綿たる交通ありしものをジャガタラ 文といふ)に追放した。斯くて支那人と蘭人との外全く貿易することを止め、寛永十六年(1639年)七月五日には南蠻船の渡來を厳禁したのである。

十七ヶ國の使節を斬る
 然るに寛永十七年(1640年)、一旦馮港に退去を命ぜられし葡萄牙を始め十七ヶ國の使節一行は、貿易恢復の爲め禁を犯して長崎に來りし者七十四人なりしが、此中醫者、船子共十三人を赦し、あと六十一人悉く斬首されしは、寛永十七年(1640年)六月十六日であつた。而して獨り蘭人のみ依然貿易を許されしは、有名なる平戸商館長 フランソア・カロン(商務総監となる)が、幕府に對する巧妙なる運動にてヾあつた。

平戸貿易を廢す
 寛永十七年(1640年)の十一月八日大目附井上筑後守正重は、多數の従者を倶なひて平戸に来り崎方なる和蘭商舘の解き壊はしを厳命し、同十八年四月には平戸貿易を廢して之を長崎に移轉せしめ、蘭人の居留地を出島に限らしめたのである。
當時の長崎奉行は柘植平右工門正時であつた。

阿蘭陀屋敷
 之より南蛮屋敷を改めて、阿蘭陀屋敷といふに至り、爾來安政五年(1859年)の通商條約成立まで二百五十餘年間、此長崎出島が、我邦に於ける泰西文物の本源地あつた。斯くの如く外國の文化輸入地なりし平戸を廃して長崎に移し、之を慕府の直轄とせしは、外教取締の外、一面には平戸藩の文化輸入が、延いて該藩兵備の強力に至るを恐れたものであらう。

平戸の寂寥
 嘗て天文十七年(1546年)十六代隆信の英断にて、我邦唯一の互市場となり、慶長十四年(1603年)開港以来、彌々異國の珍貨奇陶を輸入して、外人の商舘軒を並べ、天下の豪商は蝟集し來り、國產三河内焼の貿易と共に、さしも繁榮を極めし平戸は俄に寂寥のと化し終った。當時の平戶士民は勿論藩主の落膽察するに餘りある。
 之より平戸藩主は、専ら三河内の藩窯を奬勵して、此憂情を慰むる外なかつた。寛永十八年(1641年)藩主壹岐守信は、三河内に来りて大いに斯業の進捗を計り、三之亟に皿山棟梁兼代官を命じ、更に相木場一面の地を悉く知行せしむるに至ったのである。

彌次兵衛と黒髪山
 之より先さ寛永九年(1632年)今村彌次兵衛は、杵島の霊山黒髪山上の、大智院主尊覺法印に歸依し、七十七才の時吉の元より来りて此に隠棲し、山下なる筒江に陶土を発見して、製作を試みる傍ら孫の彌次兵衛を七才の折より此大智院に於いて養育せしが、寛永二十年(1643年)八十八才に卒去して彌次兵衛は三河内なる父三之亟の許へ帰ること成った。之が後の如猿である。

平戸の三皿山
 寛永二十年(1643年)藩は三河内の外、木原の陶山と江永の陶山へ皿山役所の出張所を設け木原には小山田佐平、江永には某辰次郎を共擔當者たらしめしが、三河内山役所より總管し、之を平戸の三皿山した。蓋し當時白磁を焼きしは三河内のみにて、他の二山は従来の黒手物であつた。而して慶安三年(1650年)には、平戸島中野にある窯の大部分を、三河内へ移博せしめたのである。
 三之の子彌次兵衛正名は、父祖に勝る名陶家であり、藩主も大いに囑望した。萬治元年(1658年)彼は、丸山の東南凡五丁を隔てし潜石の地に別宅を建て陶法の研究に努力したのである。

幕府へ平戸焼を進献す
 寛文二年(1662年)には、幕府へ進献の器を製するに至りしより、三河内焼の名弘く識らるゝに及び、各藩よりの注文に増加し、此地の製陶頗る盛況を呈せしといはれてゐる。
 寛文四年(1664年)藩主信は、彌次兵衛の功を賞し、御馬廻格として百石を給し、なほ梶の葉紋附(藩主の定紋)麻上下一着、時服一重及び狩野法印常信山水畫一幅、外に繪手本各種を興へたのである。
そして中里嬰女を召したるも、彼老齢(此時九十八才)の故を以て辞退せしが、其子孫代々黒物を以て藩用たるべく命ぜられたのである。

三河内御細工諸新築
 寛文八年(1668年)藩は、更に三河内にて四反歩の地を選み、新たに藩の御細工所及御代官役所、御番宅等五棟を新築して、陶業一切のことを管理せしめ、斯くて正名が 棟梁の下に、二十餘人の選抜工人を召して、各二人扶持の外に出勤扶持を給せられた。そして御番宅には、槍一筋、鐵砲二挺、袖搦二丁、鳶口二丁を備へ付け、仲田傳兵衛其の番役たりしが、次に金氏太右工門が命ぜられたのである。

高麗媼卒す
 寛文十二年(1672年)高麗媼中里嬰女は、百六才の高齢を以て卒去した。今三河内全山を俯瞰する天神社の丘阜に於て、高さ五尺、巾三尺程の石碑を建立し、釜山神社さして祀られてある。中里家の略系左の如くである。

三河内の中里略系
中里娶女 椎の峰中里茂兵衛ノ妻
茂右工門 二代
茂右工門 三代
千右工門 中里分家
藤七兵衛 横石氏 木原ニ住ス
五兵衛 里見氏
甚右工門 古川氏
茂右工門 四代
茂右工門 五代
茂右エ門 六代
藤五郎 七代
藤七郎 八代
繁太郎 九代
徳壽 十代

三之亟卒去す
 元祿九年七月九日(1696年)今村三之亟正一六十七才を以て卒去した。豫て出藍の評ある、三代彌次兵衛正名(後正景と改む)は彌々研鑽に努め、藩主信又其向上を獎勵すると共に、これは山鹿素行(甚五右エ門高祜、始義以又高興、字は子敬、貞享二年(1685年)九月廿六日卒す六十四才、正四位)に師事して只管藩學を盛んにし、治績大いに繋がるに至った。 (素行の男藤助高基、素行の舍弟馬義信共に平戸藩に仕官す)

如猿の號を授かる
 元祿十二年(1699年)藩主信は、その謹製せるところの三河内焼を禁裡に奉献し、之よ御用命を拝するに至った。同十五年正名或時藩主に調するや、信は彼に如猿の號を授けたのである。蓋し正名の容貌が、甚だ猿に彷彿たりしによれりといはれてゐる。

天草石の使用發見
 正徳二年(1712年)木原山の擔當者横石藤七兵衛(中里茂右工門の三男)は、肥後國天草島の下津深江より、早岐の問屋へ砥石として送荷しつゝある石を購ひ、甞て陶器の化粧料に使用し居りしが、或時磁器の原料として試みしに、無双の良石なることを発見した。
之より有田を除く肥前の各山をはじめ、全国的に磁器の主料として該石を使用するに至りしものにて、これ實に有田泉山の磁石を發見せしより百〇七年後のことであつた。


【現代語訳】[Modern Japanese translation]

諸種の禁令。寛永十五年(1638年)五月二日、幕府は以後各藩で商船といえども五百石以上の大型船を造ることを禁じた(嘉永六年九月十五日〔1855年〕に解禁)。同時に、日本人の海外渡航と切支丹を厳しく禁圧した。寛永十六年(1639年)六月には、平戸・長崎に残っていた外国人の血筋の男女をジャガタラ(瓜哇・バタビヤ、のちに彼らの往復書簡を「ジャガタラ文」と呼ぶ)へ追放。以後は支那人と蘭人以外との貿易を一切やめ、同年七月五日には南蠻船の来航を厳禁した。

十七ヶ国の使節を処刑。寛永十七年(1640年)、かつて馮港に退去を命じられた葡萄牙をはじめ、十七ヶ国の使節団が禁を破って長崎へ来航。七十四人のうち医師・水夫ら十三人を赦し、残る六十一人は六月十六日に斬首となった。なお蘭人のみは引き続き貿易を許され、これは平戸商館長フランソア・カロン(のち商務総監)の巧みな工作によるものとされた。

平戸貿易の廃止。寛永十七年(1640年)十一月八日、大目付・井上筑後守正重が多数の供を率いて平戸に入り、崎方の和蘭商館の解体を厳命。翌寛永十八年四月には平戸貿易を廃し、長崎へ移転させ、蘭人の居留地を出島に限定した。当時の長崎奉行は柘植平右工門正時であった。

阿蘭陀屋敷。以後、南蛮屋敷は阿蘭陀屋敷と改称され、安政五年(1859年)の通商条約成立まで約二百五十年にわたり、長崎出島が日本における西洋文物の拠点となった。外国文化の受け入れ地を平戸から長崎へ移し、幕府直轄としたのは、外教取締のためであると同時に、平戸藩の文化導入がやがて兵備強化につながることを警戒したためでもあろう。

平戸の寂寥。天文十七年(1546年)十六代隆信の英断で国内唯一の互市場となり、慶長十四年(1603年)の開港以来、異国の珍品や陶器が集まり、商館が並び、全国の豪商が群集して繁栄を極めた平戸は、突然の衰退を迎えた。士民はもちろん、藩主の落胆も大きかった。以後、藩主は三河内の藩窯を奨励して憂いを慰めた。寛永十八年(1641年)、藩主壹岐守信は三河内を視察して振興を図り、三之亟を皿山棟梁兼代官に任じ、相木場一帯を知行として与えた。

彌次兵衛と黒髪山。先立つ寛永九年(1632年)、今村彌次兵衛は杵島の霊峰・黒髪山の大智院主尊覺法印に帰依し、七十七歳で吉の元から移って隠棲。山下の筒江で陶土を見つけて試作する一方、孫の彌次兵衛を七歳から大智院で育てた。寛永二十年(1643年)、彌次兵衛(祖父)は八十八歳で没し、孫の彌次兵衛は三河内の父・三之亟のもとへ戻った。これが後の如猿である。

平戸の三皿山。寛永二十年(1643年)、藩は三河内に加え、木原・江永の陶山に皿山役所の出張所を設置。木原は小山田佐平、江永は辰次郎を担当とし、三河内山役所が総管して「平戸の三皿山」とした。当時、白磁を焼いたのは三河内のみで、他の二山は従来の黒手物。慶安三年(1650年)には平戸島・中野の窯の多くを三河内へ移した。三之の子・彌次兵衛正名は名工として藩主の期待が厚く、萬治元年(1658年)には潜石の地に別宅を建て、陶法研究に努めた。

幕府への平戸焼進献。寛文二年(1662年)、幕府進献の器を製作し、三河内焼の名が広く知られると、各藩からの注文が増え、当地の製陶は大いに盛んになった。寛文四年(1664年)、藩主信は功績を賞し、御馬廻格として百石を与え、梶の葉紋付の麻上下、時服一重、狩野法印常信の山水画一幅、さらに絵手本各種を下賜。中里嬰女も召されたが、九十八歳の高齢を理由に辞退し、子孫が代々黒物を藩用とするよう命じられた。

三河内御細工の新築。寛文八年(1668年)、藩は三河内の四反歩を選び、御細工所・御代官役所・御番宅など五棟を新築して陶業を統括。正名を棟梁として二十余名の選抜工人を召し、各二人扶持と出勤扶持を与えた。御番宅には槍一筋・鉄砲二挺・袖搦二丁・鳶口二丁を備え、仲田傳兵衛が番役、次いで金氏太右工門が任じられた。

高麗媼の死。寛文十二年(1672年)、高麗媼・中里嬰女は百六歳で没。三河内を見渡す天神社の丘に高さ五尺・幅三尺ほどの碑を建て、釜山神社として祀られている。中里家の略系は次のとおり。

三河内の中里略系:
中里娶女(椎の峰中里茂兵衛の妻)/茂右工門(二代)/茂右工門(三代)/千右工門(中里分家)/藤七兵衛(横石氏・木原住)/五兵衛(里見氏)/甚右工門(古川氏)/茂右工門(四代)/茂右工門(五代)/茂右エ門(六代)/藤五郎(七代)/藤七郎(八代)/繁太郎(九代)/徳壽(十代)

三之亟の逝去。元禄九年七月九日(1696年)、今村三之亟正一は六十七歳で没。出藍の誉れ高い三代・彌次兵衛正名(のち正景)は一層研鑽し、藩主信もその向上を奨励。正名は山鹿素行に師事して藩学を盛んにし、政治の成果にもつながった(素行の男・藤助高基、弟・馬義信も平戸藩に仕官)。

如猿の号。元禄十二年(1699年)、藩主信は三河内焼を禁裡に奉献し、御用を拝命。同十五年、正名が伺候した折、信は彼に「如猿」の号を与えた。正名の風貌が猿を思わせたためと伝わる。

天草石の発見と使用。正徳二年(1712年)、木原山担当の横石藤七兵衛(中里茂右工門三男)は、肥後国天草島・下津深江から早岐の問屋へ砥石として送られていた石を買い、かつては化粧掛けに用いていたが、ある時磁器原料として試すと無双の良石であることを見いだした。これ以後、有田を除く肥前各山をはじめ全国で磁器の主原料として用いられるようになり、有田泉山の磁石発見から実に百七年後の出来事であった。


【英語訳】[English translation]

Various prohibitions. On May 2, Kan’ei 15 (1638), the shogunate forbade all domains to build large merchant ships of over 500 koku (the ban was lifted on Kaei 6, 9/15 [1855]). At the same time, overseas travel by Japanese and Christianity were strictly prohibited. In June of Kan’ei 16 (1639), men and women of foreign descent remaining in Hirado and Nagasaki were expelled to ジャガタラ (Java/Batavia; their later sentimental correspondence is known as ジャガタラ文). Trade was henceforth limited to 支那人 and 蘭人, and on July 5 that year all 南蠻 ships were banned from coming.

Beheading the envoys of seventeen countries. In Kan’ei 17 (1640), seventy-four envoys from seventeen countries, including 葡萄牙, defied the ban and came to 長崎 seeking to restore trade. Thirteen—doctors and sailors—were pardoned; the remaining sixty-one were executed by beheading on June 16, 1640. Only the 蘭人 retained trading rights, owing to the adroit lobbying of 平戸商館長 フランソア・カロン (later 商務総監).

Abolition of Hirado trade. On November 8, 1640, 大目付 井上筑後守正重 arrived in 平戸 and ordered the demolition of the 蘭商館 at 崎方. In April of Kan’ei 18, Hirado trade was abolished and moved to 長崎, confining the Dutch residence to 出島. The 長崎奉行 then was 柘植平右工門正時.

阿蘭陀屋敷. From then the 南蛮屋敷 was renamed 阿蘭陀屋敷, and for over 250 years until the 1859 treaties (安政五年), 長崎出島 served as Japan’s source of Western culture. Moving the gateway from 平戸 to 長崎 and placing it under direct 幕府 control not only tightened control over foreign religions but also checked 平戸藩 from importing culture that might strengthen its military.

Hirado’s desolation. Once—by the boldness of 隆信 in 天文十七 (1546)—Japan’s only free market, and after 開港 in 慶長十四 (1603) a bustling port lined with foreign factories, rare goods, and 三河内焼 traded by great merchants, 平戸 suddenly declined. The disappointment of its people and lord was immense. The lord thereafter promoted the domain kiln at 三河内. In Kan’ei 18 (1641) 壹岐守信 visited, advanced the industry, appointed 三之亟 as 皿山棟梁兼代官, and granted all of 相木場 as fief.

彌次兵衛 and 黒髪山. Earlier, in Kan’ei 9 (1632), 今村彌次兵衛 became a devotee of 大智院主尊覺法印 on 黒髪山, retired there at age 77 from 吉の元, found clay at 筒江, and began trials while raising his grandson 彌次兵衛 at 大智院. In Kan’ei 20 (1643) he died at 88, and the grandson returned to his father 三之亟 in 三河内—this was the later 如猿.

The three 皿山 of Hirado. In Kan’ei 20 (1643) the domain opened branch offices of the 皿山役所 at 木原 and 江永 in addition to 三河内, placing 小山田佐平 and 辰次郎 in charge, under the central 三河内山役所—collectively “Hirado’s three 皿山.” At that time only 三河内 fired white porcelain; the other two produced blackwares. In 慶安三 (1650) most kilns at 中野 on 平戸島 were moved to 三河内. 三之’s son 彌次兵衛正名 surpassed his forebears; in 萬治元 (1658) he built a villa at 潜石 to study techniques.

Offering Hirado ware to the shogunate. In 寛文二 (1662) vessels were made for shogunal presentation, spreading the fame of 三河内焼, bringing more orders from domains, and making the industry prosper. In 寛文四 (1664) the lord 信 rewarded 彌次兵衛 with 100 koku (御馬廻格), garments with the 梶の葉 crest, seasonal robes, a landscape by 狩野法印常信, and model books. 中里嬰女 was summoned but, at age 98, declined; her descendants were ordered to supply blackwares for domain use.

New works at 三河内. In 寛文八 (1668) the domain selected four tanbu at 三河内, building five facilities—御細工所, 御代官役所, 御番宅, etc.—to manage the craft. Under 正名 as 棟梁, over twenty selected artisans received rations (two persons’ stipend plus attendance). 御番宅 was armed with a spear, two guns, two 袖搦, and two 鳶口; 仲田傳兵衛 served as guard, followed by 金氏太右工門.

Death of the “Korean Matron.” In 寛文十二 (1672) 高麗媼 中里嬰女 died at 106. A stone stele (about 5 shaku high, 3 shaku wide) stands on the hill of 天神社 overlooking 三河内, enshrined as 釜山神社. A brief 中里 lineage follows.

中里 lineage in 三河内:
中里娶女 (wife of 中里茂兵衛 at 椎の峰) → 茂右工門 (2nd) → 茂右工門 (3rd) → 千右工門 (branch) → 藤七兵衛 (横石氏, 木原) → 五兵衛 (里見氏) → 甚右工門 (古川氏) → 茂右工門 (4th) → 茂右工門 (5th) → 茂右エ門 (6th) → 藤五郎 (7th) → 藤七郎 (8th) → 繁太郎 (9th) → 徳壽 (10th)

Death of 三之亟. On July 9, 元禄九 (1696), 今村三之亟正一 died at 67. The third-generation 彌次兵衛正名 (later 正景), already praised, strove further; the lord 信 encouraged him. Discipled to 山鹿素行, he energized domain learning and governance (素行’s son 藤助高基 and brother 馬義信 also served Hirado).

The title 如猿. In 元禄十二 (1699) the lord 信 offered 三河内焼 to 禁裡 and received imperial orders. In 元禄十五, when 正名 attended, 信 granted him the art-name 如猿—said to allude to his simian-like looks.

Discovery and use of 天草石. In 正徳二 (1712), 横石藤七兵衛 (third son of 中里茂右工門), in charge of 木原山, bought stones shipped as whetstones from 下津深江 on 天草島 to 早岐, long used as slip, and tried them as porcelain body: they proved unmatched. Thereafter, beginning with Hizen’s mountains other than 有田 and then nationwide, this stone became the principal porcelain material—107 years after the discovery of 有田泉山’s porcelain stone.


【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]

诸种禁令。寛永十五年(1638)5月2日,幕府下令,此后各藩即便是商船也不得建造五百石以上的大船(嘉永六年9月15日〔1855〕解禁)。同时严禁日本人出国与切支丹。寛永十六年(1639)6月,又将留在平户、长崎的外族血统男女流放至ジャガタラ(爪哇、巴达维亚,后其往还书信称“ジャガタラ文”)。此后除支那人与蘭人外一概停贸,并于同年7月5日严禁南蛮船来航。

斩杀十七国使节。寛永十七年(1640),含葡萄牙在内十七国使节为恢复贸易犯禁来长崎,74人中赦免医者与水手13人,余61人于6月16日尽皆斩首。唯蘭人仍许贸易,因平户商馆长フランソア・カロン的巧妙运作所致。

废止平户贸易。寛永十七年(1640)11月8日,大目付井上筑后守正重至平户,严命拆毁崎方和兰商馆。翌寛永十八年4月,废平户贸易移于长崎,并限蘭人居留于出岛。时任长崎奉行为柘植平右工门正时。

阿兰陀屋敷。自此南蛮屋敷改称阿兰陀屋敷,直至安政五年(1859)通商条约成立的二百五十余年间,长崎出岛成为我国西洋文物之源。迁门庭自平户至长崎并置于幕府直辖,既为取缔外教,亦为防平户藩因文化输入而强兵。

平户的寂寥。天文十七年(1546)隆信之断使其成国内唯一互市场,慶長十四年(1603)开港后益盛,然忽遭衰落。士民与藩主皆失望。于是专励三河内藩窑。寛永十八年(1641)壹岐守信来三河内,任三之亟为皿山棟梁兼代官,并赐相木场为知行。

彌次兵衛与黒髪山。寛永九年(1632)今村彌次兵衛归依黒髪山大智院主尊覺法印,七十七岁自吉之元隐居于此,筒江得陶土试作,并自七岁起在大智院抚养孙彌次兵衛。寛永二十年(1643)祖父卒,孙归三之亟处,即后之如猿。

平户“三皿山”。寛永二十年(1643)于三河内外,在木原、江永陶山设皿山役所出张所,统于三河内山役所,称“平户三皿山”。时唯三河内烧白磁,他二山仍黑手物。慶安三年(1650)又将平户岛中野诸窑多迁三河内。三之之子彌次兵衛正名为名工,萬治元年(1658)于潜石建别宅研艺。

进献平户烧。寛文二年(1662)制器进献幕府,三河内烧名声大振,诸藩订购倍增。寛文四年(1664)藩主信奖正名:御马廻格百石、梶叶纹麻上下、时服、狩野法印常信山水一幅及诸画本。召中里嬰女,因九十八高龄辞,命其子孙世供黑物。

新建御细工。寛文八年(1668)于三河内择四反步建御细工所、御代官役所、御番宅等五栋,总理陶务。以正名为棟梁,召二十余名工人给扶持。御番宅备槍一、铁炮二、袖搦二、鳶口二;仲田傳兵衛为番役,继以金氏太右工门。

高丽媼卒。寛文十二年(1672)中里嬰女以一百六岁卒。天神社丘立碑祀为釜山神社。中里家略系略如下。

今村三之亟卒。元禄九年(1696)7月9日今村三之亟正一以六十七卒。三代彌次兵衛正名(后正景)益自砥砺,受藩主信奖,师山鹿素行,振兴藩学,政绩相维(藤助高基、馬義信亦仕平户)。

授“如猿”号。元禄十二年(1699)藩主信奉献三河内烧于禁裡,蒙御用。同十五年赐正名号“如猿”,谓其貌近猿。

天草石之发现与使用。正德二年(1712)横石藤七兵卫(中里茂右工门三男)购自天草岛下津深江、作为砥石运至早岐之石,试作瓷料而绝佳。自此除有田外之肥前诸山乃至全国以此为主料,距有田泉山磁石之发现已一百零七年。


【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditionalfrom Japanese]

諸種禁令。寛永十五年(1638)5月2日,幕府下令,各藩不得建造五百石以上商船(嘉永六年9月15日〔1855〕解禁),並嚴禁日本人出國與切支丹。寛永十六年(1639)6月,又將留在平戶、長崎之外族血統男女流放至ジャガタラ(爪哇、巴達維亞,後稱“ジャガタラ文”)。其後除支那人與蘭人外悉停通商,並於同年7月5日嚴禁南蠻船來航。

斬十七國使節。寛永十七年(1640),含葡萄牙在內十七國使節犯禁至長崎,74人中赦醫者與水手13人,餘61人6月16日悉斬。唯蘭人仍得交易,蓋平戶商館長フランソア・カロン之運作也。

廢平戶貿易。寛永十七年(1640)11月8日,大目付井上筑後守正重至平戶,命拆崎方和蘭商館;翌寛永十八年4月,廢平戶貿易移長崎,限蘭人居於出島。時長崎奉行為柘植平右工門正時。

阿蘭陀屋敷。自此南蠻屋敷改稱阿蘭陀屋敷,至安政五年(1859)約二百五十年,長崎出島為我國西學門戶。轉自平戶至長崎並歸幕府直轄,既為取締外教,亦防平戶藩以文化輸入而強兵。

平戶之寂。天文十七(1546)隆信決斷為互市場,慶長十四(1603)開港後極盛,而後驟衰。士民與藩主皆失意。乃專勵三河內藩窯。寛永十八(1641)壹岐守信至三河內,任三之亟為皿山棟梁兼代官,賜相木場知行。

彌次兵衛與黑髮山。寛永九(1632)今村彌次兵衛歸依黑髮山大智院主尊覺法印,七十七歲自吉之元隱居,於筒江得陶土試作,並於大智院撫其孫彌次兵衛。寛永二十(1643)祖卒,孫歸三之亟,即後之如猿。

平戶三皿山。寛永二十(1643)於木原、江永設出張所,統於三河內山役所,稱“平戶三皿山”。時唯三河內燒白磁,他二山為黑手物。慶安三(1650)多自平戶島中野之窯遷至三河內。彌次兵衛正名名望隆,萬治元(1658)於潛石建別宅研藝。

進獻平戶燒。寛文二(1662)製器進獻幕府,名聲大振;寛文四(1664)藩主信賞百石與衣紋、狩野法印常信山水並諸繪本。召中里嬰女,年高(九十八)辭,命其裔世供黑物。

新築御細工。寛文八(1668)於三河內建五棟統理陶務,正名為棟梁,召二十餘工,給扶持。御番宅備槍、鐵砲、袖搦、鳶口;仲田傳兵衛任番,繼之金氏太右工門。

高麗媼卒。寛文十二(1672)中里嬰女以百六卒。天神社丘立碑祀為釜山神社。中里略系略載。

今村三之亟卒。元祿九(1696)7月9日以六十七卒。彌次兵衛正名(後正景)益自砥礪,師山鹿素行,振藩學,政績相連。

授“如猿”。元祿十二(1699)奉三河內燒於禁裡,蒙御用;十五年賜號“如猿”,云貌近猿。

天草石之發見與使用。正德二(1712)横石藤七兵衛試天草島下津深江所來砥石為瓷料而絕佳,自此除有田外肥前諸山暨全國以之為主料,較有田泉山磁石之發見晚一百零七年。


【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]

各类禁令。1638年5月2日,幕府禁止各藩建造超过500石的商船(1855年解禁),并严禁日本人出国与基督教。1639年6月,将留在平户、长崎的外籍血统者流放至ジャガタラ;贸易仅限支那人与蘭人,同年7月5日禁南蛮船来航。

斩杀十七国使节。1640年,为恢复贸易而至长崎的十七国使节共74人,赦免13人,其余61人于6月16日斩首。唯蘭人获准通商,因平户商馆长フランソア・カロン之运作。

废平户贸易。1640年11月8日井上筑后守正重命拆崎方蘭商馆;1641年将贸易移至长崎,限蘭人居于出岛;长崎奉行为柘植平右工门正时。

阿兰陀屋敷。南蛮屋敷改称阿兰陀屋敷,至1859年出岛为日本西学源头;此举亦为抑制平户藩军备强化。

平户的衰落。平户自1546年与1603年后繁盛,旋即凋敝。藩主转而振兴三河内窑,1641年任三之亟为皿山棟梁兼代官并赐相木场。

彌次兵衛与黒髪山。1632年今村彌次兵衛隐居黒髪山并得陶土,抚养孙彌次兵衛;1643年卒后,孙归三之亟,即如猿。

“三皿山”。1643年设木原、江永出张所,三河内总管;1650年迁中野诸窑至三河内;彌次兵衛正名1658年于潜石研艺。

进献。1662年制器进献幕府,名扬;1664年授百石与衣纹、画作,并命中里嬰女后裔供黑物。

新建设施。1668年于三河内建五栋总理陶务,召二十余匠并配武备与番役。

高丽媼卒。1672年中里嬰女百六卒,立碑于天神社丘。载略系。

今村三之亟卒。1696年卒;彌次兵衛正名(后正景)师山鹿素行,兴藩学。

授“如猿”。1699年奉三河内烧于禁裡,1702年受号“如猿”。

天草石。1712年横石藤七兵卫试天草石为瓷料极佳,后成全国主料,较有田泉山磁石晚107年。


【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]

各類禁令。1638年5月2日,幕府禁造五百石以上商船(1855年解禁),並禁日本人出國與基督教。1639年6月流放留於平戶、長崎之外籍血統者至ジャガタラ;同年7月5日僅許支那人、蘭人通商,禁南蠻船來。

斬十七國使節。1640年十七國使節至長崎求恢復通商,74人中赦13人,其餘61人6月16日斬首;唯蘭人得貿易,因平戶商館長フランソア・カロン之運作。

廢平戶貿易。1640年11月8日井上筑後守正重命毀崎方蘭商館;1641年移貿易於長崎,限蘭人居出島;長崎奉行柘植平右工門正時。

阿蘭陀屋敷。南蠻屋敷改為阿蘭陀屋敷,至1859年出島為西學之門;亦為抑制平戶藩軍備。

平戶之衰。平戶自1546、1603年後極盛而忽衰。藩主轉振三河內窯,1641年任三之亟為皿山棟梁兼代官,賜相木場。

彌次兵衛與黑髮山。1632年今村彌次兵衛隱於黑髮山得陶土,撫孫彌次兵衛;1643年卒,孫歸三之亟,即如猿。

「三皿山」。1643年設木原、江永出張所,由三河內總轄;1650年遷中野諸窯至三河內;彌次兵衛正名1658年於潛石研藝。

進獻。1662年進獻幕府,聲名大振;1664年賞百石與衣紋、畫幅,命中里嬰女之裔供黑物。

新建。1668年於三河內建五棟統理陶務,召二十餘匠並備武具與番役。

高麗媼卒。1672年中里嬰女百六卒,天神社丘立碑。載其略系。

今村三之亟卒。1696年卒;彌次兵衛正名(後正景)師山鹿素行而興藩學。

授「如猿」。1699年奉三河內燒於禁裡,後授號「如猿」。

天草石。1712年横石藤七兵衛試以天草石為瓷料極佳,後為全國主料,較有田泉山磁石晚107年。