平戸系 三河内窯

猫山~三河内焼に就て

【原文】猫山 東彼杵郡の日宇は、元松浦常の日宇出羽守勝の領地にて、後平戸松浦氏の支配地となり現在は佐世保市内に編入されてゐる。 此處の日宇驛より東方一里許り上手にて、二十戸程の農家疎らなる山間に、猫山焼の古窯趾がある。此地元藤原と稱せしなり...
平戸系 三河内窯

吉の元~小山田と横石

【原文】吉の元 吉の元の古窯品には、前記の如く飴釉薄青茶釉或は鶯茶釉等の小皿があり、又七八寸の大皿がある。何れも高臺無釉にて形頗る小さく、中に小皿の如きは、徑五分位のものさへある。又大皿の一ヶ所乃至二ヶ所が、割高臺に成つてゐるのは、底部への...
平戸系 三河内窯

陶磁器意匠傳習所~原明の窯の谷

【原文】陶磁器意匠傳習所 明治三十三年豊島政治は里見政七、中里利一、今村虎之助、中里巳午太等と計り、際費の補助を得て、陶磁器意匠傳習所を開設し、陶畫と製型の二實科を教科目とした。そし夏季休暇を利用して、東京より島田佳矣を、有田より徳見知敬を...
平戸系 三河内窯

池田安次郎~池田直之助

【原文】池田安次郎 豫て和蘭人向の珈琲器につき、研究しつゝある池田安郎は、天保八年(1838年)に至り純白なる地質にして、紙の如き薄手物を製作することに成功したのである。如猿を祀る 天保十三年(1843年)三月九日付を以て、藩主松浦煕は、左...
平戸系 三河内窯

瀬戸の陶家制度~甲子夜話の一節

【原文】瀬戸の陶家制度 是より先延實年間(1673-1681年)、尾張藩主徳川光友は、瀬戸焼の原料祖母の土を、藩の御用窯の外一切使用を禁じ、又陶家には一戸に陶鈞一挺の制限を命じたるを以て、戸主にあらざる其他の一家は、何れも鋤鍬を執って、百姓...
平戸系 三河内窯

松唐子繪~津金胤臣

【原文】松唐子繪 三河内藩窯の製品模様なる、松唐子繪については、當時他の民窯に於いて應用するこ禁せられ、専ら藩主の自用又は献納贈進の器に畫かれたものであつた。就中七人唐子繪を最上し、次が五人唐子繪、次に三人唐子繪と等別せしは、茶器などの應用...
平戸系 三河内窯

天草石の産地~今村略系

【原文】天草石の産地 天草磁石は、石英粗面岩の分解せしものに、此地下島の北西部なる高濱、小田床、下津深江、都呂々の四ヶ村に亘る海濱地域に多く産出し、其他東南部の諸處にも發見されゐるも、現在の採掘地は前記の四ヶ處である。元祿年高濱村なる上田家...
平戸系 三河内窯

諸種の禁令~天草石の使用發見

【原文】諸種の禁令 寛永十五年(1638年)五月二日幕府は令を下し、以後各藩にては商船とても五百石以上の巨船を造ることを禁じ、(嘉永六年九月十五日解禁さる)(1855年)同時に我邦人の外国への渡航、及び切支丹を厳禁した。寛永十六年(1639...
平戸系 三河内窯

折尾瀬と三河内~松平信綱来る

【原文】折尾瀬と三河内 三河内山は木原山、江永山と共に、東彼杵郡折尾瀬村の一村落である。而して折尾瀬の地は、往年彼杵の莊なる速來の一部であつた。當時の速來とは今の針尾、早岐、廣田、折尾瀬四ヶ村の總稱にて、此四ヶ村は其頃武雄の後藤貴明の領地な...
平戸系 三河内窯

おさい塔の由来~彼杵地名の神話

【原文】おさい塔の由来 元亀三年(1572年)正月二十日有馬五郎は、唐船城にありて、有馬の家老有馬將監と氣脈を通じ、兵五千を以て密に飯盛城を奇襲すべく計畫した。然るに其末た發せざるうちに、同城にありし山本右京は、臨月なる妻のおさいを伴なひ、...
平戸系 三河内窯

平戸系 三川内窯~速來四ケ村の分與

【原文】平戸系 三川内窯平戸松浦氏 平戸松浦氏は、又唐津の波多氏、有田の有田氏、伊萬里の伊萬里氏等と同じ松浦氏の分系である。源太夫判官久の孫披、始め上松浦川西の峰邑に在りて峰五郎と稱せしが、治承元年(1177年)巖谷(東松浦郡嚴木村)に轉じ...
藤津系 嬉野窯

美野山~釋大潮

【原文】美野山 五丁田村の美野も蓮池藩領にて、戸數百六十戸あり、此處は塩田町と近接し、武雄驛より三里の行程である。創始は當地の友八、徳十其他四五人の協同出資にて十間の登窯を築き、天草石に吉田鳴川石を加へて製陶せしも、幾許もなく廢絶し。其後堀...
藤津系 嬉野窯

冬野の土器~藤津郡陶磁器工業組合

【原文】冬野の土器 此地は既に王朝時代より植物を焼きしが如く、又近年冬野の池畔よりも土器を發掘せしが、それは少くも千年以前の作品といはれてゐる。志田東山 久間の創始せられしは、明暦年間(1655-1658)韓人の子孫來りて陶器を作りし由傳説...
藤津系 嬉野窯

大音製~敷浪

【原文】大音製 而して朝鮮向き好況時代に於ける吉田山製品の三分の一産額(約二十餘萬圓)は、大串音松に依って製造されしいはれてゐる。當時美濃や尾張の製品も、亦朝鮮向として彼地に輸出せられしが、それが皆大音製の銘を記入して販賣されし如きは、如何...
藤津系 嬉野窯

吉田下窯築造~朝鮮輸出一手問屋定款

【原文】吉田下窯築造 其後斯業の發展と共に、十六人の窯焼の次男以下營業用の名義を以て、藩の許可を得ることゝなり、資本家副島彌左工門が、新たに下窯を築造せしは、文化年間(1804-1818)であった。而して窯焼は少しく資金を要する場合にも、永...
藤津系 嬉野窯

海江田侍從御差遣~窯焼の兼業權

【原文】海江田侍從御差遣 同十五年肥筑平野に於ける大演習舉行の際、總帥閑院宮載仁親王殿下には、産業御奨の思召を以て、特に海江田侍従を源六燒工場へ御差遣遊ばされたのである。 昭和四年十月には、又源六燒株式會社の組織に変更し、今や別府市流川通、...
藤津系 嬉野窯

西田市兵衛の下宿焼から二代源六

【原文】西田市兵衛の下宿焼 西田市兵衛は嬉野下宿(戸數五十戸)の舊家市郎右工門の男にて、當時下宿焼と稱させられしもの、實は此地にて製造し物にてはなく、此處の管谷といへる谷山より粘土を採掘し、そして小田志山に運びて黒物を製せしものにて。今同家...
藤津系 嬉野窯

隆信有馬軍を破る~大船

【原文】隆信有馬軍を破る 同年二月六日龍造寺隆信は杵島の須古城を根城として藤津の有馬軍を進撃し先づ横造城を陥れ深町尾張守、岩永和泉守等を田備前守純晴、吉田、久間及嬉野一統の諸將を降討取り、そして原越後守家盛(尚家の長子倫行)永し、森の岡に一...
藤津系 嬉野窯

樫木山~有馬氏の勢威

【原文】隆信有馬軍を破る 同年二月六日龍造寺隆信は杵島の須古城を根城として藤津の有馬軍を進撃し先づ横造城を陥れ深町尾張守、岩永和泉守等を田備前守純晴、吉田、久間及嬉野一統の諸將を降討取り、そして原越後守家盛(尚家の長子倫行)永し、森の岡に一...
藤津系 嬉野窯

弓野人形~白木原

【原文】弓野人形 明治二十年龜次郎は、江口友三郎の養子となりて江口姓を嗣き其子又次郎と稱してゐる。爾來此地は全く土偶の製造地となり、龜次郎の外六戸の同業者がある。近來此技漸く世に現はるゝに至り、本縣蓮池出身なる江崎利一の大阪グリコ製菓より大...
藤津系 嬉野窯

藤津系 嬉野窯~江口龜次郎

【原文】藤津系 嬉野窯嬉野氏 藤津の莊嬉野は、正曆五年(995年)大村直澄が彼杵、高木、藤津の三莊を支配せし當時の領地にて、以前は其支族の大村氏を能古見に配し、嬉野氏を嬉野に居らしめて東西の兩鎮とした。抑も嬉野氏の祖先は、藤原鎌足十三世摂政...
武雄系 武内窯

武内磁器の創業期~甕屋の裏と見上の尾

【原文】武内磁器の創業期 而して幾度之を試みしも途に成器を得ることの難事なりしは無理もなかつた。此武内磁器の製作は、當時肥前の各山を巡視せ三河内の今村三之亟が確言せし如く、寛永六年なりこの説事實なるべく、乃ち宗傳歿後の十二年目である。 斯く...
武雄系 武内窯

研究すべき陶器の特長~ハイキングの採収味

【原文】研究すべき陶器の特長 要するに武内の陶業も亦唐津と同じく現時全く休眠の状態である。方今磁器萬能時代の觀あるも、陶器には茶器や雅品の外日用器に於いても磁器にては辨じ難き特長あるを以て、是が博き應用に就いては、尚幾多研究すべき或ものが残...
武雄系 武内窯

祥瑞と有田~金製顔料の試み

【原文】祥瑞と有田 以上記するところ一顧の値をも發見せず、元來當時の有田皿山は全く深山幽谷にて樵夫の徑さへ稀なるところであつた。後説五郎大夫が皈朝せしといへる元和二年に於いて、此深山より李参平が天然磁礦を發見して、始めて我邦に磁器なるものが...
武雄系 武内窯

山中窯の谷左~景正入宋の例

【原文】山中窯の谷左 中に最多きは白化粧の上に無雑作に鐡釉を流し、それに青藥や金茶を散らせし大皿である。又白化粧に青藥の松を文し、幹枝を巧みに鐡描せし水甕があり。或は灰色胎土に褐色薄釉を掛け白にて三段筋を廻はし底には小割菊紋を鐡描しそれに暗...
武雄系 武内窯

武内の磁器~宗傳卒去す

【原文】武内の磁器 而して焼成されし武内の磁器には黄味を帶べる初期風のものあるも、全体に於いて完全に焼上げられてゐる。それに子供が描きし如き菊繪や蘭とも草ともつかぬ呉須猫がある。蓋し白磁の創始時代には、只それに藍色の點々された丈にても珍重さ...
武雄系 武内窯

小峠~鞘壺焼成法

【原文】小峠 なほ内田小峠の古窯品には、暗灰色釉の大皿に白化粧を掛け、其上を韓國風俗の數人を巧みに毛彫したのがあり。或は栗釉地に松葉鞠寄せに縁曆手及劍先三島印花を施せし上に、白釉を掛けし尺口の四つ目積皿がある。又飴色釉八寸皿に芦の葉を描せし...
武雄系 武内窯

永尾の高麗窯~内田の古窯品

【原文】永尾の高麗窯 中通村なる犬走字永尾の高麗神稱せらるゝは今發掘さるゝものに飴色釉や灰色釉の目積皿のみにて、中には鐵描にて繪唐津風を文飾せるものもあり、頗る元始的の下手物を焼いてゐる。而して此永尾の韓人は、幾許もなく去っ神六山を越え、大...
武雄系 武内窯

各宮殿下の台覽~黒牟田系と内田系

【原文】各宮殿下の台覽 此展覧会は一般に非常の興味を喚起しめ、初日には秩父宮殿下同妃殿下台覽遊ばされしが、朝鮮李王殿下も亦台覽遊ばされ、二日目には朝香宮殿下台遊ばされた。而して三日間の参観者實に五千人といふ盛況であつた。第二回の大發掘 翌六...
武雄系 武内窯

武雄系 武内窯~東日社の展覽會

【原文】武雄系 武内窯塚崎 武雄は舊名塚崎(又柄崎或は墓崎と書きしものあり)稱し、肥前國杵島莊の主宰地にて開地頗る古く、此處の武雄神社の如きは聖武天皇の天平七年、仲哀天皇外三座を奉祀せるものにて、今より千二百〇一年以前の宮祠である。杵島の地...
唐津系 椎の峯窯

茶器に酔ふ~本場の高麗味

【原文】茶器に酔ふ 由來茶に酔ふ者はあらざるも、茶人は齊しく茶器に酔ふものである。故に白磁に於いては厭はるゝ斑点さへ其窯技の失敗が、陶器に至つては却つて珍重に値さるゝ得がある。是等の窯物は本場丈けに支那製には科擧的優品多く、且又之に巧妙なる...
唐津系 椎の峯窯

奥高麗~保護一貫せず

【原文】奥高麗 奥高麗といへるは。當時渡來の高麗燒なるものが釜山の草梁鎮邊の作品多かるも、此手はもつと朝鮮奥地の作を模造せしものとの見地より奥高麗と稱せるものにて、文明年間より天明まで其頃點茶盛んに行はれし時代の作品である。陶膚稍密にして釉...
唐津系 椎の峯窯

焼山上窯~値抜け

【原文】焼山上窯 次に川原を過ぎて焼山上窯(此邊戸數十四五戸あり)を探れば、奮縣道より堤塘を辿二丁斗りの谷間に上りて、松の切株の間に窯趾の破片が轉がつてゐる。それは飴釉にて突底形六寸の深鉢や、灰色釉の茶碗又は同釉にて濃茶釉流掛けの茶碗があり...
唐津系 椎の峯窯

畑島の窯の谷~一若の阿蘭陀墓

【原文】畑島の窯の谷 畑島は元波多の家臣畑島主膳之政(四百石)の采邑にて、此處の古窯趾は鬼塚驛より一里西方の山麓なる水車小屋の右手より分け入る窯の谷といふ山林である。朽葉を漁れば窯具の中より稀に見出すものに、白琺瑯釉小氷裂の破片があり、或は...
唐津系 椎の峯窯

佛の谷~高麗餅

【原文】佛の谷 椎の峯の古窯には、上多々良の佛の谷、中多々良の中村、下多々良の菰谷及び古椎新窯の四ヶ處がある。佛の谷は一番奥なる山畑にて兩脇が谷間となり、全く謎へ向の築窯丘と勾配の地勢をなしてゐる。此處の古窯品は皆糸切底にて施釉薄さも地質は...
唐津系 椎の峯窯

唐津焼の各原料~人別帳除き

【原文】唐津焼の各原料 是より記事はまた元に帰る、偖從來唐津焼原料の粘土は専ら鐵分多きもののみであつた。其使用さる重なる原料としては、有浦村の牟形の土(青小米白)名護屋村の加部島の土(白)北波多村徳須恵の稗田の土(赤)同野村山彥の土(白)相...
唐津系 椎の峯窯

白紋雲鶴~中野霓林

【原文】白紋雲鶴 壹岐守忠知は豊後國杵築及吉田を領し、其子長矩の代より長祜、長庸まで遠州掛川六萬石を食み、長恭の代より奥州棚倉六萬石に移封された。長昌は領地に於いて製陶を督せし経験あるを以て頗る斯道を獎勵し、そして御茶碗窯に於いて、高麗を模...
唐津系 椎の峯窯

岳野山~小笠原長昌代る

【原文】岳野山 岳野山は此處の向ひ合せにて、古窯品は牟田の原と相似たるも概して口物を焼きしもゝの如く、それ等の種類には褐色地にて線彫文様の八寸の壺や、黒天目にて大胴形五寸の花瓶及茶褐色釉に鐵釉飛点ある同形の花瓶があり。又黒天目涙痕にて大胴形...
唐津系 椎の峯窯

阿房の谷~牟田の原

【原文】阿房の谷 藤の川内は戸數五十七戸の山間地にて、此處には阿房の谷と阿房谷下の芽の谷との古窯趾がある。茅の谷の背山を登りて五六丁、堤れば笠椎路の左方に阿房の谷の窯趾がある。殘缺には灰色釉の隅折四角皿に、鐵猫にて稚拙なるの如きものを描きし...
唐津系 椎の峯窯

肥前瓦の條~堅高の陶業奨勵

【原文】肥前瓦の條 肥前丸の條には、天正十九年名護屋天守瓦注文に預り、小川惣右工門小城郡江津にて之を焼き、文祿元年正月名護屋城普請奉行蒔田十之助より天守閣普請の総代を命ぜられ、其竣工の速かなりし賞として、九州九ヶ國家造を進達すべき旨秀吉の朱...